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2011年4月

危険でも方策なくて20ミリ

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 4月をいつ迎えたかも定かではない。福寿草が、タンポポが咲き、水仙の芽が、チューリップの芽が土にのぞいて、春がきてはいるらしいと思った。例年なら梅はまだか、桜はまだかとそとに出るたびに木を見あげていたのが、ことしは蕾がついたのも開花したのにも気づいたのはそれから日を経てからだった。3・11が幻と思われるとおなじように、この春も非現実味を伴って目に写っている。ただ不気味なのは原発事故。基準値って何? 害のない数値、信じられる数値などというものがあるの?

  ◆  ◆  ◆  ◆

 きょうのニュースに不来方高校音楽部の被災地訪問が取上げられていた。被災された方が、家を流されたときも涙はでなかったがきょう音楽を聴いて初めて涙がでた、と仰っていた。高校生たちの誠心こもる慰め、そして音楽の力を見せていただいた。

      

故 郷

兎(うさぎ)追いし かの山

小鮒(こぶな)釣りし かの川

夢は今も めぐりて

忘れがたき 故郷

如何に在(い)ます 父母(ちちはは)

恙(つつが)なしや 友垣(ともがき)

雨に風に つけても

思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして

いつの日にか 帰らん

山は青き 故郷

水は清き 故郷


 明日は5月。被災地にもこの近くにも鯉のぼりがあがった。風に勢いよく泳いでいる。

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テェルノブイリからの使者ーナターシャ・グジーー

ナターシャ・グジー

 いまから22年前、チェルノブイリ原発が爆発しました。当時私は6歳でしたが、私のお父さんが原発で働いていたので、私たち家族は原発から3.5kmのところに住んでいました。事故があったのは夜中だったので、ほとんどの人が事故のことを知りませんでした。

そのため、次の日は普通に生活していました。子どもたちは学校へ行き、お母さんたちは小さな子どもを連れて一日中外で過ごしていました。そうして、目に見えない放射能を浴びつづけていたのです。私たちが事故のことを知らされたのはその次の日でした。大したことは起きていませんが、念のために3日間だけ避難してください。3日経ったら必ず帰ってきますから、荷物を持たずに避難してください。そう言われて私たちは荷物を持たずに街を出てしまいました。でも、3日経っても、1ヶ月経っても、そして20年経っても、その街に戻ることはありませんでした。毎日遊んでいた美しい森も、思い出がたくさん詰まった家も、みんな壊されて土の中に埋められてしまいました。いまそこには何も残っていません。生命が輝いていた街は死の街になってしまいました。

しかし、私たちが失ったのはふるさとだけではありませんでした。たくさんの人たちが亡くなっています。私たちの子どもが何人も亡くなっています。でもそれだけではありません。事故から20年経って、当時子どもだった私たちの世代が大人になり、結婚をして、子どもを産むようになりました。そして、新しいこの世界に生まれてくる赤ちゃんたちの健康にも異常があります。20年以上前に起こったチェルノブイリの悲劇はまだ終っていません。人間は忘れることで同じ過ちを繰り返してしまいます。悲劇を忘れないで下さい。同じ過ちを繰り返さないで下さい。そう願って、私は歌を歌っています。

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ゴールデン・ウィークだけれど

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 ことしのGWは自宅の庭で土いじり、草とりをしてすごそうと思う。
 自粛という意識はないが、どこかへ出かけたいという気持にはなれない。また状況からして自宅にいるべきときでもある。
 さっきまで稲妻が走り雷が轟いていたが、今しがた雨がふってきた。
パソコンをひらいたのも今しがた。きょうはもうやすもう。
きょうの一日に感謝。お日さまがハープをゆらし、爽やかな風が木琴を駈け、雨がティンパニーを神経質そうに小刻みにならすきょうのおわりに感謝。そして何よりもまったく平凡でふつうであった一日に感謝する。

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3・11からはや49日が過ぎて

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 沈丁花がよい香りを放っています。
 きょうは東日本大震災で亡くなられた方々の四十九日にあたるということです。
 ここから最も近い沿岸の宮古市までは100キロ。車で2時間。沿岸一体が写真、動画、報道で見る惨状であることがいまだ頭脳のどこにもきっかりと書き込まれてはいない感覚だ。
 入院している義父の隣に沿岸の方が入院された。宮古病院からの転院だった。その奥様とよく顔を合わせることとなり、災害の惨状をお聞きすることとなった。入院されたご主人は会社を経営していたが流され、それでも従業員は幸い無事だったという。まもなくご主人は個室に移り亡くなられたのだった。知らなかった。向こうで葬儀を終えられ、入院費の支払いに来たところに私が通りかかったので、お話しを伺うことができた。山田の住所と電話番号をくださった。いつか訪れてみたい。

  ◆  ◆  ◆  ◆

 マグニチュード9以上の地震は
昭和35年のチリ地震(M9・5)
昭和39年のアラスカ地震(M9・2)
平成16年のインドネシア・スマトラ沖地震(M9・1)
平成23年の東日本大震災(M9・0)
この他に将来に(M9・0)が推定されている地震もあるようだ。2036年アポフィスが地球に衝突したときに発生するという。どこに衝突するかも計算されているのかもしれない。
日々の原発報道、ほんとうに恐ろしい。

きょう待合室で幾通りかの新聞、雑誌を捲りながら、もしこの大震災が無かったなら、新聞のトップニュースは何だったろう、雑誌を賑わすのは…とはたと考えた。地震のお陰?で小さい取り扱いになった事件もあるように思う。

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ぴっかぴっかの野菜になあれ

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    松園墓園より見る北上川(4/24)

          ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 去年水仙の球根をぜんぶ掘り返して、すこし日当たりはよくないが、塀の内側にとにかく植え込んだ。それでも余ってしまった。新たに植える場所を決めかね、そのまますっかり忘れていた。ダンボールに放り込んでテラスに放置したものだった。まだ雪が残っている春先にやっと思い出した。まだ生きているだろうか。外見だけではわからない。30個ばかりある。一つを取り出し思い切ってナイフで縦割りにしてみた。すると中は確かに青々としており、何層にも覆われた中心に花の蕾が小さく形を成している。生きていた!命というのはほんとうに不思議だ。とにかく何処でもいいから埋め込まなくちゃ。花壇としては適さない場所しかなかったが、あまり考えないことにして植え込んだ。去年植えた水仙はもう咲いている。今年植えた水仙にかぶせた土を、きょうすこし除けてみると、やっと芽が出ていた。花が咲くか咲かないかは別として球根の命は先々に繋ぐことができた。

 夕方に小雨がやっと晴れた。裏の小さな畑に胡瓜の苗2本、トマトの苗3種各2本を植え、ゴーヤの種を播く。パプリカの苗1本。ピーマン2本は明日の仕事となる。今年は自分が無理なく世話をできるだけの数を植えようと思う。安心して食べられる野菜をぜんぶ自分の手でつくることができたならと願うがそれは夢のまた夢。

 この豊かな緑、葉っぱ一枚の緑だけでもどれほどに豊かであることか。しかしもしそれが何らかの影響によって、青々としてはいても食べられず手にも負えないとしたらこんなに悲しいことはない。それは緑をしていても本質は枯葉のようなもの。枯葉ならば腐葉土にもなるだろうが、生命の滋養にもまともな土にもならない。ほんとうにこんなことになってしまった地域があるとは。

 ことしは野菜の世話をまめにしたい。小学校の理科の学習のようだが、それでもいい。素朴、単純と笑われてもいい。大きくて甘くてでっかいトマトをつくりたい。ほんとうに胡瓜の味がする胡瓜をつくりたい。明るい緑色のぴっかぴっかのピーマンが食べたい。



 

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ヒソプ

2011424_007               
        教会から分けていただいたヒソプです。

ヒソプ(Ezob) とは、ヘブライ語の名称で、聖書の中で使われる植物である。
出エジプト記」12:22の過ぎ越しの祭りで、子羊の血と混ぜられて、かもいに塗られる。
また「レビ記」14:4-7、14:49-51の、らい病の儀式で使われた。
民数記」19章の儀式でもヒソプがきよめに使用される。
ダビデは「詩篇」51篇で「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。」(新改訳聖書)と祈った。ヘブライ書19:19-21にもある。
(以上、Wikipediaからの引用です)

      ◆  ◆  ◆  ◆  

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自宅の庭に咲いたタンポポです。

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新庄墓園にでていた土筆です。

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復活

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忘れない
あなたがどのように生き
どのように旅立ち
そしてわたしたちに何をのこしてくれたかを

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重い聖書をひらき
大きな虫眼鏡で
小さな文字を
いつまでも追っていましたね

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病んで床にあったときに
笑みを見せることのできないわたしに
しずかな微笑みだけで
すべてを語ってくれましたね

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そして
天が間近にせまったとき
呼んでいたのは主のおなまえでした
誰よりも神にちかくあると見えたあなたが
なんどもなんども
神さまおゆるしください
神さまおゆるしくださいと

そしていまは神のふところに

あなたの足あとがくっきりとのこっています

※写真の方々は教会の兄弟姉妹です。イースターの日曜日の午後に。

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きょうのことばー『回復の希望なる復活』 イースター講壇ーその2

※前ページからのつづきとなっております。國光勝美牧師のメッセージを掲載しております。

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  きょう取上げたルカ伝24章は、イエスさまのお弟子さんたちが、イエスさまがエルサレムという町で十字架に架けられた悲惨な現実に圧倒され意気消沈して、エルサレムの町をあとにしエマオという村に落ちていくその途中の出来事が書かれています。お弟子さんたちは、十字架が預言の成就、救いの成就であることを知っている。また仲間の女性たちが日曜の朝イエスさまが復活されて空虚になった墓を見たことも聞かされている。それでも失望落胆しエマオの道を辿る弟子たち。十字架と復活を事実として受け入れてはいるものの、なかなか実感が伴わなかったのでしょう。
 私は3・11の被災をとおったあとに、このお弟子さんたちの気持がわかってきました。
 現地に行かれた方はきっと頷かれると思うのですが、あの惨状を見たとき、事実として認識することが難しいのです。難しいというより、実感が伴わないのです。本当のことだと言い聞かせていても納得ができない。現実と認識することにぴしっと一致しない歯がゆさとも違うあの感覚。これにお弟子さんたちの出来事が重なるような気がするのです。このお方こそ救い主だと間際まで信じていた、ところが、何とも酷い十字架を目の当たりに。そればかりかイエスさまを十字架に追いやったあの輩が、こんどは自分たちを捕縛するかもしれない。もうエルサレムにいるのは危険でした。日曜日の朝ですけれども、彼らは一刻も早くと危険を逃れエマオに落ち延びようとした。
 そのエマオの途上でよみがえられたイエスさまが「その話は何のことですか」と彼らに話しかけられる。そうです。彼らは十字架のこともよみがえりのことも知って話しているのですがあまりの衝撃に実感が伴ってこない。どうこの現実捉えるべきか。事実を否定できないけれども、これとどう向き合って、どう受けとめて自分の中に消化していったらいいのかわからない。私たち3・11をとおった者たちには、このような感覚がわかります。
 イエスさまはよみがえられたと知りつつも、自分たちに近づいてきた人物がまだイエスさまだとは認識できず、不思議な人物と見えていました。彼らは不思議な人物にエルサレムで起った十字架の出来事をつぶさに語ったのでした。不謹慎ではないとおもいますが、もし私たちがあの大津波の被害を訊かれたなら、きっと饒舌なほどに語るでしょう。実はこうでね、ああでね、こんなことだったんだ等々と。恐らくこの2人のお弟子さんたちも、どんなことなの? と訊かれたときには事の顛末をそのように話したでしょう。
 しかし、どうでしょうか、ルカの25~27節をみますと、
25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。
 
