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きょうのことば ー聖書の成就・十字架ー

 T字路で50㏄のブレーキをギッカリとかける。きょうも暑い。しかし塀から垂れ下がる樹木たちの腕には夏に疲弊した幾千、幾万の手、手、手が垂れ下がっているかだ。どこか渇いているかでもある。今一度拳をにぎり、空にびっと伸びるには伸ばすには、水。
 関節の屈折の谷には数え切れないほどに夥しい木の実。青い青い木の実。先いそぐ茶色の木の実。葉叢の繊細な窓という窓には、どんと据えられた乳白色に光る入道雲。
 10時頃、「あまつ真しみず」の讃美歌が心にかようままに教会に到着。
あまつ真しみず流れきて/あまねく世をぞうるおせる/長く渇きしわが魂も/くみて命にかえりけり

2010717_023_2
             「ゴルゴダⅡ」 舟越保武(岩手県立美術館蔵)
さてインマヌエル盛岡キリスト教会の国光勝美牧師のきょうのお話は

説教題 『聖書の成就・十字架』ーヨハネ伝連講(105)ー
聖書朗読 ヨハネ伝19:13~30

 13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
15
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
16
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
17
 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
18
 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
19
 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」書いてあった。
20
 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。
:21
 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
22
 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
23
 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫目なしのものであった。
24
 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
25
 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26
 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
27
 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28
 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
29
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
30
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。


ー先週の復習は割愛しますー
さてイエスさまが十字架に付けられたその真下では、いったい何が行われていたでしょう。23節にあるようにローマ兵たちは、イエスさまの着物をはぎ取り4分し、下着は縫い目のない一枚物なので誰が取るかくじ引きをしたというのです。イエスさまが罪の解決をしてくださろうという、この神の御業がなされている厳粛なところで、一番近いところでギャンブルが行われていました。癒しがたいほどの非人間性、堕落し本能の趣くままに行動する姿です。「十字架につけろ」と叫んでいる人々にも罪の姿はありますが、こちらは、物欲で賭事を当たり前のようにしている人間の本質を見ることができます。真剣さ厳粛さを受けとめられないほどに、人は無感覚になります。厳粛さの中にあってそれを感じることができない、これほど恐ろしいことはないでしょう。
 マルコ伝5章には、群衆に囲まれて身動きが取れないようなときに、癒されたい一心で必至になってイエスの衣にさわった女がいました。しかしそれとは反対に近くに居りながらイエスさまの恵から遠く離れてしまっている人々の姿を見ることができます。
 このように、24節、28節といった一連の記事からも聖書の予言が次つぎに成就されていったことをしっかり心に留めなければなりません。
 詩篇22:18には受難のメシヤが予言されています。「
彼らはわたしの着物を互いに分け合い、私の一つの着物をくじ引きにします
 このように昔から語られている予言の通りです。主の十字架は予言されていたとは驚くべきことです。くじ引きにされたイエスの下着は一枚物。大祭司の着物がまさしくこれでした。イエスは正しく大祭司として神と人とをとりなすために十字架に架かられました。
 ルカ23:33
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
 大祭司としてイエスさまは、人間の一番汚いところ、物欲、ギャンブルに身を持ち崩している人々のため、十字架に架けろと叫んでいる人々のために34節のように「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と正しく大祭司として祈っています。

 ヨハネ伝19章に帰りましょう。
ヨハネ19:25から
、十字架のそばには、イエスの母マリヤとマリヤの姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていました。そばに立っている愛する弟子とはヨハネのことです。ヨハネが書いているのですが、イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。のでした。主の人間的な情愛の細やかさが分かります。この直前までは暗黒の部分でした。しかしイエスさまの配慮にほっとします。この場にいた女性達はみな素晴らしい人物でした。女性を人数には入れなかったこの時代にあって、真実にイエスを愛し付き従い、最期まで十字架の傍にいたこの女性たちの輝きは眩しいばかりです。

 そしてきょうはもう一つ
 ヨハネ19:28
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 詩篇22:15「私の力は土器のように、かわききり、私の下は上あごにくっついています」

 詩篇69:3「私は呼ばわって疲れ果て喉が渇き、」
 詩篇69:21「彼らは私の食物の代わりに苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」
 ヨハネ19:28
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 ヨハネ19:29
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 「わたしは渇く」とイエスさまはおっしゃいました。忘れられないことですが、昔、インマヌエルの丸の内教会の講壇で、人間の受ける苦痛の最も激しいものは、痛みではなく、渇きである。「渇き」の極限的な辛さ。

 もう一つ、渇きには肉体的な渇きと霊的な渇きがあります。
イエスさまは、ヨハネ伝4章で、サマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください。」と言われたところ、女は「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と訊く。ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。イエスは答えて「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」という。そして、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」とお答えになる。

 十字架上で「渇く」と仰ったイエスさま。人類のことごとくの罪業を背負ったときに、天の父なる神との関係は断たれました。神から離れた人間は渇くのです。このときイエスさまは、マルコ15:34「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と仰いました。イエスはこのとき、人類のすべての罪を背負ったがゆえに、命の源である父なる神から断たれたのです。親しく「お父様」と呼んでいたはずが、離れて「わが神」という言葉で呼んでいます。
 このイエスさまの渇き。そのあとで、

ヨハネ19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
 「完了した」。この言葉は、「人が休むときに枕をするところ」と同じ言葉が使われています。天のお父様から託されたすべてのことを成し遂げて、わたしはようやく枕することができます、すべてを成し遂げましたということです。
 イエスさまは贖いのすべてを成し遂げられました。

※きょう教会で聞いた説教をメモをもとに興しています。聞き落とし聞き間違いがある場合もあります。お許しください。文責はすべてブログ筆者にあります。

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