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きょうのことば ー『流された血と水』 ヨハネ伝連講(107)ー

 きのうは一日雨降りでしたが、きょうは曇り。しかし変わらずにイエスさまへの礼拝が持たれました。感謝なことです。

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さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は
説教題 『流された血と水』 ヨハネ伝連講(107)
聖書朗読 ヨハネ伝19:31~37
(青い字は聖書からの引用です)

31
 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
32
 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
33
 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
34
 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
35
 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
36
 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
37
 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。


 ヨハネ伝は、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝とは記された時期が遅いです。ヨハネがヨハネ伝を記したとき、他の3福音書(マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝)はもう人々に読まれ語られていました。そのようなときに、ヨハネが、他の3福音書を補完するために、落としてはならない事項を独自の視点から記したのがこのヨハネ伝です。
 たとえば、マタイ27:50~54に
50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。とあります。ここは、ヨハネ伝19:30には、イエスさまが「完了した。」と言われ、そして、頭を垂れて、霊をお渡しになったのですが、このように頭を垂れたときに、どのように大いなることが成されたのかを記している箇所です。
 「完了した。」、つまり贖いが成し遂げられた。隔てている幕が真っ二つに裂ける。この幕は、神殿に於ける神或いは大祭司と人々との隔ての幕のことです。成就した、というのは、神に面接する道が開かれたということです。幕は上から下に裂けましたが、普通幕が裂けるときは下から上に向かって裂けるものです。神と人とを隔てる幕が、人の手に依らずに上から裂けた、これは神の側からもたらされた御業なのです。

 マタイ27:52、53には また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。とあります。イエスの復活ののちに、聖徒たちが復活しエルサレムに現れたといっています。ここは非常に難しい部分です。書かれてあるこの通りではあるでしょう。イエスが罪の解決者として打ち勝ってくださった、その御業が確かである証拠として、既に墓に眠っていた聖徒たちが初穂の主に続いて墓からよみがえりました。
 私が神学院で学んだときも、ここは興味深い箇所でした。当時神学院にいらした河村襄先生にお訊きしますと、先生は「私にもわかりません」とお答えになりました。ああ分からなくて当然なんだな、と私は思いました。全部わからなくて当然です。ただ復活の証としてこのことが成されたことを素直に認めましょう。
 マタイ27:54で、イエスさまの右と左の十字架につけられた2人の強盗の十字架上での成り行きを間近に見ていた百人隊長が、イエスさまを「
この方はまことに神の子であった。と言った言葉は、真に厳粛に受けとめるべきです。

 ヨハネ19:31
 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。 とあります。
 ここで、2人の強盗は十字架の上でまだ生きていました。十字架刑では、長いもので3、4日生き延びたそうです。その日のうちに片づけたかったユダヤ人たちは、強盗の死を早めるために、まだ息のある2人のすねを、持っていた木槌で折ったのです。聖なる安息の日に呪われたものが磔られたままでおくわけにはいかなかった。取り外すためです。しかしイエスさまは事切れていたので、すねを折る必要がありませんでした。
 マルコ伝15:44では、総督ピラトが、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出しほんとうに死んでしまったかどうかを問い質し、確かであると確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えたことが書かれています。
 ヨハネ19:34のとおり、兵士がイエスのわき腹を槍で突き刺すと、ただちに血と水が出てきました。

 ここでユダヤの人たちの律法をみてみましょう。
旧約聖書申命記21:22、23 
もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。
 ユダヤ人たちが彼らの律法に従って、大いなる安息日、彼らの聖別された日を汚してはならないと急いで十字架からイエスさまを下ろすようにしたのです。

 ヨハネ19章にもどりますが、このような背景から、31節にあるように翌日は安息日であり、今日中に早く3人を葬りたいが、2人は生きていたのですねを折った。しかしイエスさまのすねを折る必要はなかった。
 ヨハネ伝19:34、35には、イエスさまのわき腹を刺したときに血と水が出てきたとあります。念のために兵士がわき腹を刺すと血と水が流れてきた。たしかにそれを私は見た。この私とはヨハネのことです。イエスさまが「あなたの母がいます」と言ったヨハネ、こんなにもイエスさまの近くにいたヨハネは、ほんとうに胸の張り裂ける思いでこの光景を見たはずです。死んだと確かめてから、槍を突き刺してみる、念の入った書き方をしています。なぜそこまで念を押す必要があったのか。この文の流れからすると不思議です。こだわっている。そう、こだわる必要があったのです。
 ヨハネの福音書は他の3福音書が流布されてからずっと後に書かれています。イエスさまに最も愛されたヨハネ。このヨハネは、およそ100歳まで生き、パトモス島に流され、ヨハネの黙示録という終末に関わる書簡も記しました。それはさておき、ヨハネはなぜ、たしかに私は見た、と記さねばならなかったのか。

