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きょうのことば ーこの人を見よー

 けさは出発してから、忘れ物に気付き戻ったために礼拝に遅れてしまいました。しかし説教には間に合いました。この猛暑のためか加齢のためか、たぶんどちらもでしょう。神さまに対しても皆様に対しても申し訳ないことでした。ちょっと恥ずかしいので目立たないように小さく書いておきます。

2010717_030                              「 聖ベロニカ」  舟越保武 

 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会の国光勝美牧師のお話は

説教題 『この人を見よ』
聖書朗読 ヨハネ伝19:1~16

1そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」7ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの見方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

 王として出てきたイエス。ピラトはユダヤ人の訴えを逆手に取り、いばらの冠をかぶらせ、紫色の着物を着せ、見窄らしく痛々しく、嘲弄されるような形をさせて皮肉たっぷりに「この人を見なさい」といったこのとき、ピラトとしては、日頃御しがたいユダヤ人に溜飲をさげた気分だったのではないか。「さあ、この人を裁けというのか。これがこの人が言っている王さまなのか…さあ、この人です」とピラト。「この人です」はよく日本語で「この人を見よ」と訳されます。ラテン語では「エッケ・ホモ」。けさはこの御言葉に注目したいと導かれています。

 さて、わたしたち一人一人は、いばらの冠をかぶり紫の着物を着たこの男をどのように見る者であるでしょう。私たち一人一人に語りかけられた言葉であると捉えて考えてみたいと思います。官邸の外には「十字架につけろ!」という叫びがあがっています。ユダヤ人のこの卑劣な行いを自分自身にあてはめてみます。「十字架につけろ」という本音、それは嫉妬です。嫉妬に狂ったものたちの言葉です。イエスさまは神の国について教えを垂れ、5千から1万人を超える人々の空腹を満たしました。死んだラザロを蘇らせたことは彼らにとって致命的な出来事でした。断じてこの男をいかしておいてはならないのです。圧倒的な人気、賞賛を目の当たりにし、もうこれ以上放っておくわけにはいかない。ユダヤ人たちは、嫉妬、妬みに狂いました。わたしたちは心の中を探るとき、自分より有能な人、自分より用いられている人に対して、ふっと妬みが心を占有してしまうことはないでしょうか。祭司長たちにとって、イエスという男はそのような対象であった。別な見方をすれば、このユダヤ人の指導者たちはガマリエルの門下であり、田舎大工の小せがれでしかない男に、どうして教えを請わなくちゃならんのか。どこの馬の骨かも分からない者が、自分を一体何様だと思って人々に教えを説いてまわっているのか。しかも今や国中にまで広まっている。彼らは最早我慢できなくなってしまっていた。わたしたちが、家柄や学歴に目を留めて本質を見失うというようなことがありませんでしょうか。

 「十字架につけろ」の背後にあるもう一つは、彼らの傲慢さです。神学生時代、院長から教えられたことは、教えられやすい心、即ちティーチャブル・マインドであると繰り返し聞かせられました。教えられやすい心、謙って教えられやすい心をもってイエスさまの前に出ることが大切であると、しばしば語られたことを思い出します。自分たちこそアブラハムの子孫であり、自分たちこそ神に選ばれたものだという傲慢があるとき、若い教師に教えられることはない、自分たちこそ選ばれたものであると感覚が麻痺している場合があります。

 しかしこのようなことに気づいたのはユダヤ人の指導者で国政に参加する国会議員でもあるニコデモでした。このニコデモが、まだ若い名もない教師に夜こっそりやってきて、「先生、神の国にはいるには一体どうしたらいいのでしょうか」と尋ねたのです。教えられやすい心、肩書きもたくさん持っていた彼が、謙って、田舎の大工に教えを請うたのです。イエスさまが十字架に架かられた後にも、ニコデモはすばらしい働きをしています。

 「十字架につけろ!」は、私たちの心を投影しているものではないのか。自分たちは何でも知っていると思い上がり排他的になる。残虐性です。十字架を見るとき、人がいかに残虐であるかがわかります。人間がいかに残酷になりうるか。そのことを思うとき、「この人を見よ」というピラトの言葉の前に自分を吟味することができるのではないでしょうか。それからもう一つ、「この人を見よ」とピラトがいったとき、ピラト自身に私たちの姿が投影されてはいないでしょうか。

