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きょうのことばー『砕かれた者の幸い』ーその2

 2011220日の礼拝説教を二回に分けて書かせて頂いております。前ページの続きとなっております。 約1時間の説教を短く編集しています。

私(國光牧師のことです)が学生時代に初めて教会に行き、信仰に導かれたときのことですが、さきほどの竿代先生の体験とはまったく違っています。初めて聖書を手にし、初めて讃美歌を歌い、初めて聖書のメッセージを聞いて、「これは私に必要だ、そうだ今だ」と思ってクリスチャンになる決心をしたのでした。そのときどの程度教理に頷き、ライフスタイルを身につけていたかはいうまでもありません。聖書もまだ買っていない。しかし、その時にそのメッセ^ジを取次いでくださった先生はほんとうに命をかけて語っていた。わたしは「そうだ、この先生の語るものを自分は持っていない、そうだ、いまだ、わたしはこれに自分を懸けよう」と一歩踏み出した、それが私が救いの経験をしたときでした。そして信仰生活を送っているうちに、ほんとうに私はあの時を私の悔い改めとして認めていいのだろうかと何回も何回も想ったことでした。竿代照夫先生が「わたしはいままでクリスチャンのように生きてきたけれどもほんとうにクリスチャンではなかった。でもわたしはあの高校生のときにほんとうにクリスチャンになりました」というような経験を私はしているだろうかと恵まれた信仰の体験談を聞けば聞くほどそういう想いが去来したことを告白いたします。

恐らくみなさんも自分がクリスチャンになったときのことを、恵まれた信仰の体験談を聞けば聞くほどはっきりさせたいという思いになったのなら、それはそれで幸いなことです。謂わんとすることは、まだ救われていないのではないかと自身に揺さぶりをかけることではなくして、揺さぶりをされることによって「ああそうだ、そういうことだったんだ」とより一層はっきり分かるようになる。つまりこの揺さぶりをかけられる幾つか幾つかを経験することによってより一層自分の信仰が根付いてくる、確かなものとなることを経験するものだろうと思うのです。

 この34篇をうたったダビデは旧約聖書における代表的な人物です。私たちが模範とすべきこの人物が、一体どういう揺さぶりをかけられて確かなものになっていったか。更にいうならダビデは何回も何回も揺さぶられ、その度に悔い改めて立ち上がる経験をしている。たからこそ私たちに教訓を与える信仰の器となり得ました。

では、このダビデがどういうところで揺さぶられたかを簡単に申します。ダビデはイスラエルの第一代目の王サウルの家来でした。はじめは羊飼の少年でしたが見出されてサウル王に仕えたのです。ところがダビデはやがてサウルの及びも付かない国民的人気の的となります。戦場でサウルの軍隊であるイスラエル軍が、ガテ出身の巨人ゴリアテを前に戦々恐々進退窮まっていたときに、ダビデはたまたま兄に弁当を届けにきていたのでした。見かねたダビデは羊飼の時代に羊を守るために獣たちと戦った石投げ器で、石を放ち見事ゴリアテの眉間に命中させました。そして倒れたゴリアテの剣を奪い、ダビデはゴリアテにとどめを刺しました。それからはもう人気が沸騰しました。こうした圧倒的な人気に、サウルは王位が奪われるのではないかと猜疑心をもつようになり、ついにダビデ殺害を決意します。ところがサウル王の息子ヨナタンはダビデがいかに優れているかを認め、ダビデこそが王位を継ぐべきであると認めていました。ヨナタンとダビデは親友でした。父がダビデを殺そうとしていることを知らせ逃げるように勧めます。国内にダビデの安全な場所はなく、ダビデはゴリアテから奪った剣を身に帯びて、大胆にも敵方のアビメレクの陣に匿われようとします。恐れたのはアビメレクの家来たち。自分たちを苦しめたあの有名なダビデが転がり込んできたのです。敵の敵は味方とはならず、不穏な気配を察したダビデは一転、アビメレクの前で涎を垂らしながら戯言を言い放ちきちがいを演じて見せます。アビメレクは家来に命じてダビデを放り出してしまいました。こうして九死に一生を得たダビデがうたったのがこの詩篇34篇だったのです。

4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
6
この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。
7
の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
8
のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
17
彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
18
は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。

19 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。

 これは紛れもなくダビデ自身が実際に経験したことなのです。7節の「主の使いは」というこの「使い」には英語で「エンジェル」が使われています。8節の言葉の中で、ダビデは王様が自分を亡きものにしようとしているときにアビメレクのところに頼っていった。しかしほんとうに身を避けるべきはアビメレクのところではなく主のところだったのです。「さいわいなことよ。彼に身を避ける者は」であります。17節は実戦の最中でのことなのです。

わたしたちは信仰生活を行っているときに、まさに実戦の現場に放り出されているのです。これは模擬試験ではありません。生きるか死ぬかという現場の中に身を置いたとき、いったい私たちはどういうありかたをするか。そこでは揺さぶられます。そのときです。神様ごめんなさい。わたしは恐れのあまり人に頼ってしまった。そうして心砕かれてほんとうに主の前にお詫びをする。そのとき自分の信仰生活が揺さぶられます。

ほんとうにあなたは神の前に悔い改めの経験を持っているのか、そしてほんとうにあなたは赦されたという経験を持っているのか。

 徹底的に神様に揺さぶられる。それは滅ぼそうとするための揺さぶりではない。主の前にほんとうに扱われるためのものです。ごめんなさい。あなたの前に私は正しい行いをしていませんでした。お許し下さい。心から悔い改めて主の前に出るとき、実は19節にある正しい者とはそのことなのです。決して非の打ち所がない品行方正さなどではない、聖書のいっている正しいものとはそうじゃない。神様の前に自らの正しさをかなぐり捨てて砕かれて神様ごめんなさいと真実にありのままの姿で出て行く者を正しい者、或いは心の貧しい者、というのです。

詩篇51篇があります。これもダビデの詩篇ですが、34編のアビメレクのときとは違う、ダビデの生涯の中でも大きな過ちを犯したときに神様に扱われたことが率直にうたわれています。詩篇5117、ここにダビデは言います。

17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

素晴らしいことですね。神の前に砕かれる。どういうことでしょうか。17節には「砕かれた霊、砕かれた、悔いた心。」とあります。34編にも18節にあります。心というのは人間の感情、情緒的な面を表わすとすれば、霊というのはそれよりももっと深い心の最深奥部、神と交わるところの自身の本質でしょう。得てして自分を正当化する。現状に直面したときに、あれが悪かった、或いはこういうことがあったから、などと自分を正当化しようとする.そういった思惑などがぜんぶ取り除かれて神様の前に心砕かれて自分の一番深いところが神様に取り扱われて主よ許してくださいと出て行く。「そのときあなた()は決してそれをさげすまれない」そのように記してございます。

クリスチャンとはどういう者をいうのでしょうか。それは主の前にほんとうに心の打ち砕かれた経験を持っている人、主の前にほんとうに扱われ、霊が砕かれる、神様はそのことを私たちにはっきりとさせるために、現実の信仰生活の中で、生きるか死ぬかというまさに現実の中を通させなさるのではないでしょうか。

※文責:中ぶんな


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