 AD100年ごろ、福音、つまりイエスさまについては、異端であるという考え方が芽生えていました。グノーシス主義です。これは
、イエスはたしかに神なのだから、イエスは実は人として来られたのではないとする。当時は二元的な考え方であり、これは物質と霊の二元論に特徴がある。イエスは人のように見えたにすぎなく、人となったのではない。イエスが神であることをいわんがために人と見えただけで人ではない、という考え方が流布された。これに危機感を覚えたのがヨハネだった。一刻も早くこの誤った考え方の芽をつみ取るべく、ヨハネは、イエスさまが人となって来られた真の神であったこと、真の神であられるとともに真に人であられることを、いま命を長らえている証人として、これは伝えておかなければならない、真に人となられたイエスさまに槍を突き刺したとき本当に血と水が出たんだ、わたしはこれを記している、そうヨハネは念を押しているのです。
 ヨハネが懸念したことが次に書かれてあります。
ヨハネ第一の手紙4:1~3 
1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。:2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

 ヨハネが「血と水」を見た経験を念を押すように書くのは、ただにグノーシスを意識して書いたという以上に、わたしたちに大きな真理を教えてくれます。
 「血」は、旧約聖書の時代には神に近づくためには、必ず血を流さなければならなかった。子羊の血が必要だったのです。神は過越の血としてイエスさまの血を流してくださった、これをしっかり心に留めましょう。
 出エジプト12:21
 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。
 
出エジプト12:43~46 主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。44 しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。45 居留者と雇い人は、これを食べてはならない。46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。
 
イエスさまはまことの生贄、過越の子羊です。強盗は生きていたのですねを折ったが、イエスさまは死んでいたのですねを折らなかった。ヨハネ19:36には書かれている「彼の骨は一つも砕かれない。」、これはまさしく聖書の成就です。厳粛なことです。たまたま息絶えていたからたまたま折らなかったのではない、兵がたまたま刺したから血と水が流れたのではなく、刺したときに血と水が流れてきたのです。何気なく行われているかの一つ一つが緻密な神のプログラムのもとに起っている。「水が流れている」、まことの命の水はここから流れてきていることを私たちに教えています。そこから流れている血と水に私たちは与っているのです。
 成し遂げられた十字架から流れている聖霊の水を受けているお互いでしょうか。

 もう一つ指摘させていただいて締めくくりましょう。
ゼカリヤ12:9、10 
その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
 聖霊が注がれたときにはじめて、「彼(イエス)をのぞけ」といったイスラエルの人々に、
「あんなのはメシヤじゃない」と言い、イエスを拒絶し十字架につけ、槍で刺した人々に、もう一度キリストはいらっしゃる。9節の「
この日とは再臨のときのことです。そのときイスラエルは世界中の憎しみの対象となる。イスラエルが世界に拒絶され、永遠に葬り去られるかに見えた終末のときに、メシヤはいらっしゃる。このときに初めて悔い改めが起きます。拒絶したお方がメシヤだった。
 ゼカリヤ13:1
 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
 拒絶している人々には「その日」に開かれる、と言っています。しかしクリスチャンには、もうすでに聖霊によって救いが開かれています。ゼカリヤ13:1の「その日」を待つまでもなく、豊かな命の水、罪の赦しときよめをもたらす泉が、十字架のもとから流れ出ている。拒絶する人々には後のことです。しかしわたしたちには聖霊によっていま開かれている。いま贖いを信じている。罪と汚れをきよめる十字架の泉がこんこんとわき出ていることを知ることができるのです。聖霊によって聖なる泉が開かれています。

※以上は聞き書きであり、文責は当ブログ筆者にあります。

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