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2010年9月

きょうで去ってゆく9月

 きょうの午後、文芸誌「天気図」に載せる原稿、今回は童話を400字詰めで25枚ばかりにまとめて立川編集長に添付メールで送信。久方ぶりに最寄りの呉服店さんに立ち寄る。息子の同級生のお母さんだ。とにかく忙しかった9月。お互いの近況なぞを語りながらのティータイムを持たせていただいた。30分ばかり過ごしてから、中津川むこうのスーパーに向かう。

 富士見橋から河川敷に咲くコスモスを見る。

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 富士見橋のたもとにある柿の木。まだ青い実の重み。

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 月末となると、浮かぶこともさまざま。

 宮崎県のムッチーさんのブログはどうなってるかなと見ると、たてつづくお客様の応対で忙しそう。口蹄疫の悲劇、奮闘をそのまま発信してくれたムッチーさん。募金活動はまだまだ続く。

 またよく思い出されるのは、北京五輪で円盤投げ銅メダルの大井利江選手、須恵子夫人。あれ以来洋野町と聞けば耳を澄ますようになった。ロンドン舞台、時の流れは速い。もうそこまで来ているような。

 まだまだあるけれども、9月はこんなところで締め括るとしよう。
最後もコスモスで飾ることに。

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  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

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 近くの岩手県民会館中ホールで18:30開演。忙しくてぜんぶは見られないかも。

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秋の華やぎ

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午前10時の岩手山。高松の池より。

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   盛岡市桜台付近のコスモス。友人を送って。午後2時。

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 桜台付近の野原。コスモスと同じ敷地内。

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雑感ー何か書かねば。一回書かねば。ー

  昼ごろに、モクレンの木の真ん中に鳥が留っていた。また急いでカメラを取りに。サッシの内側から音もたてずに向けたのだが、さっと飛び去ってしまった。雀はすっかり姿を消し、この鳥がやってくるようになった。2羽或いは3羽と連れだってくる。ハトよりは小型。雀よりは大きい。きょうは1羽。小雨を除けていたのかどうかは分からないが、葉っぱが庇のようになっている枝にいた。あまり自信はないがムクドリかと思う。

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 いま窓を開けて風を入れたところだ。室温18度。湿度58㌫。バイパスを駆け抜ける車の音が遠くに聞こえる。今夜は珍しくこの辺りを通過する救急車の音もない。ちりちりと微かに聞こえるのは虫の音だろうか。

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 猛暑の夏でいなくなったのは、多くの蜂と虻。去年はスズメバチやマルハナアブがいた。あれから巣を取り払ったりしてはいないが、この夏は、1、2匹見ただけだった。それと花がみな小さめで、花の数が少なかった。ただこれは余所は立派に咲いているところもあるので、手入れの杜撰さだろう。

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 この部屋が37、8度だったのはどこへやら。いきなり放りこまれたような秋。

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  きょうも花のオンパレードに。

 そうそう、この夏にけっこう見かけたのは、ここで生まれ育ってくれたのか、よそからやってきてくれたのか、キアゲハだった。こぼれ種でそちこちに生えたサンショウの木もことしはみな抜かずに生かしておいた。これでキアゲハの幼虫がどんどん育つだろう。

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学校

 近くの幼稚園。日曜日に運動会に行く途中に撮りました。ヒマワリの時計。花びらの陰。

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 これはアクセント。肴町ホットラインで見つけたもの。なかなかそのものの赤に写ることが少ない中で、この赤は実物に近い。

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 これは運動会の会場である小学校の体育館。静かな秋の日差し。校舎の、樹木の陰。

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 学校は好きではなく、団体行動が苦手だった。学校を身近に感じたことはあまりない。その学校を今頃になってカメラに取り込んでいる。

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きょうのことば & 地域行事

 きょうは教会をお休みしました。しかし教会がお休みだったわけではありません。教会は必ず日曜日には礼拝をします。

 聖書というと、きれい事だとか救われなさいとか、小うるさい事ばかり、と感じられる向きもあるかもしれません。ところが、さまざまな人生模様が書かれています。悲しみや慟哭の詩もあります。たとえば詩篇94


復讐の神主よ。
復讐の神よ。光を放ってください。地をさばく方よ。立ち上がってください。
高ぶる者に報復してください。
主よ。悪者どもはいつまで、
いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。
彼らは放言し、横柄に語り、
不法を行うものはみな自慢します。
主よ。彼らはあなたの民を打ち砕き、
あなたのものである民を悩まします。
彼らは、やもめや在留異国人を殺し、
みなしごたちを打ち殺します。
こうして彼らは言っています。
「主を見ることはない。ヤコブの神は気づかない。」

気づけ。民のうちのまぬけ者ども。
愚か者ども。おまえらは、
いつになったら、わかるのか。
耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。
目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。


 これは旧約聖書からですが、このようにとてもリアルです。引用が適切であるかどうかわかりませんが
 何れ、これらすべてを理解させてくれるのは聖霊であると言うことができます。

  ◆  ◆  ◆  ◆

  本来なら教会で説教を聞いているはずの日でした。けれどもこういった地域行事も天の采配のうちにあるように思います。

 町内会の運動会には、実は初参加です。役員というわけではないのですが、協力参加です。企画はすべて役員の方々。

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  今回の運動会に、市民社会の反映を見ました。8月からこの地区でも細かなゴミの分別が始まりましたが、プログラム13番「資源ゴミ分別レース」です。シートに山と積まれたゴミの中から、古紙、プラ、ペットボトル、紙容器を拾って、それぞれの箱に分別するというレースです。な~んだ、と思われる方がいらっしゃるでしょうか。

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 わたしたちが、といっては甚だ申し訳ないことで、わたしが、というべきところなのですね。わたしが資源を浪費したツケは、何も知らずに立っているこの子たちの時代に回ってくるのでしょう。

 開会9時。終わったのは11時半頃だったでしょうか。幼児からこの地域の諸先輩の方々も参加され、盛り上がったとても楽しい運動会でした。

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夕焼け

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 夕方4時ごろ、近くの駐車場からふと見ると、ひさしぶりに見事な夕焼け。慌ててカメラを取りに家に駆け込んだ。戻ってみるともう数分のうちに朱色が褪せている。しゃったーを切る後ろで、「あっ、きれいだ」「夕焼けだ」と遊んでいた子どもたちが共感してくれた。

 写真をアップして、こんなんじゃないな~と思いつつも見入る。

 車庫入れしていた方がおりてきて、「きれいね。昨日はもっときれいだったわよ」。昨日も同じ時間に同じところを通っていながらまったく気づかなかった。23、24日は猛烈に忙しかった。きょうになってすこしゆとりができた。夕焼けは夕暮れにゆとりある心に映ってくれるらしい。

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 街灯が点いた。これできょうも暮れてゆく。人の暮し、このような景色にも1秒1秒異なった時の流れ、変化がある。いつに変わらぬ、とよく言うけれども、同じ状態、同じものは何一つ無い。一瞬一瞬が常に何らかの変化を遂げている、そしてこれらをすべて支配している存在がある、そう感じられた夕暮れだった。

 明日は日曜日だけれど、地区行事への参加となる。

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すごいな

  気づくと葉が繁った椿の真後ろに咲いていた。見る人がいようといまいと授かった可能性いっぱいに咲いている。すごいな。

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わたしの主はイエスさま

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松田晃・松田順子 合唱指揮105年記念演奏会 ー2010/11/14(日) 岩手県民会館大ホール 13:10開演ー

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ベゴニアの健闘

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 夕べの滴が植物に宿っているまに、写真を撮りました。写真に撮った景色や花はやはり記憶に留められます。これでもう消えないという安心感。
 近頃は個人情報云々で、人物写真を載せるのには慎重を要します。いい場面だなと思っても撮ることが憚られます。

 ことしいちばん健闘してくれたのは、思えばベゴニアでした。平凡だといつも素通り。けれども春からこのときまでロングランで咲いてくれているのはベゴニアだけです。

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              ほんとうに有難う!

