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きょうのことばー『主イエスの昇天』その2

※前ページからのつづきとなっております。

2011520_031
 そこできょうこういうお話をするときに、天というものを理解するうえで是非聞いていただきたいのですが、
 たとえば、二次元の世界にいるものは、三次元の世界に行くことはできません。この次元にいて飛び出していって世界の果てまで捜したとしても、どんなに遠くへ行ったとしたって神を見出すことできないと言いたい。彼らにとって、世界というのはこれしか無いわけですから。しかし、たとえば三次元の世界にいる人が、ものが、存在が、そちらにあるものを、何とあそこは可哀想な状態なんだろう、何とか助けたいと思うとき、その世界にいる者が認識するような形、存在にならなければ、その世界の人たちには分からないでしょう。神、或いはこちらの存在というものが。ですから、この罪の中にある滅びの中にある者たちを救わんがために、神さまは私たちの世界に入ってくる必要があった。そして、その救いのわざを成し遂げたときには、そのお方が帰っていない。彼らからみれば見えなくなっている。消えたのです。これが先ほどお話いたしました使徒の働き1:10です。あのあたりのことを理解するために、或いは例話がお役に立ったかもしれません。
 さて彼らから見れば、神が人となるなどということは考えられないでしょう。ところが、神の側の思いで、何とかこの世界を救いたいと、緊急手段のように天からこの世界に介入してこられたお方がおられた。そして、確かに御わざを成し遂げて、ここから帰っていった、これが「昇天」であるわけです。ですから、この世界の人たちから見たならば、見ているあいだに上げられ雲に包まれ見えなくなったとしか表現ができないと思うのです。

 私たちは、ここで昇天ということを聖書から考えようとするときに、ある意味限界があるわけです。こちらの世界のこと、こちらの住民のものがいくら考えても分からない部分がある。しかし、言えることは、わからないということで済ませられない。聖書というのは、ここの世界に住んでいる者たちに神とはこういうものですよと、私たちにわかるように示してくれたものですから。これを一生懸命に見るときに、ああなるほど、神さまはひとり子をお与えになるほどに私たちを愛してくださる存在がおられるんだ。そしてこのお方があるときに、救いのわざを成してそして全うしてまた天に帰っていかれたんだ。まさに異次元から入ってこられたお方が、すべての救いのわざを成し遂げてまたご自身のところに帰っていかれた、それがイエスさまの昇天ということの意味している事実なんです。