それまではお弟子さんたちが饒舌なまでにエルサレムの出来事を話していたのですが、こんどはその不思議なお方が、聖書の中からその意味するところを一つ一つ解き明かされたのでした。彼らは夢中になって、なるほど、なるほど、こういうことだったのかと聞き入ったことでしょう。エマオに着くころにはもう夕方になっていました。是非もっと私たちに話してください。そして29、30節、
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
 
もう彼らにはイエスさまが見えなくなってもいいのです。心の目がひらかれたのですから。彼らはほんとうによみがえられたお方を確かに心の目で確認することができたのです。32~34節、
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。

 私はきょうこのところで、3つのポイントを押さえておきたい。一つは、このキリストの復活は事実であったことです。荒唐無稽なつくりばなしではない。信じられないようなことですが事実だったのです。もしこのキリストの復活が空虚なつくり話かおとぎ話であったなら、真理だと信じているクリスチャンたちは世の中でいちばん愚かで哀れな存在です。しかし事実キリストは復活しました。これを確信するからこそ、この2人のお弟子さんも含め他の弟子たちは殉教しています。ヨハネだけは百歳を越えて最後まで生きた証人でありました。彼らは命を賭してキリストの復活の証人として生涯を全ういたしました。もしこれがつくり話であるとしたならば、キリストを十字架につけたローマ政府はこれを根拠のない戯言として葬りさることができたはずです。しかしそのローマにしてキリストの復活という事実を否定することはできなかった。福音が否定できない事実であることを捉えましょう。あのエマオ途上のお弟子さんたちがその事実を目の当たりにしながらも実感として捉えることができなかった。その彼らの姿はまさに私たちと同じようなものです。しかしどうぞこれが事実であることをしっかりと捉えましょう。
 そして、2つ目はこの復活が聖書の預言のとおりであったということ。それはイエスさまがルカ伝24章27節にありますように、イエスさまご自身が「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた」とあります。きょうの聖書交読は詩篇16篇でしたがその中に
10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
 
とあるのは、これはまさにイエスさまの復活の事実を表わしている預言の言葉であります。イエスさまの受難も、三日後に墓からよみがえられることも預言されております。聖書にはイエスさまの復活という出来事が一つ一つ解き明かされているのです。そうです。私たちがこの事実を目の前にしても信じることができない、まさに今はやりの言葉で言えば、うっそー、と言いたくなるような出来事を、彼らが受けとめることができたのは、彼らに聖書が開かれたからなんです。私たちは聖書をとおして頷き得心する者たちであります。いまルカ伝をひらいていますが、たとえば第一コリント15章3、4節
3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
 
「聖書の示すとおりに」、甦りのイエスさまは、エマオ途上のお弟子さんたちに、ご自分について聖書全体の中で記されていることを解き明かしてくださった。そうです。私たちがイエスさまの復活ということを心の目で捉えることができるのは聖書に目が開かれるときなのです。
 ルカの福音書にあるはなしです。ラザロという世の中的に報いられることのない貧しい男がおりました。金持ちの家の前で乞食をせざるをえなかった。しかしラザロは死んで御使いたちに携え上げられてアブラハムのふところに行きました。片や金持ちの方は死んでから火の苦しみにあいました。これはイエスさまのお話したことです。ハデスで苦しみながら上の方を見ると、ラザロがアブラハムのふところで安らかにいる。金持ちは、「どうかラザロを遣わして水をもってこさせてくれ」と懇願します。しかし大きな淵があって、こちらからそちら、そちらからこちらに行くことができない。そこで金持ちがいうのです。「私には地上にまだ親族がいます。どうぞその者たちがこの苦しみに来ないようにしてください」。そのときに答がありました。「彼らには聖書が与えられている。よみがえった者が、地獄はこんなところだから来ないようにといったところで、聖書を信じないものは受け入れられない」。イエスさまはこのような話をなさいました。それほどまでに、死人がよみがえって、こういうところがある、裁きがあると警告したところで、彼が聖書に目がひらかれないならば、それを受け入れることができない。それほどのことなのです。聖書に目がひらかれるか、聖書に目がひらかれないかには決定的な違いがあることを、私たちはこの場面で知ることができるように思います。
 さて3つのポイントと言いましたが、一つめは事実であるということ、2つめは聖書の預言のとおりであったということ、そして最後の3つ目は、このキリストの復活というものは、私の心の中の事実としてあるということです。そうでなければ復活の意味はありません。復活はいま私たちに生ける希望として与えられている。それはルカ伝24章32節にあるように、「心のうちに燃えているもの」「うちに燃えるもの」であり、ほんとうにそうだ、キリストは復活をされたんだと心から頷くことができ、私たちに生ける希望が与えられるものであります。
 ペテロ第一の1章21節を心をこめて、アーメンとの思いをもってご一緒にお読みしましょう。

21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
 そうです。私たちの希望は神さまにあるのです。
 いまACジャパン(旧公共広告機構)が東日本大震災の被災者激励にさまざまな言葉を流していますが、聖書がいっている希望がある、力が湧くというのは、このようなCMの言葉とは比較にはなりません。根本的に違うのです。こうあったらいいなあ、とか、そうありたい、というような決意表明などでもない、実際にこうであるという事実なんです。ほんとうの希望がある、だから頑張れるのです。ここに確信があるのです。世の中の人たちがどんなに真面目に一生懸命に善意でやって頑張ろうといっているものとは根本的に違う。全然違う。キリストはよみがえられたのです!! そのお方を信じているからこそ私たちは頑張ることができるのです。違いますか? そうでしょう。だから頑張ることができる、だから希望を持つことができるのです。

 いま日本の福音派のなかで活躍しておられる、小川国光という先生がおられます。その方の著作を読んで考えさせられたことがありました。インドネシアで福音のために労しておられたときに、奥さんが出産をされた。ところが与えられた赤ちゃんが24時間後に天に召されました。死因は書いてありませんでした。生後僅か一日で召されたのです。小川先生はこう仰っています。「でも私たち夫婦はよみがえりのときにあの天国で(子どもに)あえることを確信しているのです」。こういっていまも福音に仕え、よい働きをしておられます。どうでしょうか。私たちの希望は神にかかっている。わたしたちの希望はほんとうに死んでよみがえってくださったお方、この神さまに希望を置いているのだということを心に留めようではありませんか。ご一緒にペテロ第一の手紙の1章21節をお読みし、きょうのメッセージを締め括らせていただきます。

 21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

※短く編集するために割愛した部分がございます。文責:中ぶんな

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きょうのことばー『回復の希望なる復活』 イースター講壇ーその1

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       イースターおめでとうございます!!
         
  きょうはイエスさまの復活を記念する聖日礼拝でした。わたしはわたしの居住する地域の会合があり、そちらに出席しました。そこで例によってインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)に録音をお願いし、それを起こしてここに書かせていただきます。國光勝美牧師のメッセージを2回に分けて掲載します。
 午後からは昇天された方々の墓参がありました。きょうはわたしはこの墓参のほうに参加いたしました。

説教題 『回復の希望なる復活』
<聖書箇所 ルカ伝24:13~35>
13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエオマという村に行く途中であった。
14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがしらなかったのですか。」
19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。
25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

<お話し>
 いまみなさま方にもお祈りに和していただきましたが、去年までとは違った意味あいで、私たちはこのイースターを迎えているのではないでしょうか。この瞬間にも避難所などで不自由な生活を強いられている多くの方々がいっらっしゃることを覚えます。私たち盛岡におります者は、3月11日の地震では、2日程度の停電或いはガス、水道の不自由さでした。沿岸の方々から見れば被害としては少なかったことではありますが、しかしあの停電のあいだの不便さは堪えました。もうそう大きな余震は来ないかと警戒心がすこし緩んでいましたところ4月7日に盛岡震度5の余震があり再び停電しました。あのときの暮しの不自由さを思いながら多くの被災された方々を覚えるとき、それが一体いつまで続くものなのか予測し難い中にいらっしゃる現実に、主の憐れみを心から願うことであります。そして私たちも、何とかしてこの支援の思いを届けたく思います。
 この礼拝の後に、役員会で御連絡をさせていただきますが、全国の主にある教会から盛岡教会に支援のお心遣いを頂いております。私たちは、それを必要としている沿岸の方々に的確に届けることができるような道筋を確立しておきたく思います。
 皆様の後ろの方にもきれいなカードが貼られていますが、インマヌエル大阪伝法教会の教会学校の皆さんが寄せ書きをし、歌のCDとともに送ってくださり励ましてくださいました。何という感謝なことでしょう。また、いま皆様方のお手もとにある週報にも2枚の栞を挟んでおきました。これは東京におります娘と従姉妹が盛岡の方々にと作ってくれました。たくさんありますので、これも沿岸を支援するときに持って行きます。一週間前には、いのちのことば社の支援のスタッフの方々が「聖書、絵本、トラクトなどを遠慮無く申し込んでください」と言ってくださいました。わたしはすこし遠慮したのですが、「いいですよ、是非沿岸の方々に届けるために」とのことでしたので、それにも添えて栞を使うことができたならと思っております。
 多くの方々の祈りが、世界中の祈りが、この東日本のために、或いは岩手のために献げられていることを確認させていただきたいと思います。そのような意味でもイースターの朝が祝福されるようにと祈りおります。    ー次ページにつづくー

