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2010年8月

猛烈に暑かった

  8月の最終日。連日35度、或いは場所によっては37度に炒られての一月は長かった。別段日焼け対策を取らなかった腕、手の甲はコーヒー豆の色となった。「働く手だね」という“お墨付き”まで頂いている。
 ブログは毎日更新と心がけたが、12日は書いている間に日付が翌日になってしまった。14日は載せる資料をスキャナに掛けたまでは良かったが、0時に15分前に保存を押したところが入っていかない。慌てたが何と、翌日となるまでログインできない事態となった。それが日曜にあたり、礼拝記事のまえに、別な記事も載せたくないというわけで、そのまま就寝。斯くしてカレンダーの欠番は2コとなってしまった。こうなってみると、カレンダー完投に意味があるのかどうか。しかし、毎日更新と心がけたからこそ、駄文であれこれだけ書くことができたという側面もある。どうあるのが望ましいかはわからない。

 とにかく多忙な8月だった。長い8月だった。猛暑にすっかりしてやられた8月だった。いま涼しい風が吹き込んでいる。

 この月最終のきょう、午前9時には申し込んでいた耐震診断(今回は市からの補助があるというので申し込んでみた)の市の業者の方が二人見えた。掃除苦手の付けがどんと。朝早くからおおわらわ。築後30年、少なくともあと30年は持たせたい家屋の診断である。1がまったく問題ない評価というが1には届かなかった。ただ、土台など立て付けは古いながらもまずまずらしい。外観はくたびれリホームのセールスが着目している家屋ながら、構造はまだ住めるという結果に。

 午後からは巣子の喫茶「ぼくらの理由」に。詩の喫茶店だ。主人は間違っても喫茶店に行くひとではない。その主人のサービスからの思いつき。こう暑くては原稿書き(今回は童話を綴っているのだが)も厳しいので行くことに。四十四田ダム経由を取る。見事な積乱雲だ。

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 喫茶「ぼくらの理由」に着くと店舗まえの花壇に青い朝顔がきれいに咲いている。ことし我が家のこれと同じ朝顔は3輪咲いたきり、もう咲く気配がない。猛暑の影響か。

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 先頃亡くなられた季刊詩誌「レアリテの会」の主宰者西一知さんの写真が飾られてあった。ピアノをダイナミックに弾かれる方だった。教員をしていた時代もあったようだ。1時間ばかりアイスコーヒーを飲みながら大坪さんと歓談。西さんの遺志は大坪さんが継いでいる。

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  4号線平安閣付近。4車線の写真を車に重量感を持たせて撮っておきたいと思いつつ撮りかねていたのだが、路上からではやはりこれが限度なよう。

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帰宅してまもなく滝のような雨と雷。小屋を激しく打ち叩く雨足。これも1時間ほどで晴れ間と。
きょうは震度1程度の地震もあった。地は揺れ日射も強烈、雨も強烈。そういえば昼近く、2人の消防署員の方が、各戸を回って、熱中症で運ばれる人が多いと注意を促していた。それと火災報知器取り付けの勧告。

 このような異常気象にあっても、仰げばイエスさまという天のシェルターがあることに感謝!!

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最後にのこるものは

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きのう実家から持ち帰った写真。小さな家の小さな花壇。ツツジや皐月が咲くと、「まず見に来て」と母から電話があったものだ。

 昨日の午後、久しぶりに空き家となった実家に行ってみた。亡き母のものが、まだほとんどそのままになっている。管理している兄弟から何でも要るものがあったら取りに行って欲しいと言われていたのだが、教会のバザーにならと思い切ったのだ。牧師夫人にもお願いして一緒に来ていただいた。どんなものが役立つか一緒に見ていただくためだ。バザーの収益金はすべてアフリカの病院に送られる。

 衣類に関していえば、母は背があまり高くなく、人工透析を受けるまでは痩せているほうではなかった。子育て真っ最中は自分のものはほとんど買わなかった。みな社会に出て、経済的に幾分楽になってから、子育て中の我慢の反動のように洋服を買っていた。子どもからプレゼントされた洋服も含めてまずまずの数である。
 ただバザーで人様に売るとなれば、審査を潜るには難ありが続出した。何とか選定したものを袋につめこんだ。果たしてこれを欲しいと思ってくださる方があるかどうか。

 酷暑が続いた昔の家は、蒸れかえっていた。ほんとうはいちばん近くあったわたしが、もっときちんと整理しておくべきだったのだが…。いる間中、汗がだらだらと流れた。
 小さな引き出しの中にくるみのループタイが入っていた。他に石のループタイもあるのだが、なぜか父はよくこれを使っていた。花巻市にある釜淵の滝を歩いたのが最期の父との散策だったが、そのときもこのループタイをしていた。
 テーブルの上には写真帳などが入った箱が置かれていた。孫たちの写真が何冊も入っている。わたしはその中から自分の子どもたちが映っているものを抜き取った。
 管理している兄弟は何れは、といってもかなり先のことになるのだろうが、この家は解体することになると言う。わたしは独身時代を、嫁ぐまでこの家で両親とともに暮した。どこにでも家から通うのが一番安心で安全だと思っていた。二階には私の本やレコードがまだ置いてある。私がここで暮したことがあるという痕跡だ。隣の部屋にいた弟が北海道に出てからは、わたしは二部屋を占有していた。
 こうした時の流れは、かつて私が使ったものの中にはなく、これらのものすべては今でも私の心の記憶の中にあって時を流れ込ませている、そんな感じがした。やはり物ではない。まして人のたどり着くところに物が何の役に立つというのか。
 わたしはあけ放った廊下の戸を閉め、カーテンを閉じて、幾ばくかを車に積み、また元のように玄関に鍵をかけた。

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きょうのことば ー聖書に見る十字架の影ー

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このブログでは、インマヌエル盛岡キリスト教会の國光勝美牧師の説教をできるだけ忠実に掲載しています。

説教題  『聖書に見る十字架の影』ー伝道礼拝ー
聖書朗読 第一ペテロ1:18~21
18
ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19
 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
20
  キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。
21
 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

 きょうは伝道礼拝でもあり、ヨハネ伝連講をひとまず措いて、第一ペテロから聖書の十字架を捉えてみましょう。
 世の中にはシンボルマークというものがあります。組織や団体を象徴するマークです。クリスチャンにとっては十字架がそれです。世界中の人々に十字架が何を表わすかと問えば、「あっ、これはキリスト教だ」と答えるでしょう。ショックだったのはこれを知らない人々がいることです。たとえばイスラムの国の方々。国の教育、文化、社会から一般的には知る機会がありません。ですから十字架を見てもキリスト教とは結びつきません。
 世界のどこにでも通じるシンボルマークの一つはどうもコカ・コーラであるようです。未開の地でも誰でもが知っています。十字架よりも、です。余談はさておき、キリストと言えば福音の十字架です。これが無ければ教会ではありません。そのような意味で、きょうは十字架に心を向けたいと思います。

 生贄(いけにえ)という言葉は十字架とは切り離せません。
一般的に生贄をどう理解しているか。中南米の古代文明の一つであるアステカ文明では、太陽神信仰と生贄の儀式が盛んに行われ、神の永遠の加護を願って、人間の心臓と血が神に捧げられていました。これは現在のメキシコシティーです。またここから50キロ北にあるマヤ文明後期のテォティワカン遺跡の太陽のピラミッドからは生贄の人骨が多数発掘されています。古代の宗教では当たり前のように生贄が捧げられていました。この不気味な行為には嫌悪感さえ感じられます。心臓が捧げられるなんて未開の野蛮な宗教だと。このような習慣は私たちの宗教とは無縁だと思われるでしょう。十字架はいまではアクセサリーともなっていますが、その形も洗練され恰好がいい。私たちが信じる十字架と未開の野蛮な宗教とはまったく違うと思われても当然ですが、実は、キリスト教ほど血と不可分な宗教はないのです。きょうはここのところに焦点を合わせてみましょう。

 第一ペテロ1:18、19にあるように、わたしたちが虚しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物によるのではなく傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのだと。即ち、私たちは代価を払って買い戻されたのだが、その代金とは、何れは朽ちてしまう金、銀のような地上的なものではなく、神であるキリストの血を代価として買い取られたというのです。
 第一コリント6:20には贖われたものへの勧めですが「
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」とあります。
 罪と滅びの虜となっていたわたしたちは、イエスさまの血という代価で解放されました。

 もう一つ、旧約聖書の創世記22章があります。アブラハムとたった一人の息子イサクが登場します。十字架の影は、およそ紀元前2000年前に書かれたこの章からも見ることができます。(青字は聖書からの引用です)
1
 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
2
 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3
 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4
 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5
 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7
 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8
 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
9
 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10
 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11
 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13
 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
15
 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで
16
 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたがこのことをなし、あなたの子あなたのひとり子を惜しまなかったから
17
 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
18
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
 
