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2011年1月

ゆったりゆっくりの一月おわる

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  この見事なつらら。二階建てのアパートの屋根から下がっています。軽くたたいて音をだしたら2オクターブぐらいはありそう。でもどうやって、どうやって折れないようにたたくの。折れないようにするには想像の中でたたけばよい。そうすれば実際よりも澄んだきれいな音になること請け合い。

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 きょうはハトたちが富士見橋に集合。通りかかると、わさわさばたばた羽音をたてて大方が逃げてしまった。鳥のまっただ中。鳥インフルエンザの恐怖が。宮崎、口蹄疫にたてつづく脅威。これでもか、これでもか。なぜに彼の地にばかり。
 これまでズームアップした白鳥までをきょうはズームバック。

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 2011年のはじめの月が終わろうとしている。歯科通いのひと月であり、この最終日も歯科治療となった。

   ◆  ◆  ◆  ◆

 話は変るけれども、けさTPP(環太平洋連携協定)ーとこう書きながらなにか脱力感を覚えているがーのことがちょっと新聞に出ていた。TPPのことも検索すればすぐに掴めるようになっているわけで、私ごときがここでコピーを載せたところで、当然それらを超えて書ける項目などないだろう。
 たしかにこれによって農業がズタズタになるのは容易に推測される。そこで私が分からないのは、日本はほんとうに独自の路線を歩める国なのだろうか。牛耳られっぱなしの農政のもとでそれが可能だとは信じがたい。応急手当はするが、農業の位置づけはまったく変っていないし、農業の独自路線を貫こうとする強い意識、意志が無いと感じられる。さりとて身動きもままならない身なのだ。何かを言う資格があるとも思われぬ自らである。慨嘆するのみで済むとも思われないが。

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きょうのことば ー求めなさい、捜しなさい、たたきなさいー

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 きょうは強められ、真っ白な雪の路を教会へ。狭い路では譲り合いながらすれ違います。こんなにも譲り合う光景を目の当たりにした冬は何年ぶりでしょうか。

 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(國光勝美・ひろ子牧師)のメッセージは。きょう講壇に立たれたのは、ひろ子先生です。深く同感の意をもって拝聴したメッセージをお届けできる幸いに感謝しつつ。

説教題 『求めなさい、捜しなさい、たたきなさい』
聖書引用箇所 ルカ伝11:1~13

1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」
5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」


 主牧はきょうは十和田教会に出かけておりますので、今朝はこの小さい者が講壇に立たせていただいております。お祈りと共に御言葉に心を向けていただけたら感謝でございます。
 東京に長年住んでおりました私の弟が、こんど仕事の関係で岡山県倉敷市のほうに転居しました。近くにインマヌエル教団の教会がないので、倉敷市にあるホーリネスの教会に行っております。弟は、私に、初めてこの教会に行ったときのことを何回も話します。そこの教会の主牧の先生が千葉県にご用があり不在だったときに、奥様が代わって説教をしたそうです。集会が終わってご挨拶をしたとき、奥様が「きょうは牧師がおりませんで、説教がもの足りなかったでしょう」と仰ったとか。私は聞くたびに苦笑いします。これを私が講壇に立つときに思い出します。私の足りない分、御言葉そのものがみなさんの心に届くことを願いながらご用をさせていただきたいと、そんなことを心の隅に思いながらおります。

 さきほど読んでいただきました箇所は、昨年末から今年にかけての聖書通読から与えられた御言葉の一つであります。
 新しい年を迎えようとしているときに、一年間の教会のこと、家族、親族のこと、また私自身のことを考えていましたが、何か神様に対して申し訳ない思いが湧き上がってきました。そんな中で、消極的な思い煩いに陥っているなと感じながらおりました。そのときに聖書通読しているところから、申命記8:18
「あなたの神、を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」が心に飛び込んできました思いが堂々巡りしていることに気付きながら、放置していたのですが、この状態から離れなければいけない。神は「主を心に据えなさい」といっておられます。ではこの神様とはどういうお方なのか。私は聖書の赤線を引いた部分を拾い読みしていきました。イザヤ書になると神様がどのようなお方かが次つぎに出てきます。

「主はあなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたを憐れもうと立ちあがられる。」
「あなたの叫び声に応じて主は必ずあなたを恵み、それを聞かれるとすぐあなたにこたえてくださる」
「わたしはあなたの祈りを聞いた、あなたの涙も見た」 
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐなわたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る」
「あなたの神主であるわたしが、あなたの右の手をかたくにぎり恐れるなわたしがあなたを助けると言っているのだから」
「恐れるな。わたしはあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」
「わたしの目には、あなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している」
「恐れるなわたしがあなたとともにいるからだ。永遠に変らぬ愛をもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は仰せられる」
「たとい山々が移り丘が動いてもわたしの変らぬ愛はあなたから移らずわたしの契約はうごかない」


 このような御言葉が次つぎに目に留りました。「私に心を据えなさい」と仰っている「私」とはどのようなお方なのかを、神様はこのように御言葉をもって示してくださっていました。これが真実な神様のお気持ちなのだと気がついたときに、心に燃えるものを覚えました。心がとてもあたたかく、ほんとうにもう一度顔を上げることができる心境になりました。それでいまもう一度ここでゆっくりと読ませていただきました。これらの御言葉だけで、あとはもう何も言わなくてもいいのではないかと思うほど準備の中で神様は大きな恵みを与えてくださいました。かつてイエスさまが十字架に架かられ甦った後、エマオに向かって暗い心で歩いていた2人の弟子に近づいてお話くださったとき、2人の心が燃えてあたたかくなったのですが、それと同じような気持でした。そのようなお方であるということを知らない訳ではありませんでしたし、また何度もメッセージを通して聞いてきましたけれども、私自身の問題としてそれを再確認させていただいた思いでした。そして、この方を確認させていただいた後、次に為すべきことは何だろうと思っているうちに、通読しておりましたところからルカ11:9が心に留ったのです。
9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 この人のように本気で捜しているだろうか、本気でたたいているだろうか、また祈ったお答えを本気で神様に期待しているだろうかと考えました。そして自分のお祈りには、どうぞ神様祝してください、助けてください、恵んでくださいといった言葉がとても多いと思いました。こういった祈りがいけないというわけではありませんが、神様が求めていらっしゃるのは、もっとピンポイントで、「ほんとうは何をして欲しいのか」ではないのかということ。
 物乞いをしながら座っていた盲人が、イエスさまが近づいてこられるのを知って、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫びたて、他の人が止めようとしてもやめなかった。イエスさまは盲人に近づいて、「わたしに何をしてほしいのですか」とたずねられました。盲人はそのとき、「わたしを憐れんでください」と言ったのではなく、不可能だと十分承知していたでしょうけれども、はっきりと「主よ目が見えるようになることです」と言いました。
 このようなお祈りを、私はいましているだろうか。反省し考えさせられました。それからは、不安に感じていること、心を乱している問題について具体的にはっきりとお祈りをし始めました。そしてある事柄に関しては毎日、ある事柄に関しては折あるごとに、そして意識してこの問題をと思う課題は早天祈祷会にというように私の中で決めてお祈りを始めました。これを続けていきたいと思っております。そして続ける中で神様がどのような形で祈りに答えてくださるかを期待したいと思います。


 
そのような心の動き、営みの中でルカの11章を読んでいるときに意識に留ったのが後半の11~13節でした。
  「
11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