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ヒソプ工房カナン祭

第19回ヒソプ工房カナン祭

◇9月23日(木)

時間/10時~15時
内容/リサイクル粉石けん「ちきゅうせっけん」、手づくりクッキーなどの販売、ふれあいステージ、飲食コーナーほか
会場・問い合わせ/ヒソプ工房(盛岡市大館町) 電話 019(646)8581

ヒソプ工房の地図はこちら

  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 カナンの園では、緊急に今年中に移り住むためのケアホームが要ります。募金を募っています。

カナンの園後援会

 〒020-0147
 盛岡市大館町28番53号
 ヒソプ工房内
【郵便振込口座】02330-6-6631 カナンの園


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気がつけば雨音

 はっと気づいて目を覚ますと、あっ、しまった! 真夜中の0時10分。ぽつぽつと屋根を打つ音がしていた雨がいま降っているというに相応しく降りだした。
 今月こそカレンダーを埋め尽くせると思いきや、やはり完全とはならないものだ。もう一つやらなければと算段していたことがあったが、明日ではなかった、ここはとにかく一旦やすんで目覚めてからのきょうに回すことに。

 そういえば、また月下美人に蕾が4つついている。鉢を家の中に移動させておいた。うまく咲いてくれるといいのだが。

 フロックス、ベルケア、朝顔、バーベナが辛うじて咲いている。

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 たまに脈絡なく、思ってもいないはずの言葉が浮かぶことがある。いま浮かんだのはエレガントという言葉。なぜ浮かんだのかわからない。そういえば、もう随分と使ったことのない言葉だ。エレガント、エレガントな女性は…と思い浮かべると…あの人、この人が3人ばかり浮かんだ。自分が入っていないのは言うまでもない。花ならどんな? と考えたがすぐには出てこないが、

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これはちょっとどころか萩に叱られそうなピンボケの萩の写真。いま眠い状態で見ているような、そんな写真。でもちょっとエレガントに見えなくもない。見る方によってはまったくそうは見えないかもしれない。

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 これはどうかと見てみたのだけれども、果たしてローブデコルテに身を包んだ輝くばかりの女性のように見えるかどうかは、主観の違いとなるかならないか…

 明日ではなかった、きょうの残された時が祝福された歩みとなるように願いつつ、ひとまずは真夜中のこのときに幕を。

 

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きょうのことば ー『主イエスの埋葬』 ヨハネ伝連講(108)ー

 穏やかな一日でした。明日は敬老の日。教会ではきょう、婦人会の代表の姉妹からプレゼント が手渡されました。そして明日からは大正9年から5年ごとに行われている国勢調査が各戸に動きます。人口が減少してから初めての調査となるようです。 
 
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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会の國光勝美牧師のお話は、

説教題 『主イエスの埋葬』 ヨハネ伝連講(108)ー
聖書朗読 ヨハネ伝19:38~42 
(青い字は聖書からの引用です)

 38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
40 そこえ、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そのこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。


 先週の礼拝では、十字架につけられてからのあまりにはやいイエスさまのご逝去を語りました。通常こんなにはやくは息絶えないのだがと訝った人々もあったでしょう。ユダヤ人たちは、神に呪われたものをそのまま木に吊しておくわけにはいかなかった。取り下ろす許可をもらい、2人の強盗はすねを折って、イエスさまはすねを折らないで取り下ろそうとした。ローマ兵がほんとうに死んでいるかどうかイエスさまの脇腹を槍で突き刺して確かにイエスさまが死んだことを確認する。十字架でなされた贖いによって流された血がまさしくそこから流れ出たのです。
 「ベン・ハー」の映画の最後のシーンで、雨が降ってきますが、十字架から流れるイエスの血が大雨に流され広がっていく場面は印象的でした。ここから過越しの血、子羊の贖いの血が始まったのです。復讐に燃えていたベン・ハーは、このときに赦すことができるようになり新しい人生が始まりました。

 いよいよきょうはイエスさまの体が埋葬されるところをお話します。
 このときには、格別に2人の人物が、ヨハネ伝を書いたヨハネによって取り上げられています。
 女たちがイエスの埋葬の場面を見ていました。イエスさまが墓に埋葬されたのを見てイースターを迎えることになるのですが、ここにはイエスさまの体に香油を塗ろうと日曜日の朝早くに墓に出向くという複線があります。3福音書が流布しているところに、ヨハネが、これはしっかり書き留めなければならない大切な部分としたところです。

 38節にアリマタヤのヨセフが登場します。アリマタヤというのは地名で、エルサレムから地中海に向かう真ん中辺りに位置します。この地の出身であるヨセフという人物ですが、このアリマタヤのヨセフはどういった背景を持っていたでしょうか。
 マタイ27:57には
 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。とあります。当時の金持ちのステータスの一つは、生きているうちに自分の墓を準備しておくことでした。
 またマルコ15:43には
 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフはサンヒドリン(ユダヤの最高法院)という議会の有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。とあります。また彼は敬虔な人物でありました。
 ルカ23:50には
さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。とあります。イエスを拒絶しようとした議会の議決にはヨセフは賛成してはいなかった。
 ヨハネ19:38にもどって、アリマタヤのヨセフはイエスの弟子ではあったが、ユダヤ人であることを恐れて、弟子であることを隠していたのです。真実で正しい人であったけれどもやはり人を恐れていた。けれどもついに堪えきれなくなって、ピラトのところに行き、イエスさまの体の下げ渡しを願い出たのでした。
 この申し出は、ユダヤ人たちが十字架からイエスさまを取り下ろそうとした意識とはまったく違います。ユダヤ人たちは取り下ろした後、イエスさまがどう扱われようと構わなかった。しかしアリマタヤのヨセフは自分の墓に丁重に葬ることを許していただきたい、イエスさまの亡骸を引き取らせてくださいとピラトに願ったのです。
 イエスさまを「十字架につけろ」と叫んだ人々は、イエスさまが取り外されたあとで、遺体が無造作に扱われようが、蹴飛ばされようが野ざらしにされようがそれでよかった。しかしアリマタヤのヨセフは、どうか埋葬させてくださいと願った人物でした。