イエスさまはご自分で十字架を背負われましたが、イサクは自分を焼くためのたきぎを背負わされました。
 イサクはモリヤの山に礼拝に行くということだけを知っていました。そこで疑うこともなく、火とたきぎはあるがいけにえに使う子羊がないですね、と訊く。アブラハムは、「神ご自身が全焼のいけにえを備えてくださる」と答えます。
 ヨハネ伝の連講でのピラトの言葉が想起されます。彼が罪状書きに「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いたとき、ユダヤ人たちは不服をいいましたが、ピラトは「私が書いたことは私が書いたのです」即ち私が書いたのはその通りにしなさい、ということなのでした。それはそのままに、とピラトが言ったことは、ピラトが思っている以上の意味あることでした。それは結果的に神の思し召し通りだったのです。
 このときのイサクの年齢はたきぎを背負ってあるけるほどの歳、恐らく少年だったでしょう。イサク中心の学びではないので簡単に触れると、イサクは人と争わない、自分の権利を主張せず、相手に道を譲る従順で心根が優しい人物でした。それだけに考えさせられてしまいます。このとき、アブラハムは口数も少なくなり、イサクの顔もまともに見られなかったのではないでしょうか。イサクの手を握りながら、「全焼の生贄はどこにあるのか」と訊かれたときのアブラハムの想いを察してください。このときイサクは自分がどうしなければならないか察しないはずがない。縛られてたきぎの上に身を横たえたとき、逃げようと思えば逃げられたでしょう。自分が生贄となると知ったときに、イサクは自らたきぎに上がったに違いありません。これをイエスさまに重ねることはできませんか。天のおとうさまの心根をわかり自ら十字架を背負って贖いを成し遂げたイエスさま。
 アブラハムが息子を屠ろうとしたそのときに、神は代わりの羊を与えました。
 アドナイ・イルエ(主の山の上には備えがある)
正しく主は、イサクの代わりにやぶに角を引っかけている一頭の雄羊を与えてくださったのです。アブラハムが、まさに心臓に刀を突き立てようとしたそのときに、「待て」と。
 このときから2000年経ったとき、神は、ほんとうの生贄を備えてくださいましたが、それがイエスさまなのです。
 ヨハネ1:29
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
 
神が生贄の子羊を備えてくださった。神ご自身が私たちを罪、死、滅びから解放するために金、銀のような安っぽいものではなく、神の御子イエスご自身を備えて、私たちの命の代償とし、贖いを為し遂げました。
 イサクのときには天から「待て」と声がかかりました。しかしカルバリの十字架のときには、その声はかかりませんでした。
「事終われり」
聖書朗読の箇所である第一ペテロ1:18~21にあるとおりです。私たちの信仰と希望はすべてこの神にかかっているのです。

 一つ例話で締め括ります。
 およそ20年前にこの教会で一緒に礼拝を守った兄弟がいます。ブラジルから歯学部に学びにきていたのです。この兄弟がブラジルの教会学校で経験したことです。
 教会学校のキャンプで牧場に行きました。子どもたちが羊と楽しくあそんだ後で、先生が十字架のお話をしました。子ども達が遊んだ羊を一匹連れてきていたそうです。
 イエスさまは神の子羊として罪あるわたしたちのために犠牲の血を流したお陰で、私たちは救われたのです。そう言って先生は子羊にナイフを刺したといいます。縛られて横たえられている羊を、先生がナイフで殺そうとしたとき、羊の目から涙が出たそうです。先生は言いました「みんな、可愛そうだろ、だけどね、神様がその一人子を本当に殺してくださったんだ」

18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19
 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

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待たれる 佐渡裕&ベルリン・フィル

011_2  今朝台所にいると、「佐渡裕(ゆたか)」「ベルリン・フィル」といった言葉が耳に飛び込んでくるではないか。見るとNHK「おはよう日本」に佐渡裕登板。2011年5月20日(金)・21日(土)・22日(日)の3日間のベルリン・フィル定期公演で振るという。演奏曲目は、故・武満徹作曲『フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム』、ショスタコーヴィチ作曲『交響曲第5番』

 このことを知り、初めて経歴なぞを引いてみれば、1961年生まれ。京都市の人。京都市立芸術大学の、意外にもフルート科卒だった。大学在学中に指揮活動開始。小澤征爾、レナード・バーンスタインに師事。バーンスタインのアシスタントを経て1989年ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。「1万人の第九コンサート」や「ヤング・ピープルズ・コンサート」などで活動。現在(財)兵庫県芸術文化協会芸術監督(音楽)に就任、と簡略にはこうなっている。

 わたしが佐渡裕を初めて聴いたのは、2008年5月だった。阪神・淡路大震災犠牲者追悼演奏曲も収録されている勿論DVD
「〈佐渡の第九〉兵庫熱狂ライヴ」。エネルギッシュな振りだ。その日のブログに私はこう書いている。「終章の最後部分を振っている画面の佐渡裕を見つめているうちに、一瞬佐渡裕がヴェートーヴェンに見えてしまいました。」と。

 その後はまたテレビで拝見。2009・6 辻井伸行さん(20)が第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクール(米)で優勝したとき。

 勿論ドイツにまでは聴きに行くのは無理。しかしながらベルリン・フィルに果たしてどんな日本の感性、日本の血を通わせてくれるかが楽しみ。と書きPCの電源を切ってから思った。世界最高峰のベルリン・フィルが佐渡氏のどこをどこまで受け入れるかなぞといった穿った見方をするよりは、国を超えて紡ぎ出され織りなされる音を楽しみにしようと。というわけで、また電源を入れ、このように書き足しました。 

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エルマン氏大音樂演奏會曲目ー大正10年2月 帝國劇場ー

 ミッシャ・エルマンの演奏会プログラムをこのブログに載せようとしたことがありました。ところが、ネットを回るうちに掲載されているHPを見、意味があるのかと思いました。それと20年前にコピーを取った時点では、カラーコピーが一枚数百円と高価であり、また、まさか20年後に自分がこのようにブログを公開すると予測できなかったので、自分さえわかればいいと、白黒で取ったのでした。実物の模様は朱色です。ただ、さるHPでは表紙だけの公開であったので、いま思い直し、ここに掲載することにしました。
 (1)~(3)が一枚続きの表紙側、(4)~(6)が一枚続きで内側。これが表裏となっていて三つ折りになっています。

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マザー・テレサ ー2010のいまに輝くー

きょうも見事に発達した積乱雲。でんと建ったビルでさえ敵いそうにありません。
豪雨、猛暑…。異変の体感。厳しい兆しが。

 唐突ですが
「10日、世界各地で異常気象や自然災害が多発しているが、人類による環境破壊が原因と見られる災害が増加しており、国連の専門家が「自業自得だ」と指摘した。…」(Record China)             

 世はどんなに厳しく流れるとも、これもまた唐突ですが
 「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(コリント第一の手紙13:13)。

マザー・テレサの愛はいまに私を慰めています。きょうはマザー・テレサの誕生日です。

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私は、社会に望まれず、
         愛されず、
         顧みられていないと感じるすべての人々、
         社会の負担となって
         みんなから避けられている人々、
         お腹をすかせている人々、
         障害者、盲人、ホームレスなど、
         こういう人々の名において
         ノーベル平和賞をうけることを、
         ありがたく思っています。
            ーマザー・テレサー

ふさわしい写真がないので、すこし大きすぎると思いつつ愛蔵版をそのままスキャナを潜らせました。

 「こういうものにわたしはなりたい」とは当地の有名な詩人の一節ですが、自らの至らなさを並べれば、「こういうものにわたしがなる自信がない」「こういうものにわたしはなれそうもない」…とつづくのです。生涯貧しい人の思いを忘れないために清貧を選んだマザー。その選択の偉大さを思います。

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雑感

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 この画像は実態を掴みきれていません。実物の雲はロッククライミングできそうなくらい硬質で透明感がありました。登りたくなるようなそんな雲でした。悪いのはカメラ? いいえ、技術、腕の方です。

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 ピンク色の彼岸花です。咲きはじめは幾分くすんでいましたが、今はこんなにきれいに。もし茎の部分もきれいに撮れたならイエスさまにささげたでしょう。

 日中は33度と“感じ”で測定。23時近いいまは24度。さきほど涼しい風が吹き込んでいたのが、いまはぴたりと。

 「天気図」編集長立川さんの恐い?顔がいま浮かんだ。
「8月末締め切りの原稿、書いてます?」
「んぐ…」

 ホッグ・ウッド、音の食い込みが抜群。バロックはやはりこの演奏にかぎるのかも。行き着くところはやっぱりバロックなのかも。

 

 



 

 

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またまた16日の新庄墓園の写真ですがー

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 きょうはとにかく眠い。写真の一枚も載せてとパソのお蔵(C)やら(D)を探し回ったところが、あららら、整理のし過ぎで写真が半減どころか、3分の1ほどに激減。やっと16日に撮った3枚を引っ張り出してみました。

 木立にきのこはないかと芝生に目を近づけながら歩くと傘がグリーン色がかった一本が。ほんとうは誰かが蹴飛ばしたか、手で傘を引っ張ったかで、無惨にも頭と胴体が分れて転がっていたのを、在りし日の美しき面影を遺すために修復、このきのこの無言の要望と折り合うぐらいにはきれいに撮ったつもりです。

 ほんとうは、わたしを受け入れてくれる某呉服店のMさんや、やはりわたしに見切りをつけないでいてくれるT子さんが見せてくれた映画「おくりびと」のことも書きたかったのですが…。

 きょうは何をした? を書くのが日記というものなのでしょうが、火曜日に限らずが私の行動を知っているのは主人。日々脳細胞がこぼれ落ち記憶が彼方に飛ぼうとも、あの時どこに行ったっけ? と聞けば明らかに。ブログを書きながらも、遡れば曖昧なことも多い。しかし主人の手帳に書き込まれてあるというこのことが、いまになってこうも有り難いことになるとは!

