きょうのことばー『御前に立つ備え』その3
※前ページの続きです。
私たちは、この終末ということに関して、「火で焼かれるために」という言葉が実に大きな意味を持っていることをやはり心しておかねばならないでしょう。
ノアの時代は水で世界が滅ぼされました。しかし次に神さまが裁かれるのは火によって裁かれるのです。ペテロ第二の10節
10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
この欄外の注解を見ますと、「天の万象」は「諸元素」となっています。
12節
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
手元の資料を見ますと、英語の訳ですが meltdownと出ておりまして嫌なことばだなと思ったのですが、これは今、原発の関連で言われている言葉ですが、まさに天の万象が焼け溶けてしまうのだとぞっとしました。
さきほどのペテロ第二の3章2節の「聖なる預言者たちが前もって語った」というところ、またパウロたち使徒の手紙の「聖書の権威をもって人々に既にこの時代から受け入れられていたこと」をも思いながら「聖なる預言者によって語られた御言葉」とは何かといえば、それは色々ありますが、たとえば旧約聖書のイザヤ書の66章15節
15 見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。
16 実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。
明らかに主の御再臨のとき、これから後私たちの世界が経験する世の終末というのは火によって滅ぼされるために保たれている。
新約聖書第二テサロニケの1章7節。このテサロニケの手紙は再臨書簡と呼ばれイエス様の再臨、終末に関わることが記されておりますが。この1:7、8
7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。
8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
ここに炎の中に主が現れなさるとあります。私たちは今この時代にあって、2千年の昔に主イエスさまが私たちを罪から救うためにおいで下さったクリスマスのできごとをよく知っています。そのとき、貧しく人々にはまさかと思うような形で主がおいでになられました。人として救いのわざを十字架に架かり成し遂げてくださった、神の愛のすべてをそこに尽くしてくださって、誰でも信じたならば永遠の命を持つことが出来るその救いの福音を私たちに神さまは与えてくださった。神さまがこれ以上を私たちになさることは何もないほど救いの御わざを成し遂げて、後は聖霊を遣わして、誰でもこのお方を信じるならば永遠の救いを得ることができるという福音を今私たちは受けてこの時代あるわけです。これほどの神さまの愛を人々に伝えながら尚人々が信じないのは、信じたくないから。末の世。彼らは自分に不都合だから、神さまを受け入れて敬虔な生き方をするのは自分に不都合だから目を瞑って、或いは敢て拒絶して受け入れない。そういう不敬虔な者達がこの世にはびこる、そういう時代です。しかしこんどイエス様がおいでくださるときは、もう容赦する必要は何もない、なぜなら神さまはすべてのことを成し終えてくださったのですから。これだけの猶予を与えてくださったのですから。これだけの機会を与えてくださったのですから。第二ペテロの3章9節
9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
だけれどもこの神さまの救いを受け入れない。あざける者がやってきて欲望のままの生活をし、キリストの来臨などあるものか、世界は何も変わってないじゃないか、しかし神さまはこんどは、王の王、そして裁き主としてやってこられる。2千年前は救い犬ストして主としてやってきてくださった、しかしこれからの主の再臨の時、終わりの時には、勿論裁き主として来られるのですが、それは信じている者には救い主としておいでくださるわけです。そうです。ほんとうに主を信じて主の前にあるときに、主はまさにそのとき地上にあって残れるものはまさに瞬きをするうちに、あっという間に天にあげられる。キリストにあって眠っている死人は甦って、そのとき生きて地上に残っているものたちは瞬きするかの一瞬に天にあげられて小羊の婚宴、すばらしいこの世にないところの救い、ですからわたしたちにとって再臨、終末は恐ろしいだけのものではありません。いや恐ろしいどころではない、待ち望んでいる時なのです。主のおいでを私たちは待ち望んでいるのです。それは私たちの救いの成就するときだからです。そしてこれはきちんと理解しておきたい事ですが、そのときに悲劇なのはのこされた人たちなのです。大艱難時代がはじまります。第一テサロニケ4章
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
