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きょうのことば ー聖書に見る十字架の影ー

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このブログでは、インマヌエル盛岡キリスト教会の國光勝美牧師の説教をできるだけ忠実に掲載しています。

説教題  『聖書に見る十字架の影』ー伝道礼拝ー
聖書朗読 第一ペテロ1:18~21
18
ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19
 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
20
  キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。
21
 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

 きょうは伝道礼拝でもあり、ヨハネ伝連講をひとまず措いて、第一ペテロから聖書の十字架を捉えてみましょう。
 世の中にはシンボルマークというものがあります。組織や団体を象徴するマークです。クリスチャンにとっては十字架がそれです。世界中の人々に十字架が何を表わすかと問えば、「あっ、これはキリスト教だ」と答えるでしょう。ショックだったのはこれを知らない人々がいることです。たとえばイスラムの国の方々。国の教育、文化、社会から一般的には知る機会がありません。ですから十字架を見てもキリスト教とは結びつきません。
 世界のどこにでも通じるシンボルマークの一つはどうもコカ・コーラであるようです。未開の地でも誰でもが知っています。十字架よりも、です。余談はさておき、キリストと言えば福音の十字架です。これが無ければ教会ではありません。そのような意味で、きょうは十字架に心を向けたいと思います。

 生贄(いけにえ)という言葉は十字架とは切り離せません。
一般的に生贄をどう理解しているか。中南米の古代文明の一つであるアステカ文明では、太陽神信仰と生贄の儀式が盛んに行われ、神の永遠の加護を願って、人間の心臓と血が神に捧げられていました。これは現在のメキシコシティーです。またここから50キロ北にあるマヤ文明後期のテォティワカン遺跡の太陽のピラミッドからは生贄の人骨が多数発掘されています。古代の宗教では当たり前のように生贄が捧げられていました。この不気味な行為には嫌悪感さえ感じられます。心臓が捧げられるなんて未開の野蛮な宗教だと。このような習慣は私たちの宗教とは無縁だと思われるでしょう。十字架はいまではアクセサリーともなっていますが、その形も洗練され恰好がいい。私たちが信じる十字架と未開の野蛮な宗教とはまったく違うと思われても当然ですが、実は、キリスト教ほど血と不可分な宗教はないのです。きょうはここのところに焦点を合わせてみましょう。

 第一ペテロ1:18、19にあるように、わたしたちが虚しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物によるのではなく傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのだと。即ち、私たちは代価を払って買い戻されたのだが、その代金とは、何れは朽ちてしまう金、銀のような地上的なものではなく、神であるキリストの血を代価として買い取られたというのです。
 第一コリント6:20には贖われたものへの勧めですが「
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」とあります。
 罪と滅びの虜となっていたわたしたちは、イエスさまの血という代価で解放されました。

 もう一つ、旧約聖書の創世記22章があります。アブラハムとたった一人の息子イサクが登場します。十字架の影は、およそ紀元前2000年前に書かれたこの章からも見ることができます。(青字は聖書からの引用です)
1
 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
2
 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3
 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4
 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5
 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7
 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8
 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
9
 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10
 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11
 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13
 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
15
 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで
16
 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたがこのことをなし、あなたの子あなたのひとり子を惜しまなかったから
17
 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
18
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
 
イエスさまはご自分で十字架を背負われましたが、イサクは自分を焼くためのたきぎを背負わされました。
 イサクはモリヤの山に礼拝に行くということだけを知っていました。そこで疑うこともなく、火とたきぎはあるがいけにえに使う子羊がないですね、と訊く。アブラハムは、「神ご自身が全焼のいけにえを備えてくださる」と答えます。
 ヨハネ伝の連講でのピラトの言葉が想起されます。彼が罪状書きに「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いたとき、ユダヤ人たちは不服をいいましたが、ピラトは「私が書いたことは私が書いたのです」即ち私が書いたのはその通りにしなさい、ということなのでした。それはそのままに、とピラトが言ったことは、ピラトが思っている以上の意味あることでした。それは結果的に神の思し召し通りだったのです。
 このときのイサクの年齢はたきぎを背負ってあるけるほどの歳、恐らく少年だったでしょう。イサク中心の学びではないので簡単に触れると、イサクは人と争わない、自分の権利を主張せず、相手に道を譲る従順で心根が優しい人物でした。それだけに考えさせられてしまいます。このとき、アブラハムは口数も少なくなり、イサクの顔もまともに見られなかったのではないでしょうか。イサクの手を握りながら、「全焼の生贄はどこにあるのか」と訊かれたときのアブラハムの想いを察してください。このときイサクは自分がどうしなければならないか察しないはずがない。縛られてたきぎの上に身を横たえたとき、逃げようと思えば逃げられたでしょう。自分が生贄となると知ったときに、イサクは自らたきぎに上がったに違いありません。これをイエスさまに重ねることはできませんか。天のおとうさまの心根をわかり自ら十字架を背負って贖いを成し遂げたイエスさま。
 アブラハムが息子を屠ろうとしたそのときに、神は代わりの羊を与えました。
 アドナイ・イルエ(主の山の上には備えがある)
正しく主は、イサクの代わりにやぶに角を引っかけている一頭の雄羊を与えてくださったのです。アブラハムが、まさに心臓に刀を突き立てようとしたそのときに、「待て」と。
 このときから2000年経ったとき、神は、ほんとうの生贄を備えてくださいましたが、それがイエスさまなのです。
 ヨハネ1:29
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
 
神が生贄の子羊を備えてくださった。神ご自身が私たちを罪、死、滅びから解放するために金、銀のような安っぽいものではなく、神の御子イエスご自身を備えて、私たちの命の代償とし、贖いを為し遂げました。
 イサクのときには天から「待て」と声がかかりました。しかしカルバリの十字架のときには、その声はかかりませんでした。
「事終われり」
聖書朗読の箇所である第一ペテロ1:18~21にあるとおりです。私たちの信仰と希望はすべてこの神にかかっているのです。

 一つ例話で締め括ります。
 およそ20年前にこの教会で一緒に礼拝を守った兄弟がいます。ブラジルから歯学部に学びにきていたのです。この兄弟がブラジルの教会学校で経験したことです。
 教会学校のキャンプで牧場に行きました。子どもたちが羊と楽しくあそんだ後で、先生が十字架のお話をしました。子ども達が遊んだ羊を一匹連れてきていたそうです。
 イエスさまは神の子羊として罪あるわたしたちのために犠牲の血を流したお陰で、私たちは救われたのです。そう言って先生は子羊にナイフを刺したといいます。縛られて横たえられている羊を、先生がナイフで殺そうとしたとき、羊の目から涙が出たそうです。先生は言いました「みんな、可愛そうだろ、だけどね、神様がその一人子を本当に殺してくださったんだ」

18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19
 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

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