 いやはや歳はとりたくないものです。

 いやはや歳のせいにはしたくないものです。

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ゆるやかな時の流れ

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 ひと月も前の写真です。すーっと引込まれ掲揚されて上空に瞬時ところを得た水滴に潤されるような錯覚を持ちます。

 ここのところずっと樹下に置いた椅子にかけてぼんやり。高い松の木を見あげ葡萄の蔓を見、テーブルの傍近くに移動させた観葉植物を眺めしながらコーヒーを飲んでいます。せいぜい1、2杯。パソコンから離れ、TVを離れ、もっともTV離れは12年前に完了していますが。この猛暑に一歩も二歩もゆずってしまいました。

 墓参のときに気づいたのですが、岩山のまともに日を浴びる浄水場付近の道路と、山を登り切り若干下ったところの林にある動物園付近の道路では気温が2度違うのです。樹木の恩恵は2度。その他の要因もいくらかはあるかもしれませんが。
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 日夜地球の隅々まで、もしかすれば未確認の星が、この地上を逐一傍受しているかもしれない今にあって、すっきりとそこから離れ、ラン、無線ランもないところで、ただ草花や虫や鳥と過ごすのも悪くはない。非日常の時間の流れがある。
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きょうのことば ー聖書の成就・十字架ー

 T字路で50㏄のブレーキをギッカリとかける。きょうも暑い。しかし塀から垂れ下がる樹木たちの腕には夏に疲弊した幾千、幾万の手、手、手が垂れ下がっているかだ。どこか渇いているかでもある。今一度拳をにぎり、空にびっと伸びるには伸ばすには、水。
 関節の屈折の谷には数え切れないほどに夥しい木の実。青い青い木の実。先いそぐ茶色の木の実。葉叢の繊細な窓という窓には、どんと据えられた乳白色に光る入道雲。
 10時頃、「あまつ真しみず」の讃美歌が心にかようままに教会に到着。
あまつ真しみず流れきて/あまねく世をぞうるおせる/長く渇きしわが魂も/くみて命にかえりけり

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             「ゴルゴダⅡ」 舟越保武(岩手県立美術館蔵)
さてインマヌエル盛岡キリスト教会の国光勝美牧師のきょうのお話は

説教題 『聖書の成就・十字架』ーヨハネ伝連講(105)ー
聖書朗読 ヨハネ伝19:13~30

 13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
15
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
16
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
17
 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
18
 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
19
 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」書いてあった。
20
 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。
:21
 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
22
 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
23
 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫目なしのものであった。
24
 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
25
 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26
 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
27
 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28
 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
29
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
30
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。


ー先週の復習は割愛しますー
さてイエスさまが十字架に付けられたその真下では、いったい何が行われていたでしょう。23節にあるようにローマ兵たちは、イエスさまの着物をはぎ取り4分し、下着は縫い目のない一枚物なので誰が取るかくじ引きをしたというのです。イエスさまが罪の解決をしてくださろうという、この神の御業がなされている厳粛なところで、一番近いところでギャンブルが行われていました。癒しがたいほどの非人間性、堕落し本能の趣くままに行動する姿です。「十字架につけろ」と叫んでいる人々にも罪の姿はありますが、こちらは、物欲で賭事を当たり前のようにしている人間の本質を見ることができます。真剣さ厳粛さを受けとめられないほどに、人は無感覚になります。厳粛さの中にあってそれを感じることができない、これほど恐ろしいことはないでしょう。
 マルコ伝5章には、群衆に囲まれて身動きが取れないようなときに、癒されたい一心で必至になってイエスの衣にさわった女がいました。しかしそれとは反対に近くに居りながらイエスさまの恵から遠く離れてしまっている人々の姿を見ることができます。
 このように、24節、28節といった一連の記事からも聖書の予言が次つぎに成就されていったことをしっかり心に留めなければなりません。
 詩篇22:18には受難のメシヤが予言されています。「
彼らはわたしの着物を互いに分け合い、私の一つの着物をくじ引きにします
 このように昔から語られている予言の通りです。主の十字架は予言されていたとは驚くべきことです。くじ引きにされたイエスの下着は一枚物。大祭司の着物がまさしくこれでした。イエスは正しく大祭司として神と人とをとりなすために十字架に架かられました。
 ルカ23:33
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
 大祭司としてイエスさまは、人間の一番汚いところ、物欲、ギャンブルに身を持ち崩している人々のため、十字架に架けろと叫んでいる人々のために34節のように「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と正しく大祭司として祈っています。

 ヨハネ伝19章に帰りましょう。
ヨハネ19:25から
、十字架のそばには、イエスの母マリヤとマリヤの姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていました。そばに立っている愛する弟子とはヨハネのことです。ヨハネが書いているのですが、イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。のでした。主の人間的な情愛の細やかさが分かります。この直前までは暗黒の部分でした。しかしイエスさまの配慮にほっとします。この場にいた女性達はみな素晴らしい人物でした。女性を人数には入れなかったこの時代にあって、真実にイエスを愛し付き従い、最期まで十字架の傍にいたこの女性たちの輝きは眩しいばかりです。

 そしてきょうはもう一つ
 ヨハネ19:28
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 詩篇22:15「私の力は土器のように、かわききり、私の下は上あごにくっついています」

 詩篇69:3「私は呼ばわって疲れ果て喉が渇き、」
 詩篇69:21「彼らは私の食物の代わりに苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」
 ヨハネ19:28
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 ヨハネ19:29
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 「わたしは渇く」とイエスさまはおっしゃいました。忘れられないことですが、昔、インマヌエルの丸の内教会の講壇で、人間の受ける苦痛の最も激しいものは、痛みではなく、渇きである。「渇き」の極限的な辛さ。

 もう一つ、渇きには肉体的な渇きと霊的な渇きがあります。
イエスさまは、ヨハネ伝4章で、サマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください。」と言われたところ、女は「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と訊く。ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。イエスは答えて「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」という。そして、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」とお答えになる。

 十字架上で「渇く」と仰ったイエスさま。人類のことごとくの罪業を背負ったときに、天の父なる神との関係は断たれました。神から離れた人間は渇くのです。このときイエスさまは、マルコ15:34「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と仰いました。イエスはこのとき、人類のすべての罪を背負ったがゆえに、命の源である父なる神から断たれたのです。親しく「お父様」と呼んでいたはずが、離れて「わが神」という言葉で呼んでいます。
 このイエスさまの渇き。そのあとで、

ヨハネ19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
 「完了した」。この言葉は、「人が休むときに枕をするところ」と同じ言葉が使われています。天のお父様から託されたすべてのことを成し遂げて、わたしはようやく枕することができます、すべてを成し遂げましたということです。
 イエスさまは贖いのすべてを成し遂げられました。

※きょう教会で聞いた説教をメモをもとに興しています。聞き落とし聞き間違いがある場合もあります。お許しください。文責はすべてブログ筆者にあります。

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美化されるほどじゃ…

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 二男から「俺のことは書かないで」と言われていますが

 先だって二男の運転する車に乗ったときのこと。
お盆中の寺町の小路で車が渋滞。のろのろ運転の車のあいだを押し車を押して緩慢に横切ろうとする80代と見えるお年寄りがあった。
「危ないな」と二男。
「こんなお年寄りを見たら、おばあちゃん(二男の祖母で3年前に他界)だと思いなさい」と私は言った。そうすれば待ってあげることができるはず、そう思ったからだ。すると二男
「俺べつにイラついてないんだけど」
運転する横顔が笑っている。
「そうか、危ないと思ってあのおばあちゃんを心配してたんだね」
次の二男の言葉には笑った。
「そう美化されるほどじゃないんだけど」

 美化か…たしかに私は何でも美化する傾向がある。時として美化し過ぎることがある。ここで考え過ぎることもなかろうとは思うが、あるがままを捉える、それが大事かもしれない。あるがままを捉え、あるがままを認める、存在そのものを認めること。それが自分にはすこし欠けているかも。

 おばあちゃんが渡りきったところで、前の車が即発進。その日もやはり猛暑日だった。

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猛暑

 この猛暑を音で表わしたならいったいどんな楽器をどんなふうに使ったらよいのか。畏怖さえ覚えるこの暑さ。ジュラルミンがぼっと炎をあげるさまが浮かび、ストランヴィンスキーが鳴った気がした。

