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2011年5月

5月31日21時28分 岩手県沿岸南部 最大震度4

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 よく晴れ上がったきょう、近くの小学校で運動会があった。写真はそれに備えての練習の様子を撮ったもの。綿密な準備がなされていた。

 ほとんど庭で一日を過ごす。昼食も外のテーブルで。庭から摘み取った三つ葉のおひたしに、梅干しをみじん切りにして混ぜ込んだ小さなおむすび二つ。朝にお弁当用に作った焼き肉の残り。これらを一枚の皿に盛りつける。そしてしじみ汁。食後はインスタントコーヒー。素朴だけれども、さわさわと梢を吹き抜ける翠の風を感じながらの食事は、どんなに素晴らしいレストランでの食事よりも、私には贅沢に思われてならない。見上げると真っ青な空。

 台所、よその家ではキッチンというのでしょうが、わが家は台所というのが似合っている。台所でいただいた蕨を、重曹を入れた大鍋で煮あげていると、ぐら、ゆらとまた地震が。岩手県沿岸南部。震度4。きのう冷たい風雨にさらされたばかりの被災地にまたしても震度4。きょうの新聞には30日に確認された、震災で亡くなられた方の10人のお名前が掲載されていた。

 きょうで五月も終わる。ドイツでは22年までに原発を廃止するという。二酸化炭素の問題、経済の停滞があるとしても、それでも原発廃止の報にはほっとした。聞いたときには、えっ、ほんとうに止めてくれるところがあるの? と思った。反対しながらも、どうせ反対したって無くせない、無くさないだろうなという諦めがむしろ支配的だ。それだけに、画期的な判断にはむしろ驚きのほうが強かった。
 作業のために被爆した、被爆しつつある方々があることに、それも覚悟で任務に着かれている方々に対して申し訳なさを覚える。TV討論で、ある方が言った「原発の作業にはほんとうは私たちが行かなければならないのだ」という言葉が思い出される。

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岩淵まことコンサート 2011/6/25(土)19:00 開演 会場:インマヌエル盛岡キリスト教会(盛岡市大館町)入場無料

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岩淵 まこと プロフィール
 1953年仙台市生まれ。中学生時代より作詞、作曲を始める。高校時代にバンド「ミューズ」結成。東北放送の公開番組「ミドリヤ7」にレギュラー出演。バンドは解散。
1977年日本コロムビアレコードよりデビュー。ファーストアルバム「スーパームーン」。コロムビアレコード新人賞獲得。
1978年ミクタムレコードに関わりクリスチャンとなる。オリジナルのゴスペルソングを携えて多くのコンサートを開いている。岩淵の代表曲「父の涙」は、長女を亡くした経験から生まれている。

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きょうのことばー『天に座する主イエスの御業』その1

空からはいまにも雨が落ちてきそうでしたが、そのような空を仰いで十字架はきょうもしっかと立っております。

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 変わることなくインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)では國光勝美牧師がキリストによってきよめられ、天の御国にはいることができる事実を説かれました。

説教題 『天に座する主イエスの御業』
聖書箇所 ヘブル書9:23~28

23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
25 それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。


 イエスさまが復活され天に帰られると間もなく、天から聖霊がくだるペンテコステがありますが、イエスさまは、そのペンテコステを控えて昇天しておられる、そのところに焦点を合わせての聖言(みことば)の連講を取り次がせていただいております。
 さて、みなさんに二つの質問をしてみます。一つは、復活された主イエスさまはどこにおられますか? そしてもう一つは、いまあなたにとって主イエスさまはどこにおられますか?
 似たような質問です。最初は、復活された主イエスさまはどこに? そして、いまあなたにとって主イエスはどこに? 鍵は、「いまあなたにとって」にあるともいえます。結論的には、「あなたにとってどこにいますか?」を確かに捉えていただきたいわけです。そのための前提として、復活された主イエスさまがどこにおられるかを、聖書の記述の中から確認することが必要です。

 宗教改革で有名なマルチン・ルターの有名なエピソードがあります。彼が落ち込んでいたとき、妻のケーティが真っ黒な喪服を着て現れました。ルターーが、「誰が死んだのだね」と訊くと、「神様が死なれたのです」と答える。ルターは驚いて、「そんなはずはないじゃないか。神様は永遠に生きておられるお方だよ」というと、妻は、「でもマルチン、あなたを見ていると、すっかり失望していらして、神様が死んだと思えるんですもの」と言ったというのです。ルターはともにいます神さまを再認識し信じまた立ち上がりました。
 ここで気づくことは、
どんなに信仰生活を懸命に送っていようとも、試練、困難に遭い、いつの間にか信仰が意味を持たなくなっていることがありうる。ルターだけではありません。だからこそ、あなたにとって主イエスはどこにおられますか? このところを捉えていただきたいのです。エペソ書1:19、20には
19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
 ヘブル書4章に「もろもろの天を通られた偉大な大祭司」とあるように「もろもろの天」と記されているところがあります。また、このエペソ書1:20を見ますと、天上においてご自分の右の座に神さまがイエスさまを着かせてくださった。すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。とあるように、超越者としてのイエスさまのスケールのすごさ。神の右に座しておられるイエスさまです。
 いま主はどこにおられますか? という質問に対しては、エペソ1:21をその根拠として、「はい、主イエスは、全能の神の力によって諸々の天を通って、しかもいまの世だけではない、来るべき世、それを突き抜けて、天に力ある右の座に座しておられるお方です。」と答えることができます。オリーブ山から天に帰っていかれたイエスさまが、いまこのようにあられるということを、先ずしっかりと心に留めたいものでございます。

ヘブル9章に帰りましょう。

23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
 
これは旧約の知識がありませんと、すこし難しいところです。昔イエスさまのいらっしゃる以前のユダヤの人たち、聖書は、神さまを礼拝するために、幕屋を設けました。幕屋というのは、神さまの臨在を象徴する。神さまは、いにしえにモーセという人物を通して、まことの天にある幕屋を投影するかに、本物の影のようにそれをこの世に示して、神さまの臨在を私たちにわかるようにしてくださいました。
 先週、スクリーンを例にして平面世界に生きている人、
それから立体のように私たちはその世界と違った次元にいるものであるとしてお話をいたしました。こちらの方にイエスさまが帰っていかれた天にあるまことの実体まことの幕屋神さまの臨在があり、そのものが私たちにわかるような形に於いて、これに光が与えられ実体の影が平面に影として映る。このようにして示された、これが神さまの臨在を象徴する幕屋であることを教えてくれる。きよい神さまのまえに、私たちが罪を犯したままでは到底受け入れられるものではない、そのことを私たちによく分かるように、神さまは、あなたの罪の身代わりに、神に近づくときには動物の血を生贄として捧げよと仰る。それは血を流すこと無しには人は神の前に近づくことも立つこともできないことを私たちの世界に知らせてくださるため、そのことを代々にわたって示し続けてくださったのであります。しかし動物の血はどれほど流してもそれはほんとうの人の罪を贖うということはできない。そこで、まことの神の御子がこの世界に住む者の中に入ってきてくださった。だからこれは奇蹟としかいいようがない。罪のないお方が私たちと同じ罪の世界に入り込んできてくださり、そして動物ではない、御子のとうとい血潮を流して、私たちが神に罪が赦されて受け入れられるように、十字架の血の贖い、救いというものを成してくださった、そのところの背景がこの9章の23、24節です。もう一度読みます。
23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。