 この意味を考えてみたいのですが、聖書を開くことにいたしましょう。
ヘブル人への手紙1:1~3
1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 おもしろいですね。御子というのはイエスさま。便宜上、この世界をわたしたちに当て嵌めてみましょう。こちらの世界の人たちに、神とはどんなものなのか、お方なのかということを何とか知らせようと思った。そして、こちらの世界のひとたちが理解できるような形で、つまり人の形をとってこの方が来てくださった、おいでくださったのです。だから私たちは、このイエスさまというお方を見るときに、このお方がどんなに力に溢れ愛と恵みに溢れておられるお方なのかということを聖書を通して知ることができました。神の本質を、私たちが何とかわかるようになったし、そして、その救いを成し遂げてくださったお方は「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました」お方なのです。
 いまイエスさまは、もとおられたところに、父なる神の右の座にお着きになっておられる。昇天というのは、それを意味します。もっときちんと表現をするならば、使命をもって父なる神さまから遣わされたお方が、「おとうさん、それではわたしが行ってまいります」といって、この世に罪の贖いをするためにいらした。そして十字架の贖いの御わざを、ほんとうに神のひとり子が、こんな世界の中にいる者たちの救いのために、何と、この神の栄光の座におられるお方が人となって、しかも人となるだけではなく、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって死んでくださった、そして贖いをたしかに成し遂げたことが私たちの世界に分かるように、40日のあいだにイエスさまはよみがえりのからだをもって私たちに現れてくださったのです。これはもう神さまの憐れみのときなのです。イエスさまは、ここから天にすぐにお帰りになっても良かったんですけれども、「たしかに、ほらこうなんだよ」と、この世界の者たちに分からせるために、イエスさまは40日間使徒たちに現れ、多くの人たちに現れてご自分がたしかに罪の贖いを成し遂げましたということを人々に教えてくださった。聖書を注意深くお読みの方は思い出していただけますでしょうか。復活されたイエスさまのところに、マリヤが「イエスさま」といってすがろうとしたところが、「わたしに触るな。わたしはまだ父のもとには行っていない…あなたたちは行ってまたガリラヤの方で会えるから」と言ったのでした。「わたしに触るな」と「まだ父のもとに行っていない」と、これはどういう意味なのかお考えになったことはありませんか。そうです。よみがえって復活のからだをお持ちになったのは、あくまで私たちのためであって、そしてイエスさまは、たしかに、任務を成し終えましたという報告を父なる神さまの前にする必要があったのです。確かに所定の目的を、任務を終えてただいま帰ってきました、これが無かったらば、十字架の贖いというものが、保障されないですよね。父なる神さまが、「よくやった、あなたは私の右の座に着いていなさい」と仰った。さて、いま父なる神の右の座に着いておられるお方は何をしておられるのでしょうか。ヘブル10:12~14
12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 そしてこれを前提として、第一ヨハネ2:
1
 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
 いまイエスさまは何をしておられるのか、それは、父なる神の右の座にあって、私たち地上にあるクリスチャンたちのために執り成しをしてくださる。弁護をしてくださる。御父のまえで弁護する方、そしてもう一つ付け加えることができるならば、このお方が約束してくださった、私は、あなた方の住まいを設けに天に帰ります。もし、住まいが準備できたのならば、再び来てあなた方を迎えましょうというヨハネの福音書の中にある御言葉ですけれども、私たちの永遠の住まいは天にイエスさまが準備していてくださる。このことの保障なんです。イエスさまが、天にお帰りになったということは、あの場所にそのところに、その領域に私たちの住むべきまことの永遠の家が用意されているのだという保障なのです。私たちはこの地上が仮設住宅なのです。私たちのほんとうの住むべきところは、イエスさまがちゃんと贖いの準備をして成し終えて天に帰って、あなた方のためにほんとうの住むべきところを準備しているからね、そして復活のからだという40日間現れてくださったそのからだ、それは、天のその居住するときにふさわしい天のからだが私たちは与えられている。そのからだというのは、こちらの方の世界の私と、それから天の方の世界の私とまったく無関係のものじゃない。ちょうど青虫がカラタチの木にいて、夏になってアゲハチョウに変わってゆくときに、あの同じ命が、命という面ではまったく同じ命なのに、片や地を這っている青虫が一瞬のうちに変えられて、こんどは天を舞駆けるものとなる。ほんとうにそのことを思います。その命というものはまったく同じなわけです。ですから地上における朽つべきこの仮設住宅の中に住んでいる私たちですけれども、しかしそれが永遠のイエスさまが備えてくださった住まい、これみなさん、どんなに思われますか。こうやってお話しをさせていただきながらキリストの救いってすごいな~っと、皆さんと一緒に主をほめたたえようと思うのです。だってそうでしょ。この世のすまいがどれぐらい立派でも、もうそれまでですよ、この地上に於けるものは。ところが、この聖書が、この世界に住んでいる者に、こちらの世界がすこしでもわかるように、示してくださったこの聖書によると、神のひとり子がご自身の命をもって贖って用意をして私たちのために天においてほんとうの住まいを備えてくださるというときには、それはとてつもないところなのです。それは私たちの住むべきところなんです。黙示録の最後を見ると、黄金の、或いは輝く宝石など、様々なものと書かれているのです。考えてみてください。これはこの世界にある者たちが、その素晴らしさがわかるように、理解できるようにと書いてくださったもので、ほんとうの天国は、言葉を失うほどのものだと思うのです。これがキリストの救いというものなのです。これが神のひとり子が命を賭けて私たちのために提供してくださる救いなんです。お話を締め括りますが、この救いということが分かったのならば、他の何を捨ててもいい、この信仰だけは絶対に捨てちゃダメです。

 地上におけるものは、それこそすべてのものを失ったとしても、そういうことって現実にあるでしょう、けれどもいちばん失っちゃいけないのはただ一つ信仰なのです。イエスキリストを信じる信仰、これをしっかり持って、私たちの地上に於ける一時的な仮設住宅を置き、イエスさまの備えてくださった素晴らしいところに、讃美を歌いながら贖い主をほめたたえながら天に帰っていこうじゃありませんか。そして天に於いて心の限りにイエスさまをほめたたえようじゃありませんか。

※例話を幾つか割愛してございます。文責:中ぶんな

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