きょうのことばー『信仰に生きる』ーその2
※前ページからの続きになっています。2011年3月6日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会のメッセージをお伝えしています。
ピリピ3章8節からをご覧ください。ここに罪を悔い改めたパウロの証しが書かれています。
ピリピ3章 8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
11 どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。
パウロはここで、自分はいまキリストを信じてキリストの贖いキリストの復活を見たことの故に、もうそれ以外のものはちりあくたとさえ思われるといっています。パウロはさらに告白しています。「わたしは罪人の頭です。わたしはかつてはキリストに従う者をこの手で殺してしまった。私の手は血で汚れている。知らないでやっていた。しかもわたしは自分の義、正しさというものは、ただ掟を守ることによって神に近づくことができると思っていた。だが違っていた。掟では全うできないことをキリストは成し遂げてくださった。」。パウロは自分の罪ということ、自分の義によって神に近づけるという大きな過ちに気がつき、罪を悔い改めて神の前に出た。そして彼は罪を赦されたという確かな経験をしたのです。
ヘブルの11章に帰りましょう。
1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
このことばを前に、まさにアーメン、その通りですということができます。
一方、これは私自身も御前に扱われ考えさせられたことなのですが、ならば罪赦されたクリスチャン、この11:1の意味が以前はまったく分からなかったがわかるようになり、たしかにアーメンと頷けるが、ではこれをほんとうに実践することができるのか。これを自問自答し自らに突きつけてみる。人間はアダムの末裔であり生まれながら罪の性質、不信仰の体質をもっている。新生経験をしたときにヘブル11章1節に頷くんですが、それとともにほんとうに大丈夫なんだろうかと疑いをもってしまう。これなんです。生まれ変わった自分がどうしてこれを当て嵌めて実践していくことができないのか。アブラハムやモーセやその他色々な信仰の列伝として出て来る人たちのように、たとえばノアのように、信仰によってまだ雨もふっていないときに多くの人々の嘲笑のなかで、神さまの示されたような大きな舟を山の上で造るという信仰の実践をほんとうにできるものなのだろうか。そこなんです。どうして信じ切れない自分がいるのか。そこに悩むのです。おうおうにしてそこで、結局人間とはこういうものなのさ、というところに留まってしまう場合がある。悩みながらも神さまを見上げ続けていくのが信仰生活なのだと落着させてしまっていいものなのか。いやもっと力に溢れ、恵みに溢れた信仰生活があるはずだ、エノクやノアやアブラハム。彼らはそういった悩みを扱われた人たちの列伝ではないのか。11章の1節をアーメンと頷きながら、それでも尚神に依り頼み投げかけることを心配し、一歩を二歩を踏みだすのに躊躇を覚えるとすれば、これはもう「きよめ」の問題なのです。
「信仰の盈満」という著書があります。満ち溢れんばかりの信仰が盈満です。イエスさまがもっておられたのはそれでした。イエスさまの心には喜びが溢れていました。ゲッセマネの祈りで苦しみ涙の叫びをするときでも心の中には揺るがされない心の平安、心の喜び、御心に従う喜びがあった。これが父なる神さまへの全幅的な信頼から来る平安、喜びであることはいうまでもありません。イエスさまは、それとおなじものを私たちにも与えてくださるというのです。イエスさまは、「わたしの与える平安は世が与えるものではない。神を信じ私を信じなさい。」と仰る。私たちの心の中にある、信じたいけれども信じ切れない不信仰、あの病の子供を助けようとした父親の「信じます。不信仰なわたしを憐れんでください。」といったことば。イエスさまは、「もしできるならというのか」と言い「信じるものにはどんなことでもできるのです。」と言っておられます。あの父親のことばには色々な解釈があると思いますが、これは私たちの心の真実な叫びを代弁しているのではないでしょうか。
そうです。信じたいんです。御子をさえ惜しまずして私たちに与えてくださったことを知っているのですから。救われて生まれ変わって、その方にどうして全幅的な信頼を置い一歩踏み出す事が出来ないのでしょう。どうして信じ切ることのできない不信仰を持ってしまうのでしょう。「信じます。不信仰な私を憐れんでください」といって、ありのままの姿をイエスさまのまえに持っていくとき、イエスさまは、わたしたちに、そうだ、それでいいんだ。こういってわたしたちに安息を与えてくださる。平安を与えてくださる。「わたしは罪人の頭です」と告白したパウロがこう言っています。「 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。」
イエスさまへの信仰を持って一歩、二歩と歩き始めたが倒れてしまった。そのときは神さまは必ず引き上げてくださる。しっかりと引き上げてくださるから、ありがとうございますといって立ち上がり、またイエスさまからお養いをいただいて、また失敗したとしても、またそこで力をつければいいのです。筋トレをすればいいのです。小さな事を繰り返し繰り返しやっているうちに段々と筋トレ信仰の筋肉が付いてくる。そして信仰と愛が益々満ちてくる。キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られたという言葉はまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。わたしはその罪人の頭です。
お話を一つの例話で締め括らせていただきます。数日前に岩崎不二夫先生からお便りをいただきました。岩崎先生は2006年に奥様と共にこの教会で素晴らしいご奉仕をしてくださいました。奥様である正子先生が去年の12月に天に帰られました。世の中ではもう年賀状を出しおわってからで岩崎先生も年賀状を出し終えていたのです。それが突然正子先生が天に召されなさった。ほんとうに驚きました。わたしは厚生の仕事を委ねられておりますが、引退された先生方に誕生日の記念の栞をお作りし、3月までにお生まれになられた引退された先生方にお渡しするつもりでいたのですが、岩崎不二夫先生がちょうどそれに該当したものですから、栞をお送りし奥様のことを覚えながらお慰めをお祈りいたしますと記したところ岩崎先生から数日前お返事をいただきました。
「神は結婚の時に、一つとしてあわせてくださった。そしていま突然伴侶者を天に送ることになってしまった。神が一つとしてあわせなさった神さまだけが、そのあわせたもうた神さまだからこそまた離させなさるお方であるということを思い、そこに大きな慰めをいただきました。伴侶者を天に送るということは、両親を天に送ったりすることとはまた違った意味あいがあるということを、深く感じております。」
このように記されてあり、これは非常に心に残る真実な言葉だなあと思いました。まったく突然伴侶者を天に送られた先生。大きな試練であるに違いない、これ以上の悲しみはないにちがいない。けれどもそこに神があわせたもうた伴侶者、その神さまだけが、また離させる権利をお持ちなのだ。しっかりとそれを受けとめてそこに慰めを見出したという言葉に信仰の大先輩、まさにこれが信仰の筋トレというのは不敬虔に聞こえるかも知れませんが、多くのところを経験された器の真実な言葉であると大きく教えられたことです。
※口述を文書に改めるなど若干編集してございます。文責:中ぶんな
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