 私たちの世界では、まことの実体の影のような模型のようなものでしたけれども、大祭司は年に一度生贄の血を携えて、神の臨在の象徴、神の臨在のある
至聖所に入りました。大祭司だけが入ることができます。ほかの者たちは外で待っている。大祭司が神に受け入れられている場合には動きますので音が聞こえてくる。しかしもし音が聞こえなくなったときには、大祭司が神のきよい臨在のまえに粗相をし、死んでしまった場合で、それでもほかの者が入るわけにはいきませんから、綱を持って引っ張って遺体を回収するというようにしなければならないほど至聖所での決まりは厳格でした。イエスさまのここでの贖いの御業を私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。
 それを類推してゆきます。イエスさまが、「わたしは贖いを成し遂げて天に帰ってゆく。そして私が天に帰ったのならば、あなた方にもう一人の助け主である聖霊をあなたがたに与える。だから私がこの世を去って、あなた方から離れて行くのはかえってあなた方には良いことなのだ」とヨハネの福音書の中で語っておられるのは、そういうことなのです。これは、うるわしい逆説なのです。人間的には、イエスさまが、あのような形で去ることほど悲しい辛いことはない。しかしイエスさまは、「そのことこそ、もっとあなた方といつも一緒にいるために必要であり、天に帰っていって、それからあなた方に聖霊をくだす」というのです。類推といいましたけれども、あの使徒の働きの2章のペンテコステのできごとは実際にあった。十字架の贖いを成し遂げたお方が、天にあるまことの聖所に入り大祭司としての務めを受け入れられて父なる神さまの御座に着座された。それだからこそ、その結果として聖霊がこの世にくだされた。イエスさまは、このように、天にあるまことの神の臨在の
至聖所にご自身の血潮を携えてどうか私の贖いを信じた者たちの罪を赦してください、私の血に免じて彼らを受け入れてくださいといわれる。そしてそれは、父なる神さまの要求を悉く満足させて余りあるところの業であり、イエスさまはこれを成してくださる。ヘブル9:25から、
25 それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
 
そして大祭司として私たちの罪の贖いを天に帰って全うしてくださった。それゆえに私たちは受け入れられることができます。
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように
 
ここは極めて淡々と当然のこととして書かれているわけですが、ここに牧師の体験をひと言付け加えますが、
 私はいま64歳。38年前に教会を開拓して、まもなく、チラシを見たある69歳の姉妹が来会されました。お話しをする中で姉妹が、「先生はまだお若いから私の気持はわからないでしょうけど、わたしはいつ天に召されても恨みっこ無し。だから死を解決することは自分にとってほんとうに大きな問題です。でも先生には私の気持は分からないでしょうね」
と仰ったことを今でも思いだします。最近になってこの姉妹のお気持ちがすこし分かってきました。いつお呼びがかかっても恨みっこ無しなしというのは、それ相応に齢を重ねた者の考えであり、若いうちはどうしても思索の問題でしかない場合が多い。それは兎も角、もう死がそこに迫っているというときには、これはもう思索の問題ではなく現実の問題です。そんときに自分の罪が赦されているかどうか、神の前に立つことができるかどうかがうやむやであることには耐えられない。しかし、これほどはっきりと、神の前に受け入れられるために神の御子の血潮が与えられ、それを信じる者に聖霊が与えられて、あなたの罪が赦されている、わたしはあなたを愛している、心安かれ汝の罪赦されたりということばが確信としてあるときに、ですから最初の質問でいえば、いまイエスさまはどこにおられますか? はい罪の贖いを成し遂げて神の御座についておられます。いまあなたについてイエスさまはどこにおられますか? はい、イエスさまは私の心のうちにいらっしゃいます。それは「私が去ることはあなた方にとって益である」というあのヨハネの書にあるおことばとそのことの故に一層天国まで永遠の命が私のものとして現実のものとして受けることができるようになる。
使徒の働き7:54~を読みましょう。これはステパノの殉教した場面です。あなたがたが十字架につけたこの方こそ救い主だったのだ、とステパノはあのユダヤ人たちをまえに話しました。そしてあなた方はいつも神さまに逆らっているのであることを諄諄と説き、ついに話はクライマックスへとつづきます、
52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

 必要があれば神さまはこのものたちの目を開かせてくださる。啓示の幕を開けてくださるときがある。この世界に生きているものにしか分からないけれども、天がひらけて、という表現があるのはまさにそれなんです。神さまは、こちらの世界のことが分かるように天を開いてくださった。そのときにステパノが見たのは神の栄光と神の右に立っておられるイエスさま。そして言いました。
「見なさい天が開けて人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
 いまイエスさまは何をしておられるのでしょうか、どこにおられるのでしょうか。天におられるお方はステパノに私たち一人ひとりをご覧になっておられる。大祭司として私たちの罪を贖ってくださったお方は、天に於いて私たちのことをほんとうに見ておられる。わたしたちにはいま天が開かれておりませんけれども、しかし神さまは必要とあらば、天を開いていまイエス様が何をしていてくださるのか。ステパノのことをよくご覧になっておられたお方は、神の右に、どうでしょうか、座しておられたのでしょうか。いいえ立っておられたのです。イエスさまは、神の右の座に座しておられたお方なのに、立ち上がってステパノを見守っておられる。60節を見ると、ひざまづき、大声でこう叫んでいる。主よ、この罪を彼らに負わせないでください。まさにイエスさまが十字架で叫ばれたとおなじような叫びをもってステパノの霊は栄光のうちにイエスさまのもとにあげられていきました。ヘブル書に帰ります。ヘブル4:14
14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 大祭司というのは別の聖書のなかでしばしば仲保者、仲立ちをしてくれる者であります。ある著書にはこの仲保者、大祭司というお方は、「神のために人々を得、人々のために神を与える働きのあるもの」とあり、端的に言い表しているなと思いました。「神のために人々を得、人々のために神を与える」、それが仲保者。またはそれが大祭司としての立場なのだというとき、まさにイエスさまは私たちのために神が与えてくださった仲保者。そしてイエスさまは私たちの弱さに同情できない方ではない、ぜんぶ私たちとおなじような在り方、人としてつぶさにこの世の歩みを経験されたお方は、「分かるよ、分かるよ」と言いながら神さまの前にわたしたちをとりなしていてくださる。ですから、私たちは憚らずして大胆に恵みの御座に主イエスさまの血潮のゆえに近づくことができるのであります。

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いよいよ逞しく

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小雨に潤うゆたかな緑。心洗われる一とき。こんな樹木が街路を覆ってくれている空間にやすらぎを覚えます。

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東日本大震災に苛酷な対応を迫られつづけている岩手県庁。

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葉桜となりいよいよ逞しく重みを増し加える石割桜。

 

 

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五月の輝き

幾万の白金の
矢のまぶしさを
深まりゆく木々の
翠にまもられながら
この五月に
いまこのときに
いまこのときばかりの
いのちを
はなびらの
さいごの一ひらが
地に落ちるまで
あかるく
彩とりどりに輝き咲く
花々のそちこちに

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新庄墓園

  新庄墓園。きのうの午後に主人と行ってきました。

 北上の山々を望み静かできれいに整備された盛岡市の墓園です。わが家のお墓は、下の写真には写っていません。しかし芝生に並んでいるお墓には、知っている方々が三人葬られています。

 土手には赤いツツジが咲き、蕨が先っぽを湾曲させ伸びていました。ほんとうにすばらしい五月の世界が広がっていました。

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モーツァルト・レクイエム演奏会~東日本大震災の犠牲者に捧ぐ~盛岡バッハ・カンタータ・フェライン 2011/6/19(日)午後3時開演  都南文化会館キャラホール

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 数年前にミサ曲を聴いたときには、対訳とにらめっこ。おまけに落としてしまって慌てて拾い上げ、ここかな、違う、ここかな、ともう必死。楽しむというより、曲に浸るというより、ただただ必死で聴いたミサ曲。それがいまでは、そう、このとおり、と言いたいところですが、これはもう言いたくもないのですが、いまだまだまだ分かっちゃいない。とは言うものの、バッハのミサ曲ロ短調はすごかった。第九、良かったな~。こんどはモツレク。聴くまえからなぜかじんわり涙がにじみます。

 

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新緑の木々に咲く花

 五月もあと一週間。ただただ眠いきょう一日だった。いまも眠い。しかし居眠りしているあいだにも、こうして咲いていてくれる花々。瑞々しい枝々に輝き咲いている。この木々のあいだを、神さまが散歩くださったならうれしい。これはほんとうに人ではなく神さまのことをいっているのですが。風か空気の加減でたまに微かに揺れるとき、ん? いまだれか擦ったかな。だれかが、どなたかが、いま散歩しているのではないかと思われてくる。

(写真は20日前後に撮ったものですが、きょうもだいたいこれと同じさまで咲いています)

