きょうのことば ー『完了した御業』 ヨハネ伝連講(106)ー
残暑とはいえ、真昼は太陽がぎらついていました。十字架がややもすると細く見える。しかし確かに立ち続けています。もう花は生けられ、兄弟姉妹がそれぞれに司会に立ち、2人がオルガン、ピアノに座り、そして受付に立っている。変わらずに礼拝の場が守られているというこの幸いを思います。
山上の十字架ーテッチェン祭画壇
カスパル・ダーヴィト・フリードリヒ(1774ー1840)
きょうはマザー・テレサの昇天記念日(命日)でもあります。わたしが通っている教会はメソジスト系ですが、マザーの愛がいかに神の納得をいただくものであったかを思うので、偲びたく思います。
さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会、國光勝美牧師のお話は
説教題 『完了した御業』 -ヨハネ伝連講(106)ー
聖書朗読 ヨハネ伝19:23~37(以下の青い字は聖書からの引用です)
23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫目なしのものであった。
24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。
いま私たちはイエスさまの正に十字架の場面に留まっているところです。先回はイエスさまが仰った「渇く」という言葉に心を留めさせていただきました。ひとが肉体的に最も苦痛なのは痛みではなく渇きだといいます。最も大きな苦しみを主は十字架上で味わい尽くされました。そればかりではなく、霊的にも、それまでイエスさまは生涯において一ときたりとも父なる神との交わりを絶やした事はなかった。このイエスさまの渇きというのは、神との交わりを絶やしたことのない者にとって、正に渇きであり、父なる神から捨てられた渇きであった。父なる神がそこにご覧になったのは、人間の汚い罪の凝縮であった。父なる神はそれを正視できなかったのです。
「渇く」の意味がわかればわかるほど、私たちが神の御子をして、このようにさせねばならぬほどの罪人であることを思うのです。渇きにあるイエスさまを嘲って差し出された酔い葡萄酒も主は受けられました。前回はここまでお話しました。
ここは非常に大切な場面です。この十字架の上で、イエスさまは七つの御言葉を発せられたといわれています。
①ルカ23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
②ルカ23:43 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
③ヨハネ:19:26、27 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
この時点でイエスさまの兄弟たちはまだイエスさまへの信仰を持っていなかったので、母マリヤの苦しみを慮った主は、自らの弟子ヨハネに母マリヤを託された。
④マタイ27:46「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
マルコ15:34「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」…訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
⑤ヨハネ19:28「わたしは渇く」
⑥ヨハネ19:30「完了した。」
⑦ルカ23:46「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
イエスさまは、①④では天の父なる神を「わが神」と呼んでいる。しかし、天の父の御意である贖いをことごとく成し遂げてからは、⑦のように「父よ」と親しく呼んでいます。イエスさまは贖いを「成し遂げました」と満足し呼びかけたのでしょう。
30節に「頭を垂れて」とあります。これは「枕をする」と同じ意味で使われています。
マタイ8:20に「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とあります。人の子イエスさまは神の御意を成し遂げるためにいつでも働き通しでした。イエスさまがついに枕されたところ、安息を得られたところが十字架の上だったのです。
「完了した」というこのイエスさまの御業、この御言葉に心を向けたいと思います。
ある有名な聖徒の証を読んだことがあります。彼はどうしてもきよめがわからなかった。罪が赦されるということはわかる。しかし、罪を持っているわたしが、どうしてきよめられたと言うことができるのか。これはとらえ方によっては傲慢なことだ。そうおもい暮していたとき、聖書の言葉に目が留りました。そのとき聖霊が彼の心に御言葉を啓いてくださったに違いないのですが、それは「完了した」という言葉でした。この罪ある者のために、イエスさまが贖いを成し遂げてくださった。このお方が解決をしたと仰ったからには、わたしの罪がきよめられないということがあるだろうか。神が「完了した」と言っているのに、わたしの罪がきよめられないというなど、傲慢としかいいようがない。
あなたはあなた自身で自分をきよめようと思っているのですか。神がぜんぶ出して示してくださった御愛を、「ありがとうございます」と感謝して受け入れることを信仰というのです。信仰によってきよめられるとはこういうことです。誰も行いによってきよめられる者はいません。この十字架はわたしのためですと信仰を持ったときに「完了した」は自分に適用されます。
ガラテヤ書3章では、パウロが激越なまでに福音の命を語っています。
ガラテヤ3:3「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」
ガラテヤ3:11「義人は信仰によって生きる。」
このように、救い、きよめは信仰によります。
ヨハネ19:30「完了した。」
わたしにとって、いま、みなさん一人一人にとってイエスさまの贖いは不十分ですか。もしあなたが不十分だというとしたら、それはもう一度十字架にのぼっていってあの方に釘を打ち付ける自分の罪でしょう。成し遂げられているとき、問題はわたしたちの側にあります。
わたしたちは「主よありがとうございます」といって、信じ受け入れるだけでいいのです。この世にきよめられた人などいないというのが謙遜なのか。神が成し遂げられたといって感謝してこれを受け入れるなら、そのときこそはじめて主は「完了した」と枕してくださり、安んじてくださるでしょう。
ヘブル書には、神の民になお平安が残されている。安息に向かって進むべきである。きよめの安息に向かうべきである。神の安息はこのきよさにある、と語られています。
※この説教の聞き書きの文責はすべてブログ筆者にあります。
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