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きょうのことばー『御心を行うことを喜ぶー2』その1

 今朝も雪がふりました。しかし車の渋滞もなく教会に到着。
 毎日曜に掲載するメッセージは、わたしが行っている教会の牧師先生の説教であり、できるだけそのままお伝えしてきました。きのう読んでくださっている方から感動したという感想をいただき、ほんとうに嬉しかったです。ただ長くて読むのが大変とも仰っていました。そこで、できるだけ簡潔に読みやすくお伝えする努力をしてゆきたく思っています。短くするというのもなかなか怖いことなのです。文意が損なわれる、最初のメッセージから遠いものになってしまうのではないか、勝手に削ることが許されるのか等々の問題もないではありません。しかしポイントを外さぬように努力してみることにします。言葉足らずになることもあるかもしれませんが、ご容赦ください。


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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(國光勝美・ひろ子牧師)の國光勝美先生のメッセージは
説教題:『御心を行うことを喜ぶー2』
聖書引用箇所:詩篇40:1~17

指揮者のために。ダビデの賛歌
1 私は切なる思いでを待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、
2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、に信頼しよう。
4 幸いなことよ。に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5 わが神、よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押さえません。よ。あなたはご存じです。
10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。
11 あなたは、よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。
12 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の神の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。
13 よ。どうかみこころによって私を救い出してください。よ。急いで、私を助けてください。
14 私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。
15 私を「あはは」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。
16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「をあがめよう」と、いつも言いますように。
17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。


 ことしのおことばとして詩篇40篇8節にありますわが神よわれは聖意(みこころ)にしたがふことを樂む。汝の法(のり)はわが心のうちにあり」を掲げさせていただきました。これは文語訳です。口語訳では「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」と訳され、どちらも同じ意味でありましょう。御心をおこなうことを喜びとし御心を行うことを楽しみとする。これが今年の私たちのあり方となりましたならば何とすばらしいことでしょう。
 去年はハバクク書3:2「主よこの諸々の年の中間(あいだ)に汝の運動(わざ)を活溌(いきはたら)かせたまへ此の諸々の年の中間にこれを顕現(あらわ)したまへ」
を掲げました。今年は詩篇40:8です。
 元旦礼拝やこのまえの聖日のとき神のことばに聞き従うテーマで百人隊長のしもべの癒しを話しました。権威のもとにあるイエスさまのおことばさえいただければ十分です。イエスさまは父なる神様の権威に自ら従い、イエスさまは父なる神様の御心を行うことを喜び楽しんだ。「あなたの法(のり)はわが心のうちにあり」と主イエスさまは仰いました。この御心に従うということ、これがイエスさまの権威に従うあり方であり、それだからこそイエスさまの御言葉には権威があった。年末から新しいとしにはこのように思い巡らしました。そしていよいよこの年、詩篇40:8を一人一人が捉えてアーメンと進みだすことができたならばと願うことです。
 身近な例話ですが、一昨日、住まいである2階の天井に付いている換気扇がガタガタとうるさい音をたてて停まってしまいました。電気系統に関連もあるので、思い切って天井から引き離してみたところ、埃がいっぱい溜っていました。掃除機で吸い取り、ブラシで隙間をきれいにしてみたのですがまだ調子が悪い。そこでこんどは徹底的に埃をとったところ、前のように音もなく回るようになりました。いつの間にか埃がついてしまう。きちんと埃を払って手入れをしてやるといい。信仰生活もそうかもしれない。私たちは世の中にありますから、折々に付着してくる避けられない埃、汚れ。そのまま放置しておくとマイナスを生じることになる。ついにはガタガタと音がして停まってしまう。手入れ、整備がうまくいくと、動いているか動いていないのかわからないほど静かに、しかしずっと回り続けるという、これが信仰生活だろうな、淡々とあるべきところをきちっと守り続ける。しかもそこに静謐さ、静けさがある。ほんとうに考えさせられました。
 イエスさまの前にあるあり方、この秘訣というのは正にこの詩篇40:8にあることを思うことです是非是非この40:8「
わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」。あなたの教えはわたしの内に、わたしの内臓組織のうちに組み込まれている。もうそれがわたしの生き方です。それに従うことがわたしの生きることなのです。まさに「きよめ」と私たちがしばしば標榜いたします生き方の典型的なおことばがこれであると思っております。
 わたしが最近この教団の教報に書かせていただいた「権威」のことですが、前にも話しましたが、現代社会でいちばん人気のないことばのうちの一つは、「権威」或いは「服従」でしょう。あまり受け入れられない。このことばが社会に疎まれているとすれば、そこに大きな問題があるという立場をとっているのが私たちです。権威、服従を否定するのはクリスチャンのあり方ではありません。
 わが家の子どもが小・中学生のころ、父母会に行ってみて驚いたのは教壇が無かったことです。私たちの時代には、けっこう高い教壇がありました。教壇を持ち上げてその中に人が隠れることができるくらい高かった。教える側と教えられる側の立場に違いがあり、教える側は上の位置にあり、教えられる側は下に位置していたのです。しかし今は同じ立場でやるという、そのような価値観となっているのでしょう。
 よく封建的ということばが使われますが、この場合には個人の権利、自由よりも、上と下といった上下関係に重きを置く。それに対して平等でなければならない。つまり教壇を取り払ったようなあり方を推し進めると、これは笑い話なのか、ほんとうにあることなのか分かりませんが、運動会のかけっこでみんなで一緒に手をつないでゴールインのテープを切るという。笑い話なんでしょうか。聞いたときにはここまで来たかと思いました。平等そして区別、差別というものと何かごっちゃになっているのではないか、そんな思いがしたのです。しかしみんなで一緒に仲良くテープを切りましょうという価値観、生き方というものが受け入れられているとすれば、これは私たちは、聖書を理解しようとするときには考えねばならない。というのは、聖書は明らかに権威を教えています。そしてわたしたちは、神さまに従うものだ、これが大前提。それが価値観でありまさにそこから始まっているわけです。神は全能のお方。神は創造主。一方私たちは被造物であってそのお方に服するべきものである。
 いずれにせよ聖書が神の権威を認めている。そしてこれに対して服することを良しとせず自由を望んで神に反旗を翻した天使のあるグループ、天使の全員がそうなったのではないのですが、天使の中で最も指導的な立場にあったものが神に従うことをよしとせず、服従という法則に反旗を翻して自由を求めてその地位を簒奪しようと試みたそれがサタン、悪魔といわれている存在であり、そしてその配下が、聖書の中では悪鬼、悪霊という表現でいわれているものです。そしてサタンの誘惑に従って本当に神はそのように仰ったのか、つまり「汝の法はわが心のうちにあり」というはずの者なのに、ほんとうに神はそう仰ったのか、そうじゃないんだといってエデンの園において私たちを神に従うこと、法に従うことを外れさせてしまった、それが罪の始まりです。
      つづく

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