きょうのことばー『御前に立つ備え』ーその2
※前ページからの続きです。
この度の大震災で、これまで平凡な日常というものがそこからまったく一転してしまった、こういうことがある、そういう瞬間というものがあるのだと私たちは体験しました。日常生活が、突然変えられてしまう。特異点というのでしょうか。わたしたち全員がそこを通りました。これをクリスチャンとしてどのように位置づけたらいいのか。世の中では、それぞれの立場で論じて復興に向かおうとしています。それはそれで尊い事ですが、クリスチャンとしてこの特異点というものをどういうように迎え同化し越えていくべきなのか。世の中の人たちは恐らく触れないであろう神さまというお方を中心に据えて、このお方とともに特異点を受けとめることが今私たちの為すべき事であろうと思われます。
それが今日おひらきしましたペテロの第二の手紙でございます。大使徒の中でも第一に名前があげられるあのペテロで、彼が遺しました最期の手紙です。彼がもしも今の時代に私たちの前に現れたとするなら、恐らくこの3章に書いてある事を私たちに示し、クリスチャンとしてこの特異点をどうかこのように受けとめ、こういうように乗り越えていきなさいと語るに違いありません。
ペテロは悪名高いローマの皇帝ネロの時代に生き、殉教しています。ローマは当時の世界の中心でしたが、暴君ネロの時代にローマが大火に遭ったのですが、これがまだ当時よく知られていなかったクリスチャンの扇動によるとされ、クリスチャンが大迫害を受けました。伝説によると、ペテロも逆さ十字架刑となりました。それはペテロが自ら選んだもので、我が主と同じような十字架はこのような者には勿体ないという思いから逆さ磔となったといいますが、いずれにせよ彼はその時代にまさに殉教し、そのときはある意味でいま私たちが直面している特異点、色々な時代によってこの特異点は異なるでしょうが一つの特異点ということではまったく共通しているところを彼は通ったわけでございます。そして彼の最期私たちに遺した言葉がこれなのです。
1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
迫害がある。しかしどうか純真な信仰を持ち続けてもらいたい。心を鼓舞して貰いたい。
2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
聖なる預言者たちによって語られた御言葉というのは明らかに旧約聖書のことを意味しています。そこに前もって語られている「末の世」というのがいったいどういうことなのか、それからあなた方の使徒たちが語った「主であり救い主である方の命令」というのは何かというと、3章の15、16節
15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
難解なところがあるけれども、どうかそれをしっかりと心に留めておいてもらいたい、今はまさに特異点を通っているのだとペテロはいうわけです。そして先取りをしてしまうようですが、8節を見ると
8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
このときにペテロが言っている終末というのは確かにネロの時代の特異点、私たちから見るとこれはもう2千年前のことであって今の特異点とどう違うのかという人間的にみればそういう思いが湧いてくるのでしょうが、ペテロは言うのです。主の前では一日は千年のようであり、千年は一日のようなものであると。つまりこのところで聖書は予言し世の終わりというものが何であるのかを言っているときに、私たちから見てもこれはもう2千年前の古くさいカビの生えたような書物が言っていることじゃないかという意味とはまったく違う。これはまさに今日的な意味のある私たちが受けるべき言葉であって、3節
3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
あざける者、あざけって欲望に従って生活をする、つまり、神さまというお方をすこしも計算に入れない行き方をする、その人達が信仰を持ち敬虔に生きようとする者をあざけって「あんたたち、キリストが再臨すると言ってるけど、神さまはこの地上に介在するなどと言うことがあるもんか。父祖達が眠ってからこの方、創造の始めから何も変わってないじゃないか」と言い張っている。欄外の別訳を見ますと、「言い張っている」を別訳で彼らは次のことを「故意に忘れようとしている」。自分に都合の悪いことを見ないように、故意に神さまなんか裁きなんかあるもんか。こころのなかで恐れてはいるのです。ノアの洪水のこと、でも彼らは意識して、都合の悪いことに目を瞑って神さまなんか私たちには関係ない、こういう生き方をする人たちがこの末の時代に来る。5節
5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
このことを彼らは敢て話題にしたくない。しかしペテロは言います。
7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
この5節から7節までの部分がいま私たちがしっかりと今の時代に心に留めておくべきものであります。特に5節の「言い張る彼ら」。彼らは自分に都合の悪いことは目を瞑ってしまう。ヨハネ伝3章16節
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
この真理があります。ところが信じない者は、18、19節を見ますと、すでに裁かれている。その裁きというのは19節にあります光が世に来ているのに人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったから悪いことをする者は光をにくんでその行いが明るみに出されることを恐れて光の方に来ない。それ自体がもう裁きなのだとヨハネが言っている。ペテロの手紙にある「こう言い張る彼ら」を別の表現をしているわけです。
ーつづくー
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