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2011年3月

詩「雨ぁふるども」

  なかなか片付かない家の中。午後から掃除に着手。洗濯物を干し、一通り片付けあとは台所と鍋物の残りを始末し、ゴミを分別。生ゴミは主人が裏に深く掘った穴に設置したコンポスターに投げ込む。ほっと一息。さてコーヒーでも、と思ったところに食器棚がガタガタガタ…。3以上はある。要警戒だ。4時半ごろ。TVを点けると震度5弱と出ていたが、あとで盛岡震度4と知る。

 何人かのブログを拝見し、仰っているそれぞれにゴマすりではないがなるほどと思う。これ以上自分の言うべき事はないなとすら思われてくる。果たして自分は何ができるのか。そのとき、かつて自分が創作した詩が思い出された。これはわたしが神さまから貰った詩であると今でも思っているのですが。2009年7月29日にもこのブログに載せています。 

     雨ぁふるども

雨ぁざんざどふって  風ぁ暴れでらども

おめだじゃ泣ぐな

ついだばりの愛んげ花っこ  びじゃびじゃど濡れでも

やっとなったばりの実っこ  びだびだど叩がれでも

おめだじゃ泣ぐな

やっとごさ張った根っこで  ぎっちりど土つかんで

堅ぐ組んだ手芝さ   蔓きづぐ絡ませで

ぜって倒れるな

童だったどぎ、ハ

そごらの堰さ入って   びょんびょんず蛙捕ったり

起ごしたばりの土さ  びろびろど動ぐ蚯蚓(みみず)捕った倅ゃ、ハ

街さ行ってしまった

今みてでなぐずっと広がった田さ

耕運機かげだった父さんも  遠ぐさ稼ぎさ出で居ねども

おればりぁ残ってらがらな

朝がら晩まで

背中さでっけ空しょって

草も取ってやる  水も肥料も入れでやる

腰いでったって  頭病めるったって

何じょなごどあったたて

畑ぁおれゃ護らねばね

あどべっこ待でば

こっただぼろ綿みでな雲ぁ裂げで  陽っこぁ出でくるべ

天気ずものぁ  いっつも同じでねがらな

陽っこさえ出れば

びっしりどくっついだ滴さ  光ぁまっすぐに落ぢで

そっちもこっちも、ハ

びがーびがど光るべな

誰も居ねたって  誰も見ねたって

ひび割れだとまとだの

しょぼくれだ胡瓜の花だの

くたびれだよんた菜っ葉だたって

もう、ハ

活ぎ-活ぎど光るべな


 

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主のまもり

 たとえ唐突でも、脈絡を欠いても、そのとき、そのときにしか証明できない事柄というものがある場合がある。しかし大方は何を証ししようとするよりも、神を証ししようと努めているならば、神が自らに代わって証明しなければならないことを証ししてくれる場合があることを知る。

 22時にパソコンを開けたばかりだが、それまで讃美歌「主よみもとに近づかん」が心に通っていた。タイタニック号の最期の場面が思い出される。いついかなるときにも最期まで自分の任務を全うしようとする姿。きょうも見た被災地にあって、また被災地に赴く方々。また身近には病院のスタッフの方々、或いは随所の地上での地下での工事の方々。
 自分にはこの方々のような力は無いが、十字架をめざして進みゆく、人の世の重荷の僅かであるかもしれないが、何かを背負ってすすみゆくことはできるに違いない。

       詩篇23篇
      ダビデの賛歌

1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

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「ヤッシャ・ハイフェッツ氏バイオリン大演奏會曲目①」は事実か幻かー大正十二年十一月 帝國ホテル演藝場にてー

ヤッシャ・ハイフェッツ(1901~1987)。ロシア生まれ。ユダヤ人。
7歳でメンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲を演奏し、デビュー
12歳でアルトゥール・ニキシュに招かれベルリンデビュー
同年ニキシュの指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と演奏
1917年にはカーネギー・ホールアメリカデビュー
20世紀を代表する巨匠
演奏のテンポは概して速く、晩年になっても遅くなることはほとんどなかった。
(以上はWikipediaからです)

 エルマンがこのプログラムに記載された通りに来日したとすれば1923(大正12)年です。16歳でカーネギー・ホールでのデビューを果たし、22歳で来日。マシーンと見紛うばかりのハイテクニック。どれほどに輝かしさをまとっていたことか。動画があることに気づかされリンクすることに。参考として。できればチャイコフスキーをつなぎたかったのですが、この際これ以上の贅沢は望まないことにします。動画とブログ掲載のプログラムは関係ありません。念のために。

 大正時代にはクライスラーやエルマンやジンバリストも来日しています。彼らのプログラムはきちんとした活字印刷なのですが、ハイフェッツのだけが、ガリ版刷りのようです。これは関東大震災が大正12年9月1日でしたから、ハイフェッツが来日した大正12年11月はまだその直後ともいうべきとき。被災地そのままの状況下であったでしょう。

 来日したとすればと申しましたのは、帝国劇場は関東大震災で外郭を残して焼け落ちたということです。この度の関東東北大震災でわたしが楽しみにしていた小林研一郎のコンサートが中止となりました。このように幾多の催し物が中止となったでしょう。ハイフェッツのコンサートはプログラム上では関東大震災から3ヶ月経ったころです。果たしてこのコンサートは中止されたのでしょうか、それともハイフェッツは罹災救恤で来日してくれたものでしょうか。そしてもしかすれば場所を変えて演奏してくれたでしょうか。これが実際にあったコンサートであるか、あるいはプログラムだけの幻のコンサートとなってしまったのか、今後調べる機会があったのなら幸いです。

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※三つ折りになっている裏表の一面ずつコピーしています。
 これはモノクロコピーしたものです。

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家族の入院

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 日曜日には教会の説教を載せることを心がけてきた。しかし一昨日自宅で療養中の舅の容態が心配な状態だった。そして昨夜入院となった。わが道を行く、の二男が一晩の付き添いを買って出た。きょうは長男が遠隔地から帰省。新幹線は空きがなく何とか飛行機で北上。
 昨夜病院にいるあいだにかなりの揺れがあった。震度4とあとで知った。病院スタッフの落ち着いた行動が落ち着きを与えてくれた。9日に行っていた医院のスタッフもそうだった。これは避難訓練ではない。訓練なら誰もが落ち着いて行動できるだろう。多くのいのちをあずかっている現場のスタッフの役割の重さが分かった。

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 ※3枚の写真は病棟から撮ったものです。

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被災者に申し訳ない思いで

 きょうは病院に行った。待ちながら多くの被災された方々がいらっしゃるこのときに、こうして十分な医療の恩恵をうけることができることを申し訳なく思った。廊下も節電のため消してあった。初めてみる院内の様子だった。0時15分前に帰宅。

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  23時になってはっと目が醒めた。どうも21時ごろから眠ってしまっていたらしい。そのあいだは主人が介護に気を配ってくれていたようだ。
 一行なりとも書こうと思いPCのまえに座る。しかしすぐに舅が呼ぶ音に駆け付ける。
「そこに刀がある」
「刀はないよ」
 そういって身辺をたしかめてから主人にこのことをいうと、昔この家にあったのだという。それはさておき、

 あすは日曜だが教会は休もうと思う。介護のためだ。

 舅がいつかわたしにこういったことがある。
「あんだ(おまえさんは)は腹の底の底までを見透してる」
 いま人生の僅かな残りを歩んでいる舅。舅にもこの最期のときを心穏やかに過ごして貰いたいと願っているが、それ以上に神がわたしの心を見透したときに、良心的であると印を押していただけるようでありたい。

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主よ御許に近づかん Nearer, my God, to Thee

歌詞(一部)・日本語訳(意訳)

賛美歌名曲集
賛美歌名曲集 ★試聴あり

Nearer, my God, to thee, nearer to thee!
E'en though it be a cross that raiseth me,
still all my song shall be, nearer, my God, to thee.