 実は私は今ひとつピンと来なかったので、ここまでは礼拝では読まずに10節で区切ろうと思っていました。13節に「してみると」と書いてあるのがどうしてもピンとこない。共同訳聖書では、「このように」とあり、文語訳聖書では「さらば」と書いてある。どうしてここに「してみると」という言葉があるのか、いつもここで引っかかっていました。いったいこの箇所を、他の先生方はどう仰っているのか、準備のつもりで、これが使われている箇所だけでしたけれども読んでみました。すると、引用されているのは全体11:1~13が引用されていましたけれども、その内容は13節を扱っていると思われました。13 …とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
 最初私は、求めなさい、捜しなさい、たたきなさい、というところにだけに心を向けておりました。11節からを無視するわけではありませんが、考えておりませんでした。しかしその書かれているところを読みましたときに、捜し、祈るそれはもっと深い意味があることに改めて気がついたのです。
 このように書かれておりました。
「神の国の働きが進められていくのは、人間の権力や能力によるものではなく神の霊によるものである。従って私たちは聖霊を切に求めなければならない。求めて得られないのは必要感が薄いからである。聖霊無しにはどうにもならないことが真剣に認められ告白されなければならない。必要感は求める信仰、訪ねる信仰、門をたたく信仰となり主のもとに私たちを導く」
 神の国が聖霊の力によって成ること、人間の力では到底間に合わないことは自覚するところでした。しかしそういった思いが果たしてどの程度聖霊を求める必要感となって祈りに繋がっているのか。私たちが求め捜したたくとき、往々にして自分の求めが真っ先に出て来ます。しかし聖霊ご自身が私のところに来てくださるようにと真っ先に祈るべきであり、聖霊を認め聖霊を第一にした生き方あり方を真っ先に求めなければ、本当の意味で祈りにこたえられたことにはならないことに、改めて目が開かれるような思いがしました。聖霊無しにはどうにもならないということを頭で理解しているだけでなくどのくらい本気でそう思っているのか。どれほどそれを実感しているかに比例して必要感が増してくるということを教えられました。必要を覚え真実に求めるなら聖霊は与えられると神は約束してくださっています。聖霊が働いてくださるときに初めて、神様は私たちに期待し、また私たちが神様に期待しているような祈りの応答をしてくださるし、また私達も神様が私たちに期待しておられるような求め方、捜し方、叩き方ができるのではないでしょうか。そればかりでなく、祈りによって神様の御業が成され、私達が願っているような応答を下さることに感謝でき、期待することができるのではないかと思います。
 そして、このお祈りを聞いてくださる方が聖なる神様であるということは当然ですけれども、私たちがお祈りを献げているお方は、さきほどイザヤ書で読ませていただいたようなほんとうに恵み深い、またそういう言葉では言い表せない、とても言葉が足りないほどの、それを読んでいるだけで、励まされ、力づけられ、慰められる、そのお方に私はお祈りをしているのだということを再確認させていただきたいと思います。
 このお方に心を定め、そして立たせていただくならば、私たちはもっと真剣にこのお方に求めることができるし、このお方の仰るように捜したたきつづけることができるのではないかと思います。そして、それと共に、私たちのお祈りするお方がどんな方であるかということが確認できたなら、私たちの求めをはっきり神様の前に申し上げることが大切だと教えられます。そしてその求める中で聖霊無しには神の御業は進まないということが明らかになって参りますしまたそのことが祈りの中心になっていくときに、神様は確かにご自身の御業を私たちの内にも私たちの祈りに答えるということをもっても、ご自身の恵を現してくださるのではないかと思っています。
 この年も神様に期待を置き、この神様をさらに深く認識させていただきながら、しっかりと目標を定めて祈り、またその祈りの回答を神様からいただく一年でありたく思います。現実の中で課題は尽きません。こんなにと思うほどあります。けれども今申し上げたように、神様をしっかりと確認していただき、その神様にお祈りをするならば前に進んでいける。私自身このことを確認させていただきましたので、これをみなさまへのメッセージとして取次がせていただきました。

文責:中ぶんな

 

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わが足のともしび

  きょうはシンフォニエッタ・盛岡のアンサンブルがマリオスであったのだが、家で静かに過ごす必要を覚え留まった。同じ時間帯に岩手日報新聞社発行の「北の文学」の合評会もあったがこれも欠席。午前中に電話をくれた友人が、映画のチケットが4枚あるがどうか、期限は今日までと電話をくれたが惜しいと思いながらこれも見送り。ついでにいうならというよりも、お世話になりながら申し訳なくも9日の文芸誌「天気図」の新年会も欠席。同窓会の会合も申し訳ないと思いつつ欠席。幸いなことは、私が欠席してもどこも立派に成り立っている。何れ私がいないことで困るところはない。どこも人材はそろっている。とはいうものの、同窓会には若干ご迷惑をおかけしたこともあったはずで、ほんとうに申し訳ないことでした。この機会に“エンジン”“足回り”をよく整備して刷新を図ろうと思います。宜しくお願いいたします。

    

   あなたのみ言葉はわが足のともしび、
        わが道の光です。
      
      旧約聖書:詩篇第119篇105節


 

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佐藤明子さんの写真 & 雪の日の渋滞

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 清水町の佐藤明子さんの写真です。年賀状としていただいたものです。2010年10月23日、早坂高原の日の出。

    ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 積雪の朝のバイパス。4車線の雪の絨毯に、四列に連なる車はぎりぎりまで速度を落とす。片側車線に描かれた赤い尾灯の湾曲。燻銀の雲を穿ち光がほとばしり出ると、いっせいに落ちる車の陰。長くのびる陰を従えながら、車は厳かな白銀の路を粛々と進む。

   

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中村大三郎 「ピアノ」

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 大正時代の弦楽四重奏団太田カルテットの主宰者である梅村保は羽織袴でセロを演奏しました。ならばヴァイオリンやピアノを振り袖で弾く女性の姿にお目にかかれないものかと思っていました。この平成には、まだそのような場面はみたことがありません。
 大正時代にピアノを和服で演奏する女性を描いた画家がいました。

中村 大三郎(1898~1947) 京都の染色を生業とする家に生まれる。日本画家。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授。文展入選、帝展特選を重ね、帝展審査員もつとめる。

以下はWikiからです。
 1926年(大正15年)、5月、西山翠嶂の長女、都由子と結婚。10月、第7回帝展に妻をモデルに描いた《ピアノ》(京都市美術館蔵)出品、帝国美術院賞候補となる。

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初めてー梅村一家の親子カルテットー

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 「初めてです」
 このブログを読んでくださっている方は、「このことば、また使ってる」とお気づきと思います。出任せで乱発しているのではありません。この写真は宮古ジュニア弦楽合奏団を主幹とする第45回「音楽の夕べ」に出演された方々の写真。わたしが初めて盛岡の弦楽四重奏団の草分けに興味を持ち、初めてヴァイオリンというものに弓をあてるきっかけとなった梅村ヴァイオリン教室。写真の中央にはドイツから帰国された梅村隆一さん(大正の太田カルテットの主宰者梅村保の曾孫)、その左には梅村圭一さん(梅村保の孫)、そしてこの写真を天から見下ろしている梅村功二先生(梅村保の息子)。名前をしつこく連呼するようですが、このようになっています。この宮古ジュニアがベートーヴェンの「運命」を初めて演奏したときには感無量でした。

 もともと音楽畑ではありません。30代半ばから興味を持ち怠けながらそちこちを調べ、ここ5、6年のあいだにはCD、DVDを積み上げて同じ曲を厭きもせずにしつこく聴くようになった。要するにほとんど何も知らなかったために、何を聴いても初めてで新鮮だとこういうことになっています。ベートーヴェンの5番、9番でさえ、いまだに初めてであり新鮮な盤がまだまだあります。そして些細なことまでが新しい。ほとんどを学び終え精通している方々が多い中で、こういったヘンテコな危うい輩が一人ぐらいいても許されるのではないか、そんな気でおります。

 これからも「初めて」をくり返します。

いまチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」が心にかよいました。梅村保が満鉄厚生会館で弾いていた曲です。満鉄厚生会館、たしか冷暖房完備、水洗トイレ付きだったと思います。戦前のことです。満鉄は大企業でしたから。もっとも梅村保が渡満したのは自らが行きたかったというよりも長男重光が満鉄に就職したためで、永住の覚悟で渡ったのでした。その地での音楽活動です。梅村保、重光、功二、郁子の親子4人のカルテットは一際光彩を放つ存在だったのです。下はその写真です。初めての公開です。

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右から梅村保、功二、郁子、重光の各氏。(この4人が太田カルテットだったのではありません)

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大向佐保さん第23回大仙市大曲新人音楽祭コンクールで優秀賞