 それから
ヨハネがどうしても書いておきたかった人物はニコデモです。ヨハネ伝19:39に 没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た 人物とあります。 
 ヨハネ7:47~53にあるように、ニコデモはパリサイ派のラビ(教師)であり、またアリマタヤのヨセフと同じようにサンヒドリンの議員でもあった。イエス排斥の議論が高まったとき、51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか」と律法に基づいて答えている。
 また夜にこっそりイエスさまを訪ねてきて、人はどうしたら神の国に入ることができるのかを問うた人物だった。ニコデモもユダヤ人の指導者の一人であり、普通であれば、当時無名だった若輩のイエスさまに教えを請うことは誇りがゆるさなかったでしょう。ニコデモは真実学びたかったのです。
 そのときイエスさまとの問答がありました。イエスさまは、
「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」 と語りました。
 またヨハネ7:37には さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
またヨハネ7:38には、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 人々の間には、あの男は何者かという論争がありましたが、イエスさまは、このニコデモとの問答で、わたしがメシヤである、と人々の前ではっきりさせたのでした。
 ニコデモはこのときイエスさまを信じ謂わばイエスさまの新派となったのです。しかし、何事も先ず本人に聞いてみてからでなければ軽々しくは断定できない、と言っていたニコデモですが、イエスさまが真のメシヤであることを公にはしませんでした。
 
 ニコデモとアリマタヤのヨセフとは相通じる同志でした。この二人のようにサンヒドリンの議員の中にも、イエスさまに従おうとした人物もいたのです。ただ彼らに共通していたのは、ユダヤ人を、人を恐れていたということです。
 わたしたちは職場にあって、「クリスチャンです」「キリストを信じているものです」とどれだけ公にしているでしょうか。ニコデモやアリマタヤのヨセフのように、このお方に従って行くということははっきりしている。しかし公の前で「わたしはクリスチャンです」と証をすることができない。ニコデモ、アリマタヤのヨセフのこのことを、使徒ヨハネはなぜ、わざわざ書いているのか。それはこのことをわたしたちに問いかけるためではないでしょうか。

 ヨハネ19:39を見てみましょう。
没薬とアロエを混ぜたものを30キロとあります。没薬(モツヤク)は非常に高価なものでした。バルサム樹の樹脂で葬りのときに用いる香料です。エジプトではミイラをつくるときに用いられました。
 ニコデモはこの没薬をどんな気持で持ってきたでしょうか。恐らく泣きながら持ってきたとも想像できます。30キロですから自分で担いできたとも思われない、或いは人に運ばせたものか、それはともかく、イエスさまがこうならないように自分は手を尽くすべきだったのだ、せめて自分が持っているこの貴重なものをイエスさまの埋葬に使っていただきたい、どうかこれを受け入れてください、と心を痛めながら運んだでしょう。
 ここで最後の晩餐のとき、マリアがイエスさまの御足にナルドの香油を注ぎかけた場面が想起されます。このときイエスさまは、彼女の為すがままにさせなさい、埋葬の準備をしているのだと仰いました。ニコデモが没薬を持参した行為には、あのマリアの油注ぎの響きを感じるのです。
 300デナリの香油。当時職人の一日の賃金は1デナリでした。1年分の生活費、年収に相当します。今でいうなら車1台分とも言えるでしょうか。
 ヨハネ12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
 もう一つ思い起こすのは、イエスさまの誕生のとき、博士たちが、黄金、乳香、没薬を、ユダヤ人の王として生まれた方にと捧げたことです。
 ピラトは十字架に「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と罪状書きを記しました。アリマタヤのヨセフとニコデモは、正に王としてイエスさまを丁重に葬ったのでした。ここで考えさせられます。人を恐れて、こっそりとイエスさまに従っていた人物たちが、このときに及んで、もう黙ってはいられない、わたしのすべてを差しだして、わたしの名誉、立場が何であろうが、このすべてを献げてやってゆきたい。思い切ってアリマタヤのヨセフはピラトにイエスさまの埋葬の許可を願ったのです。

 わたしたちをこの2人に照らしましょう。そういった質さえも神さまは用いてくださる。これは私たちにとって何ともいえぬ励ましであります。
 38節にある通り、
イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ 差し詰め、インマヌエル盛岡キリスト教会の会員であったが人を恐れてそのことを隠していた、といったようなものです。
 ところで、この大切なときに、3度主を否定し涙したあのペテロはどうしていたのでしょう。ここには出てはきません。いつも傍近くイエスに従っている者さえも躓いてしまう。クリスチャン狩りのあの追手が今度は自分のところにやってくるのではないかと恐れていた人物が、ピラトの前に願い出、金持ちのステータスであった一番よいところに葬りが為された。主に愛のすべてをもって、憚らずして主の弟子であることを証することができる者であることを学ばせて頂こうではありませんか。

※聞き落とし、聞き間違いがあった場合にはおゆるし下さい。文責は当ブログ筆者にあります。 

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間伐材で作られたベンチ

 久慈市の「いわて森のトレー生産協同組合」の間伐材を利用したトレー生産事業が導入した製造機械の不具合で失敗し、補助金返還問題で生産設備メーカーを相手取って訴訟を起こしたが、全面敗訴となったニュースがあった。一瞬ひんやり。突き詰めれば、この補助事業の内実、実質といった問題もあるようだ。

 それはそれとして、9/16にこのブログに書いた中三デパート1階にある花屋「PIVOINE」さんに置かれているベンチ、これは間伐材を使っているのですが。わたしの説明だけでは実物にほど遠いので、写真を撮らせてもらいました。ついでにちっちゃな梔子の鉢植を買ってきました。

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 この写真では板に丸みを持たせたところがよくわからないのですが、あたたかみが感じられ、自然とともにある気分。ニスの光沢も落ち着いた感じです。背もたれはふつうのベンチよりも高いめです。もっとさまざまな角度から、或いはパーツの形状がよくわかるように撮りたかったのですが、何しろ一般客なものですから、すこし遠慮しました。
 
「PIVOINE」さんに相談すれば、この製作者ともつながり、自然ともつながるでしょう。

 このような間伐材で、たとえば自然景観の一コマを思わせる物干し台とか、犬小屋にも物置にもできる小屋、或いはペットを家族同様に可愛がっている方々も多くいらっしゃいますが、ペットの遊具など。発想が豊かであればもっともっと思いつくのでしょうが、先ずはこんなところです。

 


 

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ロシアフォークアンサンブル“プリモーリェ”コンサートー2010/10/1金) 岩手県民会館中ホール開演18:30ー

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間伐材で何を作ろうかな

 盛岡市にある中三デパート1階にある花屋さん(アーケード街側の入り口)に高いめの背もたれのあるベンチが置かれていた。たまにこの辺りには来るのだが、ベンチには昨日気づいた。「間伐材使用」とある。価格は3万弱。この価格は一般の半値だ。ぬくみがある。ゆったりと腰掛けることができ、庭のテーブルに置くことができたなら、さらにもう一歩、間伐材を手に入れて自分で作ることができたならと夢が膨らんだ。