これが空中携挙、或いは空中再臨といわれるとき、このときにぽんとうに生まれ変わって神さまの前に備えられている人たちは天にあげられる。そしてキリストの栄光の中に。しかし残った人たちがいる。これが大患難時代というものを経験しなければならない。そのとき、それこそ地球が破滅するハルマゲドンといわれる最後の決定的な場面にイエスさまが地上に来られます。オリーブ山に立たれます。そのときキリストを十字架につけたユダヤ人たち、あんなのは救い主じゃないといったユダヤ人たちに決定的な悔い改めがおこる。神さまの最後の憐れみのときが彼らに与えられる。キリストが王の王、主の主としてこの地上においでくださる。それから聖書でいわれる千年王国という一つの時代が始まることを私たちは聖書の中から見ることです。
また敢て申しますが、私たちは、このような千年紀の前に再臨があり、それから千年紀が始まるという考え方を持っております。これは千年紀前再臨説という立場です。ただ聖書の理解の違い、立場の違いがあり、キリストの再臨は千年紀の後であるという神学もあります。どちらにせよ私たちは千年紀という要素を持っていると理解していますが、そうではなく無千年紀の立場をとる方もあります。これはそれぞれが神さまの前に摂理的に受けている理解であり、これでなければ駄目、これだけが絶対ということはありません。それではあなたはどういう解釈をとりますかと言われたときは、インマヌエル綜合伝道団は教義及び条例の中に、千年紀前再臨説をとることを明記してございます。
第二ペテロ3章にかえります。
この第二ペテロの手紙が紀元50年ごろに書かれたとするなら、ペテロがこのとき、天の万象が焼け溶けて地とありとあらゆるわざが焼き尽くされる消え失せる、これをその時代の人たちはどういう理解をしたでしょう。或いは中世にこの聖書を人々はどう理解したでしょうか。それぞれの時代でこの神の言葉である聖書はそれぞれの理解をされています。しかしある意味で私たちはそのどの時代に生きている人たちよりも、このペテロの言葉を厳粛に受けとめる時代に生きているということは言を俟ちません。ある時代にはおとぎ話と捉えたでしょう。しかし科学が進めば進むほどいまたとえば神の兵器が非合法で暴力的なテロリストたちの手に渡ったときのことを考えても或いは何かのことで核のボタンが押されることもありうる、これは一羽の雀がおちることも神の赦しがなければ為されないわけですから、どうぞそれを忘れてただただいつどうなるか分からないとうろたえることはありません。かみさまが世界のすべてを治めておられる。それをしっかり心に留めたうえで、このペテロの言っていることがらがほんとうのことだとしっかりと受けとめたいと思うのです。ならば、ペテロはそういう特異点にある人たちに何をするようにと伝えるためにこれを書いたのでしょうか。第二ペテロ3章11節
11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
世の中の人たちがキリストの来臨なんか、世の中変わってないじゃないかと言い張っているような不敬虔な人たちに対して、あなた方はどれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう、そして神の日が一日も早く来るように。私たちにとってはそれが恐ろしい日ではないのです。これはまさに救いの日なのです。主よ来たりたまえ。世の中の人にはこれは裁きになるかもしれませんが、私たちほんとうに生まれ変わりの経験を持っている神の命が与えられキリストの十字架の血潮によってきよめの信仰に、そして憐れみの故にその中にある者たちにとっては、恵みのときで待ち望んでいる日なのです。14節
14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
そうです。きよめという問題が神学のただ好奇心といったらいいのか、ただそれだけの問題として理解されているうちはそれは幼い段階です。ほんとうにこのきよい神さまの前にわたしは立たなければならないということが分かったときに、主よあなたにそむくような性質をまだ持っているわたしのこの罪をどうぞきよめてくださいとは、真実なわたしの願い、祈りになるのです。ペテロはそれを言っているのです。どうかしみもきずも無いものとして血潮によって備えられて主の前に出られるように励みなさい。いまペテロの言葉を言いました。ではパウロは何と言っているのか、締めくくりに見てみましょう。第一テサロニケ5章23、24節です。
23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
| 固定リンク
「教会」カテゴリの記事
- きょうのことば『どうぞ披露宴においでください』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.18)
- きょうのことば『福音を一緒に届ける同労者として』ー木山キリスト教会 松尾献牧師の説教ー(2025.05.11)
- きょうのことば『イエスは手と脇腹を彼らに示され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.04)
- きょうのことば『聖書を、まだ理解していなかった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.27)
- きょうのことば『わたしとともにパラダイスに』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.20)
コメント