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きょうのことば ー『御子を囲む人々』

 きょうは曇り。この冬の到来を告げる憂鬱かげんの雲も、一枚の絵と描くことができる。してみるとなかなかに値のあるもの、と思いながら教会に行きました。
 世知辛い世の中。景気は、就職戦線は、平和は、と数え上げると答えのない事ばかり。ここがこうなれば、ああなれば、心がそちこちに突っかかり何だか角が多いみたい。そこで教会に行くのです。イエスさまのお話を聞きます。すると、だいぶ角が取れて生きやすくなるというわけです。

         ザルツブルク

 
いよいよアドベント第一週。イエスさまのお誕生を待つ一日一日のはじまりです。さてインマヌエル盛岡キリスト教会の國光勝美牧師のメッセージは
説教題:『御子を囲む人々』
聖書引用箇所:ルカ伝2:1~7

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので
5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。


 今年も全世界のクリスチャンたちと一つになってアドベントの第一聖日を迎えております。これも兄弟姉妹あることの大きな喜びであります。
 ここに居られる皆様はクリスチャンになってから何回クリスマスを迎えたでしょうか。毎年クリスマスメッセージが取次がれているので、新しい事柄を見出すことはないかもしれません。しかしただより深く心に留めて思い巡らしましょう。

 イエスさまが生まれた時代にあって、クリスマスがどういう事であったのかをおさらいしましょう。
2:1に「
全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た」とあります。このルカ伝を書いたルカがいう全世界とはどの範囲をさすのでしょう。ルカ伝はローマ人に対して書かれたものです。ですから、強大な覇者ローマ帝国に宛てています。ラテン語でパクス・ロマーナ(Pax Romana「ローマ  の平和」という言葉があります。ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和をいいます。地中海世界の支配者ローマです。
 因みにマタイ伝の第一義的読者対象はユダヤ人たちです。
 ローマでは皇帝はアウグストと呼ばれていました。アウグストは尊称です。天皇が一人の個人名称を表わしていないのと同じです。元老院から最初にアウグストを送られたのはオクタヴィアヌスでした。
 ローマ帝国が財政力、軍事力がどの程度であるかを把握し、課税などに用いるため洩れなく住民登録をさせたのがこの勅令です。ヘロデ大王が治めている小さなユダヤの住民にまで命令が下ったところに、ローマの強制力の絶大さを感じます。これと比較にはなりませんが、この年10月1日に国勢調査がありました。法治国家ですから協力しないこともあり得る。しかしローマに従わなければどんなペナルティを科されるか知れないのです。どんな事情があろうと、どんな犠牲を払おうと服したでしょう。
 「
クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録」はローマの碑文による記録から計算できるようですが、その時代でした。
 それぞれに自分のまちに帰っていった。いまの感覚で言うと本籍地のあるところに行かなければなりませんでした。

 4節にはヨセフが登場します。
4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので
5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

 ヨセフはガリラヤのナザレで大工をしていました。許嫁のマリヤが、まだ一緒にならないうちに聖霊によって身籠もりました。ヨセフはマリヤと一緒に登録するためにナザレから王家の出身地であるベツレヘムへと上ります。ヨセフはマリヤとともにダビデ王の家系でした。ナザレからベツレヘムまでは160キロメートルの道程です。経済的にも貧しい田舎の若い夫婦が有無を言わさずに移動させられる、こういった状況はすべての人たちにあったでしょう。ユダヤの人々は過ぎ越しの祭のために年一回旅をしますが、それとは違ったこのような旅が、殊にも臨月に入っているマリヤにとっても、連れて歩くヨセフにとってもどんなに辛い旅であったことか。
 ヨセフは出産間近いマリヤのために、何とか一部屋空けて貰えないかとベストを尽くして頼んで回ったはずです。やっと見つけた家畜小屋。宿屋の家畜小屋はいまでいえば駐車場でしょうか。多くの人々が乗ってきた家畜、
泊まっている客たちの家畜で溢れんばかりです。混雑し、しかも排泄物で不衛生極まりなかったでしょう。ふたりはそんな馬小屋の隅っこにやっと休んだのです。

 6、7節「
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 宿屋には彼らのいる場所がなかった。イエスさまは誕生から十字架上で死ぬときまで拒絶された方でした。誰か一人でも、自分の部屋でよかったらどうぞ、と提供できなかったのかと思ってしまいます。これがイエスさまの誕生でした。
 もしヨセフとマリアにしっかりとした信仰と信頼がなければ、この旅でマリアの口から発せられるのは、「もう嫌だ」「どうして自分だけがこんなことになるの」といったヒステリックな不満ばかりだったでしょう。しかし聖書のこの箇所に見られるのは、実に穏やかな、まさに使命を為さんとするときのようすです。大きな意味をよく理解し、お互いを思いやりながら使命を全うしようとする姿。この互いの信頼、思いやりはどうして出てくるのでしょう。それは同じ神に仕え従っているからです。だからこそ乗り越えられるのです。

 最近、ある本を読んでいます。世の中の一般的な著書です。秋田出身の方でビジネスマンとして有能であり、日本を代表する企業の社長です。
 結婚して男の子が生まれました。自閉症でした。自閉症は育て方によって治るというものではない。当時それを受け入れてくれる幼稚園がなく苦労した。やがて重荷のために妻は肝臓の病となり入退院を繰り返す。ちょうど自分が30、40代という最も仕事が盛んなときだった。妻は悩んで鬱病となり、自殺未遂を3回。3回目はもし娘が見つけなければ死んでいました。7時間の手術で助かりました。あすも死ぬかも知れない、しかしそばに付き添っていてやることができない。この苦しみにある自分を支えたのは、
 これは自分の運命だ。これを引き受けて頑張ってみようと思ったそのことだった。育ててくれた母が、運命を引き受けて頑張らなくちゃ何も始まらない、といつも言っていたそうです。

 ヨセフとマリアも自分の運命を引き受けました。マリヤは人々から未婚の母と言われ、石打の刑に服すべきと侮蔑されもしました。しかしマリアはそれを引き受け、ヨセフも悩んだ末マリアを引き受けました。
 私たちもヨセフとマリヤが見上げたその方から来るほんとうの思いやりを持ちたいものです。それがこのクリスマスの出来事を成就させたのではないでしょうか。
 私たちは両親を選んで生まれてきたのではありません。健康や環境を選んで生まれたわけではありません。しかしそれをしっかりと引き受けて、すべての上に神の御手が動いていること、地上の最高権力者である神がすべてを治めておられることを信じましょう。

ミカ5:2
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
 神の御手は今も私たち一人一人の上に及んでいます。苦しいこと、辛いこと、頑張らねばならないこと、これらを引き受け信じて進むことができる。これがクリスチャンの特権ではないのか。これをヨセフとマリヤから学ぶことができるのではないでしょうか。
 

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