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きょうのことば ー主イエスの十字架ー

 10時すこし前に土砂降りだった雨。しかし礼拝が始まるときには晴れ間が。いつに変わらぬ教会、しかし今日という日の今日だけの教会が開かれている。玄関に並ぶスリッパ。この姉妹が、あの兄弟が、このスリッパに、あのスリッパに足をいれて教会にあがり、思い思いの席に着く。主の慈愛が満ちている。

2010717_025_3                 「ゴルゴダ」 舟越保武

さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は

説教題 『主イエスの十字架』ヨハネ伝連講(104)
聖書朗読 ヨハネ伝19:13~21

13
 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14
 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
15
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
16
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
17
 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
18
 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
19
 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
20
 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。
:21
 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。

 きょうは終戦記念日です。65年前の「あの日」だと体験的に思い起こされる方もいらっしゃるでしょう。
 水曜の祈祷会が終わって、何気なしにテレビを点けると恩師の顔、あっと驚きました「宮川先生!」。
戦中の教え子たちが戦争とどう戦ったかのインタヴューでした。小学生だった当時、先生がクリスチャンであることを特に意識してはいませんでした。けれどもテレビを見たとき、宮川先生の担任だった子ども達が、「先生に誘われて教会に行ってきたぞ、こんなきれいなカードとお菓子をもらった」と言っていたのを思い出しました。後に私が献身し、神学校に行ったと聞いて、私の実家である理髪店に散髪に来てはお茶を飲みながら話をしていったそうです。ちょうどインマヌエル教団の竿代先生一家が松本にいた頃に、宮川先生は教会に励んでいたようです。宮川先生はいまは90歳、私が小学校のときには先生は38、9歳だったでしょう。当時「国策として新しい国土を作る」という満蒙開拓団に送り込まれた人々がありましたが、長野県は特に盛んでした。先生が「行ったほうがいい」と送り出した教え子が向こうで発疹チフスに罹り死んでしまったが。これにはいまだに心が痛むと先生は涙ぐんでおられました。
 私も22年生まれで両親は満州からの引き揚げ者です。空襲から逃れるために防空壕が学校近くにあったり土蔵が泥や墨で黒く塗られていましたし、ラジオからは絶えず戦況報道が流れているような環境で育ったので、確かにこの国には戦争があったのだという感覚があります。今朝ひろ子が教会学校で、インマヌエルの初代の蔦田二雄先生は、日本の為政者のために必ず祈っていたことを話していましたが、蔦田先生は当時共産主義に危機感をもって信仰の自由が守られるために祈っていたのです。講壇では聖書を離れた話はあまりしませんが、信仰の自由のためにはお互い真剣に祈ろうではありませんか。

 それではヨハネ19章に目を向けましょう。
 前回は「エッケ・ホモ」を中心に学びました。ユダヤ人の王であるというイエスさまへのユダヤ人の偏見、嫉妬、無知そして「十字架につけろ!」と叫ぶ凶暴さ、残虐さ。そして「この人を見よ」といったピラトに、自分のありかたがオーバーラップします。ピラトはイエスがユダヤ人の嫉妬で吊し上げられているのを知っていながら、自分のすべてを賭けて良心に従う決意ができませんでした。なにが正しいか分かっている。しかし地位、立場が危うくなると、良心を曲げて妥協してしまう、そんなことはないでしょうか。このようなことを想いながら十字架の場面へと移ってゆきましょう。

 ヨハネ19:15で祭司長たちは
カイザルのほかには、私たちに王はありません。と言います。これはユダヤ人たちが自分の良心を曲げた、自分たちもほんとうは決して言いたくはない、言ってはならない言葉でした。ピラトもイエスがご自分を王だと言う意味が一般的にいう王のことではないと知りながらイエスを十字架に付けるために彼らに引き渡しました。