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               2010/9/2根田茂の間伐現場

 そして今夕、TVで、盛岡市玉山区の玉山製材所が紹介されていた。間伐材を利用した木製残存型枠や杭材、測量材、トンネル用材等の各種土木資材の製造販売会社だ。特に残存型枠(ダム工事などでコンクリートを流し込むための枠)としての利用が映し出された。この残存枠の開発については、すでに2010年4月10日の岩手日報で紹介済みなのだが、その後このような方面からの発注が増加しているという。
 間伐の消費が進めば、森が生き返る。この夏の猛暑で木陰の有り難さ、樹木のそれはもう尊さといっていいほどの大切さを痛感した。異常気象にも地球規模の連鎖があるらしいのだが、“山ばかりの岩手県”と寂しく思った昔もあった。しかし今は翻って、岩手がどんなにすばらしい資産を持っているかを思う。岩手のみならず、山々に恵まれたところすべてがそうなのだけれども。

 間伐は地球温暖化防止にも貢献する。(独)森林総合研究所の調査では、「適切な間伐を実施した森林は、間伐未実施の森林に比べ、伐採木を含めた森林バイオマス全体の二酸化炭素吸収量が多くなされる」とされています。

 玉山製材所の試みのように、これまでゴミ同然に扱われていたこの安価な間伐材の板に丸みをつけるという創意工夫で、こんなにも素敵な板材ともなっている。
 中津川河川敷の舗道には木材チップが埋め込まれているが、これも各家庭で庭に埋め込むなどしたなら足にもやさしい歩き道となるのでは。花壇の境目にも良さそう、などと考えているところです。


   

 

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いつくしみふかき

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 近所ではもっとも高い木。目測30メートル。自宅から2、3歩出たところで樹上を見定めカシャッ。この木が地上を見下ろしていたときはない。いつでも大空を見あげている。カラスがたまにてっぺんで羽を休め、町を睥睨している。

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 雲よ、いったいおまえは何をつかんでるんだい?ちょっとその手を開いてご覧よ。きっと人には見えないものだね。見えないくらいすばらしいものだね、きっと。

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 刈り込みを忘れられた薔薇の枝が伸びにのびて中空に。
忘れられた枝先に咲く一輪の美しさ。そして、この演出に一役買ってくれた空の青さよ!

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「いつくしみふかき友なる」 試聴 

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猛暑日に守ってくれた緑

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  あの猛暑はいったいどこへ?
クーラーのないわが家。
厳しい夏を乗り切れたのは、庭に置いたこのテーブルと椅子、
そして樹木たちのお陰です。
ここで冷たいものを飲んだり本を読んだり。

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 このアオキの枝は、椅子を置いた頭上を覆って、庇となってくれた。この夏が来るまえには、私はこの見栄えのない平凡な木を伐るつもりだったのだ。それがどうだろう。とんでもないわたしを暑さから庇ってくれたのだ。この下の気温は、ここを出たところの外気温よりもいつも2、3度低かった。

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 木を何カ所かに植えておくだけで、こんな空間を提供してくれる。樹木は、じりじりとした暑さから守ってくれる。これも天からの恵の一つだ。

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 昼下がりに、ふと窓を見ると、網戸にカツラや葡萄の蔓の影が。光がとおるところには、ミョウガやアジサイの葉がそのまま見えている。植物の影がやすらぎを与えてくれる。

 葡萄は落ちた種からいくらでも出てくる。ミョウガも僅かばかりだったものが窓近くにまで増えてくれた。木もちょっと植えただけで、忘れたころに大きくなってくれる。葉を繁らせてくれる。

 家の中に高価なものは何もないが、木や草に囲まれていることの安らぎ。緑とは、何とすばらしいものなのだろう。

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市政見学会「盛岡の林業~市産木材を使いませんか」に参加するーその4(最終) 岩手県森林組合連合会 木材流通センター

  2010/9/2(木)の市政見学会「盛岡の林業~市産木材を使いませんか」の最後の見学コースは矢巾町にある盛岡木材流通センター(岩手県森林連合組合直営の丸太市場)でした。ここで通常月に一度、丸太の競りが開催されます。昭和56年に完成した丸太市場です。

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 これは市場にある入札箱。出荷者は岩手県内80~85㌫。あとは秋田県、青森県。落札し買ってゆくのは県内、県外半々。針葉樹ではスギ、カラマツ、ヒノキなど、広葉樹ではクリ、ケヤキ、ナラ、トチ、カツラ、サクラ、ホオノキ、トネリコ、ニレタモなどが競りに掛けられる。伐採許可書を取って伐りだした合法木材であって産地のわかるものだけを扱っている。

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 丸太を置いてある土場に移動。土場全体を写真に撮れなかったのが残念。ここは2人で管理されている。材木はピーク時の半値。細いものの多くは、土木用の杭材に用いられる。スギの丸太は建材。広葉樹は建具、木工品に使われる。参考URL
 冬は夏の2、3倍の丸太が流通する。夏は虫やカビがつきやすい。 

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広葉樹。

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                  およそ130年スギ。

径58㌢、長さ640㌢の芯持ち材。およそ5、6万円。この丸太からは、芯を裂避けて8本の柱を取ることができる。背割りを取らないと表面にひびが入りやすい。芯の入った柱は壁の中など隠れるところに使う。                  

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 これはスギに貼られている 測定値が書かれた札です。上の写真の丸太の隣に置かれてあったスギの丸太です。クリックすると数字が読めます。

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木の根。細工用。遠隔の県の業者に買い取られることが多い。

運送は、2㌧トラックなら百数十年木2本が運搬できる。

一度見てみたいと思っていた土場も見ることができました。冬に来れば、もっと堆く丸太が積まれていたのでしょう。埠頭に荷揚げされ、積み上げられる外材の山を思い出しながら、見学したことでした。

  見学に参加していたある方が、漆の木を植林したらどうかと提案していました。そこでは言いませんでしたが、実はわたしも同じことを考えていました。某百貨店で漆職人さんの実演販売があったとき、色々話を聞いて、採算があうのではないか、などと思ったのですが…どんなものでしょう。   

 このあと再び盛岡市のマイクロバス「せきれい」に乗り込み16時にはこの見学の出発地点であった岩手県民会館の中津川沿いに帰り着きました。2010/9/2(木)9時半から16時のあいだ、根田茂から流通センターと、これだけの見学ができたことに感謝したことでした。

                    終わり

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きょうのことば ー『流された血と水』 ヨハネ伝連講(107)ー

 きのうは一日雨降りでしたが、きょうは曇り。しかし変わらずにイエスさまへの礼拝が持たれました。感謝なことです。

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さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は
説教題 『流された血と水』 ヨハネ伝連講(107)
聖書朗読 ヨハネ伝19:31~37
(青い字は聖書からの引用です)

31
 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
32
 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
33
 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
34
 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
35
 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
36
 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
37
 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。