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きょうのことばー『主イエスの昇天』その2

※前ページからのつづきとなっております。

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 そこできょうこういうお話をするときに、天というものを理解するうえで是非聞いていただきたいのですが、
 たとえば、二次元の世界にいるものは、三次元の世界に行くことはできません。この次元にいて飛び出していって世界の果てまで捜したとしても、どんなに遠くへ行ったとしたって神を見出すことできないと言いたい。彼らにとって、世界というのはこれしか無いわけですから。しかし、たとえば三次元の世界にいる人が、ものが、存在が、そちらにあるものを、何とあそこは可哀想な状態なんだろう、何とか助けたいと思うとき、その世界にいる者が認識するような形、存在にならなければ、その世界の人たちには分からないでしょう。神、或いはこちらの存在というものが。ですから、この罪の中にある滅びの中にある者たちを救わんがために、神さまは私たちの世界に入ってくる必要があった。そして、その救いのわざを成し遂げたときには、そのお方が帰っていない。彼らからみれば見えなくなっている。消えたのです。これが先ほどお話いたしました使徒の働き1:10です。あのあたりのことを理解するために、或いは例話がお役に立ったかもしれません。
 さて彼らから見れば、神が人となるなどということは考えられないでしょう。ところが、神の側の思いで、何とかこの世界を救いたいと、緊急手段のように天からこの世界に介入してこられたお方がおられた。そして、確かに御わざを成し遂げて、ここから帰っていった、これが「昇天」であるわけです。ですから、この世界の人たちから見たならば、見ているあいだに上げられ雲に包まれ見えなくなったとしか表現ができないと思うのです。

 私たちは、ここで昇天ということを聖書から考えようとするときに、ある意味限界があるわけです。こちらの世界のこと、こちらの住民のものがいくら考えても分からない部分がある。しかし、言えることは、わからないということで済ませられない。聖書というのは、ここの世界に住んでいる者たちに神とはこういうものですよと、私たちにわかるように示してくれたものですから。これを一生懸命に見るときに、ああなるほど、神さまはひとり子をお与えになるほどに私たちを愛してくださる存在がおられるんだ。そしてこのお方があるときに、救いのわざを成してそして全うしてまた天に帰っていかれたんだ。まさに異次元から入ってこられたお方が、すべての救いのわざを成し遂げてまたご自身のところに帰っていかれた、それがイエスさまの昇天ということの意味している事実なんです。

 この意味を考えてみたいのですが、聖書を開くことにいたしましょう。
ヘブル人への手紙1:1~3
1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 おもしろいですね。御子というのはイエスさま。便宜上、この世界をわたしたちに当て嵌めてみましょう。こちらの世界の人たちに、神とはどんなものなのか、お方なのかということを何とか知らせようと思った。そして、こちらの世界のひとたちが理解できるような形で、つまり人の形をとってこの方が来てくださった、おいでくださったのです。だから私たちは、このイエスさまというお方を見るときに、このお方がどんなに力に溢れ愛と恵みに溢れておられるお方なのかということを聖書を通して知ることができました。神の本質を、私たちが何とかわかるようになったし、そして、その救いを成し遂げてくださったお方は「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました」お方なのです。
 いまイエスさまは、もとおられたところに、父なる神の右の座にお着きになっておられる。昇天というのは、それを意味します。もっときちんと表現をするならば、使命をもって父なる神さまから遣わされたお方が、「おとうさん、それではわたしが行ってまいります」といって、この世に罪の贖いをするためにいらした。そして十字架の贖いの御わざを、ほんとうに神のひとり子が、こんな世界の中にいる者たちの救いのために、何と、この神の栄光の座におられるお方が人となって、しかも人となるだけではなく、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって死んでくださった、そして贖いをたしかに成し遂げたことが私たちの世界に分かるように、40日のあいだにイエスさまはよみがえりのからだをもって私たちに現れてくださったのです。これはもう神さまの憐れみのときなのです。イエスさまは、ここから天にすぐにお帰りになっても良かったんですけれども、「たしかに、ほらこうなんだよ」と、この世界の者たちに分からせるために、イエスさまは40日間使徒たちに現れ、多くの人たちに現れてご自分がたしかに罪の贖いを成し遂げましたということを人々に教えてくださった。聖書を注意深くお読みの方は思い出していただけますでしょうか。復活されたイエスさまのところに、マリヤが「イエスさま」といってすがろうとしたところが、「わたしに触るな。わたしはまだ父のもとには行っていない…あなたたちは行ってまたガリラヤの方で会えるから」と言ったのでした。「わたしに触るな」と「まだ父のもとに行っていない」と、これはどういう意味なのかお考えになったことはありませんか。そうです。よみがえって復活のからだをお持ちになったのは、あくまで私たちのためであって、そしてイエスさまは、たしかに、任務を成し終えましたという報告を父なる神さまの前にする必要があったのです。確かに所定の目的を、任務を終えてただいま帰ってきました、これが無かったらば、十字架の贖いというものが、保障されないですよね。父なる神さまが、「よくやった、あなたは私の右の座に着いていなさい」と仰った。さて、いま父なる神の右の座に着いておられるお方は何をしておられるのでしょうか。ヘブル10:12~14
12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 そしてこれを前提として、第一ヨハネ2:
1
 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
 いまイエスさまは何をしておられるのか、それは、父なる神の右の座にあって、私たち地上にあるクリスチャンたちのために執り成しをしてくださる。弁護をしてくださる。御父のまえで弁護する方、そしてもう一つ付け加えることができるならば、このお方が約束してくださった、私は、あなた方の住まいを設けに天に帰ります。もし、住まいが準備できたのならば、再び来てあなた方を迎えましょうというヨハネの福音書の中にある御言葉ですけれども、私たちの永遠の住まいは天にイエスさまが準備していてくださる。このことの保障なんです。イエスさまが、天にお帰りになったということは、あの場所にそのところに、その領域に私たちの住むべきまことの永遠の家が用意されているのだという保障なのです。私たちはこの地上が仮設住宅なのです。私たちのほんとうの住むべきところは、イエスさまがちゃんと贖いの準備をして成し終えて天に帰って、あなた方のためにほんとうの住むべきところを準備しているからね、そして復活のからだという40日間現れてくださったそのからだ、それは、天のその居住するときにふさわしい天のからだが私たちは与えられている。そのからだというのは、こちらの方の世界の私と、それから天の方の世界の私とまったく無関係のものじゃない。ちょうど青虫がカラタチの木にいて、夏になってアゲハチョウに変わってゆくときに、あの同じ命が、命という面ではまったく同じ命なのに、片や地を這っている青虫が一瞬のうちに変えられて、こんどは天を舞駆けるものとなる。ほんとうにそのことを思います。その命というものはまったく同じなわけです。ですから地上における朽つべきこの仮設住宅の中に住んでいる私たちですけれども、しかしそれが永遠のイエスさまが備えてくださった住まい、これみなさん、どんなに思われますか。こうやってお話しをさせていただきながらキリストの救いってすごいな~っと、皆さんと一緒に主をほめたたえようと思うのです。だってそうでしょ。この世のすまいがどれぐらい立派でも、もうそれまでですよ、この地上に於けるものは。ところが、この聖書が、この世界に住んでいる者に、こちらの世界がすこしでもわかるように、示してくださったこの聖書によると、神のひとり子がご自身の命をもって贖って用意をして私たちのために天においてほんとうの住まいを備えてくださるというときには、それはとてつもないところなのです。それは私たちの住むべきところなんです。黙示録の最後を見ると、黄金の、或いは輝く宝石など、様々なものと書かれているのです。考えてみてください。これはこの世界にある者たちが、その素晴らしさがわかるように、理解できるようにと書いてくださったもので、ほんとうの天国は、言葉を失うほどのものだと思うのです。これがキリストの救いというものなのです。これが神のひとり子が命を賭けて私たちのために提供してくださる救いなんです。お話を締め括りますが、この救いということが分かったのならば、他の何を捨ててもいい、この信仰だけは絶対に捨てちゃダメです。

 地上におけるものは、それこそすべてのものを失ったとしても、そういうことって現実にあるでしょう、けれどもいちばん失っちゃいけないのはただ一つ信仰なのです。イエスキリストを信じる信仰、これをしっかり持って、私たちの地上に於ける一時的な仮設住宅を置き、イエスさまの備えてくださった素晴らしいところに、讃美を歌いながら贖い主をほめたたえながら天に帰っていこうじゃありませんか。そして天に於いて心の限りにイエスさまをほめたたえようじゃありませんか。

※例話を幾つか割愛してございます。文責:中ぶんな

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きょうのことばー『主イエスの昇天』その1

 日曜日は特別な事情がないかぎりは、教会のメッセージを掲載しております。これは教会の依頼で載せているのではなく、自らの意志により、一応の許可をいただいて、ICレコーダーをもとに起こしています。