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主よ御許に近づかん Nearer, my God, to Thee

 いま21時36分。雨が勢いづいて屋根を打ち叩いている。
 きょう年度初めのもりおか童話の会の会合があった。中央公民館。やはり大震災の話となった。沿岸に関係者がおられる方の記録をパソコンで見せていただき、自分の足で安否を訪ねて来られた話に皆が聞き入った。親類縁者7家族がみな家を流され、3人死亡、3人行方不明ということであった。また気仙沼で被災した童話の会会員の女性のためには会の代表が中心となって援助物資を調達発送。それにそれぞれの3月11日の状況報告が続いた。私は諸般の事情で多忙のため1時間で退出し帰宅。近頃は幽霊会員となってしまっていたが、ほんとうにこれも赦されてある在籍、会員としての在籍であると思われてならない。いつ何時予測しがたい事態に人生が覆ってしまうか。
 今回の地震で、やはり家族というのは運命共同体であるという認識を強めたことだ。日頃はややもすれば感謝の念を忘れ、身の程を越えた物言いをしてしまい反省することもなきにしもあらずだが、一旦事が起きたときには結束しなければならない。
 有り難みを忘れ失ってしまったものもあるが、今置かれている一つ一つに感謝し大事にしてゆかなければならないと思わせられた。
 雨、雨、雨、雨。これが被災地にもかと思うと、一挙に水の重たさ冷たさが重量感を帯びる。

Nearer, my God, to Thee 主よ御許に近づかん 【試聴】

 これまで何度かつないだ讃美歌だが、こんなときには、この賛美歌が心にかよう、というよりも心が渇望すると言ったほうがいいかもしれない。主よ、どうぞここに。ここにおいでください。この身のすぐそばに。そしてどうか彼の地にも、彼の地にも近くあられてください。そして心の痛手をクッションとなって和らげ慰めてくださいますように。あなたが、あなた御自らが。

Nearer, my God, to thee, nearer to thee!
E'en though it be a cross that raiseth me,
still all my song shall be, nearer, my God, to thee.

主よ御許に近づかん
いかなる苦難が待ち受けようとも
汝の為に我が歌を捧げん
主よ御許に近づかん

Nearer, my God, to thee, nearer to thee!

主よ御許に近づかん 主よ御許に近づかん

Though like the wanderer, the sun gone down,
darkness be over me, my rest a stone.
yet in my dreams I'd be nearer, my God to thee

放浪の中 日は暮れゆき
闇の中 石の上で体を休める
ただ夢見るは 主よ御許に近づかん

Nearer, my God, to thee, nearer to thee!

主よ御許に近づかん 主よ御許に近づかん

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大信田時子「人物画展5」 画廊喫茶ママ 2011/5/2(月)~5/14(土)

大信田時子さんはご近所にお住まいです。3・11東日本大震災の数年前にすでに原発が如何に危険なものであるかを教えてくださった方ですが、それをこれほどはやく身近に知ることになろうとは思いませんでした。

 今回はこの絵画展。多くの方々にご案内する途上に我が家にも一枚置いてくださいました。女性の着物姿、それも背中から捉えている。時子さんの絵の中では、わたしの好きな一枚です。今回は何点展示されているか、どうぞご覧になってください。Scan10037_2

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汝をまもるものは微睡たもうことなし

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      汝をまもるものは微睡(まどろみ)たもうことなし

 きょうははやいめにやすもうとおもうけれども、と書きながら、いつもなら、やすもうとおもうが、と書いているところだな、などと思う。独白めいているときには無意識のうちにかたい言い回しになっているようだ。読んでくださる方があるかもしれないという意識が働いているときには丁寧な言い方となり、そういった意識が薄れたときにはかたくなる。さてきょうは…とおもうまでもなく、きょうははやいめにやすむことが必要だ。わたしがやすんでいるあいだにも、一睡もせずに見守っていてくださる存在がある。真夜中に目をさましたときでも、きっかりと目を見ひらいているという。子どもが赤ん坊だったときに熱をだした。一晩中見守っていた。いつ熱がさがるのだろう、真夜中にこの子が目をさましたときにも傍にいなければと。子どもも今そばにいるかを確かめるかのようにうっすらと目をひらくことがあった。それがいま自分をまどろみもせずに見守っていてくれる存在があるという。わたしが真夜中にほんとうにそこにいるかどうかをたしかめたときには必ずそこにいてくださるだろう。ほんとうにごくろうさま。これで朝までぐっすりとやすませていただきます。花粉症の鼻づまりでたまに目がさめるときもありますが、そのときにもどうか宜しく。そしてどうかお疲れになりませんように。

讃美歌 「キリストにはかえられません」 URL

 
 

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身を避けるわが岩

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            「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
            身を避けるわが岩、わが神。」

 きょう近況を國光ひろ子牧師にメールでお伝えしたところ、返信にこのような詩篇18章2節の御言葉を書いてくださった。

 世間一般の方々が潜る様々な事態から、逃れられる場合、逃れられない場合がある。しかしどんなことに直面した場合でも、クッションとなり直撃からくる衝撃を吸収してくれる存在がある。いまわたしにとって神とはそういう存在である。

讃美歌 「帰ろう」
       作詞・作曲 山本嘉納

都会の暮しに楽しさを求めて
ただそれだけのために一日をついやす
今日一日がとても短く感じる
そんな日々の少ないこと
それなのに振り返る一日の
なにも無い悲しさに
帰ろう帰ろう僕の生まれた故郷へ
すべてが美しく輝いている神の国へと

苦しいことには背中を見せ逃げる僕の足取りは
正しいことに素直になれないそんな悲しい心
明日という日に望みを持つような
そんな日々の少ないこと
それなのに望んでる一日の
なにも無い悲しさに
帰ろう帰ろう僕の生まれた故郷へ
すべてが美しく輝いている神の国へと
      

 

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シンフォニエッタ・盛岡「弟5回春のコンサート」 2011/5/21(土)盛岡市マリオス小ホール開演18:00

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揺れに揺れるこの春、しかし地ふるうともシンフォニエッタ・盛岡の響きはこの地に。
2011・5・21(土 )マリオス小ホール 18:00 開演

シンフォニエッタ・盛岡の活動状況を詳しく知りたい方はこちらです。

   ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 交響曲弟31番「パリ」、実はわたしは今から聴くところだ。これはモーツァルトが、パリのコンセール・スピリチュエルの支配人ル・グロから頼まれて作曲したらしい。ル・グロは1778年6月18日の初演の後、第2楽章のアンダンテがまずいと批判したという。理由は「転調が多すぎるし長すぎる」というのだった。モーツァルトは不満だったが書き直し新しい版は8月15日に再演されその後パリで出版され、これが初版とみなされているという。ーCD石井宏氏の解説からー大天才には誰も文句は言わない、言えないだろう、人に言われたからといって直さないだろうと思いこんでいたわたしには意外だった。

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雑感

  毎日のように義父の入院先にようすを見にいっている。いまは転院し、以前よりすこし遠くなった。徐々に回復している。
 北上川を通る。川縁の木々がいつのまにかうっすらと若草色を帯びている。

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 周囲では耕作がはじまっていた。土を起こしたばかりの広々とした畑を撮りたかったが逆光だったので次回に。土手のイヌノフグリ。青も緑も傾きかけた日に照らされ輝いている。

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  北上川。東北最大。流路延長249㎞。石巻湾と追波湾とに流す。

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 去年南大橋からこの川を撮ったときには、大水が溢れ、濁流が荒れ狂うかに恐ろしい勢いで流れていた。しかしいまはすべてを達観するかに穏やかな表情を見せている。

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きょうのことばー『栄光、小羊にあれ』 受難週を前にーその2

※前ページのつづきとなっております。インマヌエル盛岡キリスト教会の説教をICレコーダーを基に起こし、二回に分けて掲載しております。

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 では旧約聖書の中にどんな預言があったのか、またしてもですけれども、イザヤの53章を確認するのは相応しいことです。イザヤ53章で、イザヤは、自分が活躍した時代より700年も先の出来事であるイエスさまの十字架を、あたかも自分が十字架の傍に身を置いて記したかのごとく預言しています。53章4節から
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、
主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは
主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
 主の十字架はこの通りでした。
 昔エチオピアで結構な社会的地位にあった人物が、自分の生涯の思い出となるべく、天地宇宙を造られたまことの神さまがおられるに違いない、そしてそのお方を礼拝しているのはユダヤ人たちだ、自分もその神さまを信じたいと巡礼の旅に出た。彼はそのとき最高のお土産として、聖書と言われるものの一部分を国に持ち帰ることにしました。彼は馬車に揺られながら寸暇を惜しんでそれを読みましたが、何のことを言っているのか分からない。そこに不思議な旅人が近づいてきました。「あなたがお読みになっている箇所がわかりますか?」。そう訊かれた彼は謙って、「いいえ。せっかく聖書を手に入れたのに、ここに書いてあるお方が誰なのかわからないのです」と言ったとき、不思議な旅人は、「そうですか、ちょっと横に座らせてください」。それはイザヤ53章でした。「つい先頃エルサレムに於いて十字架にお架かりになったお方はこの方なのです」。
 そうです。2千年の昔のイエスさまの十字架を何か偶像を拝むかのごとく有り難がっているのではなく、このイエス・キリストの十字架こそ神さまがこの世にお下しくださった救い主であり、その預言の成就の方であったということ、これが分かったとき、人は救われるのです。十字架の出来事は聖書の預言の通りであったということをしっかりと受けとめたとき、ほんとうの救い主が分かってくるのです。

 私は、二つのことといいました。そのもう一つというのは、タイプ。実体ではないけれども、聖書はイエス・キリストの十字架をいつでも示している。これは短く指摘をするだけにいたしましょう。創世記3章21節。
 
21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
 
勿論ここだけを読んで十字架のことが分かることでは決してありませんが、しかし意味するところは非常に大切です。罪を犯してしまったアダム。神に背いてしまったエバ。罪を犯してしまったもの、それまでは神の栄光を装わせていただいていた彼ら。しかし罪を犯してしまったことの故に神が与えてくださっていた栄光が無くなってしまった。そのとき、神さまは罪を犯してしまった人間に何をしてくださったのか。
21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
 神のお造りになられたエデンの園という素晴らしい場所において、初めて動物が殺されたのです。罪のない動物が殺されてその動物の毛衣が作られ、それによって罪を犯してしまった人間が神が備えてくださった皮衣によって覆われた。ある人はこれを十字架の預言のタイプと理解をしております。そしてそれは非常に意義深いことであります。罪を犯した人間がそのまま神の前に立つことはできない。覆わなければならない。何によって覆われたのか。罪を犯したことのない、何の関わりもなかった動物の命が殺されて屠られて血が流され、その動物の命と引き替えに備えられた皮の衣を着せられ、エデンの園から追放された。