 17節「
彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
 
このゴルゴダというのは…賛美歌に「カルバリ山の十字架につきて」という歌詞があります。ゴルゴダもカルバリも髑髏(どくろ)という意味です。場所がどこにあるのか。一説にはゴルゴダ・カルバリで聖墳墓教会の位置。また一説にはゴードンのカルバリの位置。いずれも地形が髑髏のような形に見え共同墓地がありますが決定的な決め手はありません。十字架処刑のあったところに十字架の木片といったような物があったとすれば、人間は弱いのでそれを神格化してしまうでしょう。ですから神の知恵により、分からなくてもいいと隠されているのでしょう。

 巡礼者がよく聖墳墓教会を訪れ金銀宝石で飾られたけばけばしさに違和感を感じるといいます。わたしたちにとって十字架は豪華絢爛なものではありません。霊的な意味のある場所なのです。十字架刑のあった場所がどちらであったか特定する必要はありません。むしろキリストの十字架によってはっきりさせたいことは、「十字架につけろ!」と叫んだ人々の中に、私の罪も入っているのだ、私の罪がイエスを十字架につけたのだという認識です。

 私が神学生だったとき、いまは三重県の津にいらっしゃる、チャーチ・オヴ・ゴッドから派遣された渡辺先生が、よく自分の母教会での十字架の話を紹介してくださいました。

 「十字架につけろ!」と叫んでいる中にも、「やめてくれ、十字架につけないでくれ」と叫んでいる自分がいる。ところが群衆の中から小男が十字架に上っていった。助けてくれるのかと思ったらハンマーでさらに釘を深く打ち込んでいる。はっと気づくとそれは自分だった。
 
心に残った例話でした。

 イエスはご自分で十字架を負ってゴルゴダに向かいましたが、ご自分で負いきれなくなったとき、ローマ兵はクレネ人シモンにイエスに代わって十字架を担がせます。当時死刑囚は自分で十字架を担がなければなりませんでした。ユダの裏切り、大祭司の裁き、弟子の三度の否定、逃げてゆく弟子達の姿。アンナス、カヤパ、ピラトへと引き回され嘲弄され、平手打ち、むち打ちにあい、自らが十字架を担いきれなくなったお疲れは如何ばかりであったか。

 イエスを真ん中に二人の罪人が十字架につけられました。イエスの十字架に掲げられた罪状は
ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」でした。
 十字架刑は、最期まで意識を保たせながら苦しめる最も残虐な方法でした。48時間も生きのびる例があるといいます。
 
罪状書きは、
ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。のです。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。にもかかわらず、ピラトはそこまでは付き合えないと答えました「私が書いたことは私が書いたのです。」と。ピラトの権威、面目を保つために言ったことだとしても、これには大きな意味がある。こいつがユダヤ人の王なんだぜ、「エッケ・ホモ」。
 ピラトが
ユダヤ人の王ナザレ人イエス。とヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かせましたが、これが世界中の人々へ、であることが象徴されている。イエスさまが世界中の人々の身代わりのために十字架を背負ったことが象徴されているのです。

 ここで私たちと十字架という関係に光を頂かなければなりません。

ガラテヤ2:20
 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、  生きているのである。」
「キリストととともに十字架につけられた」

 
十字架につけろ、と叫ばせた私たちの罪、もう一つの釘を打ち付けようとするわたしの罪がキリストとともに十字架につけられましたという信仰を持つことです。そうでなければ私たちは釘を打ち続ける性質を持ちつづけるのです。それで仕方がない、当然とする考えには同意できません。仕方がないという考えを許容していいのでしょうか。もしそうだとしたら、「十字架につけられた私」というのは一体何ですか。
 ガラテヤ5:24があります。「
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
 あの十字架に私の罪はつけられました。パウロはそう主張しているのです。
 ローマ6:6、7「
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 ここには、罪に抑圧されているとは書いていません。罪から解放されていると書いてあります。
 はじめにイエスさまに悔い改めて罪を赦していただき、次には聖めの段階にすすむために、さらに釘を打ちつけようとしている罪の性質をも十字架につけるのです。救いが分かるのに聖めがわからない筈がないのです。これは私たちの大切な基礎部分、中枢部分となりますようにお祈りをいたします。



 

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