 ピラトはユダヤ人の訴えが、彼らの嫉妬によることを分かっていました。イエスに罪が認められず何とか救おうとしています。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」。7節を見ると「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば死に当たります。」。自分はこのユダヤ人に気圧されて無実のものを刑に処するというとんでもないことをしてしまうのではないか。ピラトは益々恐れまた官邸に入ってイエスに9節、10節のように問います。しかしイエスは十字架に付けられることが使命でした。ところがピラトには、十字架刑を直にみる恐れがあります。イエスを何とか釈放しようと努力しました。しかし人々はいよいよ激しく、王と自称する反逆者を赦免するつもりかと詰め寄る。ついにピラトは裁きの座に着きユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

 ユダヤ人たちはイエスを十字架につけるために、「カイザルの他に王はない」とまで言う。ユダヤ人にとって最大の屈辱は、実はローマの王をユダヤ人の王と認めることであったのだ。ピラトは最大限の屈辱をユダヤ人に与えることで自分を癒しながらイエスを彼らに引き渡したのではなかろうか。

 ピラトは正義感がまったくない人物ではなかった。それでも、あれから2000年ものあいだ、使徒信条では「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」と唱えられています。しかしこの印象ほど悪辣な人物ではない、ローマ人としては善良な方といえます。朝6時にピラトは裁きの座につきます。こんなに朝早く大挙して何事か、ということもできたでしょう。しかし彼は裁きのために出ます。悪い人間ではないのですが、しかし彼には勇気がなかった。イエスに罪を見いだせないことを知りながら、彼らの要求を退けるなら一騒動が持ち上がるなと悩んだ末に、彼はイエスを十字架に付けることを許してしまう。自分が真理と思うことを通さないでしまったのは、ただ保身のためでした。イエスさまに覚えた畏れよりも、人の怒りを買うことを恐れてしまった。このピラトの中に、自分たちの弱さを見る気がしてならない。わたしたちクリスチャンは神を恐れることを知っています。しかし、往々にして神の真理、意向よりも人々を恐れることのほうを選んでしまう。

 「この人を見なさい」

 あなたはこの人に対してどういう態度を取るか、もしピラトがこのとき、「イエスさまわかりました。あなたがわたしの王であり来るべき国の王です。」とすればどうだったか。劇的な回心を期待できなかっただろうか、そんなことを思ったときに、またこんなことをも思い出しました。

 インマヌエル綜合伝道団が千葉県船橋市から東京の丸の内に移転しようとしたときのことです。新国際ビルジング(これは三菱ビルジング地所)に入るために便宜を図ってくれた一人の有力な人物がおりましたが、この方が初代の蔦田二雄先生にこう言ったそうです。「あんたたちは不思議な人だ。我々から見れば死んでいるひとを、あんたは、いや生きている、生きていると言うと本当にそれが生き返るんだよね」。新国際ビルジングをまだ数十人の人が借りたいと言ってきているときに、この方が、インマヌエルで借りられるようにしてくださったのでした。蔦田先生はこの人をクリスチャンに導こうとしたのですが、この方は言ったそうです「先生が仰るようにわたしがほんとうに罪を洗いざらい告白したら、日本がひっくり返っちゃうんですよ」。戦後、日本の中枢に居て、日本を動かす闇の部分をも知っていた人物でした。先生は言ったものです「ほんとうに悔い改めるには偉くなりすぎちゃ駄目だ」と。

 このローマ総督が本気で悔い改めたなら少しは変ったかもしれないと思わせられます。わたしたちはピラトからほんとうの正しい選択とは何かを考えさせられます。人の面子、人の都合を恐れるあまり、神をおそれるよりも、そっちを取ってしまうとき、あなたはピラトのような状態を選択しているのです。

「この人を見よ」

 たえず心に留めたい言葉です。いばらの冠をかぶり、紫の衣を着せられ、「父よ彼らを赦したまえ、その為すところを知らざればなり」と祈られたそのお方の前にしっかりと身を置いてこのお方を見続けようではありませんか。

 最後にヘブル12:2を開いて締め括りましょう。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

エッケ・ホモ

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