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きょうのことばー『信仰と不信仰の狭間で』ーその1

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 きょうは個人的にはたいへん忙しい日でした。しかし教会にいくことができ、ほっと一息ついてイエスさまを讃美し、きょうの神さまからのメッセージに耳を傾けました。これを二回に分けてお届けします。
 礼拝がはじまる直前に教会の玄関先まで私に会いにきてくれた友だちがいたことも私を大いに幸せにしてくれました。神さまは一日の中には必ず何かよいことを一つ準備してくださる、そんなふうに思いました。
 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のメッセージは、


説教題 『信仰と不信仰の狭間で』
聖書引証箇所 マルコ9:14~29

14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
15 そしてすぐ、群集はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。
17 すると群集のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。
18 その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すように願ったのですが、できませんでした。」
19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
25 イエスは、群集が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。
27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」


 年会をまもなく迎えようとしておりますこのとき、その時その時にこの年神さまが私たちに指さしてくださる御言葉を中心に開いてまいりました。きょうはマルコの福音書9章でございますが特に9章24節
の「不信仰なわたしをお助けください」を中心にメッセージをお分かちしたく願っております。皆さんはこの数週間それぞれの環境のなかでそれぞれの過ごし方をなさったと思いますが、わたし自身は、格別に「信仰ということをあなたはどのように捉えているのか」と神さまから突きつけられた思いでおりました。そういう意味で非常に信仰が扱われたときであったといま振り返っています。そしてこのような神さまのお取り扱いをもし聖書から一言でいうならと思い巡らしたところ、「信じます、不信仰なわたしをお助け下さい」という父親の叫びがまさに神さまがわたしを扱ってくださったその集約ではないかと思いました。

 この出来事自体は、父親と大きな苦しみを体に抱えている子供のことです。子供を何とか助けたいお父さんが子供を連れてイエスさまのところにやってきたところです。あいにくイエスさまはペテロやヤコブ、ヨハネという3人のお弟子さんを供にして変貌の山ともいわれるヘルモン山の麓にいたのです。留守のところにこのお父さんと子供がやってきた。ところがお弟子さん達にはとても手に負えない。弟子達が困り果てているところに山から下りてこられたイエスさまがいらっしゃる。「
口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。」と申し出る父親。
18 その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すように願ったのですが、できませんでした。
19 イエスがこれに答えられる。
「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
 
この御言葉が大きな意味を持っている。この御言葉がイエスさまから真っ先に出てきたのです。そしてその子供がイエスさまのところに連れて来られるやいなやその霊の症状が起きたわけです。
22節「
この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。
イエスさまが父親にいつからか尋ねると、もう小さいときからだった。親としてこれがどれほど辛いことであるか。父親はできるものならこの子を癒して貰いたいと願った。するとイエスは言われた。「できるものならというのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」と。父親は「信じます。不信仰な私をお助け下さい。と叫ぶ。すると驚いたことにこれが無事解決をみたのでした。
 きょう私たちが心に留めたいことは、「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」というこのところです。
 子供を助けて欲しいという訴えには何の不自然さもありません。しかしこの父親の訴えを取り上げて、できるのならというのか、信じるものにはどんなことでもできるんだよと仰るイエスさま。「もしおできになるのなら。」と「信じるなら何でもできる。」のあいだには信仰上の微妙なずれがあります。これがイエス様の言葉で、ぴたりと調整されます。嵌るべき所にこの父親の思いがかちっと嵌って、父親が「信じます。不信仰なわたしをお助けください。」と願っている。
 わたしたちは大きな課題に直面したときにこそ、ほんとうに神さまを信じきれるかを問い詰められます。クリスチャンだからこそ言われたとき、そこに光が与えられ見えなかったことがよく見えてくる。信じきってはいなかったと扱われ、そこにきちっと嵌るときに主が見事な御業をなしてくださることを知るのです。
 ーつづくー

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