主よ御許に近づかん
いかなる苦難が待ち受けようとも
汝の為に我が歌を捧げん
主よ御許に近づかん

Nearer, my God, to thee, nearer to thee!

主よ御許に近づかん 主よ御許に近づかん

Though like the wanderer, the sun gone down,
darkness be over me, my rest a stone.
yet in my dreams I'd be nearer, my God to thee

放浪の中 日は暮れゆき
闇の中 石の上で体を休める
ただ夢見るは 主よ御許に近づかん

Nearer, my God, to thee, nearer to thee!

主よ御許に近づかん 主よ御許に近づかん

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よみがえるために、わたしは死ぬのだ!

 復活、復活、復活、復活、復活…
とくとく、とくとく、とくとく、とくとくとわき出てくる水を浮かべながら、復活、復活、復活と繰り返してみた。「復活」のコンサートが甦った。
 東北初演のマーラーの「復活」を盛岡市民文化会館で聴いたのは、2007年の12月だった。東京交響楽団の後ろには200人からの地元の合唱団が控えていた。指揮飯森範親。対向配置のステージ狭し。感動だった。
 CDにあった解説が思い出された。

 マーラーはビューローとの親交を喜びとしていたようだが、ビューローが亡くなり、ハンブルクの教会で行われた葬儀に出席したときに、マーラーは突然交響曲2番の鍵となる調べに出会ったという。作曲の啓示を受けたのであった。
 この事実を一般化して考えるのは妥当を欠くとは思うが、死が必ず人にもたらす何らかがあるように思う。恩師が殉職したとき、キリスト教会で葬儀が行われた。出席してわたしがもたらされたものは、スピリチャルな何か、確かにここには何かがあるという何かだった。これが私が教会に行くようになった幾つかの要因の一つであった。

 きょうも盛岡震度4。仙台は震度5。11には想像を絶する多くの死が。今尚報道され続けているが、この多くの方々の死、多くの方々の被災で学ばせられたこと教えられたことが多くあったが、その中でも、多くの方々がこの事態にほんとうに痛みを持っておられた、人の心、心が見えた、そしてそれが自らの慰めともなった。感動を貰うことができたことだった。多くの犠牲となられた方々が引き出してくれた、絞り出してくれたともいえるかもしれない感動だった。

 マーラーの「復活」弟5章の壮大な叙事詩はこう締め括られていく。

      おお、固く信ぜよ、わが心よ。
      お前が何も失ってはいないことを! 
      無為に生き、苦しんだのではないということを! 
      よみがえるために、わたしは死ぬのだ!

 
2007年に聴いたときには、演奏、合唱の素晴らしさとは別に、この詩がどこかきれい事であるかに聞こえもした。しかしいま、これは真理だと思うことができる。 

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危険と背中合わせの恩恵

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  去年撮った写真です。全国的な名所旧跡はありません。日常よくとおる道。むこうに立っていてあたりまえなレンガ造りの建物。そこに、むこうに、あそこに、ここにあってあたりまえなもの。もしこれらが一瞬にして失われたとしたら。しかも広範囲に。人が造ったものというのは所詮みなこの系列なのだろう。安全が確保できるときには恩恵を享受できるが、一旦機能が破壊されたときには始末に負えない。いま思うと、電化製品、車などの“終末”には随分と寛大であったなと思う。粗大ゴミは埋めて始末することにどこか頚を傾げながらも受け入れてしまってきた。恩恵が大きいだけに“寛容”であったように思う。しかし原発だけはこうはいかない。犠牲を払って職務に就いた方々にはほんとうに揺さぶられた。任務を拒否したら後悔しただろうと仰っていた。これほど危険なものの恩恵に自分は与り浴してきたのだ。

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完全介護スタート

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  9日に舅が入院した。舅を病院に送って帰宅し2時間経つと息子が具合が悪いといって帰宅。いつから? と訊くと仕事に出たときからで一日がまんしたという。熱が39、4。夜間救急で点滴。インフルエンザではなかった。真夜中までかかった。翌日も39、7。やむを得ず欠勤。11日の朝も熱が高い。やっと37、2となったのは昼頃だったろうか。ほっとしていた午後に大地震があった。これは強がりでいうのではないが、恐ろしくて逃げ場を失うというような感じはしなかった。これはすごいと思いながら揺れがおさまるのを外で待った。いま思うと待てば必ず静まるとわたしは信じ切っていたことになる。

 ここのところ自分で歩くことができなくなっていた92歳の舅。9日、体調が悪く、舅の掛かり付けの医院に、これは舅が先代の先生の時代からここに決めているところなのだが、そこで診てもらうと、自宅にいても治らないから入院したほうがよいと入院応需の病院を紹介してくれたのだった。11日の大震災のとき、もし舅が家にいたなら、停電などで暖をとることもできなかった、まして度重なる揺れに対応できたかどうか。或いはパニックになっていたかもしれない。結果的に入院先にいたお陰で守られた。
 息子も図らずも地震当日は在宅であった。

 舅は17日に退院。退院してからだから書きやすいのだが、退院してきていま家に。完全看護だ。勿論主人も参加してくれている。そこは自分の親だからなのだろう。わたしはこういった介護をできるとは思っていなかった。できれば避けて通りたいと思っていたこともある。しかし多くの被災者がおられるこのとき、看ることができることに感謝しなければならない。またこういったことは理屈だけでできるものではない。イライラせずに自然な思いをもってできるのは、やはり、自分の力ばかりではないといま実感している。何かに助けられている。人の祈りか、天の力か。立派にやっているとは言えないまでも、苦痛であるとは思わないでできる。この自分にしては不思議だ。
 何れ完全看護は始まったばかり。病院、ケアマネージャー、介護福祉の恩恵を受けながら自然体でやってみてゆきたい。そしてそのなかに、またいくつかの不思議をみることができたなら幸いと思う。

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停電じゃなくたって

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 僕は幽霊じゃありません。このブログの管理人に代わって登場。停電じゃなくたって、たまにはこんな暮しもいいよね。ろうそくの灯りを囲んで夕ごはん食べたり音楽を聴いたり。それからいろいろな空想や夢をはなしたり。いつだってどこでだって夢を語れる。闇の中でも夢を見ることはできるんだ。
  

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きょうのことばー『神はその真中にいまし』ー大震災祷告礼拝ー

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 被災された方々への慟哭のおもいをもって、インマヌエル盛岡キリスト教会(電話019ー646ー2924)國光勝美牧師のきょうの説教をIここに掲載させていただきます。


説教 『神はその真中にいまし』
聖書引証 詩篇46:1~11

指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。歌
1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
8 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ


 詩篇の46篇。これは宗教改革の詩篇とも呼ばれ、そして多くの方々から親しまれている詩篇の一つでございます。5節に「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」とございます。
 この詩篇が詠われた背景は、都エルサレムが、アッシリヤのセナケリブという軍隊に包囲され、エルサレムがまさに風前の灯となったとき、神さまの奇跡的な御助けがあり、朝起きてみるとセナケリブの軍隊は死体が累々と横たわっており、神の都エルサレムは敵の攻撃から免れたという、恐らくそれが歴史的な背景になっていると見ることができます。 
 人間的に見て絶望的なときにも神は都の真ん中におられる。同じように、これを今の私たちにあてはめることができると存じます。神はいま私たちの真ん中におられる。このことを決して忘れてはならない。神は我らとともにあってくださる。これは言葉ではない、単なることばではない事実です。どのような絶望的な環境の中に叩き込まれたとしても、その真中に神はおられる。天に座するお方がおられる。わたしはこの震災の中を通りながら、しきりと天に座するお方という言葉或いは思想といったらいいのでしょうか、この御言葉に大きな力を頂きました。それをこの46篇の「神はその真中にいます」に合わせて、天に座するお方ということを私は3つのポイントで短くお話を致したいと思っております。