 ヨハネ伝は、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝とは記された時期が遅いです。ヨハネがヨハネ伝を記したとき、他の3福音書(マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝)はもう人々に読まれ語られていました。そのようなときに、ヨハネが、他の3福音書を補完するために、落としてはならない事項を独自の視点から記したのがこのヨハネ伝です。
 たとえば、マタイ27:50~54に
50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。とあります。ここは、ヨハネ伝19:30には、イエスさまが「完了した。」と言われ、そして、頭を垂れて、霊をお渡しになったのですが、このように頭を垂れたときに、どのように大いなることが成されたのかを記している箇所です。
 「完了した。」、つまり贖いが成し遂げられた。隔てている幕が真っ二つに裂ける。この幕は、神殿に於ける神或いは大祭司と人々との隔ての幕のことです。成就した、というのは、神に面接する道が開かれたということです。幕は上から下に裂けましたが、普通幕が裂けるときは下から上に向かって裂けるものです。神と人とを隔てる幕が、人の手に依らずに上から裂けた、これは神の側からもたらされた御業なのです。

 マタイ27:52、53には また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。とあります。イエスの復活ののちに、聖徒たちが復活しエルサレムに現れたといっています。ここは非常に難しい部分です。書かれてあるこの通りではあるでしょう。イエスが罪の解決者として打ち勝ってくださった、その御業が確かである証拠として、既に墓に眠っていた聖徒たちが初穂の主に続いて墓からよみがえりました。
 私が神学院で学んだときも、ここは興味深い箇所でした。当時神学院にいらした河村襄先生にお訊きしますと、先生は「私にもわかりません」とお答えになりました。ああ分からなくて当然なんだな、と私は思いました。全部わからなくて当然です。ただ復活の証としてこのことが成されたことを素直に認めましょう。
 マタイ27:54で、イエスさまの右と左の十字架につけられた2人の強盗の十字架上での成り行きを間近に見ていた百人隊長が、イエスさまを「
この方はまことに神の子であった。と言った言葉は、真に厳粛に受けとめるべきです。

 ヨハネ19:31
 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。 とあります。
 ここで、2人の強盗は十字架の上でまだ生きていました。十字架刑では、長いもので3、4日生き延びたそうです。その日のうちに片づけたかったユダヤ人たちは、強盗の死を早めるために、まだ息のある2人のすねを、持っていた木槌で折ったのです。聖なる安息の日に呪われたものが磔られたままでおくわけにはいかなかった。取り外すためです。しかしイエスさまは事切れていたので、すねを折る必要がありませんでした。
 マルコ伝15:44では、総督ピラトが、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出しほんとうに死んでしまったかどうかを問い質し、確かであると確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えたことが書かれています。
 ヨハネ19:34のとおり、兵士がイエスのわき腹を槍で突き刺すと、ただちに血と水が出てきました。

 ここでユダヤの人たちの律法をみてみましょう。
旧約聖書申命記21:22、23 
もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。
 ユダヤ人たちが彼らの律法に従って、大いなる安息日、彼らの聖別された日を汚してはならないと急いで十字架からイエスさまを下ろすようにしたのです。

 ヨハネ19章にもどりますが、このような背景から、31節にあるように翌日は安息日であり、今日中に早く3人を葬りたいが、2人は生きていたのですねを折った。しかしイエスさまのすねを折る必要はなかった。
 ヨハネ伝19:34、35には、イエスさまのわき腹を刺したときに血と水が出てきたとあります。念のために兵士がわき腹を刺すと血と水が流れてきた。たしかにそれを私は見た。この私とはヨハネのことです。イエスさまが「あなたの母がいます」と言ったヨハネ、こんなにもイエスさまの近くにいたヨハネは、ほんとうに胸の張り裂ける思いでこの光景を見たはずです。死んだと確かめてから、槍を突き刺してみる、念の入った書き方をしています。なぜそこまで念を押す必要があったのか。この文の流れからすると不思議です。こだわっている。そう、こだわる必要があったのです。
 ヨハネの福音書は他の3福音書が流布されてからずっと後に書かれています。イエスさまに最も愛されたヨハネ。このヨハネは、およそ100歳まで生き、パトモス島に流され、ヨハネの黙示録という終末に関わる書簡も記しました。それはさておき、ヨハネはなぜ、たしかに私は見た、と記さねばならなかったのか。

 AD100年ごろ、福音、つまりイエスさまについては、異端であるという考え方が芽生えていました。グノーシス主義です。これは
、イエスはたしかに神なのだから、イエスは実は人として来られたのではないとする。当時は二元的な考え方であり、これは物質と霊の二元論に特徴がある。イエスは人のように見えたにすぎなく、人となったのではない。イエスが神であることをいわんがために人と見えただけで人ではない、という考え方が流布された。これに危機感を覚えたのがヨハネだった。一刻も早くこの誤った考え方の芽をつみ取るべく、ヨハネは、イエスさまが人となって来られた真の神であったこと、真の神であられるとともに真に人であられることを、いま命を長らえている証人として、これは伝えておかなければならない、真に人となられたイエスさまに槍を突き刺したとき本当に血と水が出たんだ、わたしはこれを記している、そうヨハネは念を押しているのです。
 ヨハネが懸念したことが次に書かれてあります。
ヨハネ第一の手紙4:1~3 
1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。:2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

 ヨハネが「血と水」を見た経験を念を押すように書くのは、ただにグノーシスを意識して書いたという以上に、わたしたちに大きな真理を教えてくれます。
 「血」は、旧約聖書の時代には神に近づくためには、必ず血を流さなければならなかった。子羊の血が必要だったのです。神は過越の血としてイエスさまの血を流してくださった、これをしっかり心に留めましょう。
 出エジプト12:21
 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。
 
出エジプト12:43~46 主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。44 しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。45 居留者と雇い人は、これを食べてはならない。46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。
 
イエスさまはまことの生贄、過越の子羊です。強盗は生きていたのですねを折ったが、イエスさまは死んでいたのですねを折らなかった。ヨハネ19:36には書かれている「彼の骨は一つも砕かれない。」、これはまさしく聖書の成就です。厳粛なことです。たまたま息絶えていたからたまたま折らなかったのではない、兵がたまたま刺したから血と水が流れたのではなく、刺したときに血と水が流れてきたのです。何気なく行われているかの一つ一つが緻密な神のプログラムのもとに起っている。「水が流れている」、まことの命の水はここから流れてきていることを私たちに教えています。そこから流れている血と水に私たちは与っているのです。
 成し遂げられた十字架から流れている聖霊の水を受けているお互いでしょうか。