 陽炎の国道4号線。溢れかえる車はみなほどよく冷えた密閉容器。ヒトという生きものが、箱の中で秋口の涼しさを享受しながら、どこか眠たげな脳の司令にハンドルを軽くにぎって、いまにも融点に達しそうな景色を、フロントガラスに受け流している。

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 サイドミラーに遠くなり、小さくなってきえゆく夏の路上、街の景色は、次つぎに時のフィルムに巻き取られ、後方はるかなところで過去と生成されているらしい。

 陽炎のゆらめき、逃げ水の確かさ。

 この夏を切るのは秋ではない。
 地を射る眼光の鋭さ

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ハイドン・カルテット ー1929(昭和4)年ー

 岩手県の太田カルテットと交遊のあったハイドン・カルテット。太田カルテットのメンバー赤沢長五郎氏は、昭和4年にこのカルテットの賛助で独奏會を開いていますが、これがどれほどに破格な幸運であったかというと、

 ハイドン・カルテットはわが国の弦楽四重奏団の先駆けともいうべき存在です。1910(明治43)年宮内省式部職楽部の芝祐孟氏が中心となって組織され、以後毎年定期コンサートを開催。昭和4年、赤沢の独奏會のために盛岡市に来たときは、5月に東京での定期コンサートを開いた後でした。
 そのときのプログラムを紹介します。クリックし画像を大きくしてご覧ください。
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Scan10001 上から1面、2面、3面、4面となります。
多忠亮氏はこの東京でのコンサートのときには予定通り演奏。館沢氏から多氏に赤沢氏のための要請があり、これを受け、独奏會の広告が新聞広告などに掲載されたのち、盛岡へ来ようとする直前に発病したと考えられます。


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中津川増水 ーまんず、は、よぐ降りやんすなー

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 今朝6時半ごろ中津川の富士見橋から上流をカシャ。昨夜も大雨。ふだん、樹木の左側の河川敷には犬が鼻をくんくんひくひく、しっぽはたまにトンボをかすめながら楽しそうに空を掻いているのですが、このとおりの冠水。道のにおいもすっかり洗われたでしょう。逆光のため水の色がびんびかに。ほんとうは茶色のぐるぐるです。

 押し寄せる濁流にも涼しげに河岸にはこんな実も。イガの中には栗がすくすく育っているでしょう。青い青い栗のイガ。いまはこんなに小粒でも、コロカロふくふく実ります。

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 こちらは富士見橋から。下流に小さく上の橋が。
真ん中より左側がほんとうは河川敷。6月には幼稚園児らが木製のベンチに上がったり飛びおりたり、ぴょんぴよんひらひらと遊ぶ姿が見られました。今はご覧のとおりの水びたし。入るなよ、近づくな、水の面はこわ面。
 

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多忠亮氏葬儀執行次第

 太田カルテットと親しかった多忠亮氏。メンバーの赤沢氏の昭和4年6月22日の独奏會にハイドン・カルテットのメンバーとして賛助出演するはずが、病気のため来ることができませんでした。同年12月には不帰の人となった多氏の追悼演奏が、「多忠亮氏葬儀執行次第」に載っています。

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Scan10021 2上から一面、二面、三面、四面となります。

このブログに掲載してあるプログラム、写真はすべて約20年前に、主人とともに赤沢和夫氏のもとを訪れ借り受けてコピーしたものです。

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お墓参り

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盛岡市の新庄墓園にあるおばあちゃんが眠っているお墓に献花し祈った後は

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 無縁塔に。お墓の後ろに施錠された大きな扉が。

     

納めらるる墓の扉は異なるも
地の境涯は如何なるも
ともに相見ん
天国に        ぶんな

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きょうのことば ー主イエスの十字架ー

 10時すこし前に土砂降りだった雨。しかし礼拝が始まるときには晴れ間が。いつに変わらぬ教会、しかし今日という日の今日だけの教会が開かれている。玄関に並ぶスリッパ。この姉妹が、あの兄弟が、このスリッパに、あのスリッパに足をいれて教会にあがり、思い思いの席に着く。主の慈愛が満ちている。

2010717_025_3                 「ゴルゴダ」 舟越保武

さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は

説教題 『主イエスの十字架』ヨハネ伝連講(104)
聖書朗読 ヨハネ伝19:13~21

13
 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14
 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
15
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
16
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
17
 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
18
 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
19
 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
20
 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。
:21
 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。

 きょうは終戦記念日です。65年前の「あの日」だと体験的に思い起こされる方もいらっしゃるでしょう。
 水曜の祈祷会が終わって、何気なしにテレビを点けると恩師の顔、あっと驚きました「宮川先生!」。
戦中の教え子たちが戦争とどう戦ったかのインタヴューでした。小学生だった当時、先生がクリスチャンであることを特に意識してはいませんでした。けれどもテレビを見たとき、宮川先生の担任だった子ども達が、「先生に誘われて教会に行ってきたぞ、こんなきれいなカードとお菓子をもらった」と言っていたのを思い出しました。後に私が献身し、神学校に行ったと聞いて、私の実家である理髪店に散髪に来てはお茶を飲みながら話をしていったそうです。ちょうどインマヌエル教団の竿代先生一家が松本にいた頃に、宮川先生は教会に励んでいたようです。宮川先生はいまは90歳、私が小学校のときには先生は38、9歳だったでしょう。当時「国策として新しい国土を作る」という満蒙開拓団に送り込まれた人々がありましたが、長野県は特に盛んでした。先生が「行ったほうがいい」と送り出した教え子が向こうで発疹チフスに罹り死んでしまったが。これにはいまだに心が痛むと先生は涙ぐんでおられました。
 私も22年生まれで両親は満州からの引き揚げ者です。空襲から逃れるために防空壕が学校近くにあったり土蔵が泥や墨で黒く塗られていましたし、ラジオからは絶えず戦況報道が流れているような環境で育ったので、確かにこの国には戦争があったのだという感覚があります。今朝ひろ子が教会学校で、インマヌエルの初代の蔦田二雄先生は、日本の為政者のために必ず祈っていたことを話していましたが、蔦田先生は当時共産主義に危機感をもって信仰の自由が守られるために祈っていたのです。講壇では聖書を離れた話はあまりしませんが、信仰の自由のためにはお互い真剣に祈ろうではありませんか。

 それではヨハネ19章に目を向けましょう。
 前回は「エッケ・ホモ」を中心に学びました。ユダヤ人の王であるというイエスさまへのユダヤ人の偏見、嫉妬、無知そして「十字架につけろ!」と叫ぶ凶暴さ、残虐さ。そして「この人を見よ」といったピラトに、自分のありかたがオーバーラップします。ピラトはイエスがユダヤ人の嫉妬で吊し上げられているのを知っていながら、自分のすべてを賭けて良心に従う決意ができませんでした。なにが正しいか分かっている。しかし地位、立場が危うくなると、良心を曲げて妥協してしまう、そんなことはないでしょうか。このようなことを想いながら十字架の場面へと移ってゆきましょう。

 ヨハネ19:15で祭司長たちは
カイザルのほかには、私たちに王はありません。と言います。これはユダヤ人たちが自分の良心を曲げた、自分たちもほんとうは決して言いたくはない、言ってはならない言葉でした。ピラトもイエスがご自分を王だと言う意味が一般的にいう王のことではないと知りながらイエスを十字架に付けるために彼らに引き渡しました。

 17節「
彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
 
このゴルゴダというのは…賛美歌に「カルバリ山の十字架につきて」という歌詞があります。ゴルゴダもカルバリも髑髏(どくろ)という意味です。場所がどこにあるのか。一説にはゴルゴダ・カルバリで聖墳墓教会の位置。また一説にはゴードンのカルバリの位置。いずれも地形が髑髏のような形に見え共同墓地がありますが決定的な決め手はありません。十字架処刑のあったところに十字架の木片といったような物があったとすれば、人間は弱いのでそれを神格化してしまうでしょう。ですから神の知恵により、分からなくてもいいと隠されているのでしょう。

 巡礼者がよく聖墳墓教会を訪れ金銀宝石で飾られたけばけばしさに違和感を感じるといいます。わたしたちにとって十字架は豪華絢爛なものではありません。霊的な意味のある場所なのです。十字架刑のあった場所がどちらであったか特定する必要はありません。むしろキリストの十字架によってはっきりさせたいことは、「十字架につけろ!」と叫んだ人々の中に、私の罪も入っているのだ、私の罪がイエスを十字架につけたのだという認識です。

 私が神学生だったとき、いまは三重県の津にいらっしゃる、チャーチ・オヴ・ゴッドから派遣された渡辺先生が、よく自分の母教会での十字架の話を紹介してくださいました。

 「十字架につけろ!」と叫んでいる中にも、「やめてくれ、十字架につけないでくれ」と叫んでいる自分がいる。ところが群衆の中から小男が十字架に上っていった。助けてくれるのかと思ったらハンマーでさらに釘を深く打ち込んでいる。はっと気づくとそれは自分だった。
 