 まず第一番目に、天の見座に座しておられるお方がおられる、どのような中を通りましても、天のみくらに座したもうお方がおられるのです。このことを私たちは決して忘れてはなりません。主が嵐を起こされる。主が波を静められる。すぐる聖日詩篇107篇を開いたときに、主が嵐を起こされ主が波を静められた。この苦しみの時主に向かって叫ぶと主は彼らをその望むところの港に導かれたというように、「主が」という言葉をポイントとして語らせていただいたまさにそれです。天に座するお方がおられるのです。一羽の雀が落ちることも天に座しておられる方のお許しなしにはないということを御言葉は示しております。徒に神を知らざる方々が混乱しうろたえている中に、私たち何が違うのか。天に座しておられるお方がおられるということです。このことを先ずしっかりと心に留めようではありませんか。
 そして弟2番目に、私たちは天に座するこのお方に祈ることができるということです。すべてのものが相対的であり、すべてのものが揺らいでしまうとき、決して揺るがないお方に目をあげてお祈りすることのできるそれが私たちであります。
 私も正直に告白いたしますと、ヘブルの書などで、クリスチャンは王なる祭司であるとあります。言葉としては理解できたつもりなのですが、また違った意味あいに於いて、私たちは天に座するお方を知っているものとして、それは祈ることができる特権であるとともに祈らねばならない使命を持っている。つまり、祭司としての使命をもっているのが私たちクリスチャンなのではないでしょうか。
 私が信仰を持ちまして間もなく、丸の内教会で養いを受けておりました。そこでは毎週、為政者たちのために祈りが献げられておりました。救われて間もない私はそのような祈りが献げられている中に身を置いていましたけれども、その意味するところがどれほどのものであるかには思いが至りませんでした。しかし今考えてみるとき、教会の祈りというものには、これは主を知っているものたちには責任がある。為政者のために祈る、国のために祈る、いままさに国難といわれる大災害、そして福島の原発に苦しんでいるそのことのために教会は黙っていてはいけない、祈らなければならない、祈る使命がある。天に座するお方を知っているものとして教会は祈らねばなりません。どうぞ祈ることのできる特権であるとともに、祈る使命を自覚させていただきたく存じます。
 そして弟3番目、天に座するお方、私たちはだからこそ、このお方にすべてを委ねることのできる特権がある。委ねることができる。そうです。人知を越えて、そしてひとりの御子をさえ私たちのために与えてくださった天に座するお方を知れば、私たちは無用な心配をして慌てる必要はない。このお方に目を留めて委ねる。それは無責任な言葉ではなくして、クリスチャンたちがこのような中にあってもつことができるのは平安です。このようなときにこそクリスチャンのもつことができるのは、心の平安です。聖書のおしまいのほうにペテロの第一の手紙があります。この5章7節に
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
 とあります。よくこの御言葉に心を留めましょう。神の御言葉である聖書は何と言っているでしょうか。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
 これはご命令です。神はそうしなさいと仰る。神がそう仰るということは、命令されるお方は命令を発する根拠をお持ちだから命令をされるのです。そうでなければ、根拠のない命令は暴君のなすことです。しかし天に座するお方は、すべてを御支配してくださるお方なのです。
“あなたはいったい何様だと思ってこれだけ心配しているのか?あなたは自分が何ができると思ってそんなに心配しているのだ?”
 思い煩いというのは神さまの最善を信じきることのできない罪です。心を配ることはたいせつですけれども、心配として思い煩ってはいけません。それは神さまのご命令に反することです。あなたの思い煩いを一切神に委ねなさい。そうすれば、力をお持ちの神があなた方のことを心配してくださる。神が心配してくださるからあなた方は神の領分まで土足で入りこみ、こうだろうかああだろうかと心配することは、これは神の領分を侵すことなのです。イエスさまも仰る、「一日の苦労は一日にて足れり」。どうぞ天に座するお方のまえに、最善を為してくださるお方に私たちの心配、思い煩いを委ねようではありませんか。そして、「神があなた方のことを心配してくださる」という御言葉に安らぎを得ようではありませんか。この安らぎとはいったい何なのでしょう。それは永遠に備えられているところから来る安心です。ひとりの御子をさえ与えてくださったお方、そしてこのお方が私を愛して十字架の贖いをなしてくださった、そうです。いつ主の前に立つことがあっても御子の血潮のゆえに御前に恐れずに立つことができるというこの安心なのです。ですからきょう、私が、もしここで、この贖いの真理というものをお伝えしなかったのなら、他の御利益宗教や新興宗教と大した違いはないでしょう。しかしそうじゃない。ならば何がどこが違うのか。私たちは御子イエス・キリストの十字架の贖いを受けているがゆえに、いま天に召されたとしても永遠の備えができている。神を御救いをいま受けている。
 ヘブル人への手紙11章10節を読んで締めくくりましょう。
彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
 堅い基礎の上に建てられた都を私たちは待ち望んでいる。人の作ったものはすべて歪むのです。しかし常世の岩であられるお方イエス・キリストの十字架そして復活というこの福音のしっかりとした揺るがない土台の上に私たちの信仰をしっかり建てるとき、ここにこそ揺るがない永遠の希望、平安が私たちに与えられるのであります。


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東日本大震災チャリティーコンサートー松田晃歌曲リサイタルXVー2011/4/2(土)14:30開演・岩手県民会館中ホール

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 3月12日の予定だった松田晃先生のコンサートが延期され、上記の通り2011年4月2日(土)に開催されることとなりました。「音楽生活50年+10」、これが東日本大震災のチャリティーとして開催、被災された方々への想いから開催されるのです。入場無料。会場内に募金箱が設置されます。

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無事

 今夜遅くにやっと安否のわからなかった宮古市のOさんから電話が入った。やはりぶじだった。眼下に浸水を目の当たりにしたという。彼女の家は無事。すぐにお嬢さんが出られ、まだ夢なのかほんとうなのか、現実だとどうしても信じられない、暗い中にいるのが怖いと仰っていた。宮古コミュニティーチャーチも無事だとわかった。あすにはさらに分かることがあるかもしれない。

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わかっていました無事なのは声が電話に晴れ晴れとひびく

 

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無事だった。無事だよね。

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  こうして電気が供給されガスが点き、水道が出る。さっき夕食も済ませた。これまでは当たり前だと思われていたことが、どれほどに感謝であることか。
 きょうはガソリンも販売されたようだ。一人2000円まで。見事な車の縦列。買えずに引き返した車も多くあったろう。それでも如何にしてか幾ばくかでも供給せねばならないという意識を見た。

 冷蔵庫から買い置いたメカブを取り出し刻みながら、これが津波がくる直前に収穫されたものであることを思ったときに、浜の暮しの一切合切をのみ込んだあの巨大な波が眼前に浮かんだ。

 けさ新聞で高校時代からの友人が避難所に逃れていることがわかった。推理小説の好きな彼女。こんど顔を合わせたらただただ大笑いしてそんな小説の一冊もバシっと手渡したい。
 宮古コミュニティチャーチ、Oさん、梅村ご一家。ここまで波は届かなかったはずだ。

悪運が強いといって笑いたい友だちは無事生きてるやっぱり

こう喜び詠みましたが、彼女、実は屈託のない明るいまじめさん。

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電気なければ、ガソリンなければ

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 けさは梅どころか雪が咲いていた。もっともこの木はサルスベリ。はやく来てほしいあたたかな春がまた遠くへ押しやられた思いがした。美しいは美しい。春の星も美しい。こんなときにことさらに美しく輝いていたが、またこの雪景色も。