 また創世記の6章、これはノアの箱舟と言われているところであります。この6章14節

14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。
 
神の裁きによって大洪水でこの地が滅ぼされた。このような状況下でお話することは、心の痛む思いがしますが、どうかおゆるし下さい。聖書は言っているのです。ノアの大洪水によってすべての命あるものは滅ぼされてしまったのです。しかし、そのとき神さまは、ノアとその家族を救ってくださった。所謂それがノアの箱舟というものなのです。神さまは救いを備えてくださった。誰であってもこのノアの箱舟に逃げ込みさえすれば、そこの中に入った者たちは救われたのです。この「木のやに」について、これは「贖い」という意味の言葉が使われていると伺ったことがあります。自分でも調べてみました。ヘブル語が訳されて、「宥め」「赦し」「慈悲」「許し」「完全に無効ににする」「情」「償いをするために宥める」というような言葉が列挙されておりました。強ち間違いではない。やに、これは所謂ピッチと訳されていて、油などを製油したときに残る黒いどろどろとしたタールのようなもの。それがここでは木のやにと訳されている。これが贖いという言葉を意味していると受けとめるならば実にこれも意味のある言葉であります。神の水が全世界を覆っておりましたとき、ノアの箱舟にいる者たちが守られた。しかもその内と外は木のやにが塗ってある。もうそれはイエスさまの十字架の血潮と言い換えてもすこしも違和感はない。イエスさまの十字架の贖いの中に、聖書の言っているとおりのその預言の中に私たちが身を置くとき、私たちは神の裁きを免れている。お救いに預かることができる。まさにノアの箱舟はイエス・キリストの十字架のタイプとして私たちは見ることができるのです。
 もう一つ、創世記22章。これは自分の愛する子どもイサクを神のご命令によって生贄として殺し神に献げなければならないという悲しみの場面です。1節によりますと、このモリヤの山はイエスさまの十字架の場所であるというようにも言われており、興味深いところですがまさにそのところに於いてイサクが神の前に生贄として献げられようとしたとき、この7、8節

7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

 イサク、わたしはこれからお前を殺さなければならないけれど、神さまは、神ご自身が全焼の生贄を備えてくださるよと語るアブラハム。このときからおおよそ二千年の後、まさに神さまご自身が生贄として羊を備えてくださいました。神ご自身がベツレヘムの馬小屋にひとりの男の子を誕生させてくださったのです。このお方が私たちの罪の身代わりとして十字架の上にお架かりになった。神の備えてくださった小羊として神が備えてくださった小羊として今から二千年の昔十字架にお架かりになられました。
 キリストの十字架ということをおもいますとき、これが聖書の預言の成就であったということ。またそれはいにしえ聖書のあのところに、このところにキリストの十字架の贖いというものの意味が散りばめられていることを私たちは知りました。
 今週私たちは、このお方の贖いの恵みが、いまから二千年の昔成された。神が備えてくださった羊が生贄として屠られた。あのイザヤ53章に預言されている出来事が成就した出来事の気がするんだ。その聖日のいま朝を迎えているということを、覚えたいと思います。

文責:中ぶんな

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きょうのことばー『栄光、小羊にあれ』 受難週を前にーその1

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 3月11日の大震災より一ヶ月が過ぎました。更にご遺体として発見された方々に哀悼の思いを持ちますとともに、今尚災禍の中にいらっしゃる多くの方々にお見舞いを申し上げます。世界中の教会、或いは世界中の方々の祈りがこの日も献げられております。
 今日も十字架は立ち続け、インマヌエル盛岡キリスト教会(電話019ー646ー2924)でも変わらずに礼拝が守られ、國光勝美牧師の説教が取り次がれました。
説教題 『栄光、小羊にあれ』 受難週を前に
聖書箇所 ヨハネ黙示録5:1~14


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 受難週を迎えておりますが、この年私たちは、決して忘れることの出来ない3・11という大きな出来事を経験いたしました。この教会でも、陸前高田市に関係者がおられるT兄弟が被災地を訪問、写真と原稿を文集に寄せてくださいました。現場を直にご覧になった兄弟です。またS兄弟も、被災地で厳しい職務を執られ、きょうはここにおられます。殉職された仲間もいらっしゃると伺いました。ほんとうによくやってくれましたと頭の下がる思いでおります。私たちは大災害をいま現在進行形で通っております。それ故に一層、私たちの持っている信仰が何なのかを明確に捉え、クリスチャン信仰の恵みを知る絶好の機会とも思われます。
 受難週はイエスさまの十字架を心に留めるときでございますが、敢てわたしはイエスさまの十字架、屠られたまいし小羊なるお方に、私たちの救いを成してくださったお方に心からの感謝と讃美を献げるのが相応しいのではないかと思い、黙示録5章1~14節をお開きいたしました。

 黙示録5章9節、

9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。
 これは前後のことがありますから、その次の御言葉に心を向けたいのですが、
あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
 「屠られて」、また「小羊」という言葉を考えますとき、この12節にも一緒に目を留めましょう。
12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にありますように。」
 屠られた小羊、これは救い主イエス・キリストご自身です。二千年の昔エルサレムに於いて十字架のお苦しみを受け、私たちの身代わりに神の裁き、罪の刑罰を余すところなく受けられたお方なのです。そしてそのお方は、「私があなたの身代わりとしてこの苦しみを余すところ無く受けました、ですから、もうあなたの罪は赦されているのです。あなたの裁きはもうすでに終わっているのです。さあ、わたしを救い主として信じなさい。」と仰っている。この神さまの救いのわざが、9節に、「その血により、あらゆる部族、あらゆる国語、あらゆる民族、あらゆる国民、世界中の人々の為にイエス・キリストは十字架の救いを成し遂げてくださった。このお方に讃美と栄光と誉がとこしえまでもありますように。」と書かれているわけです。3・11のあの一瞬に多くの方々が地上の命を締めくくりましたが、イエス・キリストを救い主として信じる人たちは、永遠の命の約束をいただいて神さまの御前に立つことができる。「わたしを信じる者は永遠の命を持つ」という約束を抱いて天に移された人たちがいるわけであります。ですから尚一層、私たちはこの福音を他の方々にも伝えなければなりません。

 きょうはイエスさまのこの十字架を、二つの角度から取上げてみます。
 一つは、2千年前のこの十字架の出来事が、実は聖書に始めから預言されていたことです。これをポイントとして押さえることは、私たちの信仰の大先輩である使徒たちから受け継がれてきたものであります。ですからいま私たちがこの講壇でともに確信しようとしているこの事柄は、初代クリスチャンと同じポイントでもある。イエス・キリストの十字架は、キリストが地上に誕生されたずっと以前から預言されており、その預言の成就であることを先ず第一に捉えておきたく思います。
 それから二番目のポイントとして、これは聖書がこの十字架というものに集約されるために、幾つかの雛形或いは模型といった、イエス様の十字架そのものではないけれども、やがて現れる本物はこういう意味を持つという内容を、聖書はずっと古くから教えていた、謂わばタイプ、実際ではない一つの形として十字架というものがある。
 この二つの角度から、今日は預言の十字架、それからタイプとしての十字架を見ていきたいと思います。

 最初の預言の十字架ということを見ておきましょう。
 いま黙示録が開かれておりますけれども、新約聖書のルカの福音書24章、これは失望落胆の真っ暗闇の人生を歩んでおりました人にイエスさまが何と語っておられたのか。ルカ24章26節から
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。
 イエスさまが何のために十字架に架かられたのかは聖書が預言していると、イエスさまご自身が聖書を通して解き明かされている。ルカの福音書24章32節
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
 こんどは使徒の働き3章18節、これはイエスの弟子であるペテロという人物がこのように語っている一部分です。
18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
 
これがペテロという人物が、始めに信仰を持った人たちに語ったメッセ-ジの内容です。聖書が言っているとおり、キリストの十字架はあの預言が成就されたものなのです。だからあなた方は悔い改めて信じなさい。そうです。イエス・キリストの十字架はただ偶然に悲劇的な出来事として起きたのではない、聖書が予め預言していた通りのものであります。同じく使徒の働き17章、こんどは、パウロという人が言います。
使徒の働き17章2節

2 パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
3 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と言った。

 そうです。いちばん始めのクリスチャンたちは、主の十字架は聖書に預言されていることが成就したことであって、このお方こそ神の救い主なのだということを信じた人たちなのです。そして永遠の命を持った人たちなのです。さらにもう一つ、使徒の働きの26章22節、パウロがある然るべき人の前に立って、私はどのようにしてクリスチャンになったのかを滔々と弁明しているところがあります。
22 こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。
23 すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中から復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」

 パウロやペテロの語るところにも見るとおり、最初にクリスチャンになった人たちは、キリストの十字架は預言の成就であったと受け入れ信じた人々であったのです。
                 ーつづくー

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TV マイケル・サンデル究極の選択「特別講義大震災後の世界をどう生きるのか」

 この番組は、ハーバード大学教授マイケル・サンデル氏が日・米・中の若者から、東北関東大震災でパニックがなかったこと、原発、国際協力に関して意見を引き出すことで互いに考えてゆくといった形式だった。日本からは女優、作家、また今回義援金として5億円を寄附した通販会社の方も加わっていた。
 中でも原発に関する意見交換は興味深かった。
 今後も原発は必要だとする意見には、夏などは室内気温が40、50を越すという現実があり、この電気を供給するには原発が必要だ、或いは、人間は進歩することで生き抜いて来ており、一番怖いことは人間が進歩することを止めることなのだ、鉄も最初は危険だったが、後には技術によって安全性が確保されるようになった、飛行機も一旦事故が起きると多くの犠牲者がでるが、だからといってもう飛行機を飛ばさないかというとやはり必要であり、それと同じように原発の今回の事故で無くしてしまうというものではない。また今後インドのような国々が更に発展を遂げるには原発が必要等々。
 これに対し、原発は完全に無くすべきだという意見。原発を無くすると生活水準を引き下げざるを得ないが、そもそも生活水準とは何か、豊かさ、生活水準をどうして重視するのか。この度の節電で家族が一緒に同じ部屋で過ごす時間が増えたではないか、或いは人道は経済に優先されるべきだ。太陽光、風力発電に切り替えるべき。またNIMBYということばがある、これは自分は危険を背負いたくないが、そこから得られる利益は得たいというもの、原発の建設はどこまでもこのリスクの押し付け合いとなる。原発の危険性は、鉄や飛行機に比べられるものではない、危険度のスケールがまったくちがうものである。原子力のリスクはヒコーキの比ではなく、受け入れるべきものではない、等々。
 