 もう一つ指摘させていただいて締めくくりましょう。
ゼカリヤ12:9、10 
その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
 聖霊が注がれたときにはじめて、「彼(イエス)をのぞけ」といったイスラエルの人々に、
「あんなのはメシヤじゃない」と言い、イエスを拒絶し十字架につけ、槍で刺した人々に、もう一度キリストはいらっしゃる。9節の「
この日とは再臨のときのことです。そのときイスラエルは世界中の憎しみの対象となる。イスラエルが世界に拒絶され、永遠に葬り去られるかに見えた終末のときに、メシヤはいらっしゃる。このときに初めて悔い改めが起きます。拒絶したお方がメシヤだった。
 ゼカリヤ13:1
 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
 拒絶している人々には「その日」に開かれる、と言っています。しかしクリスチャンには、もうすでに聖霊によって救いが開かれています。ゼカリヤ13:1の「その日」を待つまでもなく、豊かな命の水、罪の赦しときよめをもたらす泉が、十字架のもとから流れ出ている。拒絶する人々には後のことです。しかしわたしたちには聖霊によっていま開かれている。いま贖いを信じている。罪と汚れをきよめる十字架の泉がこんこんとわき出ていることを知ることができるのです。聖霊によって聖なる泉が開かれています。

※以上は聞き書きであり、文責は当ブログ筆者にあります。

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やはり聴いてしまった ー小澤征爾ー

 きょうは2日に市政見学会で行った盛岡木材流通センターを書こうと、PCに取り込んだ写真を流して見ていたが、これだっ、というにはほど遠い。それでも3、4枚を選んで下書きでアップ。
 明日は日曜日でもあり、10時代にはブログ書きも終えて、と思っていたところが、「小澤征爾だよ」の掛け声。松本かな、と思ったが、TVは見ないことにしブログ書きを続行。そこに数ヶ月ぶりに友だちからの電話が。受話器を取りに行き、話しながら見ると、小澤&サイトウ・キネン・オケが画面いっぱいに。話し終えるなり、TVの前に座り込んでしまった。小澤氏、腰痛を抱えながらの指揮。これまで見たなかでは最高の姿にわたしには見えた。人は命がけで挑むときにそう感じさせるのではないか。小澤&ベルリンフィルのチャイコフスキー、これもまた圧巻。番組の最後で、氏が、音楽は命に通じると語っていたが、正しくそのような響きに出会った。

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 これは盛岡木材流通センターから、競りにかけられるのを待つ丸太が積まれている土場に向かう途中の林。逆光で暗く見えているが、実は明るい。天にのびる樹木たち。小澤氏の命の響きがこの樹林に鳴り響き、指揮する小澤氏の姿が樹間に浮かんだ。

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市政見学会「盛岡の林業~市産木材を使いませんか」に参加するーその3 (有)二和木材

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 2010/9/2(木)の盛岡市政見学会のコースは、根田茂の市有林、都南つどいの森、そして次は紫波郡矢巾町煙山にある(有)二和木材でした。

 (有)二和木材にはレーザーセンサーで製材に必要な計測を可能にしたコンピューターシステムの世界にも最先端を誇る機械が導入されています。扱う材木は98㌫が県産材。樹種は主にスギ、カラマツ、クリなど。年間7万2千本を処理。機械設備2億円。
 説明くださったのは、副社長。ここで写真撮影の許可をいただきました。背後に積まれているのは、4000㎜×133×35のスギの板が120枚ずつ括られた板材の山です。

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 製材といえば人の手による流れ作業との思いこみは、もはや昔のこと。最初に出会った機械は、樹皮粉砕器付きの剥皮装置でした。参考URL

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丸太が剥皮装置めざして階段状を運ばれてゆきます。

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丸太が装置に装填されてゆきます。(左)/ 奥の方、皮を剥がれた丸太が出て来ました。(右)

粉砕された樹皮はこの装置の右側から吐き出されます。

 次に見学した大型装置ではチップキャンター製材とチップ生産を同時に行います。

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 角材が板に変身です。

 この次は乾燥機

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 天日にさらして乾燥させるとばかり思っていたそれも今は昔。この製材所では温度は100度以下に設定。(木材への負荷を配慮。他では100から120度設定もある)

 板はこの後、機械で削られる。鉋がけに相当する機械作業だ。

 乾燥の建築基準法によって設けられているという。
 下の写真の機械について、「いわば電子レンジに入れて乾燥させるのと同じ」という説明があった。しっかり乾燥が終わるとさらに仕上げの削りがある。最初12㌢で削られた材は出来上がりで10.5㌢となる。削り代は1.5㌢。

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この人工乾燥をきっちりかけることは、品質を高め、外材に対抗するためにも重要な工程であるとわかった。

 この写真だけでは掴みにくいとおもいますが、概略を書かせて頂きました。
国の森林の扱いの杜撰さ、往時の木材価格の半分値、枝打ち、間伐、植樹など森林を守る労働力の半減といった難題の中で、このように林業の再生、克服を目ざし戦っている活き活きとした企業を見ることができ嬉しかった。

 

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庭の花たち ー猛暑撤退にやっとひと息ー

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                  桂

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                左はミニトマト。右はキュウリ。

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                      ニラ

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トチの実

 涼しさが戻った。長い長い猛暑の夏の終わり。
台風9号から変わった熱帯低気圧による大雨の影響で、神奈川や静岡県では8日、被害が相次いだ。1日の降水量が観測史上最大の495.5ミリを記録した神奈川県山北町…(毎日新聞)。
 やっと昨夜は涼しく、今朝はほんとうに爽やかだったが…

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 咲いている花が少なくなった庭ではサルスベリが8月の中旬から頑張って赤い花をたわわにつけている。元気なのはバーベナ、青い朝顔、リナリヤ、ベゴニア。サルビアは咲いてはいるが、かなり元気がない。これは肥料不足。花の咲き具合の良し悪しまで猛暑のせいにしてしまっている。

 もう花よりも実の季節だ。

盛岡市の中央通りにはトチの並木がある。

注意 トチの実が落ちます

こんな看板が何カ所かに設置されている。

 
トチの実

ー写真はこちらからお借りしています。ー

「トチの実が落ちます」 
 いい感
じだなと思う。メロディーが浮かんだ。単純な旋律にカラコロとマリンバを転がしてみる。ハープで軽やかにさりげなく風を吹かせる。そんなことを想像しながら歩くと楽しい。

 舗道に落ちた実はきれいに片付けられている。車道に落ちたほうが、タイヤに熨されてペシャンコだ。

 大樹の下にバスを待つ人影。傍らをいそぎ行く脚。鈍い光を放つ車の列。ほんとうにもう秋だ。


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市政見学会「盛岡の林業~市産木材を使いませんか」に参加するーその2 盛岡市つどいの森-

2010/9/2(木)の市政見学会のコースは根田茂の間伐を見学し、次が都南つどいの森でした。

 「盛岡市都南つどいの森」の見学でした。先ずは、ここには宿泊施設こもれびの宿オートキャンプ場、バンガロー、キャビン、球技場、森林創作実習館、管理棟、各種体験実習があります。施設利用料金、詳細はこちら。格安、しかも管理がきちんとなされているのでなかなか評判が良いのです。訪れたときには、ツツジの剪定作業が盛んに行われていました。あの桜並木が花で重くなり、ツツジが一斉に咲いたころに訪れたなら、もう最高でしょう。エリアには管理棟のバーベキューハウスや盛岡市都南歴史民俗資料館、盛岡市都南老人福祉センターもあります。太字は特にお薦め。

 こもれびの宿は2食付きで6500円と聞きました。改装したばかりでほんとうにきれいでしたね。真新しかった!