心に残った例話でした。

 イエスはご自分で十字架を負ってゴルゴダに向かいましたが、ご自分で負いきれなくなったとき、ローマ兵はクレネ人シモンにイエスに代わって十字架を担がせます。当時死刑囚は自分で十字架を担がなければなりませんでした。ユダの裏切り、大祭司の裁き、弟子の三度の否定、逃げてゆく弟子達の姿。アンナス、カヤパ、ピラトへと引き回され嘲弄され、平手打ち、むち打ちにあい、自らが十字架を担いきれなくなったお疲れは如何ばかりであったか。

 イエスを真ん中に二人の罪人が十字架につけられました。イエスの十字架に掲げられた罪状は
ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」でした。
 十字架刑は、最期まで意識を保たせながら苦しめる最も残虐な方法でした。48時間も生きのびる例があるといいます。
 
罪状書きは、
ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。のです。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。にもかかわらず、ピラトはそこまでは付き合えないと答えました「私が書いたことは私が書いたのです。」と。ピラトの権威、面目を保つために言ったことだとしても、これには大きな意味がある。こいつがユダヤ人の王なんだぜ、「エッケ・ホモ」。
 ピラトが
ユダヤ人の王ナザレ人イエス。とヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かせましたが、これが世界中の人々へ、であることが象徴されている。イエスさまが世界中の人々の身代わりのために十字架を背負ったことが象徴されているのです。

 ここで私たちと十字架という関係に光を頂かなければなりません。

ガラテヤ2:20
 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、  生きているのである。」
「キリストととともに十字架につけられた」

 
十字架につけろ、と叫ばせた私たちの罪、もう一つの釘を打ち付けようとするわたしの罪がキリストとともに十字架につけられましたという信仰を持つことです。そうでなければ私たちは釘を打ち続ける性質を持ちつづけるのです。それで仕方がない、当然とする考えには同意できません。仕方がないという考えを許容していいのでしょうか。もしそうだとしたら、「十字架につけられた私」というのは一体何ですか。
 ガラテヤ5:24があります。「
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
 あの十字架に私の罪はつけられました。パウロはそう主張しているのです。
 ローマ6:6、7「
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 ここには、罪に抑圧されているとは書いていません。罪から解放されていると書いてあります。
 はじめにイエスさまに悔い改めて罪を赦していただき、次には聖めの段階にすすむために、さらに釘を打ちつけようとしている罪の性質をも十字架につけるのです。救いが分かるのに聖めがわからない筈がないのです。これは私たちの大切な基礎部分、中枢部分となりますようにお祈りをいたします。



 

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赤澤長五郎氏ヴァイオリン独奏會の写真ー昭和4年ー

 赤澤長五郎氏ヴァイオリン独奏會の写真です。ハイドン・カルテット賛助出演。
後列右より佐々木休次郎、杉山長谷夫、多基永の各氏。
前列右より館沢繁次郎、山崎普立、赤沢長五郎、芝祐孟、窪兼雅の各氏。

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 プログラムではハイドン・カルテットのメンバーとして多忠亮氏が来ることになっていましたが、病気のため代わって窪兼雅氏が来て演奏しました。ハイドン・カルテットを招聘できたのは、当時ハイドン・カルテットのメンバー多忠亮氏が榊原トリオのメンバーであったことから、しばしば榊原氏らと太田村に来ており、太田カルテットと懇意だったからです。また「館沢氏の肝煎りで」、とも伝えられています。

 太田カルテットには素封家がいたから数々の音楽会が実現したと捉える方もいます。たしかにそのような見方もできるでしょう。しかし、素封家であっても、人々に文化を、スポーツを、と巨額の私財をなげうつ方は少ない、というよりも稀だとわたしは思います。いまでは企業イメージを高めるために福祉に参画するということはめずらしくない。しかし当時は地主、資産家がこれに類することをする必要はなかったわけです。

 ここに梅村保氏がいないのは、彼はすでに大正14年に音楽界を引退したからです。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆ 

 はなしは変りますが、障害者自立支援法という改良か改悪か分からない法によって、カナンの園の障害者の方々が、古 巣から移住するよう急かされています。予め直ぐにでも移り住める家を準備してから、さあ移りなさい、というなら分かります。移り住む家がまだ出来ていないの に、それをつくる資金も無いのに引っ越しなさいというのは、これはいったい…そんなわけで、

 緊急に今年中に移り住むためのケアホームが要ります。募金を募っています。カナンの園で作られたグッズ、絵はがき、パン、クッキー、せんべいなど、購入していただければ幸いです。

カナンの園後援会

 〒020-0147
 盛岡市大館町28番53号
 ヒソプ工房内
【郵便振込口座】02330-6-6631 カナンの園

その昔、梅村保氏の剣道、ヴァイオリン、子ども塾(平山童話研究会)はみな無料でした。財産があるからでしょ、確かに。しかし、教育の大切さと、社会のため、人のためにという心も併せ持っていたからこそ出来たことではないでしょうか。

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「いつくしみふかき」インマヌエル讃美歌165番

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   いつくしみふかき

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を
いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたもう
いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労りたまわん

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

ちょっと一休みのつもりが、いつの間にか寝込んでしまっていたようです。
はっと目を覚ますと、もう“きょう”は去り、“あした”になっていました。ほんとうは赤澤さんの写真や記事をのせようかというつもりだったのです。
すこし疲れました。
新しいきょうに目がさめ、真夜中ながら夕べ心に通っていたこの讃美歌を記します。
きょうからお盆です。
慌ただしい人の動きもあるでしょう。
主よすべてをお守り下さい。


世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労りたまわん



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シンフォニエッタ・盛岡ー大正の赤澤長五郎氏の流れを汲むー

  シンフォニエッタ・盛岡。このアンサンブルは、大正の音楽の流れにある。創設者の成田浩先生が赤沢長五郎氏の弟子なのだ。赤沢長五郎氏は大正時代の盛岡の弦楽四重奏団太田カルテットのメンバー。ヴァイオリニスト。大正、昭和の初めは右に出るものはいないとも伝えられている。ただし当時やはり太田カルテットの主宰者だった梅村保氏のヴァイオリンも右に出るものはないと新聞記事に出ているので、どちらもなかなかの腕だったのだろう。成田先生の本業は英語教授。岩手大学に居られた。退官されて名誉教授。後も英語を教える傍ら、コンサートとなればステージに。後に知ったことにはヴァイオリンも教えておられた。
 赤沢長五郎は講道館柔道七段の猛者でもある。ヴァイオリン演奏もこれと同じくらいに有名だった。彼の人生の晴れ舞台は何と言っても昭和4年6月22日(土)の「赤澤氏獨奏會」であった。

 プログラムをご紹介します。

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(プログラムの実物は模様部分が朱色です。三つ折りの一面です)

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  ハイドン・カルテットの賛助出演は当時としては大変名誉なことでした。
この流れを汲むシンフォニエッタ・盛岡の次のコンサートのプログラムの一部が決まったようです。以下、シンフォニエッタ・盛岡さんのブログからコピペさせていただきました。

TOP / 2010年06月28日 22時51分27秒
総会にて来年度の一部ステージの曲が決定しました。
○モーツァルト 交響曲第31番「パリ」
○ドボルザーク チェコ組曲

です。

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聖セシリア(岩手県立美術館蔵) ー舟越保武ー

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「聖セシリア」、内から静かに輝き出るものがあります。真上からは見ることができませんが、
横顔、後ろ姿と捉えてみました。落涙するほどの美しさです。

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山形交響楽団 第207回定期演奏会のようすを聞く

合唱:山響アマデウスコア

曲目
ベートーヴェン:カンタータ「静かな海と楽しい航海」 作品112
ブラームス:「運命の女神の歌」 作品89
ベートーヴェン:交響曲 第3番 変ホ長調 「英雄」 作品55


 「うにの五線ノートから」のブログによれば、
「今回の一番の感動は“合唱”!!
弱音から次第にうねって迫りくるcresc.の見事さ、
明瞭な発音は、歌詞と音楽の内容を、清冽に伝えてくれます。
私自身の好みとして、オケだと
ぶつかった音とか濁った音とか崩れ行く和声とかが大好きなんですけど
(単なるへそ曲がりですが)
合唱だと、単純できれいに澄んだ和音にぞくぞくしてしまいますねー♪」