 わたしが原発に関してものを言うには知識不足ではある。この討論にも原子力の専門的な破壊力の数値というものは出なかった。しかし「今後世界的に大きな自然災害が頻発するようになる」との警告を聞いたのは四川大地震のあとだったろうか。次々にハイチ、チリ、ニュージーランドと癒えぬ間の続発だった。
 2010年のRecord China には「国連国際防災戦略(ISDR)の専門家は、災害の発生件数が増加しているだけでなく、災害の種類や発生する範囲も急速に拡がっているとした。「自然災害とは言っても、その背景には人類によってもたらされた影響が色濃い」とし、「自業自得だということもできる」と指摘し、人類が自然環境や生態系を破壊したことが原因と見られる自然災害の件数が増加しているという。結果、災害の及ぼす範囲・被災人数・経済的被害は規模を大きくしており、これらを防止するためにはまずは教育による意識改革が重要、次に行政による土地管理など事前準備が必要であると説いた。(翻訳・編集/岡田)」 とある。
 緊急地震速報で被害から多くの命が守られることはできる。しかしこれまで一度として科学の力をもって地震その他の自然災害を事前に潰すことはできなかったのだ。勿論ダムに貯水することで、洪水を防ぐことができるといった規模のことはあったけれども。この度の地震、津波そのものには為す術がない。そのような中で原発を持ち続けることは、やがては地球そのものを失ってしまうことにはならないだろうか。

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どこまでできるか庭づくり

 鉢植の、地植えのパンジーが咲いている。いつかT子さんから、「これはヒマラヤユキノシタ」と教えていただいた小さなピンクの花も。赤紫のクリスマスローズ。黄色いクロッカスはもうとっくに終わって今は白と青が真っ盛り。

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  花粉症で鼻水、鼻づまりが酷いけれども、終日庭で過ごす。2メートル丈になったドングリを1、5メートル高さに伐る。元から伐ろうと思ったが、あの青いドングリのかわいらしさを思い出すと、切り倒せなかった。ドングリはけっこう虫がつくことがわかった。面白さはあるけれど管理が大変なのだ。残念だがやはり庭木には適さないかもしれない。塀の内側にびっしりと伸びた蔦の蔓を始末した。これは大仕事だった。老朽化した塀を傷めるという意見を採用。ほんとうは蔦がある方が私は好きなのだが、合理性も考えなければならない。この蔦については通りかかる方々の意見はさまざまだった。「蔦が塀にはびこっているのは汚い」という方。「塀が傷んでしまう」という方。「蔦は紅葉がきれいだし緑が塀を覆っていた方がいい」という方。結局近頃は塀の傷みが目だってきたこともあり、これ以上の損傷を恐れて除去に踏み切った。
 大雪で枝が折れ垂れ下がっているアオキや萩、紅葉、皐を剪定。枝が踊り気味の薔薇やレンギョウ、木蓮、紅葉、ユキヤナギ、アジサイ、山吹を徹底的に刈り込む。これは昨年怠けていた分の仕事。また木立の下の小枝や枯葉を一輪車で小屋の後ろの一角に運び込み腐葉土にしようとの目論見。切り落とした幹も50センチ丈に切りそろえ、燃えるゴミの日に、目立たぬように一束づつ出すことに。

 二箇所の花壇の土作り。スコップで深く掘り起こし土をこまく砕いて堆肥と墨にした籾殻を均等に混ぜ込む。一つの花壇には5種類の花の種を播くが、発芽率はあまり期待できない。もう一つの花壇には、数種の花の混合の種、黄色コスモスを播き、赤紫のカサブランカ、赤、ピンクのグラジオラスの球根を埋め込む。その向こう側にビオラを播く。水をやりながら、被災地では水に不自由な方も。花に水か…というわけで水やりはそこそこに。あとは天運に任せて発芽を楽しみとする。
 まだ残っている作業は、金木犀の木の位置が他の木に近すぎて生育がひ弱であること。しかしこれを移動させるとなると今となってはかなり掘らなければならない。朝顔が果たしてどれぐらい上に伸びるものか限界に挑戦してみたい。伝わせる線をどこに作ったらよいか。裏庭に野菜を植えなければならない。トマト、胡瓜、小松菜、パセリ。その隣の花壇も土壌改良しなければ、もう花がよく育つ見込みがないので、ここに植えられている数種類の植物をどこにどう移動させるか。ただ先のことは、また計画倒れになったときに神さまに申し訳ないのであまり書かないほうがよいだろう。
 この庭の絶滅植物は、ピエロ。オキナグサ。クロユリ、トクサ、シドケ。やはり土の質が合わなかったのと、管理人が植物の特質をよく学ばなかったところに決定的な原因があったようだ。
 ことしは塀の外回りはあまり手をかけていない。昨年近所の方からいただいた赤と白のタチアオイがうまくいくか心配でならない。またやはり去年いただいた菊は2倍に増えて驚いている。
 できるだけ買い込むことはせずに、いまここにある花々を大切にしきれいに咲かせ、増やしてゆきたい。

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CD ブルックナー「交響曲弟6番イ長調 (原典版)」

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ブルックナー「交響曲弟6番イ長調 (原典版)」
ゲルト・アルブレヒト 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

 ブルックナーを得意とする朝比奈隆の「ブルックナー交響曲選集」に入っていないこの6番。これは、ブルックナーが自分の音楽を「大胆なスタイル」のもとに追求しようとした野心作であったようだ。それまでのブルックナーの交響曲に比べて沈思黙考型の歩みを特徴づけるブルックナー休止(総休止)もスケルツォとトリオの区切り以外にはまったく用いられていない。これがブルックナーらしからぬ交響曲に見えなくもない要因であるらしい。もしかすれば、朝比奈が選集に入れなかった理由はこのところにあったのだろうか。
 独特なリズムやオルガン的な響きといったブルックナーの特徴は備わっている。
 6番の初演は弟2、弟3楽章のみで、1883(明治16)年ヤーン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。全曲の初演はブルックナー没後の1899(明治32)年マーラー指揮で同じオーケストラだった。マーラーは聴衆が理解しやすいようにカットを入れ短縮して演奏したという。(岩下眞好氏の解説を参考にしています)

ゲルト・アルブレヒト(1935年ドイツ生まれ)
1998~2007年読売日本交響楽団弟7代常任指揮者


 荘重なうちにも繊細な清明さを満たしながら新しいステージへの予感がしずかに膨らみ終章の確信へと導かれる。演奏時間55分弱が心穏やかな一ときとなる。

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みんなのねがい

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わたしのこどもや
わたしのまごや
わたしのひまごが
いつまでも
すこやかで
安心してくらせるように

だれもがそうねがっている
はず

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ぼくたちに原発のない未来をください

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どうかぼくたちに原発のない未来をください。
おねがいします。

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きょうのことばー『御前に立つ備え』その3

※前ページの続きです。

 私たちは、この終末ということに関して、「火で焼かれるために」という言葉が実に大きな意味を持っていることをやはり心しておかねばならないでしょう。
 ノアの時代は水で世界が滅ぼされました。しかし次に神さまが裁かれるのは火によって裁かれるのです。ペテロ第二の10節
10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
 この欄外の注解を見ますと、「天の万象」は「諸元素」となっています。
12節
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
 
手元の資料を見ますと、英語の訳ですが meltdownと出ておりまして嫌なことばだなと思ったのですが、これは今、原発の関連で言われている言葉ですが、まさに天の万象が焼け溶けてしまうのだとぞっとしました。
 さきほどのペテロ第二の3章2節の「聖なる預言者たちが前もって語った」というところ、またパウロたち使徒の手紙の「聖書の権威をもって人々に既にこの時代から受け入れられていたこと」をも思いながら「聖なる預言者によって語られた御言葉」とは何かといえば、それは色々ありますが、たとえば旧約聖書のイザヤ書の66章15節
15 見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。
16 実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。
 
明らかに主の御再臨のとき、これから後私たちの世界が経験する世の終末というのは火によって滅ぼされるために保たれている。
 新約聖書第二テサロニケの1章7節。このテサロニケの手紙は再臨書簡と呼ばれイエス様の再臨、終末に関わることが記されておりますが。この1:7
、8
7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。
8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
 
ここに炎の中に主が現れなさるとあります。私たちは今この時代にあって、2千年の昔に主イエスさまが私たちを罪から救うためにおいで下さったクリスマスのできごとをよく知っています。そのとき、貧しく人々にはまさかと思うような形で主がおいでになられました。人として救いのわざを十字架に架かり成し遂げてくださった、神の愛のすべてをそこに尽くしてくださって、誰でも信じたならば永遠の命を持つことが出来るその救いの福音を私たちに神さまは与えてくださった。神さまがこれ以上を私たちになさることは何もないほど救いの御わざを成し遂げて、後は聖霊を遣わして、誰でもこのお方を信じるならば永遠の救いを得ることができるという福音を今私たちは受けてこの時代あるわけです。これほどの神さまの愛を人々に伝えながら尚人々が信じないのは、信じたくないから。末の世。彼らは自分に不都合だから、神さまを受け入れて敬虔な生き方をするのは自分に不都合だから目を瞑って、或いは敢て拒絶して受け入れない。そういう不敬虔な者達がこの世にはびこる、そういう時代です。しかしこんどイエス様がおいでくださるときは、もう容赦する必要は何もない、なぜなら神さまはすべてのことを成し終えてくださったのですから。これだけの猶予を与えてくださったのですから。これだけの機会を与えてくださったのですから。第二ペテロの3章9節
9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
 
