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きょうのことばー『ただ、おことばをください』ー

20101225_014
  大雪がふったきょう、教会ではとても除雪が間に合わないだろうとおもい、幹道から外れる地点に車を置いて途中から歩いていったところが、いつもの台数が入るのに十分なスペースが除雪されていました。まちのいたるところで、終日除雪する姿が見られたきょうでした。

 さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(國光勝美牧師・國光ひろ子牧師)のメッセージは
説教題:『ただ、おことばをください』
聖書引用箇所:マタイ伝8:5~13

5 イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
6 言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。


 大雪の朝となりました。隣の公園でスチールの物差しを突き立てると40㌢でした。交通機関も渋滞しているでしょう。
 昨日はーこの教会のー兄弟の告別式でした。遺族の方々もいま疲労のピークにあるのではないかと思います。主の御支えと生きる希望が与えられますようにと祈っております。

 きょうはマタイ伝にある百人隊長のところを開いて年末感謝礼拝のメッセージを取次ぎたく思っています。
 亡くなられた兄弟の容態の異変を知らされた前後、全能の神を信じ、憐れみを信じて祈りました。神の憐れみがもうひとたび加えられますようにと。
 私たちはラザロを救ってくださったことをアーメンと頷き
、全能の神を紛れもなく信じ、主のなさることに遅すぎるということはない確信を聖書のおことばからもっています。一方、ダブルスタンダードに立っているクリスチャンがいます。ダブルスタンダード。辞書によると「仲間内と部外者、国内向けと外国向けなどのように、対象によって異なった価値判断の基準を使い分けること」とあります。おことばの真理と世の中の価値観を状況によって使い分ける。クリスチャンはこのことに安易になりがちなのではないでしょうか。これは自省を含めてのことです。
 自問自答しながら、信仰とは何か、はたしてダブルスタンダードは赦されているのだろうか。それはないはずだ。聖書ではこういっているけれども現実はこうじゃないか。たしかにラザロを甦らせた全能の神を信じる。しかし、みんなが癒されたなら死に至る病はなくなるじゃないか。いくらお祈りしてもその通りにならない、そう思いがちです。しかし神の業はもっともよいときに為されます。

                           つづく

 ー この下に、きのうの続きを書かせていただきます。ここからは12月27日に書き足した分となります。年末で何かと忙しく落ち着き無くおります。何卒ご容赦ください。また記事は要約してあります。例話も割愛したところもございます。ー

 イエスさまがお喜びになるのはどのような信仰でしょうか。一般の方々から見て異常と思えるような、狂信者のような在り方は聖書のいっている信仰ではありません。イエスさまがお喜びになられた信仰者がいます。マタイ8:10に「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」とありますが、こうまでイエスさまが絶賛された百人隊長の信仰は8:5~にあるとおりです。この百人隊長のしもべが病気だった。この時代のしもべはふつう使い捨てのような存在だったでしょう。しかしこの百人隊長は何とか助けたくイエスさまに懇願したところ、イエスさまは、行って直してあげようと仰ったのに対し、わざわざご足労いただくまでもなく「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」、ただおことばをいただくだけで十分だと彼はいいました。彼は御言が神の権威に裏打ちされていることを理解していました。決しておみくじやお札さえ貰えばといったような意識ではありません。「私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」」。御言の背後にある権威、ことばと権威の関わりをよく知っているものとして、彼はイエスさまにおことばを懇願したのでした。イエスさまはこれを聞いて驚かれたのでした。

 さきほどのダブルスタンダードがわたしたちクリスチャンにあってはならない。ではそれを見事に調和するのは何なのかと自問自答したときに、さきほどイエスさまを驚嘆せしめた権威、権威というものとの理解、関わり、それに集約される。ここにすべての解決のカギがある。ダブルスタンダードを変える、いや、それを超えるほんとうのわたしたちクリスチャン信仰の土台は権威というものにある。クリスチャンとしてわたしたちは、どれだけ権威あるお方に仕えているでしょう。そのところに大きな光を頂戴しました。主人の命令を権威の下にあっておことばをきくという生活をしていないと、それをいい加減にした生き方をするということは、即ち、それは権威を認めていないということになってしまうのです。