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 インマヌエル盛岡キリスト教会(019ー646ー2924)國光勝美牧師の説教です。2回に分けてお届けいたします。

説教題 『主イエスの昇天』
聖書箇所 使徒の働き1:1~11

1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、
2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」
5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 
イエスさまが十字架に架かられ、復活し、40日間折々に弟子たちのまえにすがたをあらわし、そして多くの教えをなさいましてから、イエスさまは、12節をご覧頂きますと、「彼らはオリーブ山という山からエルサレムに帰った」とありますので、これを逆にたどりますと、つまりオリーブ山からイエスさまは弟子たちが見ているうちに天にあげられていった。これがイエスさまの昇天というできごとです。さらに白い衣を着た人がふたりとありますが、これは御使をあらわしていますが、きょうは触れる主題ではございません。きょうはイエスさまの昇天というところに焦点を合わせて神さまからの恵みを待ち望んでいるところでございます。
 

 「昇天」ということばにみなさんはどんな漢字を当て嵌められるでしょうか。よくクリスチャンたちがお葬儀をいたしますときに、地上における生涯を全うされて天に召されなさいましたという表現をつかいます。その場合には「召天」という漢字を使う場合があります。けれども9節にあるようなイエスさまの場合であれば「昇天」の方を当て嵌めます。教会によっては、クリスチャンの場合を、イエスさまの昇天との混同を避けて「帰天」という場合も少なからずあります。イエスさまの場合には「昇天」であることを心に留めておきましょう。

 さて先頃、
英ガーディアン紙が、ホーキング博士のインタビューを報じました。宇宙に関する論文を多数発表しているイギリスの理論物理学者です。ホーキング博士は、筋萎縮性側索硬化症のため車椅子に乗っていらっしゃいます。紹介しますと、
「脳は、諸部品が壊れれば動かなくなるコンピューターのようなものだと考えている」。そして、「壊れたコンピューターにとっては、天国も来世もない。それは闇を恐れる人々のおとぎ(架空の)話だ」と続けた。】
 
記事によると、記者が博士が健康不安のため2009年に入院したことを指摘し、死に関して何を恐れるかという質問に対しての答えでした。
 これは、すべて物質だけで世界が成り立っているという立場の方にとってはある意味当然のことかなとも思いました。ですからきょう扱おうとしている問題はまったくそれとは立場を異にしていることはおわかりいただけるものと思います。

 もうひとつ、わたしはこれを読みましたときに、1943年に人類初の宇宙飛行を成功させたソビエト連邦の宇宙飛行士であるガガーリンの言葉を思い出しました。レセプションにロシア正教の最高の地位にある司教が招かれており、「あなたは神をみましたか?」とガガーリンに訊いた。ガガーリンは「神はいませんでした」と答える。すると司祭は、「どうかこのことは是非あなたの胸にだけ留めておいて貰いたい」と言ったといいます。ジョークか小咄かはわかりませんが。こんどは、ガガーリンがフルシチョフ首相に訊かれた。「ガガーリン同志、あなたは宇宙に行ったときに神を見ましたか?」。ガガーリンは、さっきの司教との約束がありますから、「神は見ました」と言ったそうです。するとフルシチョフが、「同志よ、これはあなたの胸にだけ留めておいてくれ」、こういったというのです。ジョークなのだろうなと思います。

 さてきょうの大切なお話、イエスさまの昇天について語りたく思います。まず天ということを聖書はどのように位置づけているのか。これは聖書は明らかに幾つかの側面、用い方をしていることを認めざるを得ません。物質世界所謂眼で見たりする物質宇宙。これに関わる宇宙空間に於ける天ということを明らかに聖書はのべている。初めに、神が天と地を創造した。という聖書の書き出しにもあります。私たちが生きているこの世界に於ける天地という、そういう区別を用いております。
マタイ24:35

35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。
イエスさまが、この天地は滅び去ります、といったとき、物質世界の天地をさしています。これと類似して
ペテロ弟二の手紙3:10

10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
と記されているときに、やはりマタイ24に見たとおり、物質世界、物質宇宙に関して天という表現を用いていると見ることができます。しかしながら聖書はもう一つの意味合いに於いて天という言葉を使っております。
第一コリント15:24、これも所謂世の中の終末について書かれているところです。

24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
26 最後の敵である死も滅ぼされます。

 これは明らかにさきほどの物質宇宙の天という領域とは異質な次元、領域のことについて聖書が語っています。その意味でもう一つ、第二コリント5章

1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
 私たちは物質宇宙にあるこの地上に、こういう体を持ち、これは地上の幕屋という表現が使われています、私たちの大切なものが入っている地上の幕屋が、これが壊れても神の下さる人の手によらない天にある永遠の家、これは人の手によらないまったく異質のもの。ガガーリンが言っている見ることができるような意味合いの世界ではないということを見ていただけると思います。

 ーつづくー
 

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被災された方々に捧げるヘンデル「ラルゴ」ーシンフォニエッタ・盛岡弟5回春のコンサートにてー

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 人様に何かを教えるという立場に立ったことはなく、いまだに教えられる側に回っています。きょうは外出が躊躇われたのですが、音楽はどんな状況のときにも聴くに値するものであり、心を癒すものであるとの考えと思いから、またこのコンサートも、学ばせていただく機会の一つと捉え聴きに行ってまいりました。
 このコンサートのために被災地宮古市から駆け付け練習に参加したメンバーもいらしたようです。プログラムにはありませんでしたが、はじめに被災した方々のために、ヘンデルの「ラルゴ」が弦楽アンサンブルで演奏され、そのあと黙祷が捧げられました。すでに幾たびも報じられた津波、原発の惨状がまざまざと浮かびました。悲しみと美しさ。魂の慰められんことをお祈りいたしました。


<プログラム>
E.H.グリーク 「 2つの旋律」と「2つの悲しい旋律」より

W.A.モーツァルト  交響曲弟31番ニ長調 K.297「パリ」
      ー休憩ー
松田聖子メドレー  佐藤公治 編曲
映画音楽メドレー  佐藤公治 編曲
   


 お客様への音の“おもてなし”である本番前のちょっとしたロビーコンサート、ホールへの階段をおりてゆくと、足元から音楽が出迎えてくれる。去年はカルテット、一昨年はチェロ。そして今年は5人の女性による管演奏、5人の男性による管演奏だった。明るい雰囲気に包まれている傍らからホールへと。
 交響曲弟31番、特に第二楽章が興味深く、ひさしぶりにモーツァルト世界に過ごす実感をいただきました。
 松田聖子メドレーはプロダクションから編曲、演奏許可を取り付けての上演であるという。プログラムには松田聖子の人生の紆余曲折も紹介されており、これにも市民に身近でありたいとの団の方向性が感じられました。映画音楽、懐かしかった!!

 そしてアンコールには「アメージング・グレイス」。試練のときにも悲しみのときにも、素直な心に導き、癒し、慰める「アメージング・グレイス」。

 東日本大震災の募金箱も設置され、多くの方々が惜しみなくお心を箱に投じておられました。

<演奏メンバー>(敬称略)
指揮 櫻和幸
ヴァイオリン 相川直子/♥及川靖子/大森久仁/小原学
               菊池昌平/櫻糀毅/♥佐藤敦子/鈴木道子
               高橋文二/武田浩/中村邦子/成田浩/姫野千世子
      藤浪路奈/☆宮野ゆかり
ヴィオラ 佐藤俊樹/武田利都子/♥中安貴子/橋本剛行
チェロ 安保尊/佐々木松子/畑村保裕/松尾真里/民部田里美
コントラバス 高橋友佳子/♥寺山貴大
フルート 佐々木宏/細川佳代子 オーボエ 今野朋枝/佐藤光彦
クラリネット 堀江淳/森亜矢子  ファゴット 佐藤雅宏/西舘ゆかり
トランペット♥中台雅之/♥渡辺則之ホルン畑澤巧/♥矢羽々美咲
パーカッション ♥高橋円
編曲・ピアノ 佐藤公治


♥エキストラ  ☆コンサートミストレス

 

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シンフォニエッタ・盛岡「弟5回春のコンサート」 2011/5/21(土)盛岡市マリオス小ホール開演18:00