だけれどもこの神さまの救いを受け入れない。あざける者がやってきて欲望のままの生活をし、キリストの来臨などあるものか、世界は何も変わってないじゃないか、しかし神さまはこんどは、王の王、そして裁き主としてやってこられる。2千年前は救い犬ストして主としてやってきてくださった、しかしこれからの主の再臨の時、終わりの時には、勿論裁き主として来られるのですが、それは信じている者には救い主としておいでくださるわけです。そうです。ほんとうに主を信じて主の前にあるときに、主はまさにそのとき地上にあって残れるものはまさに瞬きをするうちに、あっという間に天にあげられる。キリストにあって眠っている死人は甦って、そのとき生きて地上に残っているものたちは瞬きするかの一瞬に天にあげられて小羊の婚宴、すばらしいこの世にないところの救い、ですからわたしたちにとって再臨、終末は恐ろしいだけのものではありません。いや恐ろしいどころではない、待ち望んでいる時なのです。主のおいでを私たちは待ち望んでいるのです。それは私たちの救いの成就するときだからです。そしてこれはきちんと理解しておきたい事ですが、そのときに悲劇なのはのこされた人たちなのです。大艱難時代がはじまります。第一テサロニケ4章
 
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
 
これが空中携挙、或いは空中再臨といわれるとき、このときにぽんとうに生まれ変わって神さまの前に備えられている人たちは天にあげられる。そしてキリストの栄光の中に。しかし残った人たちがいる。これが大患難時代というものを経験しなければならない。そのとき、それこそ地球が破滅するハルマゲドンといわれる最後の決定的な場面にイエスさまが地上に来られます。オリーブ山に立たれます。そのときキリストを十字架につけたユダヤ人たち、あんなのは救い主じゃないといったユダヤ人たちに決定的な悔い改めがおこる。神さまの最後の憐れみのときが彼らに与えられる。キリストが王の王、主の主としてこの地上においでくださる。それから聖書でいわれる千年王国という一つの時代が始まることを私たちは聖書の中から見ることです。
 また敢て申しますが、私たちは、このような千年紀の前に再臨があり、それから千年紀が始まるという考え方を持っております。これは千年紀前再臨説という立場です。ただ聖書の理解の違い、立場の違いがあり、キリストの再臨は千年紀の後であるという神学もあります。どちらにせよ私たちは千年紀という要素を持っていると理解していますが、そうではなく無千年紀の立場をとる方もあります。これはそれぞれが神さまの前に摂理的に受けている理解であり、これでなければ駄目、これだけが絶対ということはありません。それではあなたはどういう解釈をとりますかと言われたときは、インマヌエル綜合伝道団は教義及び条例の中に、千年紀前再臨説をとることを明記してございます。
 第二ペテロ3章にかえります。
 この第二ペテロの手紙が紀元50年ごろに書かれたとするなら、ペテロがこのとき、天の万象が焼け溶けて地とありとあらゆるわざが焼き尽くされる消え失せる、これをその時代の人たちはどういう理解をしたでしょう。或いは中世にこの聖書を人々はどう理解したでしょうか。それぞれの時代でこの神の言葉である聖書はそれぞれの理解をされています。しかしある意味で私たちはそのどの時代に生きている人たちよりも、このペテロの言葉を厳粛に受けとめる時代に生きているということは言を俟ちません。ある時代にはおとぎ話と捉えたでしょう。しかし科学が進めば進むほどいまたとえば神の兵器が非合法で暴力的なテロリストたちの手に渡ったときのことを考えても或いは何かのことで核のボタンが押されることもありうる、これは一羽の雀がおちることも神の赦しがなければ為されないわけですから、どうぞそれを忘れてただただいつどうなるか分からないとうろたえることはありません。かみさまが世界のすべてを治めておられる。それをしっかり心に留めたうえで、このペテロの言っていることがらがほんとうのことだとしっかりと受けとめたいと思うのです。ならば、ペテロはそういう特異点にある人たちに何をするようにと伝えるためにこれを書いたのでしょうか。第二ペテロ3章11節
11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
 
世の中の人たちがキリストの来臨なんか、世の中変わってないじゃないかと言い張っているような不敬虔な人たちに対して、あなた方はどれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう、そして神の日が一日も早く来るように。私たちにとってはそれが恐ろしい日ではないのです。これはまさに救いの日なのです。主よ来たりたまえ。世の中の人にはこれは裁きになるかもしれませんが、私たちほんとうに生まれ変わりの経験を持っている神の命が与えられキリストの十字架の血潮によってきよめの信仰に、そして憐れみの故にその中にある者たちにとっては、恵みのときで待ち望んでいる日なのです。14節
14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
 
そうです。きよめという問題が神学のただ好奇心といったらいいのか、ただそれだけの問題として理解されているうちはそれは幼い段階です。ほんとうにこのきよい神さまの前にわたしは立たなければならないということが分かったときに、主よあなたにそむくような性質をまだ持っているわたしのこの罪をどうぞきよめてくださいとは、真実なわたしの願い、祈りになるのです。ペテロはそれを言っているのです。どうかしみもきずも無いものとして血潮によって備えられて主の前に出られるように励みなさい。いまペテロの言葉を言いました。ではパウロは何と言っているのか、締めくくりに見てみましょう。第一テサロニケ5章23、24節です。
23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

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きょうのことばー『御前に立つ備え』ーその2

※前ページからの続きです。

 この度の大震災で、これまで平凡な日常というものがそこからまったく一転してしまった、こういうことがある、そういう瞬間というものがあるのだと私たちは体験しました。日常生活が、突然変えられてしまう。特異点というのでしょうか。わたしたち全員がそこを通りました。これをクリスチャンとしてどのように位置づけたらいいのか。世の中では、それぞれの立場で論じて復興に向かおうとしています。それはそれで尊い事ですが、クリスチャンとしてこの特異点というものをどういうように迎え同化し越えていくべきなのか。世の中の人たちは恐らく触れないであろう神さまというお方を中心に据えて、このお方とともに特異点を受けとめることが今私たちの為すべき事であろうと思われます。
 それが今日おひらきしましたペテロの第二の手紙でございます。大使徒の中でも第一に名前があげられるあのペテロで、彼が遺しました最期の手紙です。彼がもしも今の時代に私たちの前に現れたとするなら、恐らくこの3章に書いてある事を私たちに示し、クリスチャンとしてこの特異点をどうかこのように受けとめ、こういうように乗り越えていきなさいと語るに違いありません。
 ペテロは悪名高いローマの皇帝ネロの時代に生き、殉教しています。ローマは当時の世界の中心でしたが、暴君ネロの時代にローマが大火に遭ったのですが、これがまだ当時よく知られていなかったクリスチャンの扇動によるとされ、クリスチャンが大迫害を受けました。伝説によると、ペテロも逆さ十字架刑となりました。それはペテロが自ら選んだもので、我が主と同じような十字架はこのような者には勿体ないという思いから逆さ磔となったといいますが、いずれにせよ彼はその時代にまさに殉教し、そのときはある意味でいま私たちが直面している特異点、色々な時代によってこの特異点は異なるでしょうが一つの特異点ということではまったく共通しているところを彼は通ったわけでございます。そして彼の最期私たちに遺した言葉がこれなのです。

1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。

 迫害がある。しかしどうか純真な信仰を持ち続けてもらいたい。心を鼓舞して貰いたい。

2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
 聖なる預言者たちによって語られた御言葉というのは明らかに旧約聖書のことを意味しています。そこに前もって語られている「末の世」というのがいったいどういうことなのか、それからあなた方の使徒たちが語った「主であり救い主である方の命令」というのは何かというと、3章の15、16節
15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
 
難解なところがあるけれども、どうかそれをしっかりと心に留めておいてもらいたい、今はまさに特異点を通っているのだとペテロはいうわけです。そして先取りをしてしまうようですが、8節を見ると
8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
 このときにペテロが言っている終末というのは確かにネロの時代の特異点、私たちから見るとこれはもう2千年前のことであって今の特異点とどう違うのかという人間的にみればそういう思いが湧いてくるのでしょうが、ペテロは言うのです。主の前では一日は千年のようであり、千年は一日のようなものであると。つまりこのところで聖書は予言し世の終わりというものが何であるのかを言っているときに、私たちから見てもこれはもう2千年前の古くさいカビの生えたような書物が言っていることじゃないかという意味とはまったく違う。これはまさに今日的な意味のある私たちが受けるべき言葉であって、3節
3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 あざける者、あざけって欲望に従って生活をする、つまり、神さまというお方をすこしも計算に入れない行き方をする、その人達が信仰を持ち敬虔に生きようとする者をあざけって「あんたたち、キリストが再臨すると言ってるけど、神さまはこの地上に介在するなどと言うことがあるもんか。父祖達が眠ってからこの方、創造の始めから何も変わってないじゃないか」と言い張っている。欄外の別訳を見ますと、「言い張っている」を別訳で彼らは次のことを「故意に忘れようとしている」。自分に都合の悪いことを見ないように、故意に神さまなんか裁きなんかあるもんか。こころのなかで恐れてはいるのです。ノアの洪水のこと、でも彼らは意識して、都合の悪いことに目を瞑って神さまなんか私たちには関係ない、こういう生き方をする人たちがこの末の時代に来る。5節
5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
 
このことを彼らは敢て話題にしたくない。しかしペテロは言います。
7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
 この5節から7節までの部分がいま私たちがしっかりと今の時代に心に留めておくべきものであります。特に5節の「言い張る彼ら」。彼らは自分に都合の悪いことは目を瞑ってしまう。ヨハネ伝3章16節
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 この真理があります。ところが信じない者は、18、19節を見ますと、すでに裁かれている。その裁きというのは19節にあります光が世に来ているのに人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったから悪いことをする者は光をにくんでその行いが明るみに出されることを恐れて光の方に来ない。それ自体がもう裁きなのだとヨハネが言っている。ペテロの手紙にある「こう言い張る彼ら」を別の表現をしているわけです。
                     ーつづくー

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きょうのことばー『御前に立つ備え』ーその1

 きょうは大震災前に亡くなった叔父の法事、納骨があり、わたしは教会を欠席。昨日のうちにひろ子牧師にお願いして私のICレコーダーにきょうの礼拝の説教を録音していただきました。今回も2回に分けて起こすことといたします。
 きょうはほんとうによく晴れ暖かい一日となりました。この日は実は教会のある方のお誕生日なのです。しかしこのところ個人情報が厳しく管理される風潮にありますので、いったいどなたのお誕生日かはここには書きません。
 
 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)の國光牧師のメッセージは

説教題 『御前に立つ備え』
聖書箇所 第二ペテロ3:1~18 

1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
17 愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。
18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

 ※メッセージは明日となります。お詫びいたします。
  (1時間半の作業で起こした分が誤操作により削除されてしまいました)

