きょうのことば ー『陶器師なる神の作品』
きょうは陶器師の話ですが、この写真の器は神の作品ではありません。銘も入っていない誰が造ったかわからない陶器です。イメージ写真です。
さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のメッセージは
説教題 『陶器師なる神の作品』
聖書朗読 イザヤ書64:8
8 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で作られたものです。
来週は世界宣教聖日となっています。所謂外局の働きを、インマヌエルの全国の諸教会が覚える聖日となっています。そして28日からはいよいよクリスマスの体勢に入ります。そうしますと、わたしたちが落ち着いて心備えをするのはこの聖日ではないかと主の御前に覚えることです。
神さまが陶器師、陶造りであり、私たちが粘土であることは、聖書の中に多く記されています。挙げてみますと、
イザヤ41:25
「 わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たちをしっくいのように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。」
神様が私たちをご自身の主権のもとに扱われることが書かれています。
エレミヤ18:3、4
「3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
4 陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」
作成中に満足がゆかなければ自分の作った器を壊し、もう一度作り直す。イスラエルよわたしはこのようにするのだと神様は仰っています。
イザヤ29:16
「16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に、『彼はわからずやだ』と言えようか。」
造られた器が、どうしてこのように出来るのかと言うことができるのか。いや、陶器師がそうするのだ。これは神の主権から言われています。
イザヤ45:9
「9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を作るのか』とか、『あなたの作った物には、手がついていない』などと言うであろうか。」
陶器師は自分の思った通りに作品を造る。これも神の主権からです。
ロマ9:20
「20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。」
神は自分の思った器を造る。
神は陶造りであり、わたしたちは粘土であることを、聖書のここかしこから確認することができます。
きっと皆さんも粘土遊びをしたことがあるでしょう。粘土とはどんなものでしょう。
粘土は地面の下のほうに地層としてある。もしも埋もれている粘土がそのままの状態であったなら、それはそれ以上の何ものでもない。ところが焼き物をしようとして粘土を求めている陶器師が訪ねてきて、陶器師が粘土を取上げたとき、何の価値もない粘土が価値を帯びる。それと同じ事が神と私たちの関係です。本来私たちは神に造られた良質な粘土であるはずなのです。神は良質な人間を土から造ってくださった。ところがこの粘土が罪という泥沼の中に埋没してしまっている。聖書によると罪と汚れの中に私たちの粘土は埋もれてしまっていた。ところが、私たちを愛される神ご自身が粘土を取上げてくださった。陶器師が陽の当たるところに取上げてくださった。俄然そこで価値を有するものになったのです。神によって罪から引き上げられる経験を持っているものがクリスチャンです。「人の子は失われたものをさがすためにやってきたのです。」
御手の中に引き上げられたその時に、素晴らしい価値が与えられる。これを救いの経験、或いは新生の恵と言います。
イエスさまはニコデモに「人の子は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない」と言いました。神に引き上げられ治められたときに、その人は神の命が賦与されて新生経験をします。
イザヤ51:1
「1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」
この聖言は、救いを頂いてから、救われる前を振り返って自分がどのようであったか、どのようなところにいたのか。しかし今はそれとはまったく違ったところにある。神の救いへの感謝を語るためにしばしば引用されます。
しかし今日、神が陶造りであり、わたしたちが作品であり粘土であるというときに、実はここにそれ以上の意味を見出すことができます。良い粘土を造るときには良い粘土を素材とします。「主はしっくいを踏むように粘土を踏む」。よい粘土となるために、水にとかし不純物が下に沈んだら上澄みを取り水を蒸発させ、天日干しにする。上澄みの良いものを集めて不純物の取り去られたものを材料とする。その粘土を工作しやすいように練って練って練り上げ、粘着力のある粘土とする。この過程がクリスチャンが標榜する聖潔の過程なのです。
引き上げられて救いの経験はしても、まだ不純物、罪の性質が混じっている。神はそれを取り除きたく願い、練って練って練り上げるのです。
たとえば、わたしはもう神さまの願う段階にあるのではないでしょうかと言っても、神は尚も踏みつけ練り直すということがおありのようです。なぜこのような試練、神の取り扱いがあるのかはわかりません。練られているときの辛さ、苦しさを覚えることはあります。しかし神はそういう扱いをしなければ出てはこない不純物を取り出すために尚扱われる。
インマヌエル綜合伝道団の創設者蔦田二雄先生は、戦争中に宗教弾圧で投獄された巣鴨拘置所のあったところを指して、「あそこがわたしの大学院でした」と言いました。
神のために尽力していながら、なぜこういう試練がうち続くのか。そのような扱いが必要であるほど神は、そのものを愛しておられる。わたしは、あの人と比べる必要はない。この人と比べる必要もない。神はわたしを愛している。
作家の三浦綾子さんは、度重なる病気に、「神はわたしをえこひいきしている」と言いました。
練られたのちにさらに素晴らしい人にしたいから練りに練る。あなたを更に良い器にしたいから神はわたしたちにそういう扱いをすることがある。
ところが粘土には意志はない。私たちには意志がある。それが一番の違いです。練られている最中に、「わたしはもう嫌だ!」といって神の手から出てしまうことができる。人間とはそういうものです。神の良い作品となるためには、「分かりました。どうぞ不純物を私から取り除いてください」と身を置き続けることが、聖潔を標榜することなのです。
土にも色々な産地があります。それによって焼き物の名前が違って来ることもあるでしょう。私たち一人ひとりも種類が違っていていい。粘土の産地が違うように個性があっていいのです。肝心なのは練られたときに聖潔(きよめ)られて主の用に適うかどうかということなのです。救いの恵のあとの神の取り扱いによって神に適うようになります。私たちが神の作品として適うために神に扱われ続けるのです。そして神はご自身が思った通りに作品を造られる。造られた私たちの側は、「神様どうしてわたしをこんなふうに造られたのですか、わたしはこんなふうにはなりたくなかった」などと言うことはできない。神はご自分の思う通りに、ご自分の目に適う永遠の祝福と永遠の知恵の中に、ご自分の主権の中に造られる。どんな作品に造られても、神による作品なのだから、心から有難うございますと感謝するべきです。そしてそれがどんな用途に使われようとも、それが神の作品であるときには尊い働きをします。
エペソ2:10
「10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
私たちは神の作品です。私たちの作品の底には「created in Christ Jesus」と刻まれている。
弟二コリンント4:7
「7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
神の作品の尊さには二重の意味があります。
☆「created in Christ Jesus」
もうこれだけでも大変な価値があります。
☆もう一つは、作品がその器の中にイエス・キリストご自身という尊い宝をお入れしている、そのことです。
この器の尊さは、造られたものによる尊さ、造られたものに入れてある宝の尊さ
なのです。
※若干聞き落としがございます。ご容赦下さい。文責:中ぶんな
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