 朝比奈隆がすでにピアノを習っていたご子息にクラリネットを与えたことを知り、なぜクラリネットを? と思ったところから、クラリネットについて自分が知って面白かったことをこのブログに書いたのです。そのときも実はシンフォニエッタ・盛岡の大向佐保さん(「クラリネット奏者大向佐保の部屋」)が脳裡を過ぎっていました。わたしがじっくりとクラリネットの演奏を聴いたのは、この大向さんの演奏が初めてだったのです。08年の5月モーツァルトのクラリネット協奏曲でした。そのあとも何人かのクラリネットを聴いていますが、そのときにいつもシンフォニエッタ・盛岡の演奏会で聴いた大向さんの演奏が思い出されるのです。
 それがきょうの新聞でまた第23回大仙市大曲新人音楽祭コンクールで優秀賞(グランプリに続く賞)を受賞されたことを知りました。優秀賞受賞は二回目。フランセの「クラリネット協奏曲」第1、第4楽章を演奏され、「ひたすら聴き手に楽しさが伝わるような演奏を期した」と仰っている。

 ここまで書くと、フランセってどんな作曲家かな? と気になります。どんなクラリネット協奏曲なんだろう? 
 そこで、すこしネットをうろうろしてみますと、「音楽と生活」に迷い込みました。音源(別な奏者ですが)もありました。この協奏曲、かなりの難曲だということです。

 大向さん、教室も開いており、先生とお呼びするべきところなのでしょうが、新聞に出ていた敬称としました。とにかく私に初めてクラリネット協奏曲を聴かせてくれた方です。

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「アドナイ・エレ」

Scan10011                          ひつじ工房 お友達の作品「アドナイ・エレ」

 わたしがこれまでに聞いた講演会というのは、一般の方々に比べて回数はそう多くはないだろう。その中でいまでも残っているのは、山形県の米沢興譲教会の牧師田中信生先生のお話にあった小さな挿話、子ども達の会話だ。
「○○ちゃん、そのお菓子、くれないんだったら、あのことをみんなに言っちゃうよ」
 ここでどう答えるか。恐れてお菓子を差し出すのか。先生のお話はこうだった。
「どうぞ、みんな言っちゃっていいんだよ」
 腹をくくれ、脅しに屈するな、そして神の前に進み出よ。いまどうあるかが重大なことだ。こう教えている。わたしはそう受けとめた。
 神はすべてをご存じだ。失敗をする愚かなものの心理、そして、失敗をおもしろ可笑しく喧伝する者の意図。それらすべてを。
 悔い改めること、そして神の赦しを確信すること、これがすべての恐れを取り除く唯一の方法であると思う。
 やはりわたしにも一種の嗜癖のような失敗をしたこともある。しかしなぜかいつも抜けられないような事態になることからは護られてきた。それはやはりいつも誰かが私のために祈ってくれていたからだと思う。

 

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きょうのことばー『御心を行う喜び』

Photo                       教団創立者蔦田二雄師

 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(國光勝美牧師、ひろ子牧師)のメッセージは。きょうは國光勝美先生です。

説教題  『みこころを行う喜び』
聖書引用箇所  詩篇40:1~9

 1 私は切なる思いでを待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、
2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、に信頼しよう。
4 幸いなことよ。に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5 わが神、よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押さえません。よ。あなたはご存じです。


 この麗しい天候のもとにこの聖日、聖餐式をまもり、教会総会に臨もうとしております。いつもの礼拝とは色々な面でプログラムが違っていますがご理解頂きたいと願っております。
 今年は詩篇40:8「
わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」を掲げ進もうとしております。その心は、わたしたちがイエス・キリストご自身が持っておられた心、或いは、そのあり方をわたしたちも共有させて頂きたいという願いであるからです。詩篇40:8は、まさにイエスさまご自身の御言葉であるということを何回か学びました。この8節の御言葉をわたしたちは、新約聖書のピリピ人の手紙の中に見ることができます。ここにイエス・キリストご自身のありかたが記されています。
ピリピ2:2

私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
 こ
こに一致を保つ、同じ愛の心を持つ、志を一つにすることとあります。パウロがピリピの教会の人たちにあなた方はどうかこのようにキリストにあって一つになるようにと勧め、
そして3節に

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と。
 
教会にはさあなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。まざまな立場、タラント、そのような異なるものを持っていらっしゃる方々が集まっています。しかしどうかみな謙りをもって互いに人を自分よりも優れたものと思うように、そして4節に自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5節
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
 ここは、他の聖書では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されているところでもあります。キリスト・イエスの心を心とするように、わが神わたしは御心を行うことを喜びとします。
そのキリスト・イエスの心、ピリピ2章の6節以降にその仕えるものの姿を見ます。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。

 ここに人としてこの世に下りてくださり十字架の贖いまで成し遂げてくださったそのキリストの心を見ることができます。
 お話を締め括らせて頂きたいと思いますけれども、神様は、教会総会に臨もうとしております私たちに願っておられる事は、御心を行うことを喜びとするキリストの心。それは教会が一致を保ち志を一つにして他の人を自分よりも優れた者として自らも謙り、そしてキリストが栄光の座をかなぐり捨てて仕えるものの姿を取ったと同じように、この年一人一人が教会に仕えるものとして御奉仕をして頂いたならばどんなに幸いでしょうか
 ちょうどクレネのシモンという人物がイエスさまの十字架を背負わされたあの記事を私たちはルカ23章の中に見ることができます。そうです。わたしたちがキリスト・イエスの心を心として御心を行うことを喜びとしてクレネのシモンのように、もし「お願いします」と言われたならば、「はい、させていただきます」と謙って主の前に仕える姿勢をおとり頂けたなら何と幸いであろうかと思うことでございます。

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冬景色

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 ずいぶんと古い写真を登場させました。2009年に撮ったものです。これも不鮮明だということで除いておいたものでした。よい写真を撮るにはやはりそれなりの時間が要ります。まとまった時間がなかなか取りにくいこの頃です。
 しかし家の中でできることもたくさんあるので、自分の時間が無いわけではありません。

 きょうは早い目にと言っても11時を過ぎましたが、この辺りで休むといたします。


 

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「神清智明」

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 教会員の方が書かれた書です。天から墨液が滴り落ちてきたかの清々しさが文字にも行間にも感じられます。願わくはこのような文章を書きたいものと思います。

        ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

    アメージング グレースnote
    (ヘイリーの歌声が試聴できます)

    Amazing grace how sweet the sound
    That saved a wretch like me.
    I once was lost but now am found,
    Was blind but now I see.

    アメージング グレース
    何と美しい響きであろうか
    私のような者までも救ってくださる
    道を踏み外しさまよっていた私を
    神は救い上げてくださり
    今まで見えなかった神の恵みを
    今は見出すことができる



 

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雑感ー何か書かねば。一回書かねば。ー

 さて今日という日が去ろうとしている。何か書かねば。何か言わねば。ちょっと写真がなければさびしいかなと17日に歯医者さんに行く途中に撮った写真を引っ張り出してみた。

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 なぜその日のうちに載せなかったかといえば、意図した場面を撮り逃してしまったからだ。もう白鳥にパンを与える人もないだろうと思っていたところ、深い雪をこいで水際に近づく人影。富士見橋の近くに群れていた白鳥が一斉に羽を広げて水上を駆け近づいていく。これは撮らなくちゃと慌ててカメラを出し構えたとき、楽しそうにこれを見ていたご婦人が話しかけてこられた。「白鳥はちゃんと分かってるんだね」。すぐにシャッターを切ってから話せばよいものを、そちらを向き相づちを打つうちに白鳥たちの羽ばたきは止んでいた。仕方がない、それでも一枚撮っておこうと切り取ったのがこの写真。眺めながら慨嘆する。感じられるのは所在なさ。撮ろうという意気込みの無さだ。被写体を自らにぐっと引きつけよう、引き寄せるんだ、掴むんだという積極姿勢が見えない。翻ってこれらの消極姿勢がしっかりと撮れているということもできるかもしれないが、どこかペテン師くさい。またのシャッターチャンスを待とう。

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朝比奈隆のブルックナー

 指揮者が曲をいったいどのような解釈を交えて音づくりをしていくものかには、音楽の専門知識が希薄であるものにとっても興味のあることだった。聴いている指揮者の数もそう多くはないが、その中で朝比奈隆のことばが、ああ、そうなのかと一つの納得をくれた。