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 これは、こもれびの宿の壁材。アカマツの板でできています。温もりの安心感でした。次に見学した機械製材会社では、アカマツは粘りで機械に不都合が生じるとのことでしたから、これは大工さんの神業作品なのかも。

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 森林創作実習館に行く途中に通った林には、こんなキノコが生えていました。これを見たときは嬉しかったですね。キノコはないか~、キノコはないか~とキョロキョロしてたんですから。上がタマゴタケ。下がシロオニタケ。ともにテングタケ科、テングタケ属。

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 材木で夢のあるものを作ってみたいと思っていたところが、この「森林創作実習館」なら実現しそう。創作可能なモデルがたくさん展示されていました。見るだけでもほのぼのとメルヘンが。

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 実習室にはこんな優れものが10台。工作機械の心配も無し。

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 こんな木漏れ日のなかで、説明を聞きながら施設めぐりをしただけなのに、体内の細胞がことごとく洗われて元気いっぱいになりました。!!

 つどいの森では2010年9月26日(日)10:00~15:00感謝祭が開かれます。すっごく楽しい事が待っているようです。詳しくはこちら

   ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 きょう書く予定に入っていなかったのですが、20時のNHKクローズアップ現代によると、

 北海道の羊蹄山を望む倶知安57㌶(東京ドーム12個分)の森林が、1㌶あたり300万円(日本の通常価格の5倍)で香港在住のさる夫人(夫はフランス人実業家)に買収されたことが判明したという。日本の土地所有者への規制は法律上甘いらしい。フランス、ドイツでは森林は公共性が認められ、所有者といえども土地利用の在り方には制限がある。ところが日本にはそれがない。日本は土地の取り扱いの不始末に関しても罰金30万程度という。すでに長崎県の五島列島もイギリス人ブローカーによって292㌶買収済みらしい。これも売却先は中国。水土保全、土砂崩れ防止を支えている森林が海外の所有物になるという寝耳に水の出来事。このニュースでは日本がいかに森林管理をずさんにしているかも分かった。外国が日本の森林を無責任に乱開発したなら、いったい水源は水質は環境は木材は、土砂崩れはどうなるのだろう。いまや日本の森林は中国の大富豪の資産増殖のターゲットになっているらしい。

 

 

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水曜デッサン会 絵画小品展 №9 ー2010/10/1(金)~15(金)画廊喫茶ママー

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きょうのことば ー『完了した御業』 ヨハネ伝連講(106)ー

 残暑とはいえ、真昼は太陽がぎらついていました。十字架がややもすると細く見える。しかし確かに立ち続けています。もう花は生けられ、兄弟姉妹がそれぞれに司会に立ち、2人がオルガン、ピアノに座り、そして受付に立っている。変わらずに礼拝の場が守られているというこの幸いを思います。        

       
       山上の十字架ーテッチェン祭画壇
       カスパル・ダーヴィト・フリードリヒ(1774ー1840)

 きょうはマザー・テレサの昇天記念日(命日)でもあります。わたしが通っている教会はメソジスト系ですが、マザーの愛がいかに神の納得をいただくものであったかを思うので、偲びたく思います。

 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会、國光勝美牧師のお話は

説教題 『完了した御業』 -ヨハネ伝連講(106)ー
聖書朗読 ヨハネ伝19:23~37
(以下の青い字は聖書からの引用です)
23
 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫目なしのものであった。
24
 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
25
 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26
 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
27
 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28
 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
29
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
30
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
31
 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
32
 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
33
 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
34
 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
35
 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
36
 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
37
 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。

 いま私たちはイエスさまの正に十字架の場面に留まっているところです。先回はイエスさまが仰った「渇く」という言葉に心を留めさせていただきました。ひとが肉体的に最も苦痛なのは痛みではなく渇きだといいます。最も大きな苦しみを主は十字架上で味わい尽くされました。そればかりではなく、霊的にも、それまでイエスさまは生涯において一ときたりとも父なる神との交わりを絶やした事はなかった。このイエスさまの渇きというのは、神との交わりを絶やしたことのない者にとって、正に渇きであり、父なる神から捨てられた渇きであった。父なる神がそこにご覧になったのは、人間の汚い罪の凝縮であった。父なる神はそれを正視できなかったのです。
 「渇く」の意味がわかればわかるほど、私たちが神の御子をして、このようにさせねばならぬほどの罪人であることを思うのです。渇きにあるイエスさまを嘲って差し出された酔い葡萄酒も主は受けられました。前回はここまでお話しました。

 ここは非常に大切な場面です。この十字架の上で、イエスさまは七つの御言葉を発せられたといわれています。
①ルカ23:34「
父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。
②ルカ23:43 「
まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。
③ヨハネ:19:26、27
 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
この時点でイエスさまの兄弟たちはまだイエスさまへの信仰を持っていなかったので、母マリヤの苦しみを慮った主は、自らの弟子ヨハネに母マリヤを託された。
④マタイ27:46「
エリ、エリ、レマ、サバクタニ
 マルコ15:34
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」…訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
⑤ヨハネ19:28「
わたしは渇く
⑥ヨハネ19:30「
完了した。
⑦ルカ23:46「
父よ。わが霊を御手にゆだねます。

 イエスさまは、①④では天の父なる神を「わが神」と呼んでいる。しかし、天の父の御意である贖いをことごとく成し遂げてからは、⑦のように「父よ」と親しく呼んでいます。イエスさまは贖いを「成し遂げました」と満足し呼びかけたのでしょう。

 30節に「
頭を垂れて」とあります。これは「枕をする」と同じ意味で使われています。
マタイ8:20に「
狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とあります。人の子イエスさまは神の御意を成し遂げるためにいつでも働き通しでした。イエスさまがついに枕されたところ、安息を得られたところが十字架の上だったのです。

 「
完了した」というこのイエスさまの御業、この御言葉に心を向けたいと思います。
 ある有名な聖徒の証を読んだことがあります。彼はどうしてもきよめがわからなかった。罪が赦されるということはわかる。しかし、罪を持っているわたしが、どうしてきよめられたと言うことができるのか。これはとらえ方によっては傲慢なことだ。そうおもい暮していたとき、聖書の言葉に目が留りました。そのとき聖霊が彼の心に御言葉を啓いてくださったに違いないのですが、それは「完了した」という言葉でした。この罪ある者のために、イエスさまが贖いを成し遂げてくださった。このお方が解決をしたと仰ったからには、わたしの罪がきよめられないということがあるだろうか。神が「完了した」と言っているのに、わたしの罪がきよめられないというなど、傲慢としかいいようがない。