 大震災の11日に更新されていたブログがあった。停電となった同じ盛岡市内だ。不思議でならなかった。読むとどうも携帯で更新していたようだ。
 私の携帯電話は主人と共用だ。携帯を持つようになったのは、高齢だった舅が持って歩いて欲しいといったからだった。私が持ち歩くことがあり、主人が持ち歩くことがある。どちらかといえば私であることが多い。が、自分の携帯であるという意識は薄い。ほとんど家電の感覚である。したがってこのブログを携帯で更新しようと思ったことがないのに今気づいた。携帯で自分のブログを更新したり余所のブログを覗くことはたぶん今後もしないだろう。何か億劫なのだ。第一外出先でそれをしているよりも帰宅してPCを使うほうがよほど速い。とは言うもののどうやら時代に乗り遅れてしまったのも確からしい。

 そういえば福寿草の写真も撮っておいたのだった。

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 去年までは雪を持ってきて根元に置き一工夫していたが、ことしはありのまま。雪がふったこともほんとうなら、このおなじ庭で福寿草が咲いていることもまたほんとうのことだ。
 地震、原発、津波、スーパーで米、乾麺、缶詰、パン類の棚がきれいさっぱりと売り切れであること、ガソリンがなく仕事の請負も委託もできない、路上からは車が消え、病院さえも洗濯業者が請け負えずシーツ交換もままならない。認めたくないが夥しい犠牲者の方々があり、多くの方々が避難所にいらっしゃり、また多くの方々が行方不明であり、多くの方々が医療とケア、衣食住を必要としていらっしゃることもいまだ現実味が伴わないがみな紛れもない事実なのだ。

 ガソリンは遅れることがあろうとも必ず入ってくるとみな信じている。おそらくはそうだろう。わたしもそう思っている。しかし仮に入ってこないものだと仮定してみる。「冷蔵庫電気無ければただの箱」というコマーシャルがあった。ただの箱、エネルギーがなければただの箱、ただのガラクタといったら言い過ぎかもしれないが、自分がいまどれほどにそのような危うい脆いものに頼って生き、頼って生きることに慣れてしまたかを思い知らされている。頭脳集団が骨身削って莫大な開発費を注ぎ込み作り上げたはずの冷蔵庫、洗濯機、、電子レンジ、アイロン、パソコン、携帯、自家用車、スクーターその他、その他。
 「……電気無ければただの箱」「……ガソリンなければただの箱」
 高層ビル、電気無ければ階段だ。10階100階200階(はあったろうか)……
 いままた揺れている。震度3か2? 慣れるなんて異常だ。23時47分ごろとしておこう。

 

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罹災救恤(きゅうじゅつ)音樂大演奏會ー大正12年11月10日(土)午後2時、午後7時ー

  1923(大正12)年9月1日(土)、関東大震災がありました。マグニチュード7、9。この大惨事に音楽が何になるか。しかし、このようなときにこそ、そのような人々のために立ち上がった音楽家たちがいました。これがそのときのコンサートのプログラムです。

ーこのことを書いているいまも、震度2弱かと思われる揺れがありました。ただいま22時29分。ただパソコンの内蔵時計が数分くるっているかもしれません。ー

 惨状に慟哭し、ステージに立った音楽家たち。
 このときは竹岡鶴代、窪兼雅、榊原直の各氏。主催は太田クワルテットでした。大正12年11月10日のことです。
 竹岡鶴代氏は当時の岩手日報の取材に、
「金沢を振り出しに福井、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、広島、山口など14日間で12回。盛岡入りする直前も東京の吹きさらしの舞台に2時間立っていた。もう慈善狂いです」と語っています。このコンサートの後、音楽家3人は太田カルテットの配慮で繋温泉に一週間逗留しています。
 人にこのような心を見るとき、人間もまだまだ捨てたものじゃない、そう思わせられます。

ーさきほど階下から呼ぶ声に急いで下りてTVを見ますと、何と静岡県東部の富士宮市で震度6強の地震。22時31分だったということでした。しばらくは釘付けになりまたPCに戻り書くことを続けました。ー


Scan10014  曲目はプログラムではコピーが鮮明に出ませんので、チラシの一枚をほぼ真ん中で折ってコピーしました。Scan10015
Scan10016


 

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東北関東大震災

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停電一日目

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玄関の三和土におろされた花瓶の花

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電気は12日(日)21時20分ごろに点きました。
息子からのプレゼントだったコンサートは中止。チケット2枚分がもし戻ってきたなら、これに+αして災害の義援金に充てます。
きょうから15キロ圏内は徒歩か自転車とします。但し人命に関わる事態が発生したときのみは自家用車を使います。
居間のストーブは15度設定。
21時半現在この部屋のストーブは使っていません。厚着でけっこう過ごすことができます。
宮古市に高校時代からの友だちがいます。また宮古市にある教会に行っている、友だち、詩の関係で知り合った方々、お世話になった音楽関係者の方々がいらっしゃいます。まだ安否がわかっていません。

【試聴】 主よ御許に近づかん Nearer, my God, to Thee

Nearer, my God, to thee, nearer to thee!
E'en though it be a cross that raiseth me,
still all my song shall be, nearer, my God, to thee!

主よ御許に近づかん
いかなる苦難が待ち受けようとも
汝の為に我が歌を捧げん
主よ御許に近づかん

Nearer, my God, to thee, nearer to thee!

主よ御許に近づかん 主よ御許に近づかん

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きょうのことばー東北関東大震災の渦中にー

 2011年3月11日に発生した東北関東大震災の甚大な被害が続々と報道されるなかに、インマヌエル盛岡キリスト教会でも神への賛美が献げられ、聖書が朗読されメッセージが語られ、熱き祈りの手があげられました。
 教会は礼拝の始まる10分前に電気が点きました。
 また東北ブロックの教会(大湊、秋田、青森、十和田、山形、酒田、仙台)、盛岡教会員がみな無事であることが確認されました。
おひとりおひとりの状況報告に多くのときが用いられました。

    詩篇107篇19節
    この苦しみのときに、
    彼らが主に向かって叫ぶと、
    主は彼らを苦悩から救われた。


 「わたしたちは「主が」、「主に」を原点として進みゆくことが大切です。」との短いメッセージが語られました。
 
 

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これはJ.V.Martin,が1923(大正12)年の関東大震災を目の当たりにし、作詩作曲した賛美歌です。

   なぐさめもて ながために
   なぐさめもて わがために
   揺れうごく 地にたちて
   なお十字架は かがやけり

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被災された方々にことばもありません

 今回の大地震でご心配をいただきました方々に深く感謝申し上げます。
当方は玄関のガラスの間を埋めてあるパテが5センチばかり欠け落ちた他には、落下、破損はなく家族も無事でした。
 このような中で、さまざまな情報提供くださった方、或いはこの町内を見回ってくださった方々がございました。感謝申し上げます。
 電話、ネットが不通。停電は今夜9時6分前に回復いたしました。午後に届けていただいた新聞で惨状の断片に驚き、夜9時にテレビを見て初めて被害の甚大さに絶句しました。これを書いている11時44分現在も震度3程度と思われる余震がありました。
 午後に教会の牧師の訪問をいただきました。関係者各戸を巡回しておられました。
 日頃お世話になっている友人知人の関係者が沿岸におられます。ご無事を祈るばかりです。被災者の方々には言葉もありません。

 犠牲となられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

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ハイドン・カルテットコンサートのプログラムー高等工業學校講堂ー