シンフォニエッタ・盛岡「弟5回春のコンサート」はきょう18時開演です。

Scan10034揺れに揺れたこの春、しかし地ふるうともシンフォニエッタ・盛岡の響きはこの地に。
2011・5・21(土 )マリオス小ホール 18:00 開演

シンフォニエッタ・盛岡の活動状況を詳しく知りたい方はこちらです。

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「心のふるさと 日本のうた をたずねて その三十四」 雅声会主催コンサート 平成23年6月11日(土)岩手県民会館中ホール pm2時開演 

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出演 歌

阿部佳代/池野桂子/萩原美智子/奧崎由樹子/駒木美和子/駒木恵/佐藤友香/田中恵子/新田順子/平野紅子/穂積佳穂子/丸岡千奈美/横山由希子/大畑孝夫/小坂博/澤村憲照/松田晃/山口剛

ピアノ

小笠原宜子/鈴木牧子/森明美

ナレーション 松田 晃

編曲  加藤 學

会券 1500円(収益の一部は東日本大震災被災者への義援金となります)


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Lumiere~リュミエール~ 木島由美子 作品集 

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木島由美子 作品集 Lumiere~リュミエール~

 作曲というものに大変興味をもっていました。たまたま山形交響楽団の演奏の評といったものを知りたくネットを泳いでいたところ、木島さんのブログ「うにの五線ノート…」に打ち上げられ、女性作曲家うにさんの存在を知ったわけです。家庭を持ち、子育ても果たしながらの作曲とは、そこからはいったいどんな曲想が生まれるのだろう。
 それが4月には作品集が出、しかもインターネット販売も。山形交響楽団音楽監督飯森範親氏は「木島さんの作風は、どこか懐かしいメロディー、そして日本人の温かさ、思い遣りを感じさせてくれるハーモニーが特徴です。なにか心を癒してくれる、そんなCDです。」と推薦している。プログラムは、

*歌に会いにでかけよう 
  Mezzo soprano:高橋直子 Piano:菅野清香

*働くオンナの事情

 Part 1:アクマの天国
 Part 2:夢の扉
 Part 3:仕事帰りのあこがれ
  Mezzo soprano:高橋直子 Piano:木島由美子

*ソナタ「玉響(たまゆら)」  

 1mvt.現世(うつしよ)
 2mvt.幻影(まぼろし)
 3mvt.遊戯(たわむれ)
  Clarinet:佐藤明 Piano:小林路子

*紫苑

  Trumpet:井上直樹 Piano:小林路子

*Lumiere~彩り~

  Bass Trombone:高橋智広 Piano:前田ひろみ

 さっそく購入、聴いてみました。「アクマの天国」といえば、悪魔賛歌かと勘違いしそうですが、これはクリエーターが締め切りに迫られカリカリ、キリキリしてしまう心境の率直な表現。直截だからこそその渦中にある者を大いに頷かせてしまうのでは。「夢の扉」「仕事帰りのあこがれ」はうにさん作詞。家事山盛りのなかで作曲に挑み続けるうにさんの等身大の曲で、ミュージカルの一場面を聴いているかの楽しさがある。それでも前進あるのみのピアノの響きもポジティブ思考を掻きたててくれる。興味深く聴いた「玉響」。『現世』、諸々の現象を提示するかのクラリネットの旋律に、ピアノが滴の音を聴きわけながら水の面に揺らめいている。『幻影』、静寂の向こうに潜むものに耳を澄まし微かな光明を聞き分けようとするかのクラリネットの響き。沈潜してゆくピアノに曲折を織りなすクラリネット。最後のピアノの響きが葬送とも聞こえる。幻がひつと姿をくらます。『遊戯』、逸脱しそうな音色が翻っては躍動に踊る。箏曲の現代曲のような響きが印象的。「紫苑」、作曲依頼者井上氏の依頼の要素の一つ、秋の夕暮れのような曲、というまさしく樹木の影の濃さまでが見えてくる。稜線にのこる夕陽の輝きと鳴るトランペット。やがて星がかかり瞬きはじめる。Lumiere~彩り~ 」、トロンボーンが主役の曲。主導権はこちらこちらというトロンボーンにピアノの駆け足と聴かせながらともに相容れて存在感を示し合ってゆく面白さ。
 うにさんの“実験工房”出身の曲をじっくりと聴かせていただきました。女性として家庭での役割をまた社会的な役割をもこなしながらの作曲がどのようなものか、すこしわかりかけています。わたしは沿道の旗振りの一人にすぎませんが、東北でただ一人(たぶん)の女性作曲家のいよいよの“力走”が楽しみです。

 

 

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朝市へー盛岡市神子田ー

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※5月8日早朝撮影

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はたまた受容

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弔辞きく面に過ぎるさまざまに否定同感はたまた受容



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骨壺がわらう

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にぎやかな桜ふぶきにかたかたと骨壺がわらう葬列のゆく

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主よ人の望みの喜びよーバッハー

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 いつもですと日曜日は教会で聞いたメッセージを載せておりますが、義父の他界で昨日まで儀式があり、それに伴う帰省した親族との対応、また果たさなければならない幾つかがあり、きょうは教会をお休みいたしました。
 義父は、東日本大震災の予兆であった震度4があった3月9日に入院し、17日に退院。10日間は自宅で療養しておりましたが、27日に再び異変があり救急車で入院。4月11日転院。5月10日の朝に他界いたしました。大震災の揺れと共に揺れた入退院でした。
 お世話になったスタッフの方々にご挨拶をし、義父が乗せられたストレッチャーの後ろを歩いておりますとき、食堂の方からバッハの「主よ人の望みの喜びよ」が流れてきました。
 義母が仏教で送られたと同じように、義父も仏教の形式をもって送られました。しかし義父が元気だったときに、私が、「人の罪は人の努力によって解決し赦されることはできない、ただ神にしかそれはできない。自分の罪の身代わりになってくれた存在がキリストで、キリストを信じることによってすべての罪が赦されると聖書には書いてあります」と言うと、「んだがもしれないな」と思慮深げでした。私が教会に行くときには必ず封筒に献金を入れて渡し、「孫のごど、牧師さんに祈って貰いたい」と言ったものです。

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4日のあいだ更新をお休みいたします

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 ゴールデンウィークおわり、5月の風がわたっております。
 諸般の事情によりあすから4日のあいだブログの更新をお休みいたします。
 みなさまの日常の一切が守られますようにお祈り申し上げております。


見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
                  聖書マタイ28:20

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きょうのことばー『偕におられる主イエス』-その2

※前ページからの続きとなっております。インマヌエル盛岡キリスト教会の説教をお届けしております。

201153_018           ユキヤナギ

 わたしがここで思い出すのは、インマヌエル綜合伝道団の創設者蔦田二雄先生の著書にある獄中での経験です。太平洋戦争下、天皇が神とされ、キリスト教は反体制分子として弾圧されました。このとき蔦田牧師も拘留されたのです。本文は文語体が多いので、平易な口語で一部抜粋してみます。拘置所での体験です。
「2階28号という小さな独房へ導かれる。ズシーンという重い鉄の扉が背後に閉じられる。ふと振り返ると、その扉は手掛かりとなるハンドルがない。用のあるとき、ただ外から係官が開くことができるだけである。ウィリアム・ホールマン・ハントの『世界の光』という絵にあるキリストの扉(人間のたましいを象徴する)を思い起こす。どこにもここにも深刻な事実の中に胸を裂くような真理が閃いている。3畳の独房ではあるが、ここは警察署とは異なって畳は敷いてある。おまけに蒲団は敷いてある。家を離れてからまる一カ年ぶりである。これからいつまで続くかわからない。自分ひとりきりの生活であるのなら久々に畳を踏んで蒲団に身を横たえることのできるうれしさ、小さいことにも熱い感謝を抱くことができる。空も土も凍てつくかと思われるほど酷寒続き。まさに厳冬である。夜半ふっと目を覚ます。白銀のような月光が天井から肘掛けあたりまでの細長い鉄窓の磨り硝子にすりこんでいる、」
輝きに鉄格子の影がさーっと手すりのところまで来ているというのです。
「何処からも声がしない独房の夜半である。夢か現実かじっと窓の光に見入っていると、四方の鉄筋の囲みが消え去って心が、これが地上のあらゆる拘束を超えた解放と自由の意識に満ち満ちる。冷たい細い鉄窓は世俗と離れてひたむきに神への精進を重ねる修道院の色硝子の窓に化する。ああ此処は独房にあらで修道院の行く手如何に成り行くかは別として、如何に貴き一時ならん。」
このように文章は続いていくのですが、人間的に犯罪を犯して捕まったということではまったくない、真剣に神さまにお仕えし福音を伝えていた者たちが治安維持法違反ということで、牢屋に入れられてしまった。そのとき、
「視(み)よ。我は世の終まで常に汝らと偕(とも)在(あ)るなり」。「神われらと偕に在(いま)す」。このおことばを蔦田先生ご自身の事実として捉えられたのです。これは、そのときたまたまそうであったというのではありません。いまのことなのです。いまここにいる私も含め皆さんがたも含めて、どんな環境に置かれたとしても、イエスさまの非常に強いおことばエゴ・エイミー、「わたしはあなたとともにいます」「我汝らと偕にある」が事実としてあるのです。イエスさまはいまも昨日も今日もとこしえまでも変わることのないお方であります。

