きょうのことば 『いのちのみことば』
きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会の國光勝美牧師のメッセージは
説教題 『いのちのみことば』
聖書朗読 第一ペテロ1:18~25 ー伝道礼拝ー
18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。 20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。 21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。 22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。 23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。 25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
先週は教会をわかりやすくお伝えしたく思い、教会学校の讃美歌を歌い、「種まきのたとえ」をお話しました。道ばたに、石地に、茨のなかに落ちた種があり、そしてよい地に落ちた種がありました。
この10月、神の命の種をまくもの、種入れをかかえて出ていくものであらせていただきたいというお話をしました。
今週はわたしたちの心の中にまかれた命の御言の種が、いまどのようになっているのかに目を向けてみましょう。かつてはよく耕されていたところであったのが、いつの間にか道ばたに、石地に、茨の地のようになってはいないでしょうか。
よく耕された地に落ちたはずの種。畑を放っておくと、雑草が生えてきます。よく管理をしなければすぐに荒れてくるのです。
いま種がどのようになっているかを考えてみましょう。
23~25節にあなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わる
ことのない、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
とあります。このペテロ第一の手紙は、イエスさまの弟子の筆頭格であるペテロによって書かれています。ご存じのとおり、ペテロは弱さを露呈してしまった人物です。聖書にはそれを隠すことなく、そのまま書かれています。イエスさまが十字架につけられるとき、ペテロは遠くから裁きの座を見ていたのです。しかし仲間であることが露見したとき、逃げ帰ってしまいました。彼がほんとうに変わったのは、イエスさまの復活に出会い、触れたときでした。
わたしたちはイエスさまを信じクリスチャンとして信仰生活を送っていますが、イエスさまがほんとうに死からよみがえられたことをしっかりと捕えたなら、日々の営みがずいぶん違ってくるでしょう。復活の意味がほんとうにわかったなら、信仰生活の質が変わるはずです。ペテロが徹底的に変わったのは、イエスさまの復活に向き合い触れるという体験をしたからです。
ペテロ第一の手紙1:3~4節 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。とあります。
経済のことは門外ですが、リーマンショックの波及により、世界経済が破綻を来たし、そのさまざまな影響を見聞きしましたが、世の中ではこれがあれば大丈夫としているものが、いかに儚いものであるかを思い知らされたのでした。しかし主は、消えることも朽ちることもない資産を受け継ぐようにしてくださいます。よく老後の資産、老後の備えはどうなっているかと取り上げられています。それはそれでいいのですが、世の中の語ることは、そこから越えてはいません。死んだあとの備えは考えない。
ペテロはキリストの復活によって変わったのです。復活にはまことの死への備えがある。このお方についているなら、わたしの朽ちない永遠の宝は天国にしっかり保証されているのです。ペテロは復活したイエスさまと語り、食したのです。
三度イエスさまを否定したペテロが、復活に接して変貌を遂げました。
ルカ22:31~32にはこうあります。
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
シモンとはペテロのことですが、主は、あなたが立ち直ったら、兄弟たちをちからづけてやりなさいとペテロに言いました。このペテロ第一の手紙は、ペテロがこの主の仰せの通りに、死後の永遠の命を知っていることを仲間や後を継ぐものたちに告げ、励ましを与えているところなのです。
第一ペテロ1:8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
23節にあるように、 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。と、ペテロはこのように言っています。
さてそれでは、永遠の命の保障である神の言葉、永遠の命の言葉に心を向けていきましょう。
先週も石割桜の話をしました。盛岡地方裁判所構内にある樹齢360年のエドヒガンザクラ、天然記念物です。南部藩の家老の庭にあった巨石に落雷があり、そのときの割れ目にエドヒガンザクラの種が入り込み成長したという伝承もあるようです。火災にも遭いましたが生き残り、いまも花を咲かせています。この石の割れ目が、いまでも1年で1㎜ずつ押し広げられているようですが、凄いものだなと思います。わたしが盛岡に赴任して37年になりますから、来てから現在までに、37㎜広がったわけです。
このように、命の種がしっかり根をおろすなら、石も広げてゆく、花を咲かせもするのです。