 朝比奈隆はブルックナーについてこういっている
pencil

「ブルックナーの作品解釈で一番いけないのは弾き易くすることなんです、弦楽器を。ヴァイオリンだったら、一ケ所スラーをかけると弾き易くなるのがあるでしょう。そうじゃなくてそれを全部書かれた通りに弾かないとブルックナーの音は死んでしまうんです。」
「自分を無にしなければ人の作品の中へ入れないですよ。やはりブルックナーのミサをやるときは、カテドラルでやりたいですね。素朴な十字架を見てただやるんです。それしか演奏家の道はない。ところがそれがわかるのに何十年もかかるんです。」
pencil

 朝比奈が楽譜の原典どおりの演奏を心がけるようになったのは、50歳を超えてからだという。それまではやはり楽譜に書きこみをやっていたのだ。しかし後になると、「わたしたちは職人…作曲者のつくった作品を、できるだけ忠実に聴衆の耳に伝える、いわゆる音の再生職人なんです。」とまで言い切っている。
pencil

 私が「これが朝比奈だ」と思って聴いた2000年収録の「最後のベートーベン交響曲全集」や1997~2000年収録のブルックナーの交響曲の4、8、9番は、もっとも作曲者の創作意図に適った演奏なのだ。ただこの時点でも朝比奈はブルックナーがどんなことを考えて書いたかはわからないと言っている。わからないけれども絶対に信頼をすることにしたのだと。

 一時期展開の早い、ダイナミック、ドラマテッィクな演奏ばかりを追うようにして聴いた自分が出会うべきことばだったように思う。bell

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クラリネット

 きょうは作業をしながら、きのうブログにアップしたクラリネット五重奏曲を聴いた。“ながら”であるから、どうしても意識を向けるのはハイライト部分ということにはなる。club

 すこしこもったような音のするこの楽器、包容力のある陰翳といったものを感じている。独特だ。「朝比奈隆 最後のマエストロ」(文藝別冊)にあるが、朝比奈千足氏が中学生だったとき、父朝比奈隆が、オーケストラの楽器庫の中から埃のかぶったクラリネットを持ってきてくれたという。千足氏はクラリネットが活躍する作品に興味を持ち始めベニー・グットマン、モーツァルトの協奏曲を聴くようになったようだ。朝比奈隆は時々オーケストラの曲でクラリネットの活躍するところを教えてくれたりしたという。
 朝比奈が息子に与えようと持ち帰った楽器クラリネット。クラリネットがたまたま余分にあったからだとは思えない。やはり魅力のある楽器だったからだろう。
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 マルクス・フレックによれば、クラリネットは18Cにシャリュモーを改良した新しい管楽器として登場。まだクラリネット用のレパートリーがないので、オーボエのための曲を編曲して演奏した。クラリネットのための協奏曲が初めて書かれたのは18C半ばでヨハン・メルヒオールモルターによってだった。どのような作曲家であったかは分からない。間もなくクラリネットはドイツの貴族達の人気を集めた。侯爵、伯爵、プロシアの王女までが虜になった。とはいえ一流の作曲家達がクラリネットの曲を作曲することはなかった。
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 そんななかで、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは早くからクラリネットを評価、1771年作曲の「ディベルティメント」でクラリネットを使っていた。交響曲では1778年の「<パリ>交響曲」でだった。この年代に間があるのは、ザルツブルクには使えるクラリネット奏者がいなかったからだという。モーツァルトは1781年フリー・メイソンでの仲間だった帝室吹奏楽団のメンバーであるアントン・パウル・シュタードラーと出会う。これがきっかけでモーツァルトはクラリネットの作品をいくつか作曲。彼らは似たもの同士。面白いことにというか怪しからぬことにというか、これも二人してフリーメイソン仲間のヨハン・ミヒャエル・プフベルクに多額の借金をしていた。プフベルクはシュタードラーには取り立ての訴訟を起こしたが、モーツァルトには彼の天才に免じて取り立てをしなかったらしい。そんなばかな、天才であろうが凡人であろうが借りは借りだと、天才を羨むこの凡人は思うのだが、どうも本当のようだ。
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 シュタードラーは低音域を広げたクラリネット、これをバセットホルンというが、これを作らせた。そしてこの新しい楽器のためにモーツァルトが作曲したのがクラリネット五重奏曲K.581とクラリネット協奏曲イ長調K.622。そしてもう一曲、クラリネットとバセットホルンにヴィオラ、ヴァイオリン、チェロのための五重奏曲だがこれは未完らしい。きのうアップしたCDのカルミナ四重奏団はフランツ・バイヤーが補筆完成させたものを演奏している。
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CD「モーツァルト&ブラームス クラリネット五重奏曲ほか」ザビーネ・マイヤー/ヴォルフガングマイヤー

 カラヤンお気に入りのドイツのクラリネット奏者ザビーネ・マイヤー/ヴォルフガング・マイヤー。カルミナ四重奏団の盤。このふたりは兄妹。ヴォルフガングが兄。

 美音というだけではなく、この岩手にも双子の姉妹でヴァイオリンを教えていらっしゃる松見和子・松見雅子先生がいらっしゃるところから、兄弟姉妹で音楽することのすばらしさをもおもいアップしてみました。

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除雪

 

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これは大晦日に撮った写真ですが、そのあとも降り積もり、さらに雪が堆積した状態となっていました。

 近くの方が市に除雪用のトラックを依頼。それに有志を募り除雪に乗り出したわけです。2㌧車が9時きっかりに家の前に。待機していた3戸の6人で雪の壁を崩し、トラックの荷台に積み込み、トラックの運転手の方が積まれた雪を荷台にの前の方に寄せる作業。積み込みは5回。トラックは河川に設けられた雪捨て場から戻るのに30分と聞きましたが、それよりも速やかでした。
 もし協力する人数が少ない場合には運転手の方に過重な負担をかけることとなります。だいたい3戸沿いの雪をかたづけた時点でちょうど1時間が経過。私はもう限界と思いました。しかし次の一戸はいつも無私で除雪に尽力くださっている方の前となれば、やめるわけにはいきません。そこを何とか終えました。勿論主戦力は男の方々であり、私の力は微々たるものであるのは言うまでもありません。それからさらに2戸。そこでもう一人女の方が出てきてくれ、近くの家に応援を頼みに行ってくださったところ不在だったらしい。いつも無私でやっているかたが仰った。「あそこの家の前もやりましょう。」。主人と話しているのを後ろで聞いていたところ「わたしは仕方が無くやってるんじゃない。やらせていただいている」。教えられた一言だった。次にはなぜか力が湧いたというよりも淡々とリズミカルに、それほど力まなくても一定の動き、そして無駄のない動きで雪を積み上げることができた。この淡々と作業をした部分には疲労の蓄積がなかったと感じるほどに。

 市が、県がやるのが当たり前だけでは、安全な道路の確保は出来ないと思った。自分たちが一丸となって力を合わせてこの雪を始末しなければならないという姿勢があってもいいはず、そう教えられた。

 よく親睦を深めるために一緒にお茶を飲んだり、酒を酌み交わしたりといった習慣がある。それも楽しいだろうし、一概に否定するものでもない。しかし思ったのは、本当の親睦、相互理解は共に作業、労働をするところからこそ得られる、そう思った。

※日曜日にはいつもインマヌエル盛岡キリスト教会のメッセージをお送りしていますが、きょうは除雪の方に参加しましたので、メッセージの掲載は後日となります。

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透視

 元旦は除雪に始まり外出は主人の勧告で控え、お雑煮をいただいて終日家にこもる。2日は教会に。故人を偲ぶ例会、そして婦人会に参加。教会近くのスーパーで買い物をし、帰省中のものもいるので急いで帰宅。3日は帰省中のものが帰るので何かと意識がそちらに。4日、5日、7日と歯医者さんへ。七草粥をいただく。
 気づいてみると所謂正月番組はほとんどというよりもまったく見ないでしまった。クラッシク音楽番組をすこし見たきり。のんびり、ゆったり、ゆっくり。ほとんどナマケモノ的生態。ひいき目に見れば若干疲れが出ているので、休息に徹したということでもある。この冬は除雪もほとんど主人任せとなっている。
 明日は本来なら教会の日なのだが、この界隈の除雪に参加することにしている。どの程度できるのか自信がないが、マイペースでそろそろウォーミングアップしよう。

