きょうのことばー『回復の希望なる復活』 イースター講壇ーその2
※前ページからのつづきとなっております。國光勝美牧師のメッセージを掲載しております。
きょう取上げたルカ伝24章は、イエスさまのお弟子さんたちが、イエスさまがエルサレムという町で十字架に架けられた悲惨な現実に圧倒され意気消沈して、エルサレムの町をあとにしエマオという村に落ちていくその途中の出来事が書かれています。お弟子さんたちは、十字架が預言の成就、救いの成就であることを知っている。また仲間の女性たちが日曜の朝イエスさまが復活されて空虚になった墓を見たことも聞かされている。それでも失望落胆しエマオの道を辿る弟子たち。十字架と復活を事実として受け入れてはいるものの、なかなか実感が伴わなかったのでしょう。
私は3・11の被災をとおったあとに、このお弟子さんたちの気持がわかってきました。
現地に行かれた方はきっと頷かれると思うのですが、あの惨状を見たとき、事実として認識することが難しいのです。難しいというより、実感が伴わないのです。本当のことだと言い聞かせていても納得ができない。現実と認識することにぴしっと一致しない歯がゆさとも違うあの感覚。これにお弟子さんたちの出来事が重なるような気がするのです。このお方こそ救い主だと間際まで信じていた、ところが、何とも酷い十字架を目の当たりに。そればかりかイエスさまを十字架に追いやったあの輩が、こんどは自分たちを捕縛するかもしれない。もうエルサレムにいるのは危険でした。日曜日の朝ですけれども、彼らは一刻も早くと危険を逃れエマオに落ち延びようとした。
そのエマオの途上でよみがえられたイエスさまが「その話は何のことですか」と彼らに話しかけられる。そうです。彼らは十字架のこともよみがえりのことも知って話しているのですがあまりの衝撃に実感が伴ってこない。どうこの現実捉えるべきか。事実を否定できないけれども、これとどう向き合って、どう受けとめて自分の中に消化していったらいいのかわからない。私たち3・11をとおった者たちには、このような感覚がわかります。
イエスさまはよみがえられたと知りつつも、自分たちに近づいてきた人物がまだイエスさまだとは認識できず、不思議な人物と見えていました。彼らは不思議な人物にエルサレムで起った十字架の出来事をつぶさに語ったのでした。不謹慎ではないとおもいますが、もし私たちがあの大津波の被害を訊かれたなら、きっと饒舌なほどに語るでしょう。実はこうでね、ああでね、こんなことだったんだ等々と。恐らくこの2人のお弟子さんたちも、どんなことなの? と訊かれたときには事の顛末をそのように話したでしょう。
しかし、どうでしょうか、ルカの25~27節をみますと、
25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。
それまではお弟子さんたちが饒舌なまでにエルサレムの出来事を話していたのですが、こんどはその不思議なお方が、聖書の中からその意味するところを一つ一つ解き明かされたのでした。彼らは夢中になって、なるほど、なるほど、こういうことだったのかと聞き入ったことでしょう。エマオに着くころにはもう夕方になっていました。是非もっと私たちに話してください。そして29、30節、
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
もう彼らにはイエスさまが見えなくなってもいいのです。心の目がひらかれたのですから。彼らはほんとうによみがえられたお方を確かに心の目で確認することができたのです。32~34節、
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
私はきょうこのところで、3つのポイントを押さえておきたい。一つは、このキリストの復活は事実であったことです。荒唐無稽なつくりばなしではない。信じられないようなことですが事実だったのです。もしこのキリストの復活が空虚なつくり話かおとぎ話であったなら、真理だと信じているクリスチャンたちは世の中でいちばん愚かで哀れな存在です。しかし事実キリストは復活しました。これを確信するからこそ、この2人のお弟子さんも含め他の弟子たちは殉教しています。ヨハネだけは百歳を越えて最後まで生きた証人でありました。彼らは命を賭してキリストの復活の証人として生涯を全ういたしました。もしこれがつくり話であるとしたならば、キリストを十字架につけたローマ政府はこれを根拠のない戯言として葬りさることができたはずです。しかしそのローマにしてキリストの復活という事実を否定することはできなかった。福音が否定できない事実であることを捉えましょう。あのエマオ途上のお弟子さんたちがその事実を目の当たりにしながらも実感として捉えることができなかった。その彼らの姿はまさに私たちと同じようなものです。しかしどうぞこれが事実であることをしっかりと捉えましょう。
そして、2つ目はこの復活が聖書の預言のとおりであったということ。それはイエスさまがルカ伝24章27節にありますように、イエスさまご自身が「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた」とあります。きょうの聖書交読は詩篇16篇でしたがその中にも
10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