種が発芽し、根の成長を阻むものが何かを考えてみれば、たとえるなら、あの大きな岩が罪です。これがしっかり阻んで神の言葉を受け入れようとしない。この罪は非常に硬い。すべてのものを弾いてしまう頑ななものです。また、石が象徴するのは死です。あそこに命の種があったときに罪も打ち砕かれ、死も打ち砕かれます。
寓話的な話になりますが、
世界で一番硬いセメントを作ることを、できるだけおもしろく考えてみました。
主要原材料は罪。そこにブレンドする死という要素を加えてセメントにする。そこに水を流し込むが、これは不信仰という水を流し込み、ミキサーで回して固めたなら、世界で一番硬いセメントができるのでしょうか。
わたしたちは生まれながらに一人一人そういうものを持っています。神に従おうとするのではなく、生まれながら悪魔の支配下にある。神にそむく状態であるのです。ペテロやパウロもそうでした。
石割桜に雷が落ちて…とすれば、雷に相当するものは何か。世界一硬いコンクリートを割る大きな力とは…その方とは、聖霊という神さまです。硬い罪、不信仰で固まった心に隙間を与える働きをするのは聖霊です。
ヨハネ16:8をご覧下さい。
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」
どういう形態で聖霊が臨まれるかは人それぞれです。ある人には、どうにも為しがたい人生の課題に直面したときに、神は雷を落として命の種を与えてくれるときがあります。しかしいつの場合もそうとは限りません。しずかに覆ってくださり、何かささやかなことをきっかけに命の種を与えてくださる場合もあります。
インマヌエルに昔からいらっしゃる方々は、渡辺倉造勧士をご存じでしょう。酒と博打の人でした。日本橋で職人をしていた方です。家には小さな子どももいる、家にいてもろくなことをしないからと酔っぱらってまちを歩いているうちに、一枚の教会のトラクトに出会いました。入場無料、出入りご自由と書いてあります。ちょうどいいと集会に入ってみました。ちょうど聖書からナアマン将軍のことが語られていました。
「罪はあなたのからだを蝕み、あなたの人生を台無しにしてしまう」
それを聞き、渡辺さんは「わたしはその病と同じだ」と、酔っぱらっていましたが、即座にイエスさまを信じる決心をしました。その後、渡辺さんは模範的なクリスチャンとして生涯を送ります。まことに劇的な回心でした。
もうひとり、サムエル・チャドウィックという人がいます。お父さんから靴を磨いておくように言われました。早く遊びに行きたい彼は、そそくさと磨いてでかけようとしたのですが、待てよもしこの靴をイエスさまが履くとしたら…彼は即座に引き返して、靴をていねいに磨き直したのでした。チャドウィックは、それがわたしの救いの日であったと証ししています。
救いのときが、渡辺さんのように劇的なケースもあれば、チャドウィックのようなケースもあります。いずれにせよその人に相応しい聖霊の働きであり、神の言葉が入ってくるときなのです。
23節を繰り返しますが、私たちが生まれたのは朽ちない、生ける、変わらない神の言葉によるのです。
わたしたちの心にどれだけ神の言葉が留まっているでしょうか。日々御言と接するときに、聖霊さまが神の言葉を用いてわたしたちに語りかけることがあります。
詩篇18:1~6
1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
2 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
3 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。
4 死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
5 よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
6 私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。
これはダビデがサウルから逃れているときの詩です。
このような御言葉をいまの自分にあてはめて、主はわが巌だ、そうだ主はわが砦だといったように、聖書の言葉を自分にあてはめてくれる、これが聖霊なる神さまの働きです。この聖霊によって御言葉が生かされることによって生ける希望が湧いてくるのです。
19節には 主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。
とありますが、これはすごいことです。主がわたしのようなものをも喜びの対象とされたということなのですから。大きな励ましを受けます。命ある神の言葉だからです。
世の中にも良書、よい言葉はたくさんあります。良い励ましともなるでしょう。しかし聖書の言葉は朽ちることがない神の言葉ですから、それがぽんと心に投げられるとき、そこで慰めをいただくことがあります。
さまざまな人間関係の中で人から誤解されたり、辛いことがあったりします。しかし主がわたしを喜びとしてくださった、人がいかに誤解しようとも、それでいいのだと聖霊によって神の言葉がぴたりとあてはまってくる。ある人には稲妻のように、ある場合にはチャドウィックのようにしずかに語りかけてくる。いずれにせよ聖霊によって、神によって与えられるところの変革なのです。
第一ペテロ1:23~25を読んで締め括りましょう。
23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
※例話を若干割愛してあります。文責:中ぶんな
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