とあった。

この「今回の一番の感動は“合唱”!!」というこれがやけに気になる。合唱団は山響アマデウスコア(山響専属合唱団)、勿論そうなんですが、この中には25人の盛岡からのエキストラ出演があったのです。主に岩手大学から、それと盛岡バッハ・カンタータ・フェライン所属の方々かと。合唱指揮が佐々木正利先生、渡辺修身先生(山形大学文化教育学部准教授)でした。佐々木正利先生は、いまさら言うまでもなく山響アマデウスコアの合唱監督です。依頼を受けた25人の方々は、佐々木先生の引きということもあるのでしょうが、山響というプロに依頼されるアマチュア合唱団ということなのでしょうか。ここのところ、もし勘違いがあったなら訂正いただきたいのですが。プロとの共演、何やら嬉しくなってくるわけで岩手びいきとしては、これをこそ真中心に据えたくなります。この25人の方々の足並みが揃ったかどうかは(合唱の方が揃うのは、これはもう疑いのないところです)分かりませんが、ともかく2日から山形に滞在。発声、オケ合わせ、懇親会などで協調体勢をとり4日の本番に臨んだもようです。うにさんの証言のように、合唱は大成功だったよう。私自身は出かけることができませんでしたが、ほんとうに嬉しく思ったことです。盛岡でのリリング先生指揮のバッハ「ミサ曲ロ短調」の冒頭の気魄がいま蘇りました。あのときも感動でしたが、またまた山響アマデウスコアと一体となって成功したもののようです。

 それと興味深いのは指揮者の黒岩英臣先生です。以下はWikiからです。いつかどこかでWikiに文句を言った覚えがありますが、簡単に言うべきではなかったかも。やはり、こういうことを教えて貰うには有り難い。そのWikiからです。

「黒岩先生は、1942年東京に生まれる。1960年桐朋学園大学指揮科入学、斎藤秀雄に師事した。在学中はステージ、ラジオ、テレビなどで同大学オーケストラを指揮するほか、ヴィオラ奏者としてNHK「朝のリサイタル」などに出演。ピアノ奏者としても活躍した。1964年、同大学弦楽オーケストラのアメリカ公演に指揮者として同行、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコなどで指揮した。

1965年同大学卒業、NHKテレビ「今年のホープ」に出演。同年、修道士となり、1975年まで修道士の生活を送った。その間、神学、哲学、ラテン語、グレゴリアン、ポリフォニーを学び、典礼音楽の指揮・作曲を行う。

1976年、再び音楽に専念、1977年1月都響ファミリーコンサートの演奏で『久方ぶりに現れた資質をしっかりと感じさせる新人』と絶賛され、一 躍脚光を浴びた。1978年夏には、バークシャー・ミュージック・センターにクーセヴィツキ記念フェローシップ・コンダクターとして参加、研鑽を積む。

関西フィルハーモニー管弦楽団、札幌交響楽団名古屋フィルハーモニー交響楽団九州交響楽団の定期演奏会を始め、全国の主要オーケストラとの共演も数多く行っており、各種演奏会にて安定した評価を得ている。

自らが敬虔なキリスト教徒ということから、宗教音楽に造詣が深く、情熱的な音楽作りが評価されており、オラトリオ、レクイエム、ミサ曲などでの名演を重ねている。合唱指導にも定評があり、団員の信頼も厚い。

1981年9月から88年まで九州交響楽団常任指揮者、1985年8月から89年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者、1988年4月から94年3月まで関西フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者を務める。2000年4月より山形交響楽団首席客演指揮者、01年10月から常任指揮者を務めた後、04年4月より同楽団名誉指揮者に就任。 桐朋学園大学准教授。」

 黒岩先生の経歴には自らが敬虔なクリスチャンであるとありました。この演奏会に限らず、わたしは思うのです。ノンクリスチャンでもミサ曲を歌うことはできる。素晴らしく歌うことはできる。しかし、音楽であれ文学であれ、クリスチャンでなければ、信仰者でなければ決して理解することはできないこともあるということ。深遠です。

 山響207回といわず、これから後も、岩手からの歌い手がアマデウスコアに参画されることを楽しみにしています。

 


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きょうのことば ーこの人を見よー

 けさは出発してから、忘れ物に気付き戻ったために礼拝に遅れてしまいました。しかし説教には間に合いました。この猛暑のためか加齢のためか、たぶんどちらもでしょう。神さまに対しても皆様に対しても申し訳ないことでした。ちょっと恥ずかしいので目立たないように小さく書いておきます。

2010717_030                              「 聖ベロニカ」  舟越保武 

 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会の国光勝美牧師のお話は

説教題 『この人を見よ』
聖書朗読 ヨハネ伝19:1~16

1そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」7ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの見方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

 王として出てきたイエス。ピラトはユダヤ人の訴えを逆手に取り、いばらの冠をかぶらせ、紫色の着物を着せ、見窄らしく痛々しく、嘲弄されるような形をさせて皮肉たっぷりに「この人を見なさい」といったこのとき、ピラトとしては、日頃御しがたいユダヤ人に溜飲をさげた気分だったのではないか。「さあ、この人を裁けというのか。これがこの人が言っている王さまなのか…さあ、この人です」とピラト。「この人です」はよく日本語で「この人を見よ」と訳されます。ラテン語では「エッケ・ホモ」。けさはこの御言葉に注目したいと導かれています。

 さて、わたしたち一人一人は、いばらの冠をかぶり紫の着物を着たこの男をどのように見る者であるでしょう。私たち一人一人に語りかけられた言葉であると捉えて考えてみたいと思います。官邸の外には「十字架につけろ!」という叫びがあがっています。ユダヤ人のこの卑劣な行いを自分自身にあてはめてみます。「十字架につけろ」という本音、それは嫉妬です。嫉妬に狂ったものたちの言葉です。イエスさまは神の国について教えを垂れ、5千から1万人を超える人々の空腹を満たしました。死んだラザロを蘇らせたことは彼らにとって致命的な出来事でした。断じてこの男をいかしておいてはならないのです。圧倒的な人気、賞賛を目の当たりにし、もうこれ以上放っておくわけにはいかない。ユダヤ人たちは、嫉妬、妬みに狂いました。わたしたちは心の中を探るとき、自分より有能な人、自分より用いられている人に対して、ふっと妬みが心を占有してしまうことはないでしょうか。祭司長たちにとって、イエスという男はそのような対象であった。別な見方をすれば、このユダヤ人の指導者たちはガマリエルの門下であり、田舎大工の小せがれでしかない男に、どうして教えを請わなくちゃならんのか。どこの馬の骨かも分からない者が、自分を一体何様だと思って人々に教えを説いてまわっているのか。しかも今や国中にまで広まっている。彼らは最早我慢できなくなってしまっていた。わたしたちが、家柄や学歴に目を留めて本質を見失うというようなことがありませんでしょうか。

 「十字架につけろ」の背後にあるもう一つは、彼らの傲慢さです。神学生時代、院長から教えられたことは、教えられやすい心、即ちティーチャブル・マインドであると繰り返し聞かせられました。教えられやすい心、謙って教えられやすい心をもってイエスさまの前に出ることが大切であると、しばしば語られたことを思い出します。自分たちこそアブラハムの子孫であり、自分たちこそ神に選ばれたものだという傲慢があるとき、若い教師に教えられることはない、自分たちこそ選ばれたものであると感覚が麻痺している場合があります。

 しかしこのようなことに気づいたのはユダヤ人の指導者で国政に参加する国会議員でもあるニコデモでした。このニコデモが、まだ若い名もない教師に夜こっそりやってきて、「先生、神の国にはいるには一体どうしたらいいのでしょうか」と尋ねたのです。教えられやすい心、肩書きもたくさん持っていた彼が、謙って、田舎の大工に教えを請うたのです。イエスさまが十字架に架かられた後にも、ニコデモはすばらしい働きをしています。

 「十字架につけろ!」は、私たちの心を投影しているものではないのか。自分たちは何でも知っていると思い上がり排他的になる。残虐性です。十字架を見るとき、人がいかに残虐であるかがわかります。人間がいかに残酷になりうるか。そのことを思うとき、「この人を見よ」というピラトの言葉の前に自分を吟味することができるのではないでしょうか。それからもう一つ、「この人を見よ」とピラトがいったとき、ピラト自身に私たちの姿が投影されてはいないでしょうか。

 ピラトはユダヤ人の訴えが、彼らの嫉妬によることを分かっていました。イエスに罪が認められず何とか救おうとしています。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」。7節を見ると「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば死に当たります。」。自分はこのユダヤ人に気圧されて無実のものを刑に処するというとんでもないことをしてしまうのではないか。ピラトは益々恐れまた官邸に入ってイエスに9節、10節のように問います。しかしイエスは十字架に付けられることが使命でした。ところがピラトには、十字架刑を直にみる恐れがあります。イエスを何とか釈放しようと努力しました。しかし人々はいよいよ激しく、王と自称する反逆者を赦免するつもりかと詰め寄る。ついにピラトは裁きの座に着きユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

 ユダヤ人たちはイエスを十字架につけるために、「カイザルの他に王はない」とまで言う。ユダヤ人にとって最大の屈辱は、実はローマの王をユダヤ人の王と認めることであったのだ。ピラトは最大限の屈辱をユダヤ人に与えることで自分を癒しながらイエスを彼らに引き渡したのではなかろうか。

