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きょうのことばー『御心を行うことを喜ぶ』 1

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 2011年1月第一聖日のインマヌエル盛岡キリスト教会(國光勝美・ひろ子牧師)のメッセージ、きょうは國光勝美先生です。

説教題 『御心を行うことを喜ぶ』
聖書引用箇所 詩篇40:1~17

1 私は切なる思いでを待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、
2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、に信頼しよう。
4 幸いなことよ。に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5 わが神、よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押さえません。よ。あなたはご存じです。
10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。
11 あなたは、よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。
12 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の神の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。
13 よ。どうかみこころによって私を救い出してください。よ。急いで、私を助けてください。
14 私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。
15 私を「あはは」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。
16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「をあがめよう」と、いつも言いますように。
17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

 大晦日の前後から大変な低気圧。荒れ模様の数日を過ごしました。きのう元旦礼拝中に光がさしてきたときには盛岡の明るい日差しが帰ってきたと思いました。そしてきょう、このように良い天気となっています。それにしてもこの大雪。さきほど奥州市水沢区の兄弟からの御連絡で、きょうは向こうの方の教会で礼拝を守るということです。また八幡平市の兄弟からも、あまりに雪が深いので近くの西根町で礼拝を守りますということでした。礼拝直前までO兄弟の話を聞きましたが、兄弟の御自宅の方もかなりの積雪なようです。今年はどんな冬になりますか。教会の周辺の道路には昨日の夕刻になってようやく除雪車が入って来ました。それですこしは走りやすくはなっておりますが、どうぞ皆様方、歩く方もそうですけれども、祈りながら慎重に行動され出入りが守られますようにと願うことです。

 きのうは先ずマタイ伝6:33にある「
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」という御言葉をテキストにまなびました。この一週間、或いは先々がどういうことになるだろうかと私たちが心配するより、はるかに私たちのことをよくご存じで、そして私たちの明日を支配しておられる主がいらっしゃり、主が私たちを心配してくださる。だから私たちは先ず神の国とその義とを求めることであると知っています。それをもう一度きちんと確認させていただこうではありませんか。
 ちょっとした私の体験があります。車のことです。車検があったとき、そのあいだに本当に久しぶりに車の取り扱い説明書を読んでみました。それまで何事もなく車を動かしていますし、順調に走っています。今更読む必要もないと思いながら読みすすみました。しかし読んでみて初めて気づいたことがありました。いまの車は、キーをポチッと押すとロックが掛かったり開いたりする。わたしは鍵穴に入れて開閉していますが。いつのまにか、この車は鍵穴に差込んで開閉するものと思っていたのです。ところが、マニアルを見たら“ポチッと”錠もあるんですね。「あ、できるんだ」と思いよくよく考えてみたら、車を買うときに、こういう機能がありますがその分高くなりますと言われ、「それじゃ結構です」と断わったのを改めて思い出したわけです。あたりまえに乗っている車のことを、もう一度始めからきちんと知っておくことは、これは必要なことであり意味のあることだと思いました。
 私たちは神様の全能、神様の御支配を知ってこれまで信仰生活を送ってきているわけですが、こういうとき、もう一度イエスさまのおことば、或いは第一ペテロの5章
7節にある 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」や「日々汝の重荷を担われる主」といった御言葉に頷きながら、先ず神第一の信仰生活を送っていくことにしましよう。きのうの礼拝ではこのようなお勧めをしたことでした。

 きょう私は、新年に掲げる御言葉として聖書のどこをということがまだ定まっておりません。ただ基本線として12月ごろから心に留まっているのは、神様の「権威」です。
 年末の礼拝で、百人隊長のお話をしました。百人隊長のしもべが病んでいるときに、自分も権威のもとにある者ですからただおことばをください、とイエス様に懇願した人物。この百人隊長は自らの生活を通して権威というものを弁えている。同じような意味に於いて、私たちは神様の権威というものをどれだけ受けとめてその下に生きているでしょうか。このことを思い巡らし、この「権威」を今年の御言葉にと導かれています。そこで百人隊長の信仰をテキストに年頭の御言葉をと備えておりますうちに、詩篇40:8「
私はみこころを行うことを喜びとします。」に至りました。神学的にいえば、これはイエスさまの父なる神様に対する在り方です。イエスさまが父なる神様の権威に服しておられる。いやいやながらではなく父なる神様に従うことを喜びとする、それがイエスさまの在り方でした。この詩篇40:8にある権威に対する在り方。これこそがことしの始まりに相応しいのではないかと次第に心が整えられ、きょうこの箇所をお開きしているわけです。

 仮に現代社会でいちばん人気のない言葉をランキングするとしたら、たぶん「権威」は挙げられるでしょう。今の世の中に受け入れられ難い言葉の一つではないでしょうか。それほど今の社会は権威というものを避ける。それでは「権威」とは何ぞや? この理解の一助として権威の反意語を辞書で調べましたが、なかなか見つからず、どれも納得がいかない。権威の対極にある言葉があったならどなたか教えていただきたい。それではということで、こんどは同意語を見ますと、ごく近い言葉として出てきたのが「権力」。似ていると調べてみますと、「権力というのは強制力をもって従わせる力」だとありました。納得します。強制力をもってひとを服さしめる。ところが「権威」というのは強制力で服させるのではなく、自由意志をもってそのものに従うこと。「この道の権威者」というときには、決してその人のいうことが強制力を持っているのではないけれども、「あの人のいうことならば」ということで、「なるほど」と自由意志をもってそれに服することかななどと色々考えさせられたわけです。
 この権威ある御言葉に私たちが従う、するとまさに同じイエスさまの御言葉がこの40扁の7、8節です。ある方は、なぜいきなりこれをイエス様の言葉だというのか、これはダビデが謳った詩ではないか、と思われるかもしれません。
 ヘブル人への手紙10:5には

5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」

 とあります。これは詩篇40:6、7、8が引用されているのです。つまりこれはイエスさまの御言葉であると解釈できます。聖書自体がこのところをイエスさまがこの世においでくださるときに、父なる神様との御子なるイエスさまとの天における会話の中で、イエスさまが父なる神様の権威に服しこの世に体を備えてくださった、人としてこの世においでくださったことが言及されているところなのです。これで納得していただけるでしょう。
 そしてローマ人への手紙10章17節には

17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
 この御言葉も私たちは受けとめて、これに従うという流れになるのでございますけれども、さて詩篇40扁の6、7、8節にもうすこし目を留めてみることにいたしましょう。
 ダビデの口を通して神様がほんとうにお求めになるものは何でしょうか。神様が私たちに求めておられるのは6節でいうと、いけにえや穀物のささげものではない。全焼のいけにえ、罪のためのいけにえなのか、いいやそうじゃない。「あなたはわたしの耳を開いてくださいました。」と6節にはありますが、「耳を開く」という第一義的な意味は、「穴を掘る」という意味が使われております。これはわたしたちの理解がすっと落ちる、ほんとうに真理がわかるようにしていただいたということです。

           つづく(あすページを改めて書かせていただきます)

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