 ハイドン・カルテットのコンサートのプログラムです。10月11日午後6時。横浜工業高等学校。
 昭和4年に赤沢長五郎の賛助出演で岩手県公会堂に来たときとはメンバーが違います。ここには多忠亮が写っていますが、昭和4年、赤沢の独奏会の前、昭和4年5月ごろに病で倒れたために、代わって窪兼雅が来ています。
 このプログラムに年代は記されていませんが、第二ヴァイオリンには入れ替わりがあり、組織された明治43年は多忠直でした。昭和に入ってからは忠直に替わり多忠亮となっています。忠ですから昭和のはじめごろ、それも昭和3年以前と考えられます。どこかにはっきりとした記録があるかもしれません。

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春はトレモロ

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この校庭の雪はもう解けました。春は来ているんです。きょう裏庭に福寿草が咲いているのに気づきました。たしかに春は来ているんです。春はトレモロ。やさしいアネモネのおしゃべり。

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(わたしが)知っているようでよくは知らないバッハーゴールドベルク変奏曲ー

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 大バッハ。1685~1750年。知っているようでよくは知らない。けれども聴けば聴くほどすごい曲だとわかってくる。もしかすると、すごい曲だと聴きつつも、まだまだ自分には分かっていないのではないか、いやほんとうには分かってはいないと思われてくるのだ。

 「ゴールドベルク変奏曲」もこの(ライプツィヒ)時代に作られました。さまざまな形で主題が繰り返される変奏曲です。カイザーリング伯のために作られました。伯は不眠症だったので枕元でこの曲を演奏しました。何というぜいたくでしょう。バッハはこの曲で大金を受け取りました。バッハもびっくりする額でした。しかし金銭のために作曲したのではありません。神を賛美するためだったのです。
“宗教音楽を作曲することが私に与えられた使命だ。”
“完成された教会音楽を神に捧げたい”
“わたしはいつもそう思っていた”
        ~1708年~
 ケーテン
(宮廷楽長時代)の時代には教会音楽をほとんど作っていない。
 ライプツィヒに住んだ後半生では数々の教会音楽を生んでいる。「マタイ受難曲」もこの時期に作られた。しかし彼が本当の評価を得るのはこの世を去ったあとだった。「マタイ受難曲」は初演から蘇演まで100年かかっている。1829年この曲を復活させたのがメンデルスゾーンだった。彼の演奏は絶大な支持を得る。これがバッハの偉大さを認めさせるきっかけとなった。わたしたちはメンデルスゾーンに感謝しなければならない。彼の熱意がなかったならこの曲は消えていただろう。
ーVictor DVD 「バッハ物語」解説デーヴィッド・パーマー 岩手県立図書館蔵ー


 ゴールドベルク変奏曲、不眠症の伯爵はいたくお気に入りだったようだ。当時は誰かが弾いてくれなければ聴くことができなかった。しかしいまは何も音盤を買わなくとも放送からも録音し聴くことができる。当世睡眠薬が大量に処方されていると推測されるけれども、バッハのゴールドベルク、宗教臭いなどという先入観を措いて心の健康維持のためにも取り入れたなら現代人の憂鬱の何割かは癒されるのだろうか。

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わたしを呼べ

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      わたしを呼べ。
      そうすれば、わたしは、あなたに答え、
           あなたの知らない、
        理解を越えた大いなる事を、
           あなたに告げよう。
          ーエレミヤ33:3ー


 
居間の黒板に大きく3月7日(月)と書き込みながら、もう7日かとこの月に入ってから時の過ぎゆく速さに嘆息した。午前はICレコーダーの聞き取りをし、午後は頼んだ灯油配達の方がくるのを待つ。タンクに満タンにすべきかどうか迷った。春はどこまで来ているのか。迷っていると、「また5、6円値上がりしますよ」の一声で満タンに決める。その後で肴町ホットラインに介護用品と食材の買い物に出る。両手に6つの袋をトランクに積み込んでからまた戻ってお香の店に立ち寄ってみた。香は室町時代かららしい。こんどは郵便局。ここ数年で書き損じた、あるいは出さないでしまった年賀状を切手と交換してもらった。そのあと福祉バンクでいま使っているのと同じ形の陶器が出ていたので補充用に買い足す。あとはホームセンターに立ち寄りブラシを購入。
 書き出してみると、やはりこういったまったく平凡な日常となっている。たまにコーヒーショップに立ち寄ることもあったが、ここのところは素通りしている。
 さてこの一文のなかで人さまのお役にたつことがあるかと見直せば、「灯油の値上がり」をお知らせできたことだけかもしれない。

 ただ太文字で書いたことばは、大いにお役にたつこともあるのではないかと思う。つい人やものに依存してしまいがちなとき、方策を見誤りそうなとき、先ず「わたしを呼べ」。神さまは聖書を通してこう仰ってくださっている。


             
       

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きょうのことばー『信仰に生きる』ーその2

※前ページからの続きになっています。2011年3月6日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会のメッセージをお伝えしています。

 
ピリピ3章8節からをご覧ください。ここに罪を悔い改めたパウロの証しが書かれています。

ピリピ3章 8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
11 どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。

 
パウロはここで、自分はいまキリストを信じてキリストの贖いキリストの復活を見たことの故に、もうそれ以外のものはちりあくたとさえ思われるといっています。パウロはさらに告白しています。「わたしは罪人の頭です。わたしはかつてはキリストに従う者をこの手で殺してしまった。私の手は血で汚れている。知らないでやっていた。しかもわたしは自分の義、正しさというものは、ただ掟を守ることによって神に近づくことができると思っていた。だが違っていた。掟では全うできないことをキリストは成し遂げてくださった。」。パウロは自分の罪ということ、自分の義によって神に近づけるという大きな過ちに気がつき、罪を悔い改めて神の前に出た。そして彼は罪を赦されたという確かな経験をしたのです。

 ヘブルの11章に帰りましょう。
1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
 このことばを前に、まさにアーメン、その通りですということができます。

 一方、これは私自身も御前に扱われ考えさせられたことなのですが、ならば罪赦されたクリスチャン、この11:1の意味が以前はまったく分からなかったがわかるようになり、たしかにアーメンと頷けるが、ではこれをほんとうに実践することができるのか。これを自問自答し自らに突きつけてみる。人間はアダムの末裔であり生まれながら罪の性質、不信仰の体質をもっている。新生経験をしたときにヘブル11章1節に頷くんですが、それとともにほんとうに大丈夫なんだろうかと疑いをもってしまう。これなんです。生まれ変わった自分がどうしてこれを当て嵌めて実践していくことができないのか。アブラハムやモーセやその他色々な信仰の列伝として出て来る人たちのように、たとえばノアのように、信仰によってまだ雨もふっていないときに多くの人々の嘲笑のなかで、神さまの示されたような大きな舟を山の上で造るという信仰の実践をほんとうにできるものなのだろうか。そこなんです。どうして信じ切れない自分がいるのか。そこに悩むのです。おうおうにしてそこで、結局人間とはこういうものなのさ、というところに留まってしまう場合がある。悩みながらも神さまを見上げ続けていくのが信仰生活なのだと落着させてしまっていいものなのか。いやもっと力に溢れ、恵みに溢れた信仰生活があるはずだ、エノクやノアやアブラハム。彼らはそういった悩みを扱われた人たちの列伝ではないのか。11章の1節をアーメンと頷きながら、それでも尚神に依り頼み投げかけることを心配し、一歩を二歩を踏みだすのに躊躇を覚えるとすれば、これはもう「きよめ」の問題なのです。