 復活の後40日間イエスさまは突然姿を現わされたり、或いは消えたりなさいました。それはどうしてでしょうか。目に見えても見えなくともイエスさまはいつでもともにいてくださるということを弟子たちに教えたく願われたからであります。このマタイ伝28章20節のおことば「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」。きょうは、このおことばだけをしっかりと捕まえて礼拝を立ち上がっていただくなら、それでもう今朝の私のご用は十分に務まったと言えるとさえ思っております。このおことばを何度も繰り返して暗記いたしましょう。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなた方とともにいます。
 これを信じることができますか。
このことをアーメン、その通りですと頷かせてくださるのは御聖霊さまです。この方が私たちの心の中に語りかけて下さるから頷けるのです。そしてこれが現実のものとして理解されます。また、これは極めて実際的な勧めです。この教団の河村襄先生がしばしば仰いました。「この大切な聖書のおことばを100百回繰り返しなさい」。冗談ではなくこうも仰いました。「99回でもダメです。100回言いなさい。101回はどうか、100回でいい」と。実際にそれをするしないということはその人に掛かっている、だから本気になって言ってご覧なさい。
 きょうの説教の中でエゴ・エイミーというギリシャ語は最も強いことばであり、しかもそれは神さまご自身を表わすことばです。「わたしは…である」「我は在りて有る者なり」、このおことばが約束されていて、わたしはあなたと一緒にいるという。絶望するとき、孤独になってしまったと思うとき、誰も自分を理解してくれないと思っているとき、見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなた方とともにいます。このおことばを皆さんとご一緒に繰り返してきょうのメッセージを締め括りましょう。

※短く編集するために、例話などを割愛してございます。文責:中ぶんな

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きょうのことばー『偕におられる主イエス』-その1

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201158_049          母の日のプレゼントの石けんです

さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019ー646ー2924)國光勝美牧師のメッセージは、
説教題 『偕におられる主イエス』
聖書箇所 マタイ伝28:16~20

16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


 イースターを2週間まえに越えました。こんどは教会の誕生日であるペンテコステですが、ことしは6月12日となっております。復活からペンテコステまでのあいだ、イエスさまはよみがえられたご自身を何回も弟子たちに示されました。
 今日お話する場所はガリラヤ地方です。日本の中心が東京だとするならば、東京に相当するのがエルサレムです。そしてガリラヤ地方は仙台もしくは盛岡といったところでしょう。ガリラヤは中心から離れてはいますが、ローマ兵が移動するときには支障を来さない程度の道路事情は整っている。ですから片田舎というのでもない。このような地方、たとえるなら東京といった大都市ではなくむしろ東北といった地方でイエスさまははじめて公に伝道活動をした謂わばイエスさまのホームグラウンドだったのです。
 さてもう一つ。16節に「イエスの指示された山」とありますが、さてこの山はいったいどこでしょうか。聖書に親しんでいてさえ間違えることがあります。よみがえられたイエスさまが弟子たちの見ているまえで天に帰ってゆかれた山があります。オリーブ山です。ところがそのオリーブ山はエルサレムの近くの山なのです。ここはガリラヤですから絶対にオリーブ山ではないのです。しかし往々にしてオリーブ山であると錯覚をしていることがあります。オリーブ山ではないことを覚えておきましょう。
 では「イエスの指示された山」はどこなのでしょうか。手元にある資料には不明とありました。しかし候補地を幾つか類推することはできます。マタイ伝5章
1 節、
この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
ここに「イエスは山に登り」とあります。そして以下には有名なイエスさまの山上の垂訓が書かれています。

3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
 
イエスさまがこの親しまれている山上の垂訓をされたのはガリラヤ地方の山でした。イエスさまがマタイ伝28章の最後を語られたのもこの山であったのではないか。これは十分に説得力がある。マタイ伝5章のガリラヤはイエスさまが初めて伝道を開始し、しかも山上の垂訓という心に刻まれる説教をしたところです。マタイ伝4章の最後を見ると
23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。
25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った。

 そして5章1節には

この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
 
とあり、この次には有名な山上の垂訓といわれる名説教がつづくわけです。ですからよみがえられたイエスさまが、あそこで大切なはなしをしますよと語られたその場所、舞台とすればガリラヤの山の上が相当すると考えられる。弟子たちがガリラヤであうようにイエスさまが仰ったのはこの山ではないだろうかと言われるのにも納得がいきます。
 またヨハネ伝6章にある5000人の施食の奇蹟が行われた山も候補として挙げられていることを入れておいたならばよろしいでしょう。
 

 イエスさまが語られたマタイ28章20節の中できょう心に留めたいのは、

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 この一点なのです。よみがえりのイエスさま、お弟子さんたち、或いは、この時代にあるいまの私たちにこれを当てはめて差し支えございません。イエスさまは皆さんに、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」、こうお約束をくださいました。「あなたがたとともにいます」、これはギリシャ語で「エゴ・エイミー」といいギリシャ語の中でも非常に強いことばで「わたしは…である」という意味です。つまりよみがえられたイエスさまがいちばん強いことばとして、「わたしはどんなときでも、いつでもわたしはあなたと一緒にいます」。このように非常に強いことばで約束をしていてくださる御言葉がこれであります。そうです。よみがえられたイエスさまは、いまでも、私たちがどんな状況に置かれたとしても、そこにわたしはいる。わたしはそこにいる、こういうお約束のことばであります。
 先ず場所的なことを考えていきましょう。或いは環境的なことを考えていきましょう。自分はひとりぼっちだ、自分ほど孤独なものはない、このように思うときがありませんか。誰もわかってはくれない。世の中の人たちがみんな自分を捨てていってしまう、そのように思うときはないでしょうか。実はパウロという人も、彼はイエスさまに忠実に福音のために仕えたひとでした。しかし後に殉教します。そのときに彼は仲間だと思っていた者たちから次つぎに裏切られていきます。みんな自分を離れていってしまうのを経験します。テモテ第二の手紙、これはパウロの殉教直前の手紙なのですが、こうあります。
16 私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。
17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。
18 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、見栄えがとこしえにありますように。アーメン。
 ここに、世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます、というイエスさまのお約束のことばが、まさしくその通りであると納得させてくれるものがあります。
 ー次ページにつづくー

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海の最中に

 すみれの白いまぶしさ、わすれな草のなみだの碧さは海の最中にうつれ。多くの人生を引きたおし、引っつかみ、冷たい海の最中に引きずりこんだ獣はもはやいない。いまだ潮にとじこめられた無念の魂が、声のない慟哭をつまらせて胸をかきむしっている。すみれの白いまぶしさ、わすれな草のなみだの碧さは海の最中にうつれ。

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 M9.0の日本観測史上最大の地震からはや2ヶ月になろうとしている。三陸沿岸をかけ上がったおよそ39メートルの津波。仙台平野の5キロ以上もの広大な浸水。釜石の高さ63メートルの世界最大の防波堤の破壊。累々と打ちつづく瓦礫、残骸。

 5月の美しい花々、すばらしいもののすべては犠牲者の心に映らんことを祈る。

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やさしい花々よありがとう

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 首相は静岡県の御前崎にある浜岡原発の全原子炉の運転停止を要請するようだ。30年以内にマグニチュード8以上の地震が87パーセントあるという予測。東海地震への中長期対策の必要からとのこと。東日本大地震は予測をはるかに超えたものだった。
 それにしても福島県の方々の先行きの見えない避難生活の大変さも深刻だけれども、置き去りにされた家畜たちの哀れさは…。去年の4月からは宮崎県の口蹄疫の殺処分があり8月に終息。次は鳥インフルエンザだった。ウィルスは容赦できないとはいえ、仕方がないとはいえ、これほどの家畜を殺しながら生きていく人間。青臭い感性かと思いつつも何か釈然としない。この釈然としないところがこの世というものなのか。

