きょうのことばー『信仰と不信仰の狭間で』ーその2
※2011年2月27日のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教を二回に分けて掲載しています。前ページのつづきとなっております。
今回このメッセージを備えさせていただきながら19節の
「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」
このイエスさまの御言葉の深さを思いました。
イエスさまが人としてこの世に生きていちばん不可解なのは、人々が父なる神への単純な信頼、信仰をどうして持たないのかということだったでしょう。父なる神に疑いをもつことなどイエスさまには考えられないことでした。ところが私たちは生まれながらにしてアダムの裔、神への全幅的な信頼ができず、神を拒否する性質を持って存在を始めている。イエスさまにしてみれば、どうして自分が父なる神を信じるように人々が父なる神を信じないのか、これを嘆かれているのがこの19節なのです。
私たちはイエスさまの救いに与り、罪赦されクリスチャンとなって、神さまを信じるという新しい性質、命が与えられたのは勿論ですが、神さまを喜ぶ性質をも与えられたのです。さらには、生まれながら神に背いてしまう原罪、罪の性質も除かれるきよめの恵みを受け、イエスさまが持っておられた神の平安を与えられている。
ならば、きよめの信仰をもったものは、現実的な大きな問題に立ち至ったときに、神さまに応えていただけるものなのか。きよめの信仰を持ち一生懸命まじめに歩んでいるなら、大きな課題に直面したときにすぐさま神さまを信頼し全面的に飛び込んでいくことができるのか。個別的にさまざまなケースがありましょうけれども、それができるのか。ほんとうに神さまはこれを助けてくださると確信がもてるのか。それとも、「もしおできになるなるのなら助けてください」というように、信じきれていない部分があるのだろうか。こういった問題を取上げさせていただくうちに、私は、これまであまり区別しなかったところ、そして区別できなかったところに気づきを与えられました。それを今日お分かちできたらと思うのです。
一つの例として、バンジージャンプをご存じでしょう。一本のロープにすべてを委ねて崖や或いは橋のようなところから川に飛び込む。あれは信仰を言い表すのによい実例でしょう。だいじょうぶこの綱は切れないし助かるようになっていると信じる人は飛び込んでいく。それが出来ないのは信頼しきれないからです。信仰でいえば信頼しきれないから飛び込むことができない。それが不信仰だというようにこれまでは理解していました。それはそれなりに間違ってはいない。しかし今回与えられた光は、そうとばかり言いきれないだろうということでした。飛び込むことができないのは不信仰なのか、罪なのか罪ではないのか。そしてわたしは、飛び込むことができないのはイコール不信仰という結論は、ある真理をいってはいるけれども、それがすべてではないことに光が与えられたのです。もっと言いましょう。つまりバンジージャンプの例でいうなら、飛び降りるこの地点は、その人にとって初めての高さなんです。初めてのことを経験するときには緊張し不安を覚える。これは誰にでもあり得る。30階の屋上に連れていかれたとしましょう。眼下には車や人が豆粒のように見える。「さあこの迫り出した鉄板を歩いてご覧、絶対に落ちないから」と言われ、仮にそこを歩くことが出来なかったとしても、それを不信仰といえるのか。そうじゃない。それは慣れないからなのです。地上30センチの高さから鉄板を出して「歩いてご覧」といえばできる。ならば50センチは。ちょっと緊張するでしょうが何回か繰り返せばできる。こんどは1メートル。それを繰り返して慣れていけばいいのです。
ペテロがガリラヤ湖で湖の波の上を歩いたことがありました。大嵐です。まだ暗かったでしょう。イエスさまが向こうから歩いてくるのを弟子たちは見ました。屈強な漁師だった弟子たちがイエスさまだと分かって大騒ぎします。ペテロが「波の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と願ったとき、「きなさい」とイエスさまは仰った。ペテロは歩いていったのです。ところが沈んでしまった。そのときイエスさまはすぐにペテロを引き上げて、「ああ信仰が薄いものだ」と仰る。でもイエスさまはそれを引き上げてくださった。このお話と、きょうの、父親が「信じます。不信仰なわたしをお助けください」といったところがクロスしています。もしペテロが他のお弟子さんたちのように何にもしなかったなら、嵐はしずまったでしょうが、ただそれだけだったでしょう。けれどもペテロは一歩踏み出した。そこで見事に失敗しましたけれども、イエスさまはぐっと捕まえて引き上げ救ってくださった。このペテロの失敗のほうが、舟の中に留まって何もしないお弟子さんたちよりもよほどすごいとおもうのです。