 「信仰の盈満」という著書があります。満ち溢れんばかりの信仰が盈満です。イエスさまがもっておられたのはそれでした。イエスさまの心には喜びが溢れていました。ゲッセマネの祈りで苦しみ涙の叫びをするときでも心の中には揺るがされない心の平安、心の喜び、御心に従う喜びがあった。これが父なる神さまへの全幅的な信頼から来る平安、喜びであることはいうまでもありません。イエスさまは、それとおなじものを私たちにも与えてくださるというのです。イエスさまは、「わたしの与える平安は世が与えるものではない。神を信じ私を信じなさい。」と仰る。私たちの心の中にある、信じたいけれども信じ切れない不信仰、あの病の子供を助けようとした父親の「信じます。不信仰なわたしを憐れんでください。」といったことば。イエスさまは、「もしできるならというのか」と言い「信じるものにはどんなことでもできるのです。」と言っておられます。あの父親のことばには色々な解釈があると思いますが、これは私たちの心の真実な叫びを代弁しているのではないでしょうか。

 そうです。信じたいんです。御子をさえ惜しまずして私たちに与えてくださったことを知っているのですから。救われて生まれ変わって、その方にどうして全幅的な信頼を置い一歩踏み出す事が出来ないのでしょう。どうして信じ切ることのできない不信仰を持ってしまうのでしょう。「信じます。不信仰な私を憐れんでください」といって、ありのままの姿をイエスさまのまえに持っていくとき、イエスさまは、わたしたちに、そうだ、それでいいんだ。こういってわたしたちに安息を与えてくださる。平安を与えてくださる。「わたしは罪人の頭です」と告白したパウロがこう言っています。「 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

 イエスさまへの信仰を持って一歩、二歩と歩き始めたが倒れてしまった。そのときは神さまは必ず引き上げてくださる。しっかりと引き上げてくださるから、ありがとうございますといって立ち上がり、またイエスさまからお養いをいただいて、また失敗したとしても、またそこで力をつければいいのです。筋トレをすればいいのです。小さな事を繰り返し繰り返しやっているうちに段々と筋トレ信仰の筋肉が付いてくる。そして信仰と愛が益々満ちてくる。キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られたという言葉はまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。わたしはその罪人の頭です。

 お話を一つの例話で締め括らせていただきます。数日前に岩崎不二夫先生からお便りをいただきました。岩崎先生は2006年に奥様と共にこの教会で素晴らしいご奉仕をしてくださいました。奥様である正子先生が去年の12月に天に帰られました。世の中ではもう年賀状を出しおわってからで岩崎先生も年賀状を出し終えていたのです。それが突然正子先生が天に召されなさった。ほんとうに驚きました。わたしは厚生の仕事を委ねられておりますが、引退された先生方に誕生日の記念の栞をお作りし、3月までにお生まれになられた引退された先生方にお渡しするつもりでいたのですが、岩崎不二夫先生がちょうどそれに該当したものですから、栞をお送りし奥様のことを覚えながらお慰めをお祈りいたしますと記したところ岩崎先生から数日前お返事をいただきました。

神は結婚の時に、一つとしてあわせてくださった。そしていま突然伴侶者を天に送ることになってしまった。神が一つとしてあわせなさった神さまだけが、そのあわせたもうた神さまだからこそまた離させなさるお方であるということを思い、そこに大きな慰めをいただきました。伴侶者を天に送るということは、両親を天に送ったりすることとはまた違った意味あいがあるということを、深く感じております。

 このように記されてあり、これは非常に心に残る真実な言葉だなあと思いました。まったく突然伴侶者を天に送られた先生。大きな試練であるに違いない、これ以上の悲しみはないにちがいない。けれどもそこに神があわせたもうた伴侶者、その神さまだけが、また離させる権利をお持ちなのだ。しっかりとそれを受けとめてそこに慰めを見出したという言葉に信仰の大先輩、まさにこれが信仰の筋トレというのは不敬虔に聞こえるかも知れませんが、多くのところを経験された器の真実な言葉であると大きく教えられたことです。

※口述を文書に改めるなど若干編集してございます。文責:中ぶんな

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きょうのことばー『信仰に生きる』ーその1

※このブログでは毎週日曜日は、キリスト教会で行われる礼拝の説教をできるだけ忠実にお伝えしています。自らをも含め心の潤いを提供したく願って行っております。

 あさには雪がちらついていましたが、春らしい明るい日ざしもふり注がれました。 きょうは礼拝のあとで茶菓をいただきながら、それぞれの近況をお一人お一人がお話なさいました。短いながらもユーモア溢れる楽しいひとときでした。

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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)の國光牧師のメッセージは、
説教題 『信仰に生きる』 
聖書引証箇所 ヘブル書11:1~6

1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 来週の15~17日の年会前の日曜13日が送別の礼拝となります。ここで頭の切り替えをしなければと思っておるところです。教会総会の前後には多くの信仰の取り扱いを学ばせていただきました。礼拝毎にそれをお分かちして参りました。
 さて信仰とは、信仰に生きるとはどういうことなのでしょう。先週は『信仰と不信仰の狭間に』をお話しましたが、きょうはもっとストレートに信仰に生きるとはどういうことなのかをヘブル書11章1~6節をテキストとして恵みを共有いたしたく思っております。

 信仰に生きる。これは実践に生かされ初めて意味を持つことであります。ヘブル11章にはアベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、モーセ等々、次々に信仰の先達の列伝が紹介されています。信仰の実践をした人たちです。信仰に生きるとは、信仰を実践に生かすことであり、そうして初めて大きな祝福、恵みをもたらすのであります。

 よく筋肉トレーニングを耳にします。わたしもだいぶ前からダンベルを続けています。この筋トレは理論を知っていても、やらなければ筋肉はつかない。理論を踏まえ何回か実践すれば生きてくる。運動の世界では有名な湯浅景元先生がテレビで、電話を掛けるときもただ座っているのではなく台の上に乗ったり下りたりして運動をする、と仰っていました。自分の理論の実践です。湯浅先生ではありませんが、信仰にも実践が必要です。教会、聖書で教えられた信仰をどれだけ実践しているか。始めから負荷が大きければ潰れます。最初は負荷が少なくていいのです。神さまはよくご存じで、わたしたちが信仰的に幼いときには、軽減した負荷をかけなさる。このようにして訓練をし、乗り切ることができたなら、こんどは、もうすこし厳しい負荷を与える。愛の故に加えなさることがある。恐らく経験があるでしょう。クリスチャンになったばかりのころよりも、クリスチャン信仰生活を継続してゆくうちに、以前よりもっと試練が大きくなったということが。これを御利益信仰のようにとらえると、何だ、クリスチャンになったというのに、試練がなくなるどころか、次つぎに増すじゃないかというように旗からは見えるかもしれない。しかし父なる神さまは愛する者にその御目的に従って負荷をかけてくださる。捉えようによっては、試練が増すことは神さまの信頼が大きくなってきたということでもある。神さまは、以前ならこの程度の試練でも潰れかねなかった、しかし今の彼なら、或いは彼女ならば、もうこれぐらいのことには耐えられるだろうと、以前よりも負荷のかかるものを用意してくださる。これをどのように通るのかと神さまはご覧になっている。わたしたちは毎週の礼拝で、「我らを試みにあわせないでください」とお祈りします。これは主がこう祈りなさいと備えてくださった祈りのことばです。これを大前提として、わたしたちが教会を出たその瞬間から神さまは尚その人その人に信仰の筋トレを与えてくださる。