 ピラトは正義感がまったくない人物ではなかった。それでも、あれから2000年ものあいだ、使徒信条では「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」と唱えられています。しかしこの印象ほど悪辣な人物ではない、ローマ人としては善良な方といえます。朝6時にピラトは裁きの座につきます。こんなに朝早く大挙して何事か、ということもできたでしょう。しかし彼は裁きのために出ます。悪い人間ではないのですが、しかし彼には勇気がなかった。イエスに罪を見いだせないことを知りながら、彼らの要求を退けるなら一騒動が持ち上がるなと悩んだ末に、彼はイエスを十字架に付けることを許してしまう。自分が真理と思うことを通さないでしまったのは、ただ保身のためでした。イエスさまに覚えた畏れよりも、人の怒りを買うことを恐れてしまった。このピラトの中に、自分たちの弱さを見る気がしてならない。わたしたちクリスチャンは神を恐れることを知っています。しかし、往々にして神の真理、意向よりも人々を恐れることのほうを選んでしまう。

 「この人を見なさい」

 あなたはこの人に対してどういう態度を取るか、もしピラトがこのとき、「イエスさまわかりました。あなたがわたしの王であり来るべき国の王です。」とすればどうだったか。劇的な回心を期待できなかっただろうか、そんなことを思ったときに、またこんなことをも思い出しました。

 インマヌエル綜合伝道団が千葉県船橋市から東京の丸の内に移転しようとしたときのことです。新国際ビルジング(これは三菱ビルジング地所)に入るために便宜を図ってくれた一人の有力な人物がおりましたが、この方が初代の蔦田二雄先生にこう言ったそうです。「あんたたちは不思議な人だ。我々から見れば死んでいるひとを、あんたは、いや生きている、生きていると言うと本当にそれが生き返るんだよね」。新国際ビルジングをまだ数十人の人が借りたいと言ってきているときに、この方が、インマヌエルで借りられるようにしてくださったのでした。蔦田先生はこの人をクリスチャンに導こうとしたのですが、この方は言ったそうです「先生が仰るようにわたしがほんとうに罪を洗いざらい告白したら、日本がひっくり返っちゃうんですよ」。戦後、日本の中枢に居て、日本を動かす闇の部分をも知っていた人物でした。先生は言ったものです「ほんとうに悔い改めるには偉くなりすぎちゃ駄目だ」と。

 このローマ総督が本気で悔い改めたなら少しは変ったかもしれないと思わせられます。わたしたちはピラトからほんとうの正しい選択とは何かを考えさせられます。人の面子、人の都合を恐れるあまり、神をおそれるよりも、そっちを取ってしまうとき、あなたはピラトのような状態を選択しているのです。

「この人を見よ」

 たえず心に留めたい言葉です。いばらの冠をかぶり、紫の衣を着せられ、「父よ彼らを赦したまえ、その為すところを知らざればなり」と祈られたそのお方の前にしっかりと身を置いてこのお方を見続けようではありませんか。

 最後にヘブル12:2を開いて締め括りましょう。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

エッケ・ホモ

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どうぞここに

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またまた黒田清輝の絵はがき「編物」のアップです。手仕事。10月にはわが教会でもバザーを開催します。アフリカにあるテヌエック病院の支援のためです。友人から要らなくなったネクタイを使ったポシェット作りの型紙、作り方を教えていただきました。さて何個作ることができるやら。昔のご婦人方は終日家事に追われ、休むまもなくこのような手作りの小物、衣類などを作ったのでしょう。洗濯機、炊飯器、電子レンジ…何もかもが便利尽くし。余暇はできたはずなのにその時間を生かし切れていないという感じが。

 暑い一日でした。午前は刈り残した植木の剪定。汗が流れました。炎天下36度かと思いながらカチカチカチカチと植木ばさみを。ほんとうはね、枝葉がの伸びたって構わないんだけどね、たまには思うように手脚も伸ばしたいだろう、ほんとうは苅らずにおきたくもあるんだけど、だけどこうやってきれいにしておいた方が、青空も微笑んで見下ろしてくれそうな気がする。うん、世の中はそんなものかもしれないね。
 まるく、まるく刈り込んで、これ以上外働きすると熱中症になっちゃうかもと、すこ~し自分を大事にしてコップに氷を落としジュースを並々と注いで樹下で一休み。
 
 4日水曜日は花巻市で東北北聖会という「合宿」があった。日帰り参加。9時45分に会場に着き、夕方5時には帰宅。婦人会の島先生のユーモアたっぷりの話には爆笑。女性牧師としては型破りの面白さがあった。参加した姉妹方の顔、顔、顔。ああ、あの姉妹は、ほんとうに小さな失敗も神様にお祈りし悔い改めている。その姿には胸が衝かれることがある。世の中はそんなことは当たり前。世間一般の人は「なに、これぐらい当たり前よ」とおもっているようなことを神様のまえに詫びている。しかし、これがどんなに尊いことか。いまはそれが分かる。
 コップの氷がぐんぐん溶けてゆく。葡萄の実。ことしもたわわになっている。葡萄は不思議だ。こんな猛暑には外気温よりも2、3度ばかり低い木陰を提供してくれる。一房にはいったい幾つの葡萄がついているだろう。あの姉妹も、あの姉妹も、あの姉妹も…この大きな葡萄の実なのだ。いまこそわたしはほんとうにこの方々が愛おしく尊く思われる。わたしを温かく受け入れてくれている。そんなことよりなにより神様に対して真実であることだ。「汝等は世の光なり」。世の光が存在することを信じることができる幸せを思う。
 葡萄の蔓がのびている。置いてあるテーブルに手をのべるかに伸びている。どうぞここに。「われは葡萄の樹」とおっしゃるイエスさま、どうぞここに、この椅子に。いつでもあいております。あなたさまがいつ訪れても、あなたの椅子だけはいつでもこのようにあいております。どうぞおかけください。
 あしたは日曜日ですね。また心いっぱいあなた様を讃美いたします。

 

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月下美人、追想

 たしか7月21日にポチリと花芽が出て、ほんとうに咲くのかなと半信半疑でしたがよくぞ咲いてくれた月下美人。これは5日pm11時15分

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 清楚でたおやかです。
6日am4時半にはもう花がうなだれていました。うなだれた姿は、立派に咲いてくれた月下美人にすまないので載せないことにします。うなだれた姿を否定するというのではありません。もしかすれば、最高の姿を載せてほしいと花が願っているのではないかと思うのです。
よくこのように頑張って咲いてくれました。
ありがとう。

 きょうも最高気温は37度。これは当地というよりはわたしを取り巻く環境のわたしの最高気温なのですが。家人と交替で家を出、用足しのため4号線をバイクで走ると、排気ガスも加担し路上の熱気が熱風となっていました。それでもバイクを選ぶのは、駐車に時間がかからない、扱いやすい、小回りが利くなどなど。

 きょうはひたすら眠いです。さっきはっと気づいたところ、PCのキーを押しっぱなしで居眠りしていました。
 いまは涼しい風が吹き込んできています。
 日中はたびたび救急車の音が。いまは静かです。


 
 

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月下美人

追跡、月下美人

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                                2010.8.4am8:30頃

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               2010.8.5pm2:30頃

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               2010.8.5pm2:30頃

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               2010.8.5pm4:00頃
             今晩必ず咲くことを知らせてくれる。               

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2010.8.5pm10:30頃
家の中に鉢を移動。

花を見逃すまいとこれほど頻繁に傍において見た花はありませんでした。
月下美人の素晴らしさは咲く前の顎の芸術的な湾曲の移り変わりであると私には思われました。

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「家庭音楽會」(梅村保宅にて)ー岩手毎日大正12年8月27日掲載ー

  これは大正12年8月29日の「家庭音楽會」の案内記事です。岩手毎日大正12年8月27日掲載。
 23日から盛岡市に来ていた音楽家たち一行が、30日に東京に帰るので、その前日29日午後6時から、太田クァルテット事務所(梅村保宅)で音楽会を開催する旨が5段記事となっています。平成22年8月1日には宮古ジュニア弦楽合奏団の第45回「音楽の夕べ」がありました。この機会に大正の梅村家の音楽活動(音楽会企画)もご覧ください。

※雑で恐縮ですが、記事を二つ折りにして載せました。
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家庭音楽会ー大正12年8月29日盛岡市梅村保宅太田クァルテット事務所にてー

 

これは大正12年8月29日(水)午後6時から開かれた太田クァルテット主催の「家庭音楽會演奏曲目です」。場所は盛岡市平山小路の梅村保(現在の宮古ジュニア弦楽合奏団主宰梅村家の祖)氏宅。ここに太田クァルテット事務所が置かれていました。
◆ ヴァイオリン 窪兼雅(宮内庁式部職楽部)
◆ ヴァイオリン 多忠亮(宮内庁の雅楽の家柄出身。東京音楽学校入学。 ヴァイオリン専攻。「宵待草」の作曲者。)
◆ ソプラノ    竹岡鶴代(東京音楽学校教授)
◆ ピアノ     榊原直(東京音楽学校教授)
◆ ピアノ     瀬川良隆(ベルリン音楽大学指揮科卒。指揮者、作曲家) 

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三つ折りのプログラムを開き、二つ折りにして載せています。

