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きょうのことばー『信仰に生きる』ーその1

※このブログでは毎週日曜日は、キリスト教会で行われる礼拝の説教をできるだけ忠実にお伝えしています。自らをも含め心の潤いを提供したく願って行っております。

 あさには雪がちらついていましたが、春らしい明るい日ざしもふり注がれました。 きょうは礼拝のあとで茶菓をいただきながら、それぞれの近況をお一人お一人がお話なさいました。短いながらもユーモア溢れる楽しいひとときでした。

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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)の國光牧師のメッセージは、
説教題 『信仰に生きる』 
聖書引証箇所 ヘブル書11:1~6

1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 来週の15~17日の年会前の日曜13日が送別の礼拝となります。ここで頭の切り替えをしなければと思っておるところです。教会総会の前後には多くの信仰の取り扱いを学ばせていただきました。礼拝毎にそれをお分かちして参りました。
 さて信仰とは、信仰に生きるとはどういうことなのでしょう。先週は『信仰と不信仰の狭間に』をお話しましたが、きょうはもっとストレートに信仰に生きるとはどういうことなのかをヘブル書11章1~6節をテキストとして恵みを共有いたしたく思っております。

 信仰に生きる。これは実践に生かされ初めて意味を持つことであります。ヘブル11章にはアベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、モーセ等々、次々に信仰の先達の列伝が紹介されています。信仰の実践をした人たちです。信仰に生きるとは、信仰を実践に生かすことであり、そうして初めて大きな祝福、恵みをもたらすのであります。

 よく筋肉トレーニングを耳にします。わたしもだいぶ前からダンベルを続けています。この筋トレは理論を知っていても、やらなければ筋肉はつかない。理論を踏まえ何回か実践すれば生きてくる。運動の世界では有名な湯浅景元先生がテレビで、電話を掛けるときもただ座っているのではなく台の上に乗ったり下りたりして運動をする、と仰っていました。自分の理論の実践です。湯浅先生ではありませんが、信仰にも実践が必要です。教会、聖書で教えられた信仰をどれだけ実践しているか。始めから負荷が大きければ潰れます。最初は負荷が少なくていいのです。神さまはよくご存じで、わたしたちが信仰的に幼いときには、軽減した負荷をかけなさる。このようにして訓練をし、乗り切ることができたなら、こんどは、もうすこし厳しい負荷を与える。愛の故に加えなさることがある。恐らく経験があるでしょう。クリスチャンになったばかりのころよりも、クリスチャン信仰生活を継続してゆくうちに、以前よりもっと試練が大きくなったということが。これを御利益信仰のようにとらえると、何だ、クリスチャンになったというのに、試練がなくなるどころか、次つぎに増すじゃないかというように旗からは見えるかもしれない。しかし父なる神さまは愛する者にその御目的に従って負荷をかけてくださる。捉えようによっては、試練が増すことは神さまの信頼が大きくなってきたということでもある。神さまは、以前ならこの程度の試練でも潰れかねなかった、しかし今の彼なら、或いは彼女ならば、もうこれぐらいのことには耐えられるだろうと、以前よりも負荷のかかるものを用意してくださる。これをどのように通るのかと神さまはご覧になっている。わたしたちは毎週の礼拝で、「我らを試みにあわせないでください」とお祈りします。これは主がこう祈りなさいと備えてくださった祈りのことばです。これを大前提として、わたしたちが教会を出たその瞬間から神さまは尚その人その人に信仰の筋トレを与えてくださる。

 きのうのニュースですが、小さな子供が一升餅を背負って歩くニュースがありました。子供が背負いきれずに倒れたとき、だらしがない、どうしてちゃんと立てないんだという親は映っていませんでした。母親がにこにこしながら駆け寄りすぐに抱き上げる。一歩でも二歩でも歩けたことをこの子は成長したと喜んでいる。微笑ましく思ったことですtあしたちも背負いきれない荷物を背負わされて歩くことがあります。数歩あるいて、もしそこで倒れてしまったとしても、試練で倒れ込んだとしても、誰がだらしがないといってそれを見過ごしにするでしょう。父なる神さまはすぐさま近寄っていき、わたしたちを助けてくださるお方なのです。それが私たちの信じている神さまなのです。そしてそれまで一歩でも二歩でも歩き出した信仰の姿を見てよくやったね、まえよりも歩けるようになったといって助けてくださる、そういうお方であることを思うのです。

 さてヘブル11章の1節、「 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。」という御言葉には、非常に印象的に端的に信仰の分析がされています。望んでいることがらを保障する。或いは信仰は望んでいることがらの実態である。まさにそこにある。目に見えないものを確信させる。それが信仰。わたしたちは天国を信仰をもって待ち望んでいる。天の御国、それは淡い希望ではなくそれは実態であって、それはたしかなもの..まだ目に見ていませんけれども永遠の命、主にある祝福を信仰はわたしたちに確信させるのです。これが信仰の定義です。このように信仰を頷かせ、可能とするものは何なのだろう。それは神さまによる生まれ変わりの経験、特質、即ち新生経験を持っている者だけが、この11章の1節を頷くことができる。恐らく新生経験を持っていない世の中の人たちがヘブル11:1を読んだときに、日本語として理解できてもその意味するところはまったく分からないでしょう。字面はわかるでしょうけれども、そして大切にすることはもしかしてできるかもしれませんけれども、新生経験を持っていない人は絶対にこの意味していることはわからない。そういうものだと思います。

 ここでヨハネ3章に出てくるイエスさまとお会いしたニコデモを思い起こしてください。彼はユダヤ人の指導者です。聖書にも通じている。神の掟にも忠実な人物でありましたけれども、新生経験を持っていなかった。ニコデモは、イエスイさまを信じたくてしかたがない、というよりも真実に反発するものは何もなく、できるのならこの天国というものをほんとうに知りたくてイエスさまのところに教えを請いにやってきたのです。これはわたしの造語になるかもしれませんが、ニコデモ症候群といったらいいでしょうか。ある共通の原因があってみんな同じような症状を呈する。それを指して何々症候群と言うとすれば、まさにこれはニコデモ症候群といったところ。ほんとうに神さまを信じたい、天国に反対するわけじゃない、いやむしろ信じたい。けれども方策が分からない。イエスさまが、あなたはユダヤ人の指導者でありながら、こんなことがわからないのですか、と言われるほどでした。原因は新生経験がないからです。ではどうすればニコデモ症候群を脱することができるか。それは入るべき門をしっかりと通らなければなりません。「わたしという門を通ってでなければ中に入る者は盗人であり強盗である」とイエスさまは言っておられますけれども、そこを通ってでしか分からない決して中に入ることが出来ない門がある。それは、罪を悔い改めるという門です。罪を悔い改めるという門を通って中に入って初めてこのヘブル11:1を、ああそうだったのかと頷くことができるわけであります。

               ーつづくー

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