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 きょうは庭のテーブルで昼食を摂った。卵、小女魚、新玉葱、ピーマン入りチャーハンに、生えたばかりのミントとレモンバームでハーブティーを淹れる。5月の香り。青い風の薫りがした。庭のそちこちに咲いてくれた優しい花々よありがとう。
 

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男声合唱団コールMー震災復興の祈りをこめてー

 わたしが居住する町内にある教会でチャリティーコンサートがありました。

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  近所のバプテスト教会で男性合唱団コールMのチャリティーコンサートがあった。町内のSさんが玄関先に見え今から行きますとおっしゃったのに勢いづき出かけてみた。隣の席に座ったSさんが、指揮は太田代先生だと教えてくださった。花巻東高校の校歌を作曲した先生ではと訊くとやはりそうだった。2009年8月、甲子園に流れるあの校歌を感無量で訊いたものだった。この作曲者がどこでどのように活躍しておられるか追跡をしなかったが、きょうの14時からのチャリティーコンサートでいちばん後ろの席から拝見することになるとは。
 ロシア民謡「ともしび」が聴きたかった。声の質として好きなのはソプラノだが、ただロシア民謡となると男性合唱には敵わないと思う。ロシア語の独唱も交えたすばらしい「ともしび」だった。「シクラメンのかおり」「いい日旅立ち」の編曲は岩手の作曲家で若くして亡くなられた加藤学先生によるものだった。またリスナー参加、わたしも久しぶりに讃美歌以外の合唱に参加させていただいたが、全員合唱の「朧月夜」のピアノ譜は原典版だということで興味深く聴いた。作曲は岡野貞一、作詞高野辰之。またたまたま釜石で被災された方の証言のひとときもあった。また女声合唱団ガーリシュの出演もあり、明るい歌声が会堂に満ちた。

 日々病院の見舞い、見舞いの帰省客との付き合い、庭仕事のみに明け暮れている身にはよい寛ぎのひとときとなった。

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月刊みやこわが町

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 石巻日日新聞が被災翌日から出した手書きの壁新聞が、困難な状況下でジャーナリストの使命を果たしたと賞賛されたニュースがまだ記憶に新しい。もっとも地元に親身であってくれる新聞、グラフ誌、広報などの有り難さを思う。
 きょう宮古市に住むOさんが封書を郵送くださった。よく送ってくださっている詩集かもしれないと開封すると、「月刊みやこわが町」2011特別号4 である。

 宮古市には6年住んだことがある。「この丘に住みて六年木蓮の蕾愛でつつ去りゆかんとす」。こんな短歌を詠んで6年に幕を引き、慣れ親しんだ地から内陸に引っ越したのだった。その宮古市がこのようにさま変わりする日が来ようとは。

 写真にある波が盛り上がっているところは防波堤。いままさに津波が易々と乗り越えて市街地になだれ込んでいる場面だ。防波堤の向こう側には岸壁に沿って伸びる路に車が駐車されていたものだったが、その車も、また車ばかりではなく漁船も津波とともに防波堤を乗り越え勢い余る濁流に乗り木造の家屋、商店街、架橋、堅牢なビルの一階をも破壊した。宮古市役所庁舎より閉伊川河口側を撮影したもののようだ。夕陽が落ちかかり煌めく閉伊川の河口を見ながら梅村ヴァイオリン教室から帰ったものだった。またこの川に鮭が遡上するころには、よく魚影を見にいったものだった。
 もの凄い力で押し寄せ、短時間に多くのものを呑みこみ破壊しつくし、素知らぬ顔で引き上げていった津波。宮古地区、鍬ヶ崎地区、崎山地区、津軽石地区、重茂地区、田老地区の深刻な被災を後世に遺そうとの切なる編集者の市民の、被災者のおもいが籠もっている。

    

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いのち輝く

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義姉、義妹の帰省

 東海地方に住む主人の姉と関東地方に住む私の弟の連れ合いが昨日から帰省している。義姉は父親の見舞いに。きょうは義姉を囲んで主人の妹と主人と私とで外食する。楽しい一時となった。 義妹とは日曜日に教会で顔を合わせた。東京の姪の結婚式以来の再会。明るい笑顔に接し嬉しかった。きょうは沿岸に出かけている。
 どちらも新幹線の復旧を待ちに待っての帰省である。

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きょうのことばー『回復の復活』  その2 

※前ページのつづきとなっております。5月1日のインマヌエル盛岡キリスト教会で語られたメッセージを2回に分けて掲載しております。

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 先ず一つめは、弟子たちが、失意の中でイエスさまに出会った、このことです。彼らにも非常な失望、落胆、そういった人生の中の最も大きな挫折を経験しているときの出来事です。この弟子たちの経験を、大きな災害に直面した私たちの仲間、或いは私たち自身のこととして置き換えてみるとよく分かると思います。自分の人生を賭けていたものが全部崩れ去ってしまった現実に、このお弟子さんたちは直面したのです。かつてないほどの喪失感、頼りとしていたものが無くなってしまった。その中でようやくリーダー格のペテロがみんなを鼓舞して、こんなところでうじうじしてたってしょうがないじゃないか、漁に行こうよ、そうしたならば、といって何とかそこで回復を図っている。ところが元気になろうと、良かれと思ってやったその働きでもかつて経験したことがないほど一匹も魚がとれなかった。これはどうでしょうか、私たちはこのお話しをすでに始まりから終わりまで知っていますから、その角度から見るとむしろ興味深いのですが、これはイエスさまがそのようにされたというように見てとるべきでしょう。、このお弟子さんたちが漁に出たときに一匹もとれないようになさったのは、すべてを支配しておられるお方イエスさまなのです。ですからそういう面から見ると、とれていますか?と訊くのではなく、何もありませんねと訊かれることの意味合いには、またすこしユーモアを感じるのです。

 つまり、支配しておられるのはイエスさまであるという事実に、弟子たちは徹底的に向き合わされたということなのです。これは非常に大きなことです。イエスさま無しの人生というものがどんなに虚しいものであるのか、そのことを徹底的に弟子たちに知らせようとなさったのです。そうです。人生の中で自らの無力、挫折、それを徹底的に知らされるということは実はイエスさまに出会う最もよいチャンスになるのです。また出会う、回復するチャンスがあるからこそ、イエスさまはこのようになさったわけです。私たちの信じている聖書の神さまは、私たちが失望、落胆、挫折を味わうときにそれを意味のあるものとして直面させてくださる。そして

イエスは彼らに言われた「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

  とヨハネ伝21章5節にあるように、その事実を言い訳もせず、何にもありませんと告白するのをイエスさまは待っておられる。そのようにこのところを捉えることができた人は幸いだと思います。主よ、私の人生はあなた無しには何もありません。そのとき、どこにこのお方は立っておられるのでしょうか。イエスは岸辺に立っておられた。岸辺、これは霊的に、比喩的に解釈することは私はいままであまりしたことがありません。岸辺というなら岸辺なのだと、第一義的に理解するべきでしょう。しかしきょう敢て、イエスさまが岸辺に立って弟子たちに語られたということには大きな意味があると申し上げます。それは海と陸との境界線です。イエスさまはいつでも境界線に立って私たちを見て、こっちだよ、とお声をかけてくださる。失望、落胆、挫折という海の中にあるときに、イエスさまはいつも陸地のちょうど境目、失望と希望という岸辺に立っておられる。死と命というちょうどその境界に立ってイエスさまは弟子たちに声をかけてくださる。

 そしてお弟子さんたちに、右側に網をおろしてごらん、こう仰るのです。6節のイエスさまの御言葉「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」を見ますと、弟子たちはこれまで舟の左側に網をおろしていたのです。

 これは講壇から又聞きしたことなのですが、ふつう左側に網を打つのが漁のやり方で、右側に打つものではないそうです。それが印象的にあるものですから、漁というのは左側に網を打つものなのだとずっと思ってました。ところがこれを準備していたときに、身近な人の面白い文章に触れたのです。私たちが神学院で学んでいたときの先輩で、インマヌエル教団ではなく日本宣教会から委託生としてインマヌエルの神学院で勉強しておられた先生でした。その先生がイスラエルに旅行したときの記録です。やはりガリラヤ湖を訪れていらっしゃる。舟に乗ると、ガイドの方が右側に網を出したといいます。イエスさまが仰ったから右側に網を下ろしたのでしょうが、なかなか魚がとれなかった。こんどは左側におろしたらいっぱいとれたというのです。果たしてこれは聖書的だったのかなどと書いてあり、面白い旅行記でしたが。