 あなたはあなた自身で自分をきよめようと思っているのですか。神がぜんぶ出して示してくださった御愛を、「ありがとうございます」と感謝して受け入れることを信仰というのです。信仰によってきよめられるとはこういうことです。誰も行いによってきよめられる者はいません。この十字架はわたしのためですと信仰を持ったときに「完了した」は自分に適用されます。
 ガラテヤ書3章では、パウロが激越なまでに福音の命を語っています。
ガラテヤ3:3「
御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
ガラテヤ3:11「
義人は信仰によって生きる。
 このように、救い、きよめは信仰によります。

 ヨハネ19:30「
完了した。
 わたしにとって、いま、みなさん一人一人にとってイエスさまの贖いは不十分ですか。もしあなたが不十分だというとしたら、それはもう一度十字架にのぼっていってあの方に釘を打ち付ける自分の罪でしょう。成し遂げられているとき、問題はわたしたちの側にあります。
 わたしたちは「主よありがとうございます」といって、信じ受け入れるだけでいいのです。この世にきよめられた人などいないというのが謙遜なのか。神が成し遂げられたといって感謝してこれを受け入れるなら、そのときこそはじめて主は「完了した」と枕してくださり、安んじてくださるでしょう。
 ヘブル書には、神の民になお平安が残されている。安息に向かって進むべきである。きよめの安息に向かうべきである。神の安息はこのきよさにある、と語られています。

 
※この説教の聞き書きの文責はすべてブログ筆者にあります。

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「美工会美術展2010」 ー9/4(土)~9/6(月)ワトク7階ロイヤルルームー

 岩手県立美術工芸学校・岩手県立短期大学美術工芸科・岩手県立美術工芸高等学校同窓生の展覧会です。Scan10002_2 Scan10004 Scan10005

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市政見学会「盛岡の林業~市産木材を使いませんか」に参加するーその1-

 個人で林業の実情を見聞するのはなかなか困難なので、9月2日の市政見学会に参加してみた。市では現在2800㌶の森林を管理している。

先ずは、盛岡市のマイクロバス「せきれい」で、森林整備の現場である盛岡市根田茂地区にある金山沢市有林に移動。

 「この市有林は、盛岡市の南東に位置する根田茂地区にあり、盛岡の中心部から20キロほど離れています。小・中学校へ通うためのスクールバスはありますが、路線バスは通っていません。根田茂地区の平成12年国勢調査人口は72人。平成7年の人口は174人。急激に人口が減少したのは、簗川ダム建設に伴う移転が影響しています。
        根田茂小学校は平成10年3月に閉校しました。当時の児童数は11人。へき地教育賞を受賞したこともあるそうです。」(ウェブもりおか)

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201092_004             真ん中が沢口さん

 説明は、この地区で60年山仕事に従事している沢口さん。伐採の実演はご子息。沢口さんはマタギでもあり、鉄砲歴は45年。親子熊3頭との遭遇に身振り手振りで行き過ぎさせた経験など、間伐よりもクマの話が長く、面白かった。後継者であるご子息、チェンソーさばき鮮やかに見学のあいだに10本は伐ったのです。根元を伐ったにも拘わらず隣の木に引っかかって倒れない木も、躊躇わずに中途を切断、ばさりと地に下したのでした。

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 「この林、12㌶に平成元年に植林、約20年経っている。植林して5年で伐採を始めるが、不要なものでもいっぺんに全部は伐らない。一町歩単位で、混んできた様子を見ながら、将来性のないものや細いものから伐る。杉は有用で50年で伐採の時期を迎える」と沢口さん。沢口さんは叙勲している。それと沢口さんのお名前がたしか「ひろみ」さんと聞いたが、これもどういう漢字を書くのか、質問しかねた。思えばこのような現場に携わり重要な仕事をしてくださっている方のお名前をこそ確かめるべきだった。

 昔はこの植林、間伐、伐採を7、8人体勢でこなしていたそうです。それが今では4人と半減。木が4㍍以上になると、枝打ちも厳しいという。増員が求められます。

 手渡されたパンフレット「市産材を使おう!」にあるとおり、「森林は山崩れや洪水を防いだり、水や空気をきれいにする」「木材は建材や家具材となる」。いま森林は、「細い木が混み合い、昼でも薄暗く林の中は草も生えないむき出しの地面であり、こんな森林が増えると、山崩れや洪水の多発、渇水の多発を招く恐れがある」。外材に押され、木が売れなくなった、或いは売れても安値となる。森林所有者は森林の手入れをする費用を賄うことが難しくなっている。いま一番必要な森林の手入れは、木が光を得られるように木を伐ること、間伐です。

 次はバスでさらに峠道を登り、長倉峠で休憩。市提供の冷茶をいただく。霧で見晴らしはありませんでした。以下は長倉峠の花です。葛もいたるところに繁茂。よい香りを漂わせていましたが、花がすこし過ぎていました。

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今回は市の企画であるから、市産材のコマーシャルをすべきなのだが、合わせて

森林を守るために、国産材、県産材、市産材を買おう!! 


     

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蜂くん、もう葡萄はなってるよ!

  とにかく1行でも書こうとPCの前に座ったのが1時間前。それが何をどうしても、猛烈に眠い。
 こんな日は、もうPCを閉じるより他はない、そうしよう…と思いきや、

  わが恵汝に足れり


という聖句が浮かんだ。ブログを書かずに眠るも良し、きょうはこれで十分である、勝手にそんなふうに解釈する。

           

 しているうちに、そう、浮かんだのは…庭にナイアガラの葡萄がたくさんなったのだ。冷やして食べると甘くて美味しい。しかし何故なのか。毎年葡萄が熟すると、わがもの顔にやってきて、「先ずは俺さまが熟したてを頂戴」と言わんばかりにブンブン唸りながら突いていた蜂が、今年は一匹も現れない。この異常な暑さのせいなのか。そのお陰で、というか葡萄はみな理想的な美しさを保っている。
 アメリカでミツバチが一斉に姿を消したという話は去年だったろうか、一昨年だったろうか、何時であったかはっきり思い出せないのは、これは眠いからではない。
 やはり寂しい。あのうるさい元気な蜂が、ひっそりと形を、鳴りを、態を潜めてしまったのだ。おーい、どこにいるんだい? 生きているのかい? すこしは現れてくれよ! キアゲハやモンシロチョウは、ことしは俄然仲間を増やして愉快そうにひらひら踊ってる。すこしはやってきて、びっくりさせたらどうなんだい? ひ弱そうな蝶蝶たちがこんなに元気だっていうのに、まさか熱中症でどこぞへ運ばれたんじゃないだろうね。それとも何かい? ピオーネやマスカット、巨峰じゃなくて不満だっていうのかい?

 蜂たちは、一体ぜんたい、どうなっちゃったんだろう…

                        

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耐え抜く大地

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この夏は頻繁に救急車の音を聞いた。きょうは静かだ。
最寄りのスーパーに行く。店舗に入っていく人たちの動きが緩慢に見えた。
30日のフォルダに入ってしまったが、これは31日の写真。

今夜はめずらしく救急車の音がしない。
涼しい風が吹き込んでいる。

猛暑に耐え抜いた草木たちが風に揺らいでいる。
疲弊する家並みに、星がまばらに力なくまたたいている。



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