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きょうのことば ー『御言の種』ー

 けさは出がけに大変な忙しさでした。天気が持つのは午前だけかなと、朝のうちにしなければならないことどもに気圧され、すこし気持にゆとりのないままに7分遅れで教会に到着。しかし、しかしメッセージの終わりのペテロ第一の手紙の1章23節の御言葉に感動し、疲れが吹っ飛び、甦生させられ、頑張ろうという思いを新たにしたのです。きょうはそれをお分かちすることができます。

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 さて、インマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のきょうのメッセージは、
説教  『御言の種』ー伝道礼拝ー
聖書朗読  マタイ伝13:1~23(
青い字は聖書の引用です)

 1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。 2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。 3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。 5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。 9 耳のある者は聞きなさい。」  10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」 11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。 12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。 13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。 14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。
  『あなたがたは確かに聞きはするが、
  決して悟らない。
  確かに見てはいるが、決してわからない。
15 この民の心は鈍くなり、
  その耳は遠く、
  目はつぶっているからである。
  それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
  その心で悟って立ち返り、
  わたしにいやされることのないためである。』
16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。 18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」


 いよいよ10月に入りました。この月は毎年伝道月間ということで、祈りを集中し御言を語り奉仕させていただいてきました。今年はバザーが予定されています。これが用いられ、今年もこの10月が御言の種まきが為されますようにと願っております。
 今日の聖書のこの箇所は、「種まきのたとえ」と呼ばれています。
 イエスさまは、福音の真理を分かりやすく話すために、よくたとえ話を用います。一度読んだだけで、なるほどと理解できます。
☆ 13:4で「
道ばたに落ちた種…鳥が来て食べてしまった」ことを13:18で、聞いて悟らないと「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行」くのであると説いています。
☆ また、5節
「土の薄い岩地に落ちた」種は、芽は出したが、根がないのですぐに枯れましたが、これを20、21節で、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる」しかしみことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」と説き
☆ また7節
別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ことを22節で、これは「この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のこと」であると説き、
☆ 次には8節に良い地に播かれた種がどうなるか、「
あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」とあり、さらに23節に「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」説かれています。

 このことから幾つかの恵を抽出すれば、わたしたちも、どなたか種を播いてくださった人がいたお陰で、その種が発芽し、根を下ろして百倍、六十倍、三十倍。三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことができる。誰かが種を播いてくれたから、その誰かとはイエスさまご自身のことをいっています。それまでは、預言者たちが真理を悟ったが、いまは御言を播いてくれるのは主ご自身です。

 さまざまな見方ができますが、このたとえ話を、種まきをする人のたとえと見たらいいか、種を受ける人たちが主眼であるか、またどちらにも取れるように思います。
 イエスさまが種まきをしたように、わたしたちも種まきをさせていただきたい。いったいわたしたちは、どれだけ種を播いているでしょうか。
 詩篇126:5、6には
5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。 6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」とあります。
 ここに播く人たちの姿が記されています。涙と共に種を播くとは、どうか神さまの御言がよい地に落ちて命を得、よい結実となりますように。そのような者とさせていただきたいと心から願うことです。

 わたしと一枚のチラシとの出会いを思います。多くのチラシがくちゃくちゃに丸められ捨てられる中で、わたしに渡された一枚が心に留まったのです。一枚がきっかけで、「主よ信じます」と決断したのでした。後になって、このチラシを駅で配っていた人たちは、これを持って出てゆくときに、数名の人たちで車座になって祈ってから出ていったことを聞きました。そのようにしてまかれたチラシを私は手にしたのだと知り驚きをもちました。導かれた集会で、深刻な心臓の病にあったダビッド・マーチン先生は、「みなさん、いまこの福音を受けなかったなら、永遠の滅びに行ってしまうんですよ」と血を吐くような説教を投げかけました。あれこそが涙と共に播く者、種入れをかかえ、泣きながら出て行く者の姿でした。わたしはそこで信仰の決心をしたのです。

 10月は伝道月間とさせていただきました。23日の初めての教会バザーを主が尊く用いてくださるよう祈り、10月最後の日曜日は伝道特集聖日として祈り守らせていただきましょう。

 御言の種まきにはさまざまな反応があるでしょう。「わたしといったい何の関わりあらん」と、鳥、これは「悪い者」即ち「サタン」のことですが、その鳥がその人に播かれた種をパクリと食べてしまったり、岩地に落ちてすぐに枯れてしまったり。
 しかし、よい地に播くとは…。播く人はすべての人に播きます。あの人に播いても無駄だ、この人には何回も播いているが読んでいる様子もないしやめておこう、などとは思いません。選りすぐりはしないのです。種播く者はそのすべてに種を播いています。新聞にチラシを折り込みするのも、これがどんな人の心に落ちるかわからないが、やり続けている。
 もしこの人はいばら、この人は岩地だというなら、あなた、自分はどうでしたか。どういう状態でしたか。自分を見てください。
 種を播きに出ていった。出かけた。それでいいのです。色々な人がいるでしょう。しかしそれは主に委ねましょう。どうか種を播いていただきたいのです。

 わたしの心の状態はどんなふうかな? クリスチャンはどれだけの結実を見ているでしょう。かつては御言にとても恵まれたもの。けれども、みちばたに落ちた種のように、最近は心に留まらなくなったということはありませんか? この1週間、どれだけ心に留まり、力となり、恵となったか考えてみる必要があります。
 根がないために、困難、迫害に負けてしまい、5日間は、世の中に翻弄され、それを仕方が無いじゃないか、こういう時世なのだからというのでは結実とはいえません。
 わたしの心にいばらは生えていないでしょうか。富と惑わし、世の心遣いで、せっかく与えられた神の言葉が伸びきる前に枯れてしまってはいないでしょうか。

 このマタイ伝を解き明かすのに、幾つかの注解書に当たりました。その中の一冊が小出忍先生の著書でした。小出忍先生は、ホーリネス弾圧で獄死した小出朋治の息子です。父の遺体を引き取りに行き、その意志を継いで牧師になりました。蔦田二雄先生と同じ世代、ホーリネスで活躍されたこの先生のメッセージを思い出します。
 「種が落ちて岩が大きく二つに割れてしまっているところがあるそうだが」
これは盛岡の石割桜のことを言っていたのです。樹齢360年をこえるエドヒガンザクラです。巨大な花崗岩の割れ目から育ちました。
 根がしっかりと生えるならば、どんなに困難なことがあったとしても、そう、御言がしっかりと根を張ったなら、この日本の風俗習慣のなかで教会に導くことがどのような戦いであったとしても、この神の言葉がしっかりと根を生やしているなら、大きな結実を見ることは確かです。


第一ペテロ1:23
「あなた方が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」

 種の中にも命の無い種と、命のある種があります。神の言葉には永遠の命があります。

第一ペテロ1:24、25

 
「人はみな草のようで、
 その栄は、みな草の花のようだ。
 草はしおれ、
 花は散る。
 しかし、主のことばは、
 とこしえに変わることはない。」
とあるからです。あなたがたに宣べつたえられた福音のことばがこれです。


聖書の言葉を、この1週間しっかりと心に留めて根を張って豊かな結実を見るように歩ませていただきたく思います。

※聞き間違いのある場合もあるかとおもいますが、ご容赦ください。文責はこのブログの筆者にあります。  

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