神はすべてをご存じだ。ほんとうにすべてを。これがこの年頭に実感したことだ。目の前に何が現れているかは問題ではない。ある意味でいま健康であるかないかも問題ではない。何れ神はすべてを見透しておられる。いまほんとうにそう思う。この正月はそんな思いの中にあったときであった。



 

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キンキンキンキン

 金属音が聞こえる。キンキンキンキン…。
この冬を支配する指揮者がタクトをただひたすら上下に振りつづけている。
すべてが凍てついていくこんな厳しい冬には地上の一切の営みを返上して、ただただ眠りこけていたくなる。人間も冬眠できたならどんなにいいだろう。
 こう思うのは怠け者になったからかもしれない。

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 きょうの題は「プチ冬眠」として、「きょうも休息です」と書くつもりでしたが、一行でも書かないとほんとうに書けなくなってしまうと思い直した。とにかくささやかでもやり続けていることだけが手元に残っていくのを実感している。絵も楽器も取り出すことが億劫になった時点で、それは放棄であったと今にして思う。「またいつかやろう」というそのいつかはいまだ来ていない。
 やらなくても誰にも迷惑をかけることがない、或いは生活に支障を来さないことは、意識的にやらない限り失ってしまうものらしい。

 これも駄弁ではある。しかし駄弁で空白を繋ぎ連続させる、これも無意味なことではない。かかりにくいエンジン音のする文章で耳障りではありましょうが、何しろこの寒さです。ご勘弁ください。

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バッテリーを充電

 今日は休息、充電の日といたします。
訪問下さっている皆様に感謝申し上げるとともに、厳しい冬のお疲れが出ませんようにお祈りいたします。

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岩手の文芸誌天気図VOL9 好評発売中

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県下各書店で好評発売中!!

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それにしてもこの寒さ

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               近所のかたの木のうえの巣箱です

 きのうはつい食べ物のことを書きましたが、この大雪、冷え込みもあり、全般産業が冷え込んでいるという実感が。近頃はどこからか真っ先に数字を見つけてくることにも興味が失せつつあります。どの産業がどれだけ冷えているか、いまは感触でものをいっています。岩手にあるものでお勧めできるものは多くの方に知っていただきたい。そんな思いからでした。あれもこれも、おいしいものはたくさんあるのでしょうが、わたしが実際に食べて美味しいと思ったものをアップさせていただきました。

 それにしても外は寒い。今朝は息子が使っている車のバッテリーがあがり、久方ぶりにブースターを使っていました。きょうホーマックに行くと、車種によってはバッテリーの棚ががら空きになっている。同じトラブルが頻発しているのだろうと勝手に想像しました。運転するときには脱出用の鉄板、チェーン、ブースター、スコップは必携。JAFも混んでいるのでは。早急にきてくれるものかどうか。
 しかし、莫大な除雪費を投下し、どれほどの雪が降ろうとも車を通す。そうしなければ社会が混乱し麻痺してしまうわけだけれども。それをやらなければ行政が叩かれる。人間社会って、何かどこか妙な感じ、一瞬そう思ってしまった。
 ホーマックに着くまで10㌧ダンプが前を走っていた。満載の雪。どうやってこの高い荷台に積み上げたものか。ベルトコンベアなどは使えるのだろうか。下ろすときは操作一つで荷台が傾いてくれるだろうけれども。日本海側も大変らしい。
 高齢の方々が歩くには道が危険すぎる。かくいうわたしもかなり危ない一瞬があった。
 
 室温22時24分現在8度。これ以上はあげる必要もない。

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岩手にうまいものありー八幡平高原赤鶏ひっつみ鍋ー

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 しんしんと雪が降り積もる日にも、岩手にはほっかほかにあたたまる食べ物が。
 年末になると決まって兄弟から届くものがあります。これが

        八幡平高原赤鶏ひっつみ鍋

 ひっつみ、八幡平赤鶏、ねぎ、三つ葉、しめじ、にんじん、ごぼう、スープが一つの箱に収まっている。忙しい主婦にやさしい。これらを鍋にいれるだけでOK。地鶏、これがほんとうに美味しい!! 八幡平赤鶏としては、この発泡スチロール入りの贈答用が美味しいです。電話をすると送ってくれます。我が家は年に一回この鍋物をたべるのを楽しみにしています。

 注文先 にしねデリカ
       岩手県八幡平市大更18ー141ー9 
       ℡0195(76)2227

        価格 4200円

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ひっつみとは 
 小麦粉をこねて薄く伸ばしたものを手でちぎり、お鍋の中で季節の野菜とともにだしで煮込む料理。具やだしは季節によって様々であり、川魚や川のカニ、鶏肉、きのこなどを用います。
 名の由来は、「手で引きちぎる」事を方言で「ひっつむ」と言うことから名付けられました。「ひっつみ」は、地域によって「とってなげ」、「はっと」、「きりばっと」とも呼ばれます。
 なめらかで喉越しの良いひっつみは年齢を問わず、身も心もあたためてくれる岩手県ふるさとの味です。(「家庭で味わう郷土料理百選」より)

 岩手の郷土料理、是非味わってみてください。
尚、当然のことながら、西根デリカさんとは知人、友人ではない、一円もリベートは受け取っていません。それだからこそ、また美味しいというのも食べてみての実感であり、ほんとうの事です。

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きょうのことばー『御心を行うことを喜ぶー2』その2

※2011年1月9日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教を、昨日と今日の2回に分けて掲載しています。このページは昨日の続きです。

 人間の罪の本質はそもそも権威に従うことを徹底的に毛嫌いする。色々な理屈、美辞麗句でカモフラージュし表面を整えるかもしれませんが、その裏には私は神に従うのは嫌だ、わたしは自由がいい。自由こそ最高とする。その時代その時代に合わせて化粧を変える。それは思想や芸術であることもありますが、いずれその結果が出ているのがいまの人間の社会なのではないでしょうか。そのような意味で私たちは、その時代がもてはやす価値観と自分たちの価値観が違っていることを恥とはしません。また移り変わる価値観に簡単に同調してはならない。価値観のもっている危うさを見抜かなければならない。親子関係に於いても、封建的な親だとよくいいます。友だちのような親がいいと。しかし聖書ははっきりと「神に従う」と同じ意味で、「汝の父母を敬え」と教えています。
 いまのさまざまな社会の様相、これはそもそも根本的なところに大きな違いを生じているからではないのか。結局神様がお喜びになる私たちのあり方は、この詩篇40篇の8節に見られるイエスさまの負っておられる生き方にあります。「
 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」。このあり方生き方をもう一度埃を払って、サビを落として、潤滑油を入れて、この生き方こそ、この年私たちが模範とすべきイエスさまの姿であり、これに倣おうではありませんか。私はこのことを心に留めたいと思っているのです。
 ここで気をつけねばならないのは、私どもが聖書のおことばとしての神の権威に服するというときに、それさえもサタンが巧みに落とし穴を作ってやってくる。その危険性、弱さがあるということを、私たちは絶えず気をつけなければならないと思います。一つは何かというと、わたしたちメソジストは監督制という立場を持っております。メソジスト教会の伝統のある講壇、これはものすごく高くなっていますが、それぐらいメソジストの監督制はこういった立場であるのです。一方バプテスト系は、これは教会によるのかもしれませんが、よくアメリカの大統領が演説するときには、ほんのちょっと聖書を載せるだけの台があるといったところで説教をしている。或いは会衆制。監督制のもつ危険性と対極にあるのが会衆制です。
 わたしが言おうとしているのは監督制のもつ危険性のことですが。牧師のいうことが絶対だ牧師は神に仕えている身なんだから、もしこういった理由で服すべきとクリスチャンが捉えているとしたら、それはまさに権威の濫用と言わざるを得ない。しかし、しばしば誤ってしまうのは牧師の自分勝手な価値観やスタイルを押しつけてしまっていることがある。わたしはそれを自分自身反省しなければならない。聖書のいっている権威とそれに従う事に於いて、細心の注意を払わなければならないのはこのことです。嫌なことばでいうと牧師が信徒を支配するというようなあり方になったなら、とてもとてもこれは在るべき姿ではないということは、おわかり頂けると思うのです。権威というものに従うときに、わたしたちが気をつけねばならないことはそれだと思います。それからもう一つ逆なりにこの価値観のもっている危険性は何かというと、服従するときに全く無批判に、これは先生の言っていることだからといってそれをまったく無批判にただただ受け入れて従っているだけではならない。たしかに服従しているかもしれない。でもそれは、聖意を行うことを喜びとするという従い方とは異質なものです。無自覚な無批判なただ惰性に流されたような服従の仕方、これに陥りやすい。
 どうぞこの40篇の:8節にある大切な真理、これを正しく理解し自らにあて嵌めてゆくのなら、これは教会員が神様の御心に適ったあり方として祝福されるのではないでしょうか。
 もういちど皆さんで、詩篇40篇8節を文語訳と新改訳で読んでみましょう。