 きのうのニュースですが、小さな子供が一升餅を背負って歩くニュースがありました。子供が背負いきれずに倒れたとき、だらしがない、どうしてちゃんと立てないんだという親は映っていませんでした。母親がにこにこしながら駆け寄りすぐに抱き上げる。一歩でも二歩でも歩けたことをこの子は成長したと喜んでいる。微笑ましく思ったことですtあしたちも背負いきれない荷物を背負わされて歩くことがあります。数歩あるいて、もしそこで倒れてしまったとしても、試練で倒れ込んだとしても、誰がだらしがないといってそれを見過ごしにするでしょう。父なる神さまはすぐさま近寄っていき、わたしたちを助けてくださるお方なのです。それが私たちの信じている神さまなのです。そしてそれまで一歩でも二歩でも歩き出した信仰の姿を見てよくやったね、まえよりも歩けるようになったといって助けてくださる、そういうお方であることを思うのです。

 さてヘブル11章の1節、「 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。」という御言葉には、非常に印象的に端的に信仰の分析がされています。望んでいることがらを保障する。或いは信仰は望んでいることがらの実態である。まさにそこにある。目に見えないものを確信させる。それが信仰。わたしたちは天国を信仰をもって待ち望んでいる。天の御国、それは淡い希望ではなくそれは実態であって、それはたしかなもの..まだ目に見ていませんけれども永遠の命、主にある祝福を信仰はわたしたちに確信させるのです。これが信仰の定義です。このように信仰を頷かせ、可能とするものは何なのだろう。それは神さまによる生まれ変わりの経験、特質、即ち新生経験を持っている者だけが、この11章の1節を頷くことができる。恐らく新生経験を持っていない世の中の人たちがヘブル11:1を読んだときに、日本語として理解できてもその意味するところはまったく分からないでしょう。字面はわかるでしょうけれども、そして大切にすることはもしかしてできるかもしれませんけれども、新生経験を持っていない人は絶対にこの意味していることはわからない。そういうものだと思います。

 ここでヨハネ3章に出てくるイエスさまとお会いしたニコデモを思い起こしてください。彼はユダヤ人の指導者です。聖書にも通じている。神の掟にも忠実な人物でありましたけれども、新生経験を持っていなかった。ニコデモは、イエスイさまを信じたくてしかたがない、というよりも真実に反発するものは何もなく、できるのならこの天国というものをほんとうに知りたくてイエスさまのところに教えを請いにやってきたのです。これはわたしの造語になるかもしれませんが、ニコデモ症候群といったらいいでしょうか。ある共通の原因があってみんな同じような症状を呈する。それを指して何々症候群と言うとすれば、まさにこれはニコデモ症候群といったところ。ほんとうに神さまを信じたい、天国に反対するわけじゃない、いやむしろ信じたい。けれども方策が分からない。イエスさまが、あなたはユダヤ人の指導者でありながら、こんなことがわからないのですか、と言われるほどでした。原因は新生経験がないからです。ではどうすればニコデモ症候群を脱することができるか。それは入るべき門をしっかりと通らなければなりません。「わたしという門を通ってでなければ中に入る者は盗人であり強盗である」とイエスさまは言っておられますけれども、そこを通ってでしか分からない決して中に入ることが出来ない門がある。それは、罪を悔い改めるという門です。罪を悔い改めるという門を通って中に入って初めてこのヘブル11:1を、ああそうだったのかと頷くことができるわけであります。

               ーつづくー

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昭和2年活動写真舘「紀念舘」主である圓子(円子)正、自作を指揮

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 随分と昔の新聞記事コピーを引っ張り出しスキャナを潜らせました。20年もまえにマイクロからコピーした記事を、当時はまさか自分がブログを公開するようになり、記事として掲載するだろうとは想像だにしませんでしたから、コピーにはもう○囲みしたり、傍線を引いたりの落書きだらけですが。

 「
紀念舘では今囘海軍軍樂隊出身の優秀なる樂士数名を招聘して充實したオーケストラを組織したのでその披露のため十八日から三日間に亘る公會堂映畫大會の休憩奏樂に出演することになったが演奏樂は同舘主作曲の秋の夜の夢で同氏がタクトをとるが和洋樂合奏となってゐる演奏時間は多分午後八時半となるだろう。

 岩手県公会堂は大正14年に着工。644日を費やして昭和2年に竣工となった。644日間多くの大工、左官、ガラス職人、レンガ職人その他の方々が労を注ぎ込まれた。この中の一人にわたしの友だちのお祖父さまがいらしたということを知り、公会堂がいよいよ身近となった。(設計者、請負業者名、当時の岩手県知事などのことは割愛)記事は、この公会堂の落成記念行事への参加である。

 紀念舘主とは圓子正(2008年6月17日のブログに書いてございます)のことであり、貧苦の中にも盛岡に音楽の灯を絶やすまいと粉骨の努力を傾けた人物で、梅村保や赤沢長五郎に楽器の手ほどきをし大きな音楽的影響を与えた。
 当時を知る方々は「
紀念舘に行けば生演奏が聴ける」といったものだという。
この記事で圓子正が「秋の夜の夢」という曲を作曲していたことがわかる。楽譜が残っているかどうかは分からない。

 もしかすればシェークスピアの「真夏の夜の夢」と関係はないだろうかと三日間に上映される映畫のプログラムを見たが、シェークスピアの映画はない。もしや「真夏の夜の夢」の向こうを張った? と、ちらりと過ぎったのは、やはりわたしの勘違いだったと思った。圓子正作曲の「秋の夜の夢」、どこかから楽譜が見つかり聴くことができたなら嬉しいのだが。

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“いい写真”は“いい演奏”に結びついている

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 このCDは1993年録音の朝比奈&都響のブルックナー「交響曲弟9番」の解説に納まっている写真だ。この盤は“朝比奈ブルックナーの総決算”ともいうべき第一級の名演奏とされている。ただまだ演奏について感想を述べられるような聴き方はしていない。“ながら”ではないがじっくりと集中的に聴いてはいない。たびたびの一時停止で他のことをし、音楽世界が遠のいたころにまた舞い戻るといったパターン。それでも書こうとするのは写真のこと。楽器の艶やかさ美しさ、弦を奏で鍵盤を駆ける指、指揮者が音楽の核心部分に触れたときの表情、坦懐に無心に歌う姿。こういった写真には心惹かれる。しかしホールでの撮影は禁止。専ら写真やDVDでとなっている。このコンサートの写真について、朝比奈1993盤の解説の中で、木之下晃氏が1995年現在で仰るに、

 65年から朝比奈を写し始めて30年、撮ったフィルムは約500本。その中で“いい写真”となると数えるほどしかない。“いい人物写真”とは写し手と被写体の方の双方が気にいることがその条件の一つであるという。

 「写し手と写された人との間に互いに発するエネルギーが或る高い次元で結合した『一瞬』に生まれるような気がする。…写真集を出版するにあたってセレクトしていたら、“いい写真”は同じ演奏会でまとまって写っていることが多いのに気づいた。思い起こすとその演奏会はいずれも名演奏だった。いい音楽が演奏されるときは指揮者もオーケストラのメンバーも音楽の中に没入し、とても美しい演奏スタイルになっている。“いい写真”は“いい演奏”に結びついている。…“いい演奏“というのは音楽家から多大なエネルギーが送り出されていることを意味し、写し手はそれを写しとめる技が必要となる。その技がいわゆるシャッター・チャンスといわれるものである。“いい写真”を写すということはそのシャッター・チャンスを磨くことである。写真はシャッター・チャンスとフレーミングの二つの感性で成り立っていて、その感性は強い集中力が要求される。シャッター・チャンスの感性は、目で見た状況を指先に伝達しシャッターを押すまでのタイムラグを無くすることなのである」

 因みにこの写真は朝比奈が大変気に入ってプロフィール用、レコードのポスターなど多く使ったといい、また木之下氏にとっても初期の傑作の一枚であるという。


 

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「昭和4年、公会堂のにぎわい」ー「街 もりおか」 2011 3 №.519-

