きょうのことば ー『インマヌエル』その1ー
きょうはイムマヌエル綜合伝道団の教団創立記念礼拝でした。蔦田二雄牧師が1945年10月20日、教友との祈りの中に教団の形成を決断したというくだりに、心が揺れ感動しました。そこできょうは、蔦田二雄牧師の写真を掲げることにいたしました。
きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のメッセージは
説教題 『インマヌエル』 教団創立記念礼拝ー
聖書箇所 マタイ1:18~25
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
22 このすべての出来事は、主の預言者を通して言われた事が成就するためであった。
23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
きょうの聖日は教団創立記念礼拝とさせていただきます。
教団の名「インマヌエル」はよくクリスマスのときに聞きます。23節にあるように、「神は私たちとともにおられる」という意味です。宗教法人としての正式名はイムマヌエル綜合伝道団ですが、通称インマヌエル。この教会もインマヌエル盛岡キリスト教会と呼んでいます。
教団の歴史・沿革は教団のHPからの転載ですが以下の通りです。
1942年6月26日、政府の宗教弾圧により治安維持法違反の嫌疑で一斉検挙されたホーリネス系諸教会の教職者の中に、日本橋聖教会牧師、聖教会聖書学校塾舎監、またホーリネス信仰に立つ若手有志が結成し各地で積極的な伝道活動を展開していた「リバイバル・リーグ」の指導者でもある蔦田二雄がいた。やがて事件は裁判となり、判決、控訴、保釈と進んだが、教会は解散、教籍は剥奪、そして敗戦を迎えた。
1945年9月、日本基督教団に復籍したが、そこに留まる意志はなかった。検挙、収監中の留置場、拘置所の房内で、やがて自由が与えられたなら、従来の関係なしに独自の福音奉仕を展開するよう導かれていた蔦田は、10月20日、教友との祈りの中に具体的な教団形成を決断した。獄中での「主が共にいます」との霊的体験から、新教団は「イムマヌエル」と名づけられた。また外部からも国外からも援助を受けず自給自立の方針で発足するため、また戦後の社会的必要も考慮して、伝道部(教会)を中心に医務部(病院)、保育部(幼稚園)、農耕部(農場)を含む「綜合伝道団」とした。自給自立に加え自育自展をスローガンとし、49年には伝道者養成を目指す「聖宣神学院」を創立、一方、日本各県に少なくとも一教会設立を目標に開拓伝道を進めた。
聖書信仰・聖書的ホーリネス・世界宣教の3つを、教団創設当初からのテーマとした蔦田は、福音主義聖書信仰に立つ内外の教会や指導者と連係し、48年に日本新教連盟、59年には日本宣教百年記念聖書信仰運動、その結果生まれた日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)、さらに日本福音同盟(JEA)結成に貢献した。ホーリネス信仰については福音文書刊行会(EPA)、日本聖化交友会の創設を助けるほか、ウェスレアン神学に立つ多くの書籍を出版してきた。世界宣教は、61年以降、インドはじめ世界7か国に宣教師を派遣した。
蔦田師が検挙されたのは大雨の降った日だったと聞いています。特高が、室内に置いてあるタイプライターを指さして「これは何だ」と訊いたらしい。国外に情報を流しているのではないかという嫌疑からだったようですが。特高は生まれて数ヶ月の双子の赤ん坊を跨いで歩いたといいます。このとき各地でも一斉検挙がありました。
1930年代、リバイバル・リーグという若い伝道者達の「聖潔と宣教」の活発な運動が生まれました。 中国に福音が広まっていったとき、欧米の宣教師たちが退去させられたことがありましたが、この後をリバイバル・リーグの先生方が引き継いだのでした。中国伝道にも貢献したわけです。岩手県奥州市水沢区出身の岩城先生は満州の新京、松村先生は南京だったでしょうか、中国に深く関わったと聞いています。
1945年3月の東京大空襲のとき、蔦田二雄先生の長男真実(まこと)先生はリュックに聖書1冊だけを背負って逃げ延びました。二雄先生は、東京大空襲のときには保釈されていたそうです。この空襲で裁判に関する書類はすべて焼失し、終戦のときには何も残されていませんでした。
終戦後蔦田師は、岡山県にある親戚で療養しました。喋ることを許されない2年間の獄中生活で声帯の筋肉が衰えてしまい喋ることができませんでした。またいつ抹殺されるか、食事を摂ることの不安もあり、さまざまなプレッシャーのために、釈放されたときには、以前の蔦田師ではないと、周囲の者たちも療養を勧めたのでした。
蔦田師の教会創立のビジョンに、双子の姉妹の姉である医師長谷川正子先生、妹の伝道師元子先生がともに祈り協力者となりました。
戦後、普通では手に入らない物資も、教会にはアメリカからもたらされていた。この窓口になったのが日本キリスト教団でした。ですからこの教団に留まったほうが経済的には良かったでしょう。しかし蔦田師は、ほんとうに神だけを当てにして信仰でこの働きを進めようと、日本キリスト教団を離脱。海外からも一切援助を受けない自立した教団、「聖と宣」をめざす教団を創設しました。
蔦田師だけではなく、その時代は多くの器が神に用いられ、よい働きをしました。蔦田師がインマヌエルの創設者だとしても、蔦田師のみを特別視することからは守られるべきです。
☆本田弘慈(1912~2002)
☆羽鳥明(1920~ )
☆安藤仲市(あんどう・なかいち 1900~1987)
☆小原十三司(おばら・とさじ 1890~1972) 岩手県花巻市東和町に生まれる。
☆車田 秋次(くるまだ・あきじ 1887年~1987)
私が信仰を持った時期とも重なりますが、1968年に創設された日本福音同盟(JEA)の旗の下にあって、当時このような先生方がほんとうにお元気で活躍されていました。よくこの先生方が務めるお茶の水学生キリスト教会館(現お茶の水クリスチャンセンター)での早天祈祷会に出席してから、会社に出勤したものです。
日本福音同盟創設の雰囲気を知っている者として、私は、インマヌエル綜合伝道団創設のときの雰囲気がわかるのです。
ーつづく(後は明日書き足します)ー
日本福音同盟創設の当時の厚い、熱い信仰に裏打ちされたお茶の水学生キリスト教会館では、よく学生向けの伝道集会が持たれていました。隣に座った年配の方が大声で祈っており、はじめは日本語で祈っていたのが、しだいに英語で祈っているのでした。この方が安藤仲市先生でした。また穐近 祐(あきちか・ゆたか 1904~ 2000)先生が林間聖会で、「イエスさまに命をささげ、献身したいものは前へ出なさい」との招きをし、応じて前に進み出たひとたちに、「ほんとうにあなたはキリストのために死ねるのか」ときつく質したというエピソードを聞いております。インマヌエルの創設のときにもこのような雰囲気であったろうと振返りながら、礼拝で御言の種を語らせていただきました。
「 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
この御言が巣鴨プリズンにある蔦田二雄師に落ちたのです。
ー次ページに続くー
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