文語訳「
わが神よわれは聖意(みこころ)にしたがうことを樂しむ。汝の法(のり)はわが心のうちにあり
新改訳「
わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

文責:中ぶんな

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きょうのことばー『御心を行うことを喜ぶー2』その1

 今朝も雪がふりました。しかし車の渋滞もなく教会に到着。
 毎日曜に掲載するメッセージは、わたしが行っている教会の牧師先生の説教であり、できるだけそのままお伝えしてきました。きのう読んでくださっている方から感動したという感想をいただき、ほんとうに嬉しかったです。ただ長くて読むのが大変とも仰っていました。そこで、できるだけ簡潔に読みやすくお伝えする努力をしてゆきたく思っています。短くするというのもなかなか怖いことなのです。文意が損なわれる、最初のメッセージから遠いものになってしまうのではないか、勝手に削ることが許されるのか等々の問題もないではありません。しかしポイントを外さぬように努力してみることにします。言葉足らずになることもあるかもしれませんが、ご容赦ください。


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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(國光勝美・ひろ子牧師)の國光勝美先生のメッセージは
説教題:『御心を行うことを喜ぶー2』
聖書引用箇所:詩篇40:1~17

指揮者のために。ダビデの賛歌
1 私は切なる思いでを待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、
2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、に信頼しよう。
4 幸いなことよ。に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5 わが神、よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押さえません。よ。あなたはご存じです。
10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。
11 あなたは、よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。
12 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の神の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。
13 よ。どうかみこころによって私を救い出してください。よ。急いで、私を助けてください。
14 私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。
15 私を「あはは」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。
16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「をあがめよう」と、いつも言いますように。
17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。


 ことしのおことばとして詩篇40篇8節にありますわが神よわれは聖意(みこころ)にしたがふことを樂む。汝の法(のり)はわが心のうちにあり」を掲げさせていただきました。これは文語訳です。口語訳では「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」と訳され、どちらも同じ意味でありましょう。御心をおこなうことを喜びとし御心を行うことを楽しみとする。これが今年の私たちのあり方となりましたならば何とすばらしいことでしょう。
 去年はハバクク書3:2「主よこの諸々の年の中間(あいだ)に汝の運動(わざ)を活溌(いきはたら)かせたまへ此の諸々の年の中間にこれを顕現(あらわ)したまへ」
を掲げました。今年は詩篇40:8です。
 元旦礼拝やこのまえの聖日のとき神のことばに聞き従うテーマで百人隊長のしもべの癒しを話しました。権威のもとにあるイエスさまのおことばさえいただければ十分です。イエスさまは父なる神様の権威に自ら従い、イエスさまは父なる神様の御心を行うことを喜び楽しんだ。「あなたの法(のり)はわが心のうちにあり」と主イエスさまは仰いました。この御心に従うということ、これがイエスさまの権威に従うあり方であり、それだからこそイエスさまの御言葉には権威があった。年末から新しいとしにはこのように思い巡らしました。そしていよいよこの年、詩篇40:8を一人一人が捉えてアーメンと進みだすことができたならばと願うことです。
 身近な例話ですが、一昨日、住まいである2階の天井に付いている換気扇がガタガタとうるさい音をたてて停まってしまいました。電気系統に関連もあるので、思い切って天井から引き離してみたところ、埃がいっぱい溜っていました。掃除機で吸い取り、ブラシで隙間をきれいにしてみたのですがまだ調子が悪い。そこでこんどは徹底的に埃をとったところ、前のように音もなく回るようになりました。いつの間にか埃がついてしまう。きちんと埃を払って手入れをしてやるといい。信仰生活もそうかもしれない。私たちは世の中にありますから、折々に付着してくる避けられない埃、汚れ。そのまま放置しておくとマイナスを生じることになる。ついにはガタガタと音がして停まってしまう。手入れ、整備がうまくいくと、動いているか動いていないのかわからないほど静かに、しかしずっと回り続けるという、これが信仰生活だろうな、淡々とあるべきところをきちっと守り続ける。しかもそこに静謐さ、静けさがある。ほんとうに考えさせられました。
 イエスさまの前にあるあり方、この秘訣というのは正にこの詩篇40:8にあることを思うことです是非是非この40:8「
わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」。あなたの教えはわたしの内に、わたしの内臓組織のうちに組み込まれている。もうそれがわたしの生き方です。それに従うことがわたしの生きることなのです。まさに「きよめ」と私たちがしばしば標榜いたします生き方の典型的なおことばがこれであると思っております。
 わたしが最近この教団の教報に書かせていただいた「権威」のことですが、前にも話しましたが、現代社会でいちばん人気のないことばのうちの一つは、「権威」或いは「服従」でしょう。あまり受け入れられない。このことばが社会に疎まれているとすれば、そこに大きな問題があるという立場をとっているのが私たちです。権威、服従を否定するのはクリスチャンのあり方ではありません。
 わが家の子どもが小・中学生のころ、父母会に行ってみて驚いたのは教壇が無かったことです。私たちの時代には、けっこう高い教壇がありました。教壇を持ち上げてその中に人が隠れることができるくらい高かった。教える側と教えられる側の立場に違いがあり、教える側は上の位置にあり、教えられる側は下に位置していたのです。しかし今は同じ立場でやるという、そのような価値観となっているのでしょう。
 よく封建的ということばが使われますが、この場合には個人の権利、自由よりも、上と下といった上下関係に重きを置く。それに対して平等でなければならない。つまり教壇を取り払ったようなあり方を推し進めると、これは笑い話なのか、ほんとうにあることなのか分かりませんが、運動会のかけっこでみんなで一緒に手をつないでゴールインのテープを切るという。笑い話なんでしょうか。聞いたときにはここまで来たかと思いました。平等そして区別、差別というものと何かごっちゃになっているのではないか、そんな思いがしたのです。しかしみんなで一緒に仲良くテープを切りましょうという価値観、生き方というものが受け入れられているとすれば、これは私たちは、聖書を理解しようとするときには考えねばならない。というのは、聖書は明らかに権威を教えています。そしてわたしたちは、神さまに従うものだ、これが大前提。それが価値観でありまさにそこから始まっているわけです。神は全能のお方。神は創造主。一方私たちは被造物であってそのお方に服するべきものである。
 いずれにせよ聖書が神の権威を認めている。そしてこれに対して服することを良しとせず自由を望んで神に反旗を翻した天使のあるグループ、天使の全員がそうなったのではないのですが、天使の中で最も指導的な立場にあったものが神に従うことをよしとせず、服従という法則に反旗を翻して自由を求めてその地位を簒奪しようと試みたそれがサタン、悪魔といわれている存在であり、そしてその配下が、聖書の中では悪鬼、悪霊という表現でいわれているものです。そしてサタンの誘惑に従って本当に神はそのように仰ったのか、つまり「汝の法はわが心のうちにあり」というはずの者なのに、ほんとうに神はそう仰ったのか、そうじゃないんだといってエデンの園において私たちを神に従うこと、法に従うことを外れさせてしまった、それが罪の始まりです。
      つづく

