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きょうのことば ーピラトの前にて 2ー

  昨日の教会のメッセージの続きです。
説教を聞いて、自分はまだまだ達成されていない、全うされていないなと思うことは多々あります。その私が、どうしてこのように平気で牧師の説教を書いているのか。こんな奴がおこがましいじゃないか、誰かへのあてつけじゃないの? そう疑問に思われる方もあるでしょう。しかしこの不完全なわたしで大丈夫。なぜか。それは聖書の中に、神のわざは弱い者のうちに全うされると書いてあるのです。欠点だらけでも用は足りる。なぜなら不足分は神様が足してくださる。この充当された分をもって神様のお力を明らかにすることができるからです。それと、このような世の中だからこそ、このような立場のものが、教会で語られた聖書のメッセージをそのまま発信するのも悪くない、そう思うからです。余談はこのぐらいにして、昨日の続きを。

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 ユダヤ人たちはイエスさまを朝早くにピラトの邸に連れてきました。
ピラトは言った
「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」。彼らはピラトにこたえた「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」「ユダヤ人の王だと主張している」。自分を王であると自称することはローマ皇帝への反逆だった。これを認めれば反逆の許容となる。31節で、ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」するとユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」。

 もしイエスを死に追いやるとき、ユダヤ人によって死刑に処せられたなら、死はユダヤ人の社会のみの出来事に過ぎず、ユダヤ人にとってのみ有効となっただろう。しかし、イエスはユダヤ人のみではなくすべての人々のための贖いを成し遂げました。敢てローマ総督、当時世界を治めている権威そのものの前にイエスを引きずり出し、ローマの権威によってイエスを死刑にすることにより、すべての人々のための贖いという意味が明確になってきます。「わたしは全世界を引きよせる」といったイエスさまの言葉には深い意味があります。 

33そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」 34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」 35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」 36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」 37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わた しが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わた しの声に聞き従います。」 38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
  彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。 39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」 40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。

 ピラトは訊きます「真理とは?」と。真理を別なことばで言い換えると「神の国に属するもの」なのです。「神の国を人々に証するため、知らせるために来た、神の国に属するものはみなわたしに従う」とイエスさまは仰います。これはニコデモの問答に通じています。「人もし新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」。イエスはまことの真理である神の国について証するためにこの世に来られた。滅び行く人間を何とか救おうとして神のひとり子が罪ある人間として送られ、罪を一身に負い神の裁きを受ける、正しく福音の真理です。イエスさまは福音の証をするために生まれ、そのためにこの世に来たのです。

 ピラトはイエスにいうのです。真理とは? 神の国とは? イエスさまが威厳をもって語られることにピラトは動揺します。聞いているうちに、このことに関わることの重大さに気づきます。ピラトの妻も「この人には関わらぬほうがいい」と忠告。ポンテオ・ピラトはたまたまキリストの受難のときのローマ総督でした。在位期間はAD26~36。ピラトは何とかイエスを許そうとします。「わたしはあの人には何の罪もみとめない」と明言。過越の祭りにひとり釈放する慣わしがあるのでイエスを釈放しないかと持ちかけるが、彼らはバラバの釈放を願い、イエスを十字架につけろ! と叫んだのです。ピラトは悪辣な男ではなかったが、ほんとうの意味で勇気をもってイエスさまに耳を傾けることができなかった。真理の前に真の勇気をもって光に従うことができない無念さを見ることができます。

※割愛した部分があります。誤り、聞き違い、文責は当ブログ管理者にありますことをご了解ください。 

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