きょうのことばー『砕かれた者の幸い』ーその1
毎週日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019ー646ー2924)のメッセージをお伝えしています。この教会は國光勝美牧師、ひろ子牧師が牧会しています。
きょうはメッセージを2回に分けてお届けいたします。
説教題 『砕かれた者の幸い』
聖書引証箇所 詩篇34:1~22
ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が違ったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき
1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
8 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
9 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。
11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。
12 いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
14 悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。
15 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
16 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
17 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。
19 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
21 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。
22 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。
きょうは特にこの詩篇34篇18節を中心に御言葉を取次がせていただきたいと導かれております。
さてクリスチャンと私たちは呼ばれています。ではクリスチャンとはいったいどういう人たちなのでしょうか。他の人たちと何が違うのでしょうか。
先ずは聖書を受け入れている、或いはキリスト教の教理を頷いて受け入れているものということができるでしょう。一般の世の中の人が神様を礼拝するというときには、鳥居をくぐり拝殿のまえで手をたたき拝礼をする。神社仏閣で鐘を鳴らし香を焚きその前で恭しく手を合わせお参りをする。しかしこれは明らかに私たちの礼拝とは違っています。私たちはそういったことはしません。偶像といった目に見える像に向かって礼拝を捧げたりはしません。私たちが神様というとき、それは聖書の教えているすべてをお造りになられた神様、或いは三位一体即ち父なる神・子なるキリスト・聖霊という三にしてひとりであられるお方、わたしのほかに神はいない偶像を作ってはならないと仰る神様の聖書の教えに従って神様を礼拝している、その意味でキリスト教の教理を頷いて受け入れている輩がクリスチャンだということができます。
きょう敢てそのことを語るのは、クリスチャンとはそういうことをする人なのだということが、逆も真であるのか、何々をしないで聖書を頷いているのがクリスチャンであるのかというそのところにきょうはポイントを合わせたいと思っています。そこで心砕かれた者、魂を砕かれた者というところにどうぞ焦点を合わせていただきたいと思います。
それでは前に戻りまして、ほかの人たちとクリスチャンとの違い、それは別の表現をするとクリスチャンらしいライフスタイルを持っている、これもたしかにクリスチャンと言われる目に見える形かもしれません。何を言わんとするかと言いますと先ず聖書をみんな持っておられると思います。聖書を離れて私たちはクリスチャンであるということは到底言えません。聖書に親しんでいる。これは尊いことです。そしてさらに顕著ならしめているのは何かというと日曜日教会に行くということです。これはわたしたちには当然のライフスタイルなのですが、当然過ぎてしまっていることもありがちです。
クリスチャンになってから私は日曜日のこの時間教会の礼拝を守らなかった日は一度もありません。それほど健康的にも憐れみのゆえに恵まれて、クリスチャンになった学生時代からいまに至るまで皆出席。ちょっと遅れたことはあります。十数年前、海外にいったとき、日曜日に帰国しました。成田からインマヌエルの東京にある教会に礼拝に間に合おうということで、すぐに渋谷の教会に行きました。すでに礼拝は始まっていたのですが聖日を守ることはできました。その途中の街にはいっぱいに人が溢れショッピングを楽しんでいるのです。いま教会では礼拝を守っている時間でしょうとつい思ってしまう。あの場面はそれほどに強烈に映りました。それほどショックでした。しかし、ああ、この人達から見ると私の方が明らかに例外なんだなとも思いましたが。それは兎も角、クリスチャンにとって日曜日の朝神様の前に礼拝を捧げるというライフスタイルはほんとうに尊いことだなと思うのです。
それではそういったライフスタイルさえできていればクリスチャンなんでしょうか。違います。聖書を持ち日曜日には教会に行き、教理に頷くことがクリスチャンなのではない。わたしたちが他の方々と生き方が大きく違うのは、この詩篇34:18によれば、心の打ち砕かれた人、霊の打ち砕かれた経験のあるものが主に叫び主に祈り主を土台として歩み続けている、それがクリスチャンなのです。心の砕かれた者、霊の砕かれた者、この経験をはっきりと自分の生涯の中ではっきりと、あるとき、あのとき私はこの経験をしましたというその事柄をどうぞ確認をしていただきたいのです。
いま申しました事柄をさらに分かりやすい一つの例としてお話をしますと、いまこの教団の責任を持っておられる竿代照夫先生が、ご自分がクリスチャンになったときの体験をある集会で語ってくださいました。
竿代先生のご両親は船橋教会で信仰生活を模範的に歩んでおられ、先生はその中で教会学校にも励み、長じて青年会など教会活動でも励み、期待され自分もそれに身を当て嵌めた生き方をしておられた。高校生のとき聖別会ーきょうの午後はこの教会でも聖別会がありますがより深い信仰生活を扱うのが聖別会なのですがーがあった。講壇に立ったメッセンジャーが、集会の締めくくりの時にこう語ったという。
「自分がほんとうにクリスチャンになっているといういちばん始めの生まれ変わりの経験、心砕かれる霊が砕かれるという経験をしていなければ、どんなに聖潔のメッセージを聞いたとしても心には届かない。もしこの中に自分がまだクリスチャン経験をしていない人がいるなら、いまその機会をあげますから前に出ていらっしゃい」
そのときに竿代照夫先生は出ていきました。
「他の人がどう思おうと関係ない、わたしはそのような環境に育ってクリスチャンであるのが当たり前という生活のなかで学生時代のいまにいたるまでやってきたけれども、聖書のいっているこのほんとうの神様の恵みが自分にはないことが集会に出れば出るほど分かってきて苦しかった。救われて天国に行けるということ、イエス様が十字架に架かり贖いをなし信じれば救われるという教義はもうぜんぶわかっている。わかっているからこそ教会学校で教えもした。しかし私はまだ生まれ変わりの経験を持っていなかった。わたしは正直に前に出ていって神様の前に悔い改めのお祈りをしました。これがわたしがクリスチャンになったときです。」
先生はこのような尊い体験をお分かちくださいました。
まさにこれです。わたしたちクリスチャン信仰生活を送っている者達が他の方々と何が違うか。教義に頷いている、ライフスタイルを持っている、たしかにそうでしょう。しかしそれだけではない。いちばんの中核を成しているのは、心が打ち砕かれた経験を持っている人。霊が打ち砕かれた経験を持っている者。 ーつづくー
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