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ゆずったりゆずられたりに「ありがとう」

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        雪の庭にたった一粒の朱い実

         ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

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雪いかに深くあるとも除雪車は低速のうちに道をひらきゆく


削り取る人の車のとおり道氷凸凹みな削りゆく

狭めらる雪の小径にゆずったりゆずられたりに「ありがとう」

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エンジョイ・アンサンブル☆シンフォニエッタ・盛岡  2011/1/29(土)13:00 ~盛岡市マリオス小ホール

                  

 note音楽会のお知らせnote

「エンジョイ・アンサンブル」

シンフォニエッタ・盛岡&…

 マリオス小ホール  

 2011年1月29日(土) 13:00~

   入場無料

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 毎年5月には定期演奏会で音楽の楽しみをくださるシンフォニエッタ・盛岡のメンバー&有志?(おそらく)の方々による音楽会です。
 シンフォニエッタ・盛岡さんは、この雪深い冬にも西部公民館で練習。弛まなく楽の音を響かせています。

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次の言葉を口ずさんで

 さきほどまで年末年始の大荒れの被害はどれぐらいだろうかとネッとを見ていたが、岩手県のまとめでは7日午後1時現在で県内各地であわせて40億6900万円。豚舎崩壊、生乳が出荷できないことなど、酪農に従事している友だちもいるので他人事ではなかった。この冬これ以上被害が嵩まないようにと思う。
 と思う間に、我が家にも水道の不具合が生じ、一旦席を離れ駆け付ける。幸い事なきを得たようだ。

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 たまに前後の脈絡もなく、言葉が浮かぶことがある。聖書のことばであれば励まされもするが、人の言葉である場合もある。さっき浮かんだのは「お気づきだ」という言葉。誰にいわれてるわけでもない、単に頭に浮かんだというだけなのだが、はて、わたしが何に気づいているのかななどとしばし思い巡らしている自分がいる。つい可笑しくなってしまった。
 世の中にはたくさんの言葉が氾濫している。選択して取り込もうとしなくとも、無意識のうちに入り込んでしまっている場合がある。「お気づきだ」がどこから入ったものであるか、或いはさっきほんとうに聞こえたものかは…などというと根拠のない怪奇現象でも作り上げようとしているようでもあるので、こんなときには、次の言葉を口ずさんできょうはやすむとしよう。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみふかい。その恵はとこしえまで」

これでいい。

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いつもどこかで音楽が

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 そちこちの雪の被害が報告されているときにも、脈々と命の営みはある。このモクレン。もう先端には花芽が。雪をのせてはいるが、こぞって薄青い空をあおいでいる。焦らずに淡々と、ときの自然な流れにすべてを委ねて春を待っている。見ていると、この雲と枝とのあいだに、青空と芽とのあいだに、枝と枝とのあいだに、微かで明るく透き通る弦ややわらかな女声、芯のとおった合唱が醸されているようにさえ感じられる。

 この岩手にも、雪深く冷えこむ日にも、どこかではオーケストラやアンサンブルや合唱の練習がなされている、教会でも賛美歌が歌われている、そう想像するだけでも、この雪景色が温かみを帯びてくるのだ。

 

 
                              

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歩けば見えるさまざまに

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 盛岡市の中津川に架かる富士見橋より。12時予約に間に合って歯科医院に。

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 曇りのため水が青く写らないのが残念。カメラが捉えたのは水の冷たさかな。

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 歩くと色々なものがよく見える。老舗のまるせい呉服店さんの前を通りかかると、ちょうど除雪車が圧雪を削っていた。

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 小路はまだこのような状態。車は譲り合いながらすれ違っていく。
 実家の母が押し車を押しながら買い物に行く姿が思い出された。このような雪の日には多くのお年寄りが買い物に出ることができないでいるに違いない。天気予報は雪マーク。冷蔵庫の食料は尽きないだろうか。
 家では主人が屋根の雪下ろしや、路上の除雪、雪の落下で破損した雨といの修理に大忙し。きょうの夕食の買い物はご近所のお店で。野菜、肉、魚、お総菜、日用雑貨と暮していくには困らないだけのものが揃っている。

 除雪車は休み返上でフル回転。県の、市の除雪費、ほどなく底をつくのではないか。

 画面が、写真がすこし寂しいときに、さてどうしようかなと考える。すこしでも明るくしてみようと文字を青くしたり緑にしたり朱くしたりすることがある。
 以前、文字を彩色するのはやめた方がいい、と言ってくれた友だちがいる。読みにくいということだった。それ以来できるだけ控えてはいる。しかしいまにして、こういったことを率直に言ってくれる存在がいかに有り難いかを思う。
 けれどもきょうの灰色の空には、やはり何か明るさを付け足したくなり、青い文字にしてみました。

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歯医者さんへと出でたれば

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  きょうはよく晴れた。青空を見るだけで深呼吸したかに爽快になる。
 午前中10時予約で歯科医院に。寒かったが、医院に入り人情味のある女医先生を拝見して、何かほっとした気分に。近頃はほんとうに女性の医師が多くなったと思う。皮膚科、眼科、そしてこの歯科も。当然のことながら、有名人でもないこのブログのことは、どの先生もご存じない。今回ばかりは前歯の“大工事”となりそう。
 治療を終えて、さて買い物にと駐車場から出て、お目当ての生協へと向かったところが、年末からの大雪で道路が狭められて渋滞。何とか交差点を突っ切って直進したところで、車の縦列がとまったきり動かない。向こうからバスが来ていた。路幅がないためにすれ違うことができないのだった。乗用車が一台タイヤをスリップさせて黒い煙を吐いている。見ると除雪した雪を運ぶためのトラックも雪に嵌って身動きが取れなくなっていた。車できたことをすこし悔いた。これは引き返すに限ると、右手に見えた、除雪された小路に右折しハラハラしながら方向変換。引き返した。別なスーパーで買い物を終え、これもまた対向車とすれ違うのにぎりぎりの路を通って家の方角にハンドルを取る。交差点で信号待ちとなった。対向にワゴン車が停まってやはり信号待ちしている。その時だった。電信柱から道路側に張り出した部分から、大きな氷の塊がワゴン車の屋根に落下。もの凄い音がした。かなりへこむか傷つくかしたのは確かだ。
 轍に車体をがたつかせながら低速低速でやっと自宅近くに。ここまで来てもほっとしてはいられない。雪の壁に車体を擦らないようにバックさせて敷地内に入れなければならないのだ。あすも歯科治療の予約をしている。こんどは歩いて行こうと思う。
 

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きょうのことば ー『御心を行うことを喜ぶ』ー 2

※昨日、日曜日の「きょうのことば」 を2回に分けて掲載しています。このページは昨日の続きです。

 わたしは以前この詩篇40篇を開いたことがありますが、そのときに特に心に留まった聖書の箇所があります。それは旧約聖書の申命記15章。申命記にはモーセの時代にイスラエルの人々が神様から命じられた規則が書かれてあります。その15章の16、17節。
16 その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません」と言うなら、17 あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。
 家に仕えているしもべが、奴隷ではあるけれども心からその家族を愛し、この家の主人の権威の下に仕えることが幸せであり、主人がしもべに自由を与えようとしても、奴隷自らの自由意志でここから出て行きたくないといった場合には、きりを取って彼の耳を戸に刺し通すという行動をしました。それはそのしもべがあなたに従いたい、どうか生涯あなたの奴隷としてくださいという印しでもあったのです。

 詩篇40篇に返っていただきたいのですが、この申命記を下敷きのようにして味わいますと、この詩篇がさらに生きてきます。
 あなたはわたしの耳を開いてくださった、そうです。わたしはあなたに従いたいのです。あなたの奴隷となり続けたいのです。つまりあなたの権威のもとにわたしは在り続けたいのです。
 そして7節

7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
 そして8節
8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
 この「心のうち」を調べてみますと、内蔵を構成する臓器とも訳されています。ああ、あなたの教えは私の心のうち、わたしの内蔵をも構成している、私を私たらしめている、もうその中にあなたの御言葉が入っている。
 権威に従うという言葉がこの年の教会の主題としてテーマとして掲げられるなら強制力のある権威ではない。嫌だけれどもいやいや従うというものでもさらさらない。それどころか私のためにすべてを献げてくださったこの神様のイエス様の贖いの愛というものが解れば解るほど私はあなたにお仕えすることが喜びなのです。生涯あなたのもとに奴隷として在らせてください、と権威に従うことを何よりも喜びとする。そしてあなたの教えは私の心のうちにある。この聖なる自由意志をもって喜びをもって神様に仕えるということが今年の信仰生活の在り方でありましょう。このことを2011年のはじめの聖日に皆様と共に確認させていただいたことです。