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ドイツ・オルガン・ミサ曲を聴く

  ドイツ・オルガン・ミサ曲を聴きながら書いている。解説書の表紙をスキャナにかけたが、うまく出なかった。代わりになるかどうかはわからないが、急遽草花の写真をアップ。きょうは終日小雨。天気に恵まれた6日に撮ったものだ。
 ドイツ・オルガン・ミサ曲。ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲。
 オルガン鈴木雅明。バッハ・コレギウム・ジャパン合唱団

 とにかくドイツ・ミサ曲を聴きたいと取り出した一枚だ。ミサ曲を聴いていつも思うのは、松明が自分の内側を照らして巡りあるくのだ。きょうはそれに加えて、砥石が道具であるかに自分を研ぎあるいている、そんなふうに感じた。まるで内側に吹き出した錆をこすられ、不必要に突出した角を研がれていくような感覚だ。聴きおえたときにはすっきりとした静けさが満ち、どこかが強められている。

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 この盤は、オルガンと合唱が一度に楽しめるという一枚で、これは初の試みであるようだ。
 録音2000年。東京芸術大学奏楽堂ホール。(株)キングインターナショナル発売

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詩 「逃げでけろ」

逃げでけろ
すぐに逃げでけろ
化け物よんた波さ捕まるな
逃げでけろ
どこまでも逃げでけろ
狂ったよんた波に引っ掻がれるな
海が呆れけって
尻尾まいで引ぎあげるまで
どったなごどぁあっても
振りかえらねんで
いのぢ担いで逃げでけろ

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昨夜11時頃、盛岡震度5

 昨夜は10時半ごろに就寝。ところが夜中11時半頃に揺れ始めしだいにぐらぐらするので外に走りでて揺れが静まるのを待ちました。もう大きくはこないだろう、きても震度4ぐらいかと半ば安心していたところに、また注意を喚起するかに揺れました。停電となりこれは2、3日続くかと思っておりましたところ昼頃に回復。ほっとしました。
 買いだめ自粛にならっていたところ食料が尽きかけていましたが、停電にも拘わらず店を開けてくれていたお店で食料を買いました。
 しかし沿岸では震度6。11日の恐怖がまざまざと甦るであろうことを思うと、やはり手放しでは喜べませんでした。
 あとで携帯を見ると、緊急地震速報が入っていました。手元に置く習慣がないので今回の速報を知らずに寝込んでいたわけです。充電も切れかけていました。携帯がなくたってと思ってきたのですが、やはりこれはできるだけ手元に置く習慣をつけなければなりません。こういうときには命さえ救ってくれるものであると再認識したのでした。

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天沼三津子 七宝に遊ぶ展 ー2011/4/16(土)~30(土)喫茶ママ

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 毎回楽しみにしておられる方々がたくさんいらっしゃいますので、今回もアップさせていただきました。
 天沼三津子さんの七宝ジュエリーの展示会です。春うらら。一杯のコーヒーを飲みながら展示品をご覧になるのも悪くはないのでは。

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被災された方々、また関係者の方々に

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 東北の被災地に多くの方々が心を寄せてくださっていますが、長野県のaostaさんもそのお一人です。ブログ「消えがてのうた」に長野県の原村のペンション・ヴィレッジでの被災者の受け入れについて、またきょうは写真や温かいことばを書いてくださっています。是非クリックしてみてください。またaostaさんのご主人Papalin氏はちょっと変わったリコーダー奏者。交響曲までを多重録音し公開している音楽家です。

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チャリティー・コンサートー松田晃氏・大船わたる氏ー

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 松田晃先生のチャリティ・コンサート当日、何とか行きたく思いつつも、取り込みが3つほどあり参上しかねた。他の情報を得てはいないが、盛岡でのチャリティーコンサートとしては皮切りとなったのではないか。どのようなようすであったか気になっていたが、主人が「今朝岩手日報に載ってたよ」といったところで慌てて広げ切り取ってアップしました。
 ほんとうに身近なところからの情報のみですが、こういったことは共感するところが大きいのでここにもご紹介申し上げます。

 またTVを滅多に見ることがないので、この記事を読むまでは存じ上げませんでしたが、大船渡出身の演歌歌手・作曲家である大船わたる氏が13箇所を回ってチャリティーをなさったという記事が出ておりました。

 山形交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団も既に乗り出したようです。

 スポーツ界の方々も次つぎに現地入りし励ましておられるようすをニュースで見ました。

 原発問題が深刻化するなかで、まだまだこの国も捨てたもんじゃないさと思わせられるのは、今はこのように被災地のために立ち上がる方々を見るときです。原発、私も大量に電力を供給するには原発は必要だと思っていた時期があり、いまになって庶民の一人として反対しなかった責任というものも覚え、すみませんと自分のどこかが萎縮するのを感じています。これがずっと反対し続けて来られた方々もあります。その奥様から「ロッカショ」を知らされてからは、原発の怖さを認識させられたのですが、それ以前は原発は必要と思っていたわけでした。これほどの事態がこの国で起るとは!!

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被災地に神の光

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  抜けるような空の青さ。きょうインマヌエル盛岡キリスト教会の牧師夫妻は、心と援助物資を積んで山田方面に出かけた。教会のみなさんが被災地に向けて供出くださった品々。この一枚が、この一つ がどなたかのお役に立つことができるなら、そんな気持がこめられている。
 宮古コミュニーティーチャーチの岩塚牧師も先週まで連日避難所を訪れ、関係者の支援、片付けなどに当たっていたという。宮古市居住時代にお世話になった先生だ。
 またきょうの岩手日報の朝刊で被災地にある教会が礼拝の壇を変わらずに築いている記事が目に入ったときには感動した。教会の名を見ると新生釜石教会だった。柳谷牧師。何があろうともその中には神の光がある。これはほんとうのことだ。累々とうち続く災禍のあとになぜ? 不思議なことだが真理だ。

 自分は心がきよいものであるとは言わない。ただイエス・キリストの血によって洗われることによってのみ赦されているもの、ただそれだけだと思っている。しかしわたしがこれはほんとうにほんとうだと思っていることは、心のきよくないものには神がわからない。わたしはこれは真理だと思っている。聖書のいっているこのことに、私は「何が!」とおもったこともあったのだ。とんでもないことだが、そんなことは詭弁だと思っていたのだ。しかしこれは詭弁ではない。いまのこの時代に「きよい」だなんて。なにそれ? 時代錯誤じゃないの? しかし心がきよくなければ神はわからない。これはほんとうのことだ。

 ちょっと脱線してしまったかもしれないが、神の光ということから、つい生意気に書いてしまった。私がいうのは生意気で赦せない方々もあるかもしれないが、これはやはり真理だという以外にはない。

 それはそれとして、いま被災地に何人の方々が入っておられるか、またこれまで入られたかまで見てはいないけれども、ほんとうに多くの方々が現地で救援のために誠心誠意注ぎ込んでおられる。

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きょうのことばー『神はわたしたちとともにおられる』その2

※前ページからのつづきとなっております。

聖書引証 詩篇18:1~3

1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
2 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
3 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。


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 きょうの礼拝の御言葉を準備しようとするときに、やはりこの大地震のときにも震われないもの、しっかりとした人生の土台はということにみなさまも思いを深くしておられることでしょう。
 ことし高校を卒業して新しく踏み出される3人の兄弟がたそれぞれに神さまの導きが豊かでありますように、記念品として板に「巌」と焼文字を印した壁掛けを贈りたいと思っております。詩篇18:2にございます「巌」の一文字です。この巌という字は岩手、盛岡の方々ならもう一つ岩手山の別名である巌鷲山が思い浮かぶでしょう。まもなく雪の鷲形が現れます。これが田植え時となっています。私のような松本出身の者には常念岳が心のふるさとの山ですが、おそらく盛岡で育った方々は岩手山がやはり心の山でしょう。ですのでこの「巌」という一文字は、その方がどこにいたとしても、ああふるさと岩手山だなと思い出すとともに、この詩篇18篇の2節「主はわが巌」これを思いおこしていただきたいという願いを持っているのであります。

 この3月11日が私たち一人ひとりにとって生涯忘れることのできない日になりました。大きな地震と沿岸地方を容赦なく襲った津波。自然の猛威のまえに、人間の依り頼んでいたものが何と儚く一瞬のうちにのみ込まれ灰燼に帰してしまうかを、私たちは嫌という程目の当たりにしました。しかし私たちには「
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」があるのです。決して揺るぐことのない巌なるお方をこの3人の高校を卒業された方々に送るというだけでなくして、その方々とともに、そうだ私の人生の土台はどんなことがあっても揺るぐことのないあの巌なるお方、しっかりとこの巌なるお方の上に土台を据えて歩むことなのだ。このことにしっかりと心を留めたいものです。
 この難しいほうの巌は、ごつごつした大地にしっかり根を生やしたかに存在する岩というイメージがあります。これは神さまがそうであるということは具体的には別の表現を使えば何をもってそういうことができるんだろうか。一つは、神さまのお約束は変わらないという意味で、主はわが巌ということができるのではないでしょうか。主の約束の不変。神さまが語られたことは決して変わらない。だから主は「巌」なのです。

 新約聖書マタイの福音書24章35節。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。
これはイエスさまの御言葉です。
 マタイ24章はイエスさまがこの世の終末、締めくくりについて語っておられます。ある意味で特異な箇所です。この24章の1節
1 イエスが宮を(いよいよ十字架を直前にしておられるときエルサレムの神殿を背後にして振り返り)出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物(ヘロデのつくっている神殿、たぶん夕陽に絢爛と輝いて存在を示していた、ある意味で揺るがないそういうものに見えたのではないでしょうか)をさし示した。
2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。
 弟子たちがいつまでも続くと思っていたものをイエスさまはこの石がきもぜんぶ崩れ去ると言ったのです。弟子たちはそんなrとんでもない、そんなことがいつあるのですかお話ください、世の終わりにはどんな前兆があるのでしょうか。
 いまこのようなことを言うと背筋が寒くなるでしょうが、大地震があったときが金曜日で、わたしはその前の水曜日にこの箇所を開き説教をしたのでしたが。次のようなことが書かれてあります。
5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります


 この終わりのとき、みなさん弟子たちが誇り高く振り返っていたその神殿が、崩されていまただ一つ残っているのは嘆きの壁といわれている部分でユダヤ人たちがエルサレムで祈っているところの石がきです。でもそれさえも一つの予兆であって、ほんとうにイエスさまがおいでになるとき、私たちほんとうに落ち着いて私たちがしなければならないのですが、いまのマタイ24:32~
 