ペテロは信仰をもって「もしあなただったら行かせてください」と願った。それが波風を見てしまいイエスさまから目を逸らしたときに沈みましたけれども、イエスさまはそれを駄目だな、もうすこしそこで苦しんでいなさいとは言っていない。イエスさまはすぐにペテロを引き上げてくださった。
大きな課題があったときに助けてくださるか助けてくださらないかと躊躇するよりも、ほんとうに私は信仰を持っているのかいないのかというようなことをあれこれ頭の中で議論するよりも、イエスさまというお方を信じて、それなりに信じてその大きな問題を主の前に持ち出して波のうえを歩く。或いはここにいうようにイエスさま、不信仰なわたしを助けてくださいと言ったときに、イエスさまは必ずそれを何もしないで舟の中にいる人たちに対してよりも、イエスさまは御業をなしてくださる。わたしは信仰をもっているんだろうか、不信仰なんだろうかと議論するよりも、ほんとうに大きな課題に直面するときに、もうそのまま、「主よ助けてください」と言いましょう。そのときに、繰り返すようですが、イエスさまから目をはなし嵐の方に目がいってしまうのは当然なんです。慣れていないのですから。慣れないから失敗するのは当たり前なんです。失敗したっていいじゃないですか。きょうのわたしの説教の中で、「喜んで失敗するペテロになろう。」、このメッセージが伝われば良いと思っています。どうしたら失敗しないかではないのです。どうしたら失敗しないのか信仰とは何なのかということを考えるのではなく、もの凄く大きなこの現実的な課題が今自分にはある。もうこれはきょうを今を生きる存在そのものが問われるというそのときに、主の前に全幅的な信頼を持って飛び込んでいく勇気。波を見て風を見て失敗したっていい。踏み出さずに舟の中にいたところで何にもならない。よし失敗するとしても「イエスさま助けてください」と踏み出す。これは罪ではない。不信仰の罪というのは、ほんとうにイエスさまは私が踏み出すことを喜ばれるだろうか。そうじゃないかもしれないと、イエスさまの善を疑い踏み出さない、これを罪というのです。しかし慣れないことに躊躇を感じてなかなかできない。たしかにイエスさまは為してくださると信じてはいるがなかなか踏み出せずにいる。これは罪ではないのです。慣れないからなのです。だから「不信仰なわたしを憐れんでください」と率直にいって、イエスさまの懐に飛び込んでいけばいい。あとはイエスさまが責任をもってくださる。あとはイエスさまがほんとうに責任をとってくださる。もしそうでなかったならこの信仰はウソになります。飛び込んでいきましょう。
小さな例ですがこれをお話しして締め括らせていただきます。
私がまもなく神学校を卒業だというときのこと。届いているという荷物を受け取りに行かなければなりませんでした。外出日が決まっているので、その日しかありません。数百円の預かり料を支払わなければならないのですが、その数百円が全くなかった。ほんとうに困りました。 そのとき、私が神学校に入学するときに非常にお世話になった先生の教会に送ろうと、封筒に千円を入れて封をし、切手を貼って出すばかりにしていたものがありました。これは神さまのものと聖別したお金です。絶対に手を着けてはならないと決めていました。しかし先ほどのことでどうしても数百円必要でした。窓口に行って請求されたのでほんとうに封を破ったんです。そして千円を取り出そうとしたときでした。窓口の方が「ちょっと待ってください。こちらの保管ミスでお荷物が汚れてしまいました。隣の荷物染みだした油が、あなたの荷物に染みこんでしまったので、これはこちらのミスですから保管料いただくわけにはいきません。」。こういって私は荷物を引き取ることができました。ほんとうに感謝しました。私は神学院に帰るあいだ踊るような喜びでした。神さまがお祈りに答えてくださった。こんな乏しい者でも神さまを信頼していくのならば、神さま必ず答えてくださる。それを神学校を卒業する間際に、これがあなたの信じている神さまなんだよ、と教えていただいたのです。みなさん、そんなことがあり得ると思いますか。でも神さまはそういうことをしてくださるお方なのです。ですから本気になってペテロのように踏みだし飛び出していきましょう。本気になってこの父親のように、「信じます。不信仰な私を憐れんでください」と言いましょう。この不信仰は罪ではありません。飛び出すことができないのは慣れていないのであって、しかし、それでも踏み出していくのなら必ず神さまは勝利を与えてくださる。どうぞこのことを心に留めてこの生ける神さまを信じていこうではありませんか。
※文責:中ぶんな
聞き落としなど若干あることをお許し下さい。
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