 きょう一日の始まりをおことばを聞かずしてスタートするなら、わたしの生涯の権威者を誰?とそこに疑問を生じさせる。朝、神様の前におことばを聞くことをしないなら、それはクリスチャンではあったとしても、神様のおことばの権威をないがしろにしている。主人のことばというものにいい加減な理解、観念しかもっていないそういうクリスチャンということになります。

 これは落語ですが、そそっかしいでっちの噺です。

「おまえ、ちょっと郵便局に行ってきてくれ」/「ヘ~イ」/「おいおいあいつ何をしてくれといわないうちに飛んでったよ」。しばらくしすると、でっちが帰ってきて、「旦那様、郵便局に行ってきました。大丈夫、何にもありませんでした」/「馬鹿!郵便局で何をしてもらいたいのかをお前はきかないで出ていってしまった。だからおまえはそそっかしいんだ」

 そそっかしいでっちの話なんですけれども、案外わたしたちやってるんじゃありませんか。案外こういうクリスチャンやってるんじゃないですか。たしかにクリスチャンなんです。だけれどもご主人からのおことばを聞かずして、ヘ~イ、といってその一日をスタートしてしまう。先ず何をしてもらいたいのかを聞かないでしまう。私は主の権威のもとにある、わたしたちの信仰生活の基礎として主のことばを聞く、それに従うという根本をしっかりと捉えているならば、私たちはイエスさまを驚嘆させるかどうかは別としてもイエスさまに満足をしていただけるような歩みができるでしょう。おことばを聞くということは、わたしの主人はあなたですと証しすることなのです。私はきょう、年末の感謝礼拝のおことばをくださいと主の前に出ようではないか、そして新しい年を始めようではないかと思いますのは、実はそのことなんです。どうかわたしたちが、そそっかしいでっちのようにならないようにいたしたく思います。

 一日を始めるにあたり、主が何を期待し命じておられるかをしっかりと求めて、一日を始める、そういう生活が習慣づけられますと主のおことばというものに絶対的な権威とその信頼を得て、それに生きることができるようになってくる。それがクリスチャン信仰生活であるとするならば、そのようにやっていればダブルスタンダードなどということは超越するんですね。問題の解決方法として、こういう問題が起きたらこういう解決法があるというマニアルに則った解決というものもあるでしょう。しかしこういう事にはこういう解決があるというときに、これを超えた権威を認めるとき、解決されない問題には悩まされなくなる。というのは、すべてのものを支配しておられる全能の神様のもとにすべてがあるのだから、いまわたしが直面している課題も権威あるお方のお許しのもとにあるのだからと納得することができる。
 病のとき癒してくださいと祈る。でも人間的な疑惑と現代の医学から見て癒してくださいという祈りが答えられなかったという表現は適切かどうか、こたえられなかった。しかし私たちが権威の下に信仰生活を送るとき、そういった現実を超越した全能の神様がすべてのものを最善に導き為してくださるということも納得できる。ダブルスタンダードなどということで逃げているのではなく、ほんとうにそうなる。主はそう為してくださる。深い意味に於いて納得することができる。これがわたしたちのクリスチャン信仰のイエスさまから認めていただくことのできる生き方ではないだろうか、そう言えるのではないかと思います。極めて乱暴ないい方をするのならば、このとき癒された百人隊長のしもべや、復活したラザロもその後は死んでいる。そういう意味で、祈っても願っている形で答が得られないことはある。しかしそれは常識的なこととして、ああ聖書ではこういっていると簡単にダブルスタンダード的な考え方生き方をするのではなく、その中に真剣に身を置いてイエスさまの権威に心を留めて信頼を置くときにおことばが与えられ、ほんとうの解決が得られる。これが勝利なのです。わたしはそのことを皆様方とともにこの朝心に留めさせていただきたいと願っております。

 いま大きな喜びとしては、T姉妹からクリスマスカードが届き、神は憐れんでくださると何とも言えない喜びがありました。また長野県の上田教会の先生からお電話があり、Aさんの息子さんが熱心に求道しておられるという連絡。大きな喜びでした。このように神は亡くなられた兄弟のための祈りは私たちの望むようには答えられないとしても、祈り続けていると、別な形でこのような答を下さる。必ず何らかの形で答えてくださいます。祈っていれば全能の神様が御業を為してくださるとの確信を得たことでした。

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