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きょうのことばー『栄光、小羊にあれ』 受難週を前にーその2

※前ページのつづきとなっております。インマヌエル盛岡キリスト教会の説教をICレコーダーを基に起こし、二回に分けて掲載しております。

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 では旧約聖書の中にどんな預言があったのか、またしてもですけれども、イザヤの53章を確認するのは相応しいことです。イザヤ53章で、イザヤは、自分が活躍した時代より700年も先の出来事であるイエスさまの十字架を、あたかも自分が十字架の傍に身を置いて記したかのごとく預言しています。53章4節から
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、
主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは
主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
 主の十字架はこの通りでした。
 昔エチオピアで結構な社会的地位にあった人物が、自分の生涯の思い出となるべく、天地宇宙を造られたまことの神さまがおられるに違いない、そしてそのお方を礼拝しているのはユダヤ人たちだ、自分もその神さまを信じたいと巡礼の旅に出た。彼はそのとき最高のお土産として、聖書と言われるものの一部分を国に持ち帰ることにしました。彼は馬車に揺られながら寸暇を惜しんでそれを読みましたが、何のことを言っているのか分からない。そこに不思議な旅人が近づいてきました。「あなたがお読みになっている箇所がわかりますか?」。そう訊かれた彼は謙って、「いいえ。せっかく聖書を手に入れたのに、ここに書いてあるお方が誰なのかわからないのです」と言ったとき、不思議な旅人は、「そうですか、ちょっと横に座らせてください」。それはイザヤ53章でした。「つい先頃エルサレムに於いて十字架にお架かりになったお方はこの方なのです」。
 そうです。2千年の昔のイエスさまの十字架を何か偶像を拝むかのごとく有り難がっているのではなく、このイエス・キリストの十字架こそ神さまがこの世にお下しくださった救い主であり、その預言の成就の方であったということ、これが分かったとき、人は救われるのです。十字架の出来事は聖書の預言の通りであったということをしっかりと受けとめたとき、ほんとうの救い主が分かってくるのです。

 私は、二つのことといいました。そのもう一つというのは、タイプ。実体ではないけれども、聖書はイエス・キリストの十字架をいつでも示している。これは短く指摘をするだけにいたしましょう。創世記3章21節。
 
21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
 
勿論ここだけを読んで十字架のことが分かることでは決してありませんが、しかし意味するところは非常に大切です。罪を犯してしまったアダム。神に背いてしまったエバ。罪を犯してしまったもの、それまでは神の栄光を装わせていただいていた彼ら。しかし罪を犯してしまったことの故に神が与えてくださっていた栄光が無くなってしまった。そのとき、神さまは罪を犯してしまった人間に何をしてくださったのか。
21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
 神のお造りになられたエデンの園という素晴らしい場所において、初めて動物が殺されたのです。罪のない動物が殺されてその動物の毛衣が作られ、それによって罪を犯してしまった人間が神が備えてくださった皮衣によって覆われた。ある人はこれを十字架の預言のタイプと理解をしております。そしてそれは非常に意義深いことであります。罪を犯した人間がそのまま神の前に立つことはできない。覆わなければならない。何によって覆われたのか。罪を犯したことのない、何の関わりもなかった動物の命が殺されて屠られて血が流され、その動物の命と引き替えに備えられた皮の衣を着せられ、エデンの園から追放された。

 また創世記の6章、これはノアの箱舟と言われているところであります。この6章14節

14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。
 
神の裁きによって大洪水でこの地が滅ぼされた。このような状況下でお話することは、心の痛む思いがしますが、どうかおゆるし下さい。聖書は言っているのです。ノアの大洪水によってすべての命あるものは滅ぼされてしまったのです。しかし、そのとき神さまは、ノアとその家族を救ってくださった。所謂それがノアの箱舟というものなのです。神さまは救いを備えてくださった。誰であってもこのノアの箱舟に逃げ込みさえすれば、そこの中に入った者たちは救われたのです。この「木のやに」について、これは「贖い」という意味の言葉が使われていると伺ったことがあります。自分でも調べてみました。ヘブル語が訳されて、「宥め」「赦し」「慈悲」「許し」「完全に無効ににする」「情」「償いをするために宥める」というような言葉が列挙されておりました。強ち間違いではない。やに、これは所謂ピッチと訳されていて、油などを製油したときに残る黒いどろどろとしたタールのようなもの。それがここでは木のやにと訳されている。これが贖いという言葉を意味していると受けとめるならば実にこれも意味のある言葉であります。神の水が全世界を覆っておりましたとき、ノアの箱舟にいる者たちが守られた。しかもその内と外は木のやにが塗ってある。もうそれはイエスさまの十字架の血潮と言い換えてもすこしも違和感はない。イエスさまの十字架の贖いの中に、聖書の言っているとおりのその預言の中に私たちが身を置くとき、私たちは神の裁きを免れている。お救いに預かることができる。まさにノアの箱舟はイエス・キリストの十字架のタイプとして私たちは見ることができるのです。
 もう一つ、創世記22章。これは自分の愛する子どもイサクを神のご命令によって生贄として殺し神に献げなければならないという悲しみの場面です。1節によりますと、このモリヤの山はイエスさまの十字架の場所であるというようにも言われており、興味深いところですがまさにそのところに於いてイサクが神の前に生贄として献げられようとしたとき、この7、8節

7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

 イサク、わたしはこれからお前を殺さなければならないけれど、神さまは、神ご自身が全焼の生贄を備えてくださるよと語るアブラハム。このときからおおよそ二千年の後、まさに神さまご自身が生贄として羊を備えてくださいました。神ご自身がベツレヘムの馬小屋にひとりの男の子を誕生させてくださったのです。このお方が私たちの罪の身代わりとして十字架の上にお架かりになった。神の備えてくださった小羊として神が備えてくださった小羊として今から二千年の昔十字架にお架かりになられました。
 キリストの十字架ということをおもいますとき、これが聖書の預言の成就であったということ。またそれはいにしえ聖書のあのところに、このところにキリストの十字架の贖いというものの意味が散りばめられていることを私たちは知りました。
 今週私たちは、このお方の贖いの恵みが、いまから二千年の昔成された。神が備えてくださった羊が生贄として屠られた。あのイザヤ53章に預言されている出来事が成就した出来事の気がするんだ。その聖日のいま朝を迎えているということを、覚えたいと思います。

文責:中ぶんな

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