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街 もりおか」  「昭和4年、公会堂のにぎわい」(中ぶんな) が16、17頁に載っています。「街」編集委員の(菅)さんから書かせてくださるとのお電話があり、お承けしたものです。記事のコピーを掲載するのには無理がありますので、提出したワード原稿で載せます。誌上では一行空けはありません。

昭和二年に竣工した岩手県公会堂が一時期無惨な外観を呈していたが、現在はきれいに管理されて活気を取り戻しほっとしている。

昭和四年のことになるが、大ホールで岩手のヴァイオリニストの先駆けである赤沢長五郎が独奏会をしたことがある。賛助出演は弦楽四重奏団ハイドン・カルテットだった。このカルテットが当時如何に由緒ある輝かしい存在であったかはあまり知られていない。第一ヴァイオリンの芝祐孟は宮内省式部職雅楽部オーケストラ在籍、ハイドン・カルテットを創設した。第二ヴァイオリンの窪兼雅(東儀家出身)は同楽部第一主席奏者。セロの多基永は同学部のセロイスト。ヴィオラの杉山長谷夫は雅楽部員ではないが東京音楽学校卒、安藤幸の弟子で、「出船」、「花嫁人形」の作曲者である。カルテットとしての音盤は残されていないが、芝祐孟の弦の音は、採録盤昭和六年にコロムビアから発売された「花嫁人形」(杉山長谷夫作曲)に入っている。歌手はメゾソプラノの柴田秀子。伴奏はピアノが杉山長谷夫、ヴァイオリンが芝祐孟だ。芝のソロ演奏ではないが、それでも辛うじて当時を偲ぶことができる。(ネットではURL http://www.yidio.com/06/id/1779262609で試聴できます)。

宮内省の雅楽部は、一時期旧楽家以外からも楽師を募集したが、基本的には世襲制。芝祐孟、窪兼雅、多基永は旧楽家の楽長クラスの家柄の出身である。

ハイドン・カルテットを初めて盛岡に招聘したのは、大正時代の弦楽四重奏団太田カルテットだった。宰相原敬の甥原彬が東京音楽学校教授の榊原直と懇意となり、その延長線上にハイドン・カルテットとの交遊ができた。太田カルテットの四人(佐々木休次郎、館沢繁次郎、赤沢長五郎、梅村保)は彼らの定期演奏会や帝国劇場、報知講堂、日本青年館などでの内外の音楽家たちのコンサートに度々上京し、機会があれば彼らを礼儀を以て厚遇していたと考えられる。

明治維新の雅楽部員たちは雅楽はもとより西洋音楽を兼修し、音楽取調掛の業務にも協力した。鹿鳴館竣工後は、宮廷以外の場所での演奏、各方面の指導と、また音楽団体を組織するなど洋楽の発展に一大寄与し、その矜持も一方ならぬものがあったろう。斯くも華やかな宮廷音楽家たちではあるが暮らし向きは厳しく、明治三十年には雅楽部員たちが、音楽の保存、維持の必要をも含み、給与の改革を求めて全員総辞職するという事態が起きた。改革案を以て慰留されたが抜本的な刷新はなかった。

佐々木休次郎、館沢繁次郎は岩手でも屈指の素封家である。梅村、赤沢も武道、音楽に身代を傾けた。他の都市に先駆けて千四百年の伝統をもつ楽師たちを、他の都市に先駆けて盛岡に招聘できたのはこのような背景にも因るだろう。盛岡への招聘は三回あった。大正十二年七月と、関東大震災で東京が壊滅状態となった翌年の大正十三年、そして昭和四年の赤沢長五郎ヴァイオリン独奏会の賛助出演でこれは館沢の個人的な肝煎りで実現している。

これ以外にも太田カルテットが大正時代に主催した多くの音楽会が、単に素封家の道楽に止まらず、多くの人々にも音楽の喜びを提供したいと実現されたところに、来盛した音楽家たちや太田カルテットの四人を語り継ぐ価値を見出す。

いま岩手県公会堂大ホール839席の一つに座ってみるとき、昭和四年のあの日に詰めかけた聴衆の熱気と音楽家たちが彷彿とし、弦の音が輝きを帯びて響いてくる心地がするのである。

(弟38号「北の文学」優秀賞受賞)


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(わたしが)知っているようでよくは知らないバッハー聖トーマス教会カントルー

  じぶんが今日どのように過ごしたか、それはここに書いてひとが楽しめる、或いは参考になるといったものとはすこし違っている。きょう一日が天からわたしに与えられたわたしだけの一日であることには、社会的な価値とはまた別に大きな意味のあることではある。しかし読んだ方にはただ平凡で退屈なだけになるだろう。もたらすものが何もないでは申し訳がない。そんなふうに思われるときに、じぶんが知りたいと思うことを書き連ねている。
 
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 大バッハ。Wikipediaにも書いてあり、なにもここに書かなくともと思うのですが、これだけはと纏められているものを先ず知ることが、わたしの場合は、この後より親しみやすくなると思われます。


 バッハは聖トーマス教会のカントルでした。教会と附属学校の聖歌隊を指導する役目がありました。またライプツィヒ市全教会の音楽監督でもあった。当初カントルの候補は、彼のほかにもいました。3番目の候補者だったのです。しかし幸運なことに彼に白羽の矢が立ちました。最初の仕事は「ヨハネ受難曲」の演奏でした。以前から聖トーマス教会に頼まれていた作品です。「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」「ミサ曲ロ短調」の3曲は現在でもよく演奏されています。バッハの深い信仰心が聴くひとの心を打つのです。「マタイ受難曲」の合唱の幕開けは聴く人に悲劇の始まりを予感させます。アリアとコラールが物語を美しく歌い上げます。彼は偉大な作曲家であり偉大な詩人でもありました。「ミサ曲ロ短調」の「サンクトゥス」は最も荘厳な宗教音楽と言われています。(Victor DVD 「バッハ物語」よりー岩手県立図書館蔵ー)

 「ミサ曲ロ短調」、この大曲が演奏されたのは去年の1月でした。盛岡で聴くことができた幸運。思えば夢のようなことでした。それを聴くために事前に何度も繰り返し聴いたことで、わたしなりに蓄積を得ることができたことも幸運でした。

 とは言いつつも今日聴いたのはヒルデガルトの「天空の光」と朝比奈隆のブルックナー9番。どちらも“ながら”。何かをしながら聴くのは、たしかに聴いたという実感が得られないのですが、これからは大いに“ながら”で聴くことに。うかうかしているうちに人生が終わってしまうこともあり得る。そのまえにはロ短調もまだまだ聴きたい。そして滑り込みセーフでも天の御国に入ることができたなら、「バッハ先生、ミサ曲ロ短調とトッカータとフーガはもう厭きるほど聴きました。厭きませんでしたけど。聴くことのできなかった曲もたくさん。先生はほんとうのところいったい何曲つくられたんですか?」と訊いてみよう。

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松田晃 歌曲リサイタル XV “音楽生活50年+10”

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 長年にわたり岩手県立高校及び岩手県立盛岡短期大学で学生たちを指導され、また昨年秋には合唱指導、音楽教育における貢献で瑞宝小綬章を叙勲された松田晃先生が、ことしも歌曲リサイタルを更新されることとなりました。“音楽生活50年+10“コンサート。2011年3月月12日(土)岩手県民会館中ホール14:30開演です。

  「楽に寄す」
        
  堀内敬三訳詞・F.P.シューベルト作曲

     楽(がく)の音(ね)わがなやむとき
     心をおとずれては
     あたたかき愛を充
(み)てつつ
     清らかなる境
(さかい)
     わが身をともないぬ

     妙
(たえ)なる琴のひびきの
     さやかに鳴りわたれば
     この世にも天
(あま)つ幸(さち)あり
     くすしきかな 楽の音
     とうとしや 楽の音

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