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宮古ジュニア弦楽合奏団第45回「音楽の夕べ」を聴く

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 第45回「音楽の夕べ」。盛岡市から宮古市まで100㌔。遠い。遠いけれども駆けてよかった(運転は主人でしたが)。私としては、梅村功二先生に子どもたちともどもお世話になり、
時を遡って梅村保氏に“お会い”し、著書「光炎に響く」を出版したというご縁がある。しかし仮にこの御縁を外したとしても、質的に濃い内容であり、好感の持てるコンサートだった。

       ープログラムー
         【第一部】
        指揮 梅村隆一 
キラキラ星変奏曲  フランス民謡 板谷英紀編曲
E線の歌   ホーマン1巻より練習曲
楽しい旅行  
ホーマン1巻より練習曲
メヌエット  バッハ作曲:岩船雅一編曲
ブーレ    ヘンデル作曲:
岩船雅一編曲

         【第二部】
☆スペイン交響曲ニ短調 作品21 第1楽章
          ラロ作曲
 ヴァイオリン:福田歩(小3) ピアノ:加藤芙美子
☆コンチェルトイ短調 第1番 第1楽章
          アッコーライ作曲
 ヴァイオリン:佐藤真歩(小5) ピアノ:加藤芙美子
☆無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番より
         アダージョ・プレスト
          バッハ作曲
 ヴァイオリン:諏訪大樹(中2)

         【第三部】
弦楽セレナーデハ長調 作品48
      チャイコフスキー作曲
   カワン・バグスストリングオーケストラ

          休憩

         【第四部】
       指揮 梅村圭一
サウンド・オブ・ミュージックメドレー
サウンド・オブ・ミュージック、ドレミのうた、わたしのお気に入り、ひとりぼっちの羊飼い、エーデル・ワイス、もうすぐ17歳、すべての山に登れ
      リチャード・ロジャース作曲

交響曲40番 第1楽章
   モーツァルト作曲

         【オーケストラと歌おう】
           指揮 梅村圭一
金沢正明編曲による
宮古市民歌  作詞:工藤和久 作曲:石若雅弥
アンパンマンのマーチ
  作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし
愛燦々
  作詞作曲:小椋桂
言葉にできない
  作詞作曲:小田和正
負けないで
  作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎
リアス少年少女合唱団・リアス合唱団 

「きらきら星」で緞帳があがる。小っちゃな子たちも小っちゃなヴァイオリンを構えて一同に参加。眠たそうな顔、よそ見をしている子。けれども海のように青く広がる背景に小さな白い球とも星とも見える点を流しながら総出演の「きらきら星」、これこそ宮古ジュニアと感慨をおぼえた。ステージには教室の生徒とともに梅村家音楽の五代目の幼い顔までが揃っている。明るく澄んだ合奏が心に染みました。きょうに合わせてドイツから帰国された隆一先生の宮古市での活動を大切にされている姿勢が伝わってきました。

第二部。生徒たちのソロ演奏のなかに、終始一貫して質の高さを感じさせる演奏があった。安定感のある堂々とした弾きっぷり。この年齢でこの曲をこれだけ理解できるものだろうか。大ホールのステージがけっして広すぎないのだ。ほんとうに感心。これからが楽しみとなった。

カワン・バクスストリングオーケストラ、落ち着いた華やぎにステージを明るくしてくれた女性12人、男性6人によるチャイコフスキーの弦楽セレナーデ。コンマス席には隆一先生が。聴きごたえがあった。きょうの入場者の方々だけで聴くのはもったいない、宮古市だけではなく沿岸全域、内陸の方々にも聴いていただけたなら。

モーツァルトの40番。潮騒のきらめきでした。三陸の海がはてしなく煌めいていました。かつて、これはIBC制作番組のときでしたが、圭一先生によってヴェートーベンの「運命」が振られたときの驚き、そのときに功二先生が涙を浮かべて観客席に居られた姿、梅村保氏が自刃された姿が思い出されました。交響曲の響きがいまあるのです。

人口の減少などさまざまな状況のなかにあって、沿岸の一都市に、弦楽を核としてこれだけの音楽の灯を絶やさずに活動しておられる姿があることに感銘しました。今後も沿岸の拠点としてさらに深く根を張られ、いっぱいに枝葉を繁らせ大きな小さな花々をたくさんつけ、多くの実、演奏者に観客席にたくさんの心の実をならせていただきたいと祈ったことでした。

 宮古からの峠の路はとっぷりと暮れ、106号をひた走って帰宅は20時半、しかし行ってよかったという満足感が。一日の終わりには、ご挨拶をした音楽の灯をともすためにともに歩んで来られた妙子夫人の温かな言葉と変らないお顔が浮かびました。

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きょうのことば ーピラトの前にて 2ー

  昨日の教会のメッセージの続きです。
説教を聞いて、自分はまだまだ達成されていない、全うされていないなと思うことは多々あります。その私が、どうしてこのように平気で牧師の説教を書いているのか。こんな奴がおこがましいじゃないか、誰かへのあてつけじゃないの? そう疑問に思われる方もあるでしょう。しかしこの不完全なわたしで大丈夫。なぜか。それは聖書の中に、神のわざは弱い者のうちに全うされると書いてあるのです。欠点だらけでも用は足りる。なぜなら不足分は神様が足してくださる。この充当された分をもって神様のお力を明らかにすることができるからです。それと、このような世の中だからこそ、このような立場のものが、教会で語られた聖書のメッセージをそのまま発信するのも悪くない、そう思うからです。余談はこのぐらいにして、昨日の続きを。

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 ユダヤ人たちはイエスさまを朝早くにピラトの邸に連れてきました。
ピラトは言った
「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」。彼らはピラトにこたえた「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」「ユダヤ人の王だと主張している」。自分を王であると自称することはローマ皇帝への反逆だった。これを認めれば反逆の許容となる。31節で、ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」するとユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」。

 もしイエスを死に追いやるとき、ユダヤ人によって死刑に処せられたなら、死はユダヤ人の社会のみの出来事に過ぎず、ユダヤ人にとってのみ有効となっただろう。しかし、イエスはユダヤ人のみではなくすべての人々のための贖いを成し遂げました。敢てローマ総督、当時世界を治めている権威そのものの前にイエスを引きずり出し、ローマの権威によってイエスを死刑にすることにより、すべての人々のための贖いという意味が明確になってきます。「わたしは全世界を引きよせる」といったイエスさまの言葉には深い意味があります。 

33そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」 34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」 35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」 36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」 37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わた しが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わた しの声に聞き従います。」 38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
  彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。 39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」 40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。

 ピラトは訊きます「真理とは?」と。真理を別なことばで言い換えると「神の国に属するもの」なのです。「神の国を人々に証するため、知らせるために来た、神の国に属するものはみなわたしに従う」とイエスさまは仰います。これはニコデモの問答に通じています。「人もし新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」。イエスはまことの真理である神の国について証するためにこの世に来られた。滅び行く人間を何とか救おうとして神のひとり子が罪ある人間として送られ、罪を一身に負い神の裁きを受ける、正しく福音の真理です。イエスさまは福音の証をするために生まれ、そのためにこの世に来たのです。

 ピラトはイエスにいうのです。真理とは? 神の国とは? イエスさまが威厳をもって語られることにピラトは動揺します。聞いているうちに、このことに関わることの重大さに気づきます。ピラトの妻も「この人には関わらぬほうがいい」と忠告。ポンテオ・ピラトはたまたまキリストの受難のときのローマ総督でした。在位期間はAD26~36。ピラトは何とかイエスを許そうとします。「わたしはあの人には何の罪もみとめない」と明言。過越の祭りにひとり釈放する慣わしがあるのでイエスを釈放しないかと持ちかけるが、彼らはバラバの釈放を願い、イエスを十字架につけろ! と叫んだのです。ピラトは悪辣な男ではなかったが、ほんとうの意味で勇気をもってイエスさまに耳を傾けることができなかった。真理の前に真の勇気をもって光に従うことができない無念さを見ることができます。

※割愛した部分があります。誤り、聞き違い、文責は当ブログ管理者にありますことをご了解ください。 

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きょうのことば ーピラトの前にて 1ー

 8月がスタートしました。きょうは晴れ。はやいめに教会に着くと、きょうの説教題がきょうも聖画入りで玄関まえに掲げられていました。教会の隣の公園には合歓木がピンクの花を楽しげに咲かせています。

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 きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は

説教題 『ピラトの前にて』ーヨハネ伝連講(102)ー
聖書朗読 ヨハネ伝18:28~40

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 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。
29
 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
30
 彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
31
 そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」
32
 これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。
33
 そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
34
 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
35
 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
36
 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
37
 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わた しが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わた しの声に聞き従います。」
38
 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
39
 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。


 先週は、十字架を目前にしたゲッセマネの祈り、ユダの裏切り、ローマ兵の捕縛と十字架を目前にした取り扱いを学びました。
 創世記にある「エデンの園」は、人組アダムとエバがサタンの誘惑に陥り罪を犯し追放された悲しい場