とあるのは、これはまさにイエスさまの復活の事実を表わしている預言の言葉であります。イエスさまの受難も、三日後に墓からよみがえられることも預言されております。聖書にはイエスさまの復活という出来事が一つ一つ解き明かされているのです。そうです。私たちがこの事実を目の前にしても信じることができない、まさに今はやりの言葉で言えば、うっそー、と言いたくなるような出来事を、彼らが受けとめることができたのは、彼らに聖書が開かれたからなんです。私たちは聖書をとおして頷き得心する者たちであります。いまルカ伝をひらいていますが、たとえば第一コリント15章3、4節
3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
「聖書の示すとおりに」、甦りのイエスさまは、エマオ途上のお弟子さんたちに、ご自分について聖書全体の中で記されていることを解き明かしてくださった。そうです。私たちがイエスさまの復活ということを心の目で捉えることができるのは聖書に目が開かれるときなのです。
ルカの福音書にあるはなしです。ラザロという世の中的に報いられることのない貧しい男がおりました。金持ちの家の前で乞食をせざるをえなかった。しかしラザロは死んで御使いたちに携え上げられてアブラハムのふところに行きました。片や金持ちの方は死んでから火の苦しみにあいました。これはイエスさまのお話したことです。ハデスで苦しみながら上の方を見ると、ラザロがアブラハムのふところで安らかにいる。金持ちは、「どうかラザロを遣わして水をもってこさせてくれ」と懇願します。しかし大きな淵があって、こちらからそちら、そちらからこちらに行くことができない。そこで金持ちがいうのです。「私には地上にまだ親族がいます。どうぞその者たちがこの苦しみに来ないようにしてください」。そのときに答がありました。「彼らには聖書が与えられている。よみがえった者が、地獄はこんなところだから来ないようにといったところで、聖書を信じないものは受け入れられない」。イエスさまはこのような話をなさいました。それほどまでに、死人がよみがえって、こういうところがある、裁きがあると警告したところで、彼が聖書に目がひらかれないならば、それを受け入れることができない。それほどのことなのです。聖書に目がひらかれるか、聖書に目がひらかれないかには決定的な違いがあることを、私たちはこの場面で知ることができるように思います。
さて3つのポイントと言いましたが、一つめは事実であるということ、2つめは聖書の預言のとおりであったということ、そして最後の3つ目は、このキリストの復活というものは、私の心の中の事実としてあるということです。そうでなければ復活の意味はありません。復活はいま私たちに生ける希望として与えられている。それはルカ伝24章32節にあるように、「心のうちに燃えているもの」「うちに燃えるもの」であり、ほんとうにそうだ、キリストは復活をされたんだと心から頷くことができ、私たちに生ける希望が与えられるものであります。
ペテロ第一の1章21節を心をこめて、アーメンとの思いをもってご一緒にお読みしましょう。
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
そうです。私たちの希望は神さまにあるのです。
いまACジャパン(旧公共広告機構)が東日本大震災の被災者激励にさまざまな言葉を流していますが、聖書がいっている希望がある、力が湧くというのは、このようなCMの言葉とは比較にはなりません。根本的に違うのです。こうあったらいいなあ、とか、そうありたい、というような決意表明などでもない、実際にこうであるという事実なんです。ほんとうの希望がある、だから頑張れるのです。ここに確信があるのです。世の中の人たちがどんなに真面目に一生懸命に善意でやって頑張ろうといっているものとは根本的に違う。全然違う。キリストはよみがえられたのです!! そのお方を信じているからこそ私たちは頑張ることができるのです。違いますか? そうでしょう。だから頑張ることができる、だから希望を持つことができるのです。
いま日本の福音派のなかで活躍しておられる、小川国光という先生がおられます。その方の著作を読んで考えさせられたことがありました。インドネシアで福音のために労しておられたときに、奥さんが出産をされた。ところが与えられた赤ちゃんが24時間後に天に召されました。死因は書いてありませんでした。生後僅か一日で召されたのです。小川先生はこう仰っています。「でも私たち夫婦はよみがえりのときにあの天国で(子どもに)あえることを確信しているのです」。こういっていまも福音に仕え、よい働きをしておられます。どうでしょうか。私たちの希望は神にかかっている。わたしたちの希望はほんとうに死んでよみがえってくださったお方、この神さまに希望を置いているのだということを心に留めようではありませんか。ご一緒にペテロ第一の手紙の1章21節をお読みし、きょうのメッセージを締め括らせていただきます。
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
※短く編集するために割愛した部分がございます。文責:中ぶんな
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