32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。

 聖書のほかの預言を見ますと、いにしえ神さまは水においてこの世界を滅ぼしなさった。みなさんご存じの通りの洪水のことです。だけれども世の中の一たちはそれに敢て目を閉じて、神さまが森羅万象をお造りになってからこの方何一つ変わってないじゃないか、しかしそう言い張る彼らはこの地が神の言葉によって水によって滅びることを忘れている。しかし神さまはこのような火によって滅ぼされることを預言している。わたしはむやみに恐怖心を煽ろうとして言うのではありません。しかし少なくとも聖書に目が開かれている者たちとして、敢てこの事実に触れないわけにはいかない。だからこそ一層心をしっかりともって、いまの福島の原発の問題もわたしはこれはプロローグに過ぎないと思うのです。これがどういう解決を見るにせよ、これはプロローグです。黙示録を見るとき、どんなことが、火によって焼かれるために神さまがこの世を保っておられるということが何を意味するのか、私たちはほんとうにその前に示威解き明かすような、そしておそらく悪魔もこのようなことを知っているでしょうから人々の恐怖を煽りたてて終末が近いぞと人々の恐怖心を煽り誤った方向に行ってしまう、そういうことが間もなく或いは既に起きているのかもしれない、それぐらいいま危険な時代だというように思います。そのときに何が土台であるのかということなのです。そのときにいちばん信仰が問われるのはそれなんです。終末の恐怖心に不安に駆られて間違った方向に突き進むならこの世の神がほくそ笑むでしょう。しかしこのときにわたしは聖書に言っているインマヌエルで良かったと思うのです。これは自画自賛で言っているのではありません。あの蔦田二雄先生が太平洋戦争という、またあのリバイバルを経験しながらそのときに教会の大きな分裂も経験しながら、そして戦後色々な人たちが聖書に立脚して群れをつくっていくなかにあって、あの先生が、徹底的に福音とは何かを、主の再臨が近い、イスラエルのためにさあみんなで祈ろうといって、さあ終末、イスラエルの救いというように行ってしまった中田監督派の行き方。そうではない。福音というのはその中心は「我聖なれば汝等も聖なるべし」、神さまは罪人である私たちをイエスさまの十字架の贖いによって罪の中から救い出してくださって、ただそればかりではなく、神の前に立つことができるきよい者として私たちにまったき愛の満たし、聖霊の満たしを与えてくださる、それはまさに神のきよき、そしてそこに見るところの健全な神学的なバランス。聖書は神癒ということも勿論教えているし私たちが気をつけねばならないのは、聖書の言っていることがらに対して、それを極端に否定したり批判したりするのではない、そのこともしっかりと心に留めながら、神さまの恵みということを真理をうけるのですが、再臨ということも世の終末ということもしっかりと受けとめますけれども、その聖書の間違いなく主張しているところの真理のどこにポイントを調和を保つかといったときに、ホーリネスそしてそこから来る人格的なバランス、これこそ福音なのだといって試されて試されて試されて、神われらとともにいます。これ我にとりて最もよき事なり、というここにしっかりとポイントを置いて旗を掲げていった、これだなあと思ったのです。
 始めから聖書から脱線しようと異端ができてきているのではありません。聖書の真理、自分たちこそと思って進んでいくんです。そのときに、何が聖書の言っているいちばんの根本なのかということ。イエス・キリストの御言葉に聖書。
 もう一つヘブルの13:7、8をお読みしてしめくくりましょう。
7 神のみことばをあなたがたに離した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

 変わりたもうことなし。
詩篇18:2
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
 お祈りいたしましょう。

※ICレコーダーに基づいて起こしていますが、それでも若干聞き違いなどある場合があります。ご容赦ください。文責:中ぶんな 

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きょうのことばー『神はわたしたちとともにおられる』その1

 先週はわたしが教会をお休みしましたので、メッセージをお届けできませんでした。大震災からはやくも20日あまりも経過。教会のみなさまがたとともに讃美歌を歌い、心の建てあげ、教会に行かないでいるあいだに入ったヒビを埋め、心の塵や埃を払うために、そして何らかのインスピレーションをいただくために、教会のメッセージを聞くことはわたしにとってはやはり大事なこととなっています。

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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-622-6304)國光牧師の説教は

 

説教題 『神はわたしたちとともにおられる』
聖書引証 詩篇18:1~3
1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
2
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
3 ほめたたえられる方、この
主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

 今週の月曜日は、今年は年会が開かれなかったので、その代わりの教団の報告と新しい年度への踏み出しのための会議が開かれました。いつもですと本部のお茶の水11時に会議がありますとき私は7時半の新幹線に乗り東京駅に9時51分着。それからお茶の水の本部に10時3分か4分ごろに着、そこで会議のための最終的なチェックをして11時から臨む。4時までの会議なら、帰りは5時56分東京発の新幹線に乗り盛岡着20時22分。21時には食卓に着くというパターンがこの数年来続いていたのですが、流石に今回ばかりはそうは行かず、2泊3日になりました。11時の会議となりますとバスもうまく行きませんし、
先週の日曜日の午後ですが秋田に出ました。混み具合がどうなっているのか、こういうとき、溢れるほどなのかガラ空きなのか、これは後者のほうでした。「こまち」で秋田駅に着き羽越本線に乗り換える改札口に出ましたら秋田県の県庁の方々が机を縦列にして「罹災された方々はこちらのほうに」という案内をしています。たぶん慣れない秋田でどう乗り換えたらいいのかどういう道があるのかを職員の方がお世話をしてるのでしょう。それを見ながら、ああ確かにいまは違う、第一あらゆるところの照明が暗くなっています。そんなことでした。乗り換えまでにちょっと時間があり、羽越の方は指定席が取れていたので、駅弁などを買えるのか気になりました。秋田の方は旅人が見た限りは駅のほうにさまざまなお店が開いてやってましたので、食べ物が無くなって買えないということはなかったでしょう。新潟もそうでした。夜の10時半ごろに東京駅に着き、雪が谷の伝道所に11時半まえには着きました。翌日会議に出ましたが月曜日の朝7時半に東京で緊急地震速報が出、家に直ぐ電話するといま押さえているところだと言うことでした。教会の二階はやっぱり揺れるんですね。ちょっと心配でした。そんなことも経験しながら11時からの会議、そして翌日も予定通り、列車の旅はそれほど混んではいなかったという印象を持ちましたが行ってまいりました。帰って感じましたことまたお祈りしなければならないことは、一つは東北の沿岸の被災、全国的に大きく報道されていることですけれども、それと郡山の先生も出席しておられましたが、原発の問題、郡山の地震の影響もそれなりに大きなものがありました。それに加えての原発問題。福島もそうです。そのことのためにお祈りしなければならない思いを深く持ちました。それからここに出席するためにできるだけアップデイトな情報をと土曜日に仙台教会にお電話したのですが、「近くまではガスが来ているが、まだ駄目なんです」ということでした。それから会員の方々が沿岸の方にたくさん居られて非常に危ういところを守られながらいらっしゃる。しかし会員の関係者には被害に遭われた方々が少なからずいらっしゃるということも聞きました。特に被害に遭われた教会のことを覚えてわたしたちお祈りをお捧げしたいと願っております。是非お祈りください。
 またこれは電話だけの情報ですが、インマヌエルの群れ以外にも、宮城県というとたくさんの教会が仙台を拠点にあるいは沿岸の方にもありまして、その中には教会全体が失われて他のところで集会を持っている教会もあります。これは電話があって知ったことですが、そういうことも心に留めたいと思います。またきょうのこの礼拝の御言葉をというときに、やはり、この大きな地震ということが、みなさんもそうでしょう。どのようなときにも震われないものかということで、人生の土台、巌ということにきっと皆さんも思いを深くしておられるのではないかというように思います。

                      ーつづくー

※長くなりますので分けて書かせていただきます。

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主の祈り

  きのう病院に行くと、自衛隊のジープが横付けにされていた。自衛隊員の方が3人その前で指示のやり取りをしている。夕方のニュースで、盛岡市にある病院で自衛隊の方が亡くなったことを知った。新聞には病死と出ていたが。捜索の自衛隊、警察、消防の方々の疲労も極限に達しているだろう。
 このご近所に住まいがあり沿岸に勤務されていた方が亡くなられたと今朝知った。いつか夕陽がきれいだと共感くださった方だ。そしてもう一人の方が津波にさらわれたという情報が。どちらも顔を存じ上げているので悲しみがこみ上げてきた。一週間ばかり前に亡くなった小姑さんの夫の身内の火葬がやっときょう行われた。火葬の空きが無かったという。午後にはお葬式だった。岩手の内陸にいて、これだけ身近に犠牲者を知らされ、影響を目の当たりにしている。
 きょうの病院は土曜日ということもあり、見舞いの人々が多かった。通常はエレベーターが三基動いているが、震災以来一基のみ稼働。一階で乗れない方が2、3人出た。九階から降りてくるときには、各階に4、5人待っており、定員オーバーのためほとんど通過。普段なら物音一つせず冷たい空気が籠もっている階段が話し声や足音で賑やかだった。

 きょうは松田晃先生のチャリティーコンサートのある日だったが、それやこれやで残念ながら行きかねてしまった。

 祈ることは天に電話をかけることと似ているような気もします。必ず聞いていてくださる。

  聖書は分厚くてどこからどう読んだらいいのか戸惑ってしまいます。しかしお祈りをするときにはこう祈りなさいとちゃんと書いてあるので大助かりです。

     主の祈り

天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン

 何をどう祈ったらよいかわからないときは、こう申し上げればかたるべきことは全部この中に入っているというのですから、これはマスターキーみたいなものでもあるかもしれません。

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重篤を脱出

 家族の病状は重篤を脱した。
きょうの揺れ具合、これはエイプリルフールのジョークではない。近頃はきつい冗談が多いけれども冗談でもない。新年度のスタートに震度5強とは!
 なあぜかはわからないけれども、いま置かれているところで、自分に預けられている仕事を精一杯こなしていよう。
 疲れています。新年度のはじめから疲れました。しかしこれは良いことです。怠けませんでした。アレルギーがいよいよ毎年のパターンに。鼻水が止まりません。なるべく点鼻薬を使わずにいたいのですがどうなるか。
 福寿草のとなりには黄色いクロッカスが咲きました。水仙の芽も、チョーリップの芽もからりと出揃いました。花粉とともにこんな花々も咲いてくれている。
 いま誰もが被災地に心を寄せていますが、またこれ以上のことが起らないようにと誰もが願っていますが、わたしも祈ってからきょうを閉じようと思います。

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