 イエスさまは仰った、舟の右側に網をおろしなさい、そうすればとれます。つまりこれまで左側に網をおろしていたのでしょうが、ここでこれまでとは違った方法をイエスさまが示された。このとき弟子たちは、誰の言葉かもわからない、そんな話は聞くものか、という態度もとれたかもしれません。しかしこのときペテロたちは、不思議な人物のいうことに促されて素直に右側の方に網を下ろした。そして夥しい魚をとることができました。これを敷衍して当てはめてみるなら、イエスさまのお声に従ってこれまでの生き方と違った生き方をするときには、主は大いなる御業(わざ)をなしてくださる。このように味わうことができるかと思うのです。

 この6月に岩淵まことさんのコンサートを開くことになっています。ちょうど3・11のことも落ち着くのでしょうか。この6月のコンサートのことがずっと心にあります。例会で話し合いを持とうとしておりますが、それとこの6節の言葉とは非常に大きな励ましとなりました。いままで私たちが企画したことのない方法なのです。しかし主の御前に、何もありません、と、ほんとうに事実を認めて言い訳をしないで岸辺に立たれるお方のお声に従って網をおろしてみよう、このお方のいうことを聞いてやってみよう、主が備えてくださる。主が網に入りきれないほどの大きな祝福を与えてくださることを私たちこのヨハネ伝21章から見ました。ポイントはヨハネ伝21章7節にあります。

「主です。」

 この不思議な方がよみがえりの主であることを、私たちはしっかりと受けとめることです。
イエスの愛されたあの弟子というのはヨハネの福音書を書いたヨハネ自身であります。ヨハネはペテロに言いました。先生だ、主だ。

 私たちは3・11を経験しました。大きな挫折を、或いは失望を喪失を経験したかもしれません。でもそのときよみがえりの主は自ら近づいて、その中にある者たちにお声をかけてくださる。「現状はどうだね?」、「はい、ありません」、「よしならば右側に網をおろしてごらん」。主はガリラヤの魚たちにちゃんと命じられるお方です。私たちがこのときよみがえりのイエスさまをしっかりと認めることができたならば、これは大きな大きな回復、祝福になるのではないでしょうか。

※編集上割愛した部分もございます。文責中:ぶんな

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きょうのことばー『回復の復活』  その1 

 きょうは小雨がぱらついていましたが、教会では私はお花の係でした。傘をさしながら庭から蕾がたくさんついた真っ赤なボケを3本、斑入りのアオキを2枝、名前はわからないけれども小さな若葉がまぶしい枝を3本、赤いチューリプを3本、黄色いラッパ水仙を7本ばかりを花材に用いました。どれも神さまが庭に咲かせてくださったものです。お花を水盤に生けてみると、ほんとうに花に命を感じたことでした。

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  毎週日曜日はできるだけ教会の説教を載せたいと思っていますが、きょうもインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019ー646ー2924)の國光勝美牧師のメッセージをお届けいたします。

説教題 『回復の復活』
聖書箇所 ヨハネ伝21:1~7

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。


 先週は皆さまがたとともにイースターを守らせていただきました。教会の暦で言いますと、これからペンテコステまで、イエスさまはご自分がよみがえられたお姿をさまざまな機会にお弟子さんたちに現わしてくださいました。復活の事実を私たちにしっかりと教えてくださったその機会が、教会の暦でいいますといまということになりましょうか。その中の一つでございますけれども、ここに登場しますイエスさまは復活をされたお姿のイエスさまでございます。イエスさまはクリスマスに誕生され、成人されたあと、人々にさまざまな教えをなし、奇蹟をなさったことが福音書には多く記されています。その福音書の後半のほうではイエスさまが私たちの罪の身代わりとして神の裁きを受け、十字架につけられ、そしてその亡骸が墓に葬られた。そして何と三日後の日曜日の朝、イエスさまはそこからよみがえられました。そしてよみがえられたという、事実をお弟子さんたちに励ましのように、またしてもまたしても確認してもらうためにご自身をあらわしてくださる。
 そのひとつがこのヨハネ伝1章です。場所はテベリアの湖畔と記してございますが、これはガリラヤ地方にあるテベリヤの湖のことで、通称ガリラヤ湖とよんでいる大きな湖をさしています。イエスさまのお弟子さんたちは、実はイエスさまに従うまでは漁師さんだったのです。ですから有り体に言いますと、イエスさまはきっとこの世を治めてくださるからこのお方にさえついていけば、行く行くはイエスさまが内閣を組織するときに、自分はその重要閣僚になるにちがいないといった野心からというと、そればかりを狙っているように取られかねませんが、分かりやすくこの内容で言いますと、どうなりますか、イエスさまに従っていったならば、きっと自分の人生は祝されたものになるに違いないと思っていたところが、何とその夢は儚く崩れてしまった。お弟子さんたちの失望、落胆は大きかったでしょう。ですからそういう背景を考えますと、彼らは失意のうちに都落ちをしてエルサレムという国の中心のところから、ああ自分の人生はいったい何だったのか、このお方こそメシア、このお方こそと思って従っていたのに、こんなことになってしまった。どうしたらいいだろう、生活もしなければならない。自分たちはガリラヤの漁師をしていたからここでもう一度生活の建て直しをしよう。どう量らなければいけないのかなあ。一概にこのようにばかりはいえないかもしれませんが、多分にそういった要素も含みながら彼らは、このガリラヤの湖に入っていたようであります。そんな背景を心にしますとこの部分がよくわかります。シモン・ペテロ、それからデドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子どもたち、他にふたりの弟子たち、これはだいたい7人ですね。3節を見るとそのリーダー格のペテロが、おいこんなところでしょんぼりしていたって仕方がない、さあ漁に出るぞ、という。すると彼らは、じゃ私たちも一緒に行きましょう。こういって彼らはつい3年前まではここがホームグラウンドだった漁師たちですから、さっそく小舟に乗り込んで漁をしたわけです。ところが、一匹もとれない。その夜はついに何もとれなかった。もしこんなとき大量だったら励まされるのでしょうけれども、がっかりですね。がっかりの2乗、3乗ぐらいであったかもしれません。徒労に終わって岸辺に帰ってきますと、夜が明けそめたその時に、弟子たちから見れば不思議な人が岸辺に立っていた。でもお弟子さんたちにはそれがイエスさまだとは分からなかったと4節にはあります。その不思議な方が、大きな声で、8節を見ますと陸地からそう遠くなく100メートル足らずの距離だったと分かりますから、湖で遮るものがなかったとして、大きな声を出せば聞こえるでしょう。岸辺に立たれた不思議な人が、子どもたちよ、と呼びかけた。食べるものがありませんね、とダメを押されてしまう。彼らは、はい、ありません。どんな意味でこたえたのでしょう。素直に、はいありません、といっています。誰なのか分からない人に、漁があったか?でもなく、何もありませんね、と、いちばん痛いところを衝かれたわけです。ああないよ、こんな言い方だったのでしょうか。そういうふうにしか想像できませんけれども、どういう雰囲気でこたえたのでしょうか、とにかくない。そしたら6節、そう、だったらばね、舟の右側に網を下ろしてご覧なさいそうすればとれるよ。プロの漁師さんです。ペテロさんたちはベテランです。たとえば、いまプロ野球がはじまってますが、イチローのようなすごい技術を持ってる人が不振なとき、スランプのときに、誰かわからない人が、そのフォーム違ってる、こうしたらどうだろう、もうすこし肘をあげてなどと言われたなら、余計なこと言うなと言いたくなるかもしれませんね。しかし誰かわからない人が、右側に網を下ろしてご覧なさい、そうすればとれる、といったのに対し、ペテロはそのとおりにしたのです。彼らはその網をコーチの言うとおりにしたところが、何と夥しい魚が。網を引きあげることすらできなかった。11節を見ると153匹の大きな魚でいっぱいになった。こうある。これがきょう私たちがテキストとして取上げている部分であります。
 今朝はこの中から私たちが心に留めたいところを3つほど語らせていただきたいと思っております。    ーつづくー  

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