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「昭和4年、公会堂のにぎわい」ー「街 もりおか」 2011 3 №.519-

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街 もりおか」  「昭和4年、公会堂のにぎわい」(中ぶんな) が16、17頁に載っています。「街」編集委員の(菅)さんから書かせてくださるとのお電話があり、お承けしたものです。記事のコピーを掲載するのには無理がありますので、提出したワード原稿で載せます。誌上では一行空けはありません。

昭和二年に竣工した岩手県公会堂が一時期無惨な外観を呈していたが、現在はきれいに管理されて活気を取り戻しほっとしている。

昭和四年のことになるが、大ホールで岩手のヴァイオリニストの先駆けである赤沢長五郎が独奏会をしたことがある。賛助出演は弦楽四重奏団ハイドン・カルテットだった。このカルテットが当時如何に由緒ある輝かしい存在であったかはあまり知られていない。第一ヴァイオリンの芝祐孟は宮内省式部職雅楽部オーケストラ在籍、ハイドン・カルテットを創設した。第二ヴァイオリンの窪兼雅(東儀家出身)は同楽部第一主席奏者。セロの多基永は同学部のセロイスト。ヴィオラの杉山長谷夫は雅楽部員ではないが東京音楽学校卒、安藤幸の弟子で、「出船」、「花嫁人形」の作曲者である。カルテットとしての音盤は残されていないが、芝祐孟の弦の音は、採録盤昭和六年にコロムビアから発売された「花嫁人形」(杉山長谷夫作曲)に入っている。歌手はメゾソプラノの柴田秀子。伴奏はピアノが杉山長谷夫、ヴァイオリンが芝祐孟だ。芝のソロ演奏ではないが、それでも辛うじて当時を偲ぶことができる。(ネットではURL http://www.yidio.com/06/id/1779262609で試聴できます)。

宮内省の雅楽部は、一時期旧楽家以外からも楽師を募集したが、基本的には世襲制。芝祐孟、窪兼雅、多基永は旧楽家の楽長クラスの家柄の出身である。

ハイドン・カルテットを初めて盛岡に招聘したのは、大正時代の弦楽四重奏団太田カルテットだった。宰相原敬の甥原彬が東京音楽学校教授の榊原直と懇意となり、その延長線上にハイドン・カルテットとの交遊ができた。太田カルテットの四人(佐々木休次郎、館沢繁次郎、赤沢長五郎、梅村保)は彼らの定期演奏会や帝国劇場、報知講堂、日本青年館などでの内外の音楽家たちのコンサートに度々上京し、機会があれば彼らを礼儀を以て厚遇していたと考えられる。

明治維新の雅楽部員たちは雅楽はもとより西洋音楽を兼修し、音楽取調掛の業務にも協力した。鹿鳴館竣工後は、宮廷以外の場所での演奏、各方面の指導と、また音楽団体を組織するなど洋楽の発展に一大寄与し、その矜持も一方ならぬものがあったろう。斯くも華やかな宮廷音楽家たちではあるが暮らし向きは厳しく、明治三十年には雅楽部員たちが、音楽の保存、維持の必要をも含み、給与の改革を求めて全員総辞職するという事態が起きた。改革案を以て慰留されたが抜本的な刷新はなかった。

佐々木休次郎、館沢繁次郎は岩手でも屈指の素封家である。梅村、赤沢も武道、音楽に身代を傾けた。他の都市に先駆けて千四百年の伝統をもつ楽師たちを、他の都市に先駆けて盛岡に招聘できたのはこのような背景にも因るだろう。盛岡への招聘は三回あった。大正十二年七月と、関東大震災で東京が壊滅状態となった翌年の大正十三年、そして昭和四年の赤沢長五郎ヴァイオリン独奏会の賛助出演でこれは館沢の個人的な肝煎りで実現している。

これ以外にも太田カルテットが大正時代に主催した多くの音楽会が、単に素封家の道楽に止まらず、多くの人々にも音楽の喜びを提供したいと実現されたところに、来盛した音楽家たちや太田カルテットの四人を語り継ぐ価値を見出す。

いま岩手県公会堂大ホール839席の一つに座ってみるとき、昭和四年のあの日に詰めかけた聴衆の熱気と音楽家たちが彷彿とし、弦の音が輝きを帯びて響いてくる心地がするのである。

(弟38号「北の文学」優秀賞受賞)


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コメント

田中隆雄さま
わたしは岩手の弦楽四重奏団の草分け太田カルテットの周辺としてハイドン・カルテットを若干追ってみたわけでした。
このブログ掲載の資料は太田カルテットのメンバーである赤沢長五郎氏の遺品のコピーまたは当時の新聞マイクロから入手しました。
特に音源に関してのご研究であれば、ご存じかとは思いますが、宮澤賢治研究家の佐藤泰平先生がお詳しいかと存じます。http://yellow.ribbon.to/~arufupapa/taihei-sato.htm
窪兼雅、杉山の貴重な音源の情報をありがとうございます。特に窪のが残っていたとは驚いております。
時間的に厳しい状況にありますが、機会を捉えさらに調べてゆきたく思っております。宜しくお願い申し上げます。

投稿: 中ぶんな | 2011年4月 6日 (水) 23時21分

ネットサーフィンをしていて貴兄のブログに行き当たりました。ハイドンカルテットについての貴重な情報ありがとうございます。私は戦前の日本人及び来日演奏家についての録音を主とした研究をしておりますが、ハイドンカルテットのメンバーが詳細に分かり大変ありがたく思っています。このメンバーで芝祐孟の音源は承知しておりますが、窪兼雅はシキシマレコードというSP盤にソロを入れています。杉山もニットーにソロがあります。他にも大正時代のジュピターカルテット等不明な楽団もまだまだあり、貴兄ご存知のことがございましたら是非ともご教示いただきたいと思っております。

投稿: 田中隆雄 | 2011年4月 6日 (水) 14時14分

maruseiさま
お祖父さんが公会堂建築に関わってらしたなんて!! 理屈抜きにとても嬉しかったです。ドアの開け閉てももっと注意深くしなくちゃ、そんな意識になりました。ほんとうに時代を超えて立ち続けていって欲しいですね。
当時の新聞、竣工の2年の記事を主に取ったわけですが、着工年のほうを調べれば工事関係者の方々を詳しく知ることができるかもしれません。知りたくなりました。

投稿: 中ぶんな | 2011年3月 5日 (土) 14時44分

実家の祖父が(ずーと前に亡くなりましたが)大工をしていて、公会堂の建設にかかわったのを、とても自慢にしていました。
建てられた年から考えると、だいぶ若い時だと思われます。
祖父が亡くなったあとも、祖母は公会堂の前を通るたびに「ここを建てたのは・・・」という話をしていました。
あの世で公会堂が、取り壊されることなく利用されていることに安心し、誇りに思っていることと思います。

投稿: marusei | 2011年3月 4日 (金) 22時25分

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