« 東日本大震災チャリティーコンサートー松田晃歌曲リサイタルXVー2011/4/2(土)14:30開演・岩手県民会館中ホール | トップページ | 停電じゃなくたって »

きょうのことばー『神はその真中にいまし』ー大震災祷告礼拝ー

20101018_001      

 被災された方々への慟哭のおもいをもって、インマヌエル盛岡キリスト教会(電話019ー646ー2924)國光勝美牧師のきょうの説教をIここに掲載させていただきます。


説教 『神はその真中にいまし』
聖書引証 詩篇46:1~11

指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。歌
1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
8 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ


 詩篇の46篇。これは宗教改革の詩篇とも呼ばれ、そして多くの方々から親しまれている詩篇の一つでございます。5節に「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」とございます。
 この詩篇が詠われた背景は、都エルサレムが、アッシリヤのセナケリブという軍隊に包囲され、エルサレムがまさに風前の灯となったとき、神さまの奇跡的な御助けがあり、朝起きてみるとセナケリブの軍隊は死体が累々と横たわっており、神の都エルサレムは敵の攻撃から免れたという、恐らくそれが歴史的な背景になっていると見ることができます。 
 人間的に見て絶望的なときにも神は都の真ん中におられる。同じように、これを今の私たちにあてはめることができると存じます。神はいま私たちの真ん中におられる。このことを決して忘れてはならない。神は我らとともにあってくださる。これは言葉ではない、単なることばではない事実です。どのような絶望的な環境の中に叩き込まれたとしても、その真中に神はおられる。天に座するお方がおられる。わたしはこの震災の中を通りながら、しきりと天に座するお方という言葉或いは思想といったらいいのでしょうか、この御言葉に大きな力を頂きました。それをこの46篇の「神はその真中にいます」に合わせて、天に座するお方ということを私は3つのポイントで短くお話を致したいと思っております。

 まず第一番目に、天の見座に座しておられるお方がおられる、どのような中を通りましても、天のみくらに座したもうお方がおられるのです。このことを私たちは決して忘れてはなりません。主が嵐を起こされる。主が波を静められる。すぐる聖日詩篇107篇を開いたときに、主が嵐を起こされ主が波を静められた。この苦しみの時主に向かって叫ぶと主は彼らをその望むところの港に導かれたというように、「主が」という言葉をポイントとして語らせていただいたまさにそれです。天に座するお方がおられるのです。一羽の雀が落ちることも天に座しておられる方のお許しなしにはないということを御言葉は示しております。徒に神を知らざる方々が混乱しうろたえている中に、私たち何が違うのか。天に座しておられるお方がおられるということです。このことを先ずしっかりと心に留めようではありませんか。
 そして弟2番目に、私たちは天に座するこのお方に祈ることができるということです。すべてのものが相対的であり、すべてのものが揺らいでしまうとき、決して揺るがないお方に目をあげてお祈りすることのできるそれが私たちであります。
 私も正直に告白いたしますと、ヘブルの書などで、クリスチャンは王なる祭司であるとあります。言葉としては理解できたつもりなのですが、また違った意味あいに於いて、私たちは天に座するお方を知っているものとして、それは祈ることができる特権であるとともに祈らねばならない使命を持っている。つまり、祭司としての使命をもっているのが私たちクリスチャンなのではないでしょうか。
 私が信仰を持ちまして間もなく、丸の内教会で養いを受けておりました。そこでは毎週、為政者たちのために祈りが献げられておりました。救われて間もない私はそのような祈りが献げられている中に身を置いていましたけれども、その意味するところがどれほどのものであるかには思いが至りませんでした。しかし今考えてみるとき、教会の祈りというものには、これは主を知っているものたちには責任がある。為政者のために祈る、国のために祈る、いままさに国難といわれる大災害、そして福島の原発に苦しんでいるそのことのために教会は黙っていてはいけない、祈らなければならない、祈る使命がある。天に座するお方を知っているものとして教会は祈らねばなりません。どうぞ祈ることのできる特権であるとともに、祈る使命を自覚させていただきたく存じます。
 そして弟3番目、天に座するお方、私たちはだからこそ、このお方にすべてを委ねることのできる特権がある。委ねることができる。そうです。人知を越えて、そしてひとりの御子をさえ私たちのために与えてくださった天に座するお方を知れば、私たちは無用な心配をして慌てる必要はない。このお方に目を留めて委ねる。それは無責任な言葉ではなくして、クリスチャンたちがこのような中にあってもつことができるのは平安です。このようなときにこそクリスチャンのもつことができるのは、心の平安です。聖書のおしまいのほうにペテロの第一の手紙があります。この5章7節に
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
 とあります。よくこの御言葉に心を留めましょう。神の御言葉である聖書は何と言っているでしょうか。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
 これはご命令です。神はそうしなさいと仰る。神がそう仰るということは、命令されるお方は命令を発する根拠をお持ちだから命令をされるのです。そうでなければ、根拠のない命令は暴君のなすことです。しかし天に座するお方は、すべてを御支配してくださるお方なのです。
“あなたはいったい何様だと思ってこれだけ心配しているのか?あなたは自分が何ができると思ってそんなに心配しているのだ?”
 思い煩いというのは神さまの最善を信じきることのできない罪です。心を配ることはたいせつですけれども、心配として思い煩ってはいけません。それは神さまのご命令に反することです。あなたの思い煩いを一切神に委ねなさい。そうすれば、力をお持ちの神があなた方のことを心配してくださる。神が心配してくださるからあなた方は神の領分まで土足で入りこみ、こうだろうかああだろうかと心配することは、これは神の領分を侵すことなのです。イエスさまも仰る、「一日の苦労は一日にて足れり」。どうぞ天に座するお方のまえに、最善を為してくださるお方に私たちの心配、思い煩いを委ねようではありませんか。そして、「神があなた方のことを心配してくださる」という御言葉に安らぎを得ようではありませんか。この安らぎとはいったい何なのでしょう。それは永遠に備えられているところから来る安心です。ひとりの御子をさえ与えてくださったお方、そしてこのお方が私を愛して十字架の贖いをなしてくださった、そうです。いつ主の前に立つことがあっても御子の血潮のゆえに御前に恐れずに立つことができるというこの安心なのです。ですからきょう、私が、もしここで、この贖いの真理というものをお伝えしなかったのなら、他の御利益宗教や新興宗教と大した違いはないでしょう。しかしそうじゃない。ならば何がどこが違うのか。私たちは御子イエス・キリストの十字架の贖いを受けているがゆえに、いま天に召されたとしても永遠の備えができている。神を御救いをいま受けている。
 ヘブル人への手紙11章10節を読んで締めくくりましょう。
彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
 堅い基礎の上に建てられた都を私たちは待ち望んでいる。人の作ったものはすべて歪むのです。しかし常世の岩であられるお方イエス・キリストの十字架そして復活というこの福音のしっかりとした揺るがない土台の上に私たちの信仰をしっかり建てるとき、ここにこそ揺るがない永遠の希望、平安が私たちに与えられるのであります。


|

« 東日本大震災チャリティーコンサートー松田晃歌曲リサイタルXVー2011/4/2(土)14:30開演・岩手県民会館中ホール | トップページ | 停電じゃなくたって »

教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: きょうのことばー『神はその真中にいまし』ー大震災祷告礼拝ー:

« 東日本大震災チャリティーコンサートー松田晃歌曲リサイタルXVー2011/4/2(土)14:30開演・岩手県民会館中ホール | トップページ | 停電じゃなくたって »