※新年よりICレコーダーを用いて説教を興しています。
 文責:中ぶんな

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きょうのことばー『御心を行うことを喜ぶ』 1

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 2011年1月第一聖日のインマヌエル盛岡キリスト教会(國光勝美・ひろ子牧師)のメッセージ、きょうは國光勝美先生です。

説教題 『御心を行うことを喜ぶ』
聖書引用箇所 詩篇40:1~17

1 私は切なる思いでを待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、
2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、に信頼しよう。
4 幸いなことよ。に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5 わが神、よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押さえません。よ。あなたはご存じです。
10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。
11 あなたは、よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。
12 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の神の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。
13 よ。どうかみこころによって私を救い出してください。よ。急いで、私を助けてください。
14 私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。
15 私を「あはは」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。
16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「をあがめよう」と、いつも言いますように。
17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

 大晦日の前後から大変な低気圧。荒れ模様の数日を過ごしました。きのう元旦礼拝中に光がさしてきたときには盛岡の明るい日差しが帰ってきたと思いました。そしてきょう、このように良い天気となっています。それにしてもこの大雪。さきほど奥州市水沢区の兄弟からの御連絡で、きょうは向こうの方の教会で礼拝を守るということです。また八幡平市の兄弟からも、あまりに雪が深いので近くの西根町で礼拝を守りますということでした。礼拝直前までO兄弟の話を聞きましたが、兄弟の御自宅の方もかなりの積雪なようです。今年はどんな冬になりますか。教会の周辺の道路には昨日の夕刻になってようやく除雪車が入って来ました。それですこしは走りやすくはなっておりますが、どうぞ皆様方、歩く方もそうですけれども、祈りながら慎重に行動され出入りが守られますようにと願うことです。

 きのうは先ずマタイ伝6:33にある「
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」という御言葉をテキストにまなびました。この一週間、或いは先々がどういうことになるだろうかと私たちが心配するより、はるかに私たちのことをよくご存じで、そして私たちの明日を支配しておられる主がいらっしゃり、主が私たちを心配してくださる。だから私たちは先ず神の国とその義とを求めることであると知っています。それをもう一度きちんと確認させていただこうではありませんか。
 ちょっとした私の体験があります。車のことです。車検があったとき、そのあいだに本当に久しぶりに車の取り扱い説明書を読んでみました。それまで何事もなく車を動かしていますし、順調に走っています。今更読む必要もないと思いながら読みすすみました。しかし読んでみて初めて気づいたことがありました。いまの車は、キーをポチッと押すとロックが掛かったり開いたりする。わたしは鍵穴に入れて開閉していますが。いつのまにか、この車は鍵穴に差込んで開閉するものと思っていたのです。ところが、マニアルを見たら“ポチッと”錠もあるんですね。「あ、できるんだ」と思いよくよく考えてみたら、車を買うときに、こういう機能がありますがその分高くなりますと言われ、「それじゃ結構です」と断わったのを改めて思い出したわけです。あたりまえに乗っている車のことを、もう一度始めからきちんと知っておくことは、これは必要なことであり意味のあることだと思いました。
 私たちは神様の全能、神様の御支配を知ってこれまで信仰生活を送ってきているわけですが、こういうとき、もう一度イエスさまのおことば、或いは第一ペテロの5章
7節にある 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」や「日々汝の重荷を担われる主」といった御言葉に頷きながら、先ず神第一の信仰生活を送っていくことにしましよう。きのうの礼拝ではこのようなお勧めをしたことでした。

 きょう私は、新年に掲げる御言葉として聖書のどこをということがまだ定まっておりません。ただ基本線として12月ごろから心に留まっているのは、神様の「権威」です。
 年末の礼拝で、百人隊長のお話をしました。百人隊長のしもべが病んでいるときに、自分も権威のもとにある者ですからただおことばをください、とイエス様に懇願した人物。この百人隊長は自らの生活を通して権威というものを弁えている。同じような意味に於いて、私たちは神様の権威というものをどれだけ受けとめてその下に生きているでしょうか。このことを思い巡らし、この「権威」を今年の御言葉にと導かれています。そこで百人隊長の信仰をテキストに年頭の御言葉をと備えておりますうちに、詩篇40:8「
私はみこころを行うことを喜びとします。」に至りました。神学的にいえば、これはイエスさまの父なる神様に対する在り方です。イエスさまが父なる神様の権威に服しておられる。いやいやながらではなく父なる神様に従うことを喜びとする、それがイエスさまの在り方でした。この詩篇40:8にある権威に対する在り方。これこそがことしの始まりに相応しいのではないかと次第に心が整えられ、きょうこの箇所をお開きしているわけです。

 仮に現代社会でいちばん人気のない言葉をランキングするとしたら、たぶん「権威」は挙げられるでしょう。今の世の中に受け入れられ難い言葉の一つではないでしょうか。それほど今の社会は権威というものを避ける。それでは「権威」とは何ぞや? この理解の一助として権威の反意語を辞書で調べましたが、なかなか見つからず、どれも納得がいかない。権威の対極にある言葉があったならどなたか教えていただきたい。それではということで、こんどは同意語を見ますと、ごく近い言葉として出てきたのが「権力」。似ていると調べてみますと、「権力というのは強制力をもって従わせる力」だとありました。納得します。強制力をもってひとを服さしめる。ところが「権威」というのは強制力で服させるのではなく、自由意志をもってそのものに従うこと。「この道の権威者」というときには、決してその人のいうことが強制力を持っているのではないけれども、「あの人のいうことならば」ということで、「なるほど」と自由意志をもってそれに服することかななどと色々考えさせられたわけです。
 この権威ある御言葉に私たちが従う、するとまさに同じイエスさまの御言葉がこの40扁の7、8節です。ある方は、なぜいきなりこれをイエス様の言葉だというのか、これはダビデが謳った詩ではないか、と思われるかもしれません。
 ヘブル人への手紙10:5には

5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」

 とあります。これは詩篇40:6、7、8が引用されているのです。つまりこれはイエスさまの御言葉であると解釈できます。聖書自体がこのところをイエスさまがこの世においでくださるときに、父なる神様との御子なるイエスさまとの天における会話の中で、イエスさまが父なる神様の権威に服しこの世に体を備えてくださった、人としてこの世においでくださったことが言及されているところなのです。これで納得していただけるでしょう。
 そしてローマ人への手紙10章17節には

17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
 この御言葉も私たちは受けとめて、これに従うという流れになるのでございますけれども、さて詩篇40扁の6、7、8節にもうすこし目を留めてみることにいたしましょう。
 ダビデの口を通して神様がほんとうにお求めになるものは何でしょうか。神様が私たちに求めておられるのは6節でいうと、いけにえや穀物のささげものではない。全焼のいけにえ、罪のためのいけにえなのか、いいやそうじゃない。「あなたはわたしの耳を開いてくださいました。」と6節にはありますが、「耳を開く」という第一義的な意味は、「穴を掘る」という意味が使われております。これはわたしたちの理解がすっと落ちる、ほんとうに真理がわかるようにしていただいたということです。

           つづく(あすページを改めて書かせていただきます)

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明けましておめでとうございます。2011年元旦

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                      2011年元旦      

    明けましておめでとうございます。

 大晦日から元旦にかけてのこの厳しい風雪に、ゲオルグ・シュトルム神父のことが思い出されました。スイスに生まれ。52年来日。大籠教会、水沢教会歴任。59年より二戸カトリック教会主任司祭。2004年帰天。この岩手で89歳まで伝道。

 このような雪深い日には信者の方々のために汗を流して除雪されたでしょう。この東北、北海道にはこうした司祭、牧師の方々がおられます。

 神父の遺作を見ながら、こういった生き方を貫いているごく一部の人々によって自分が、多くの人々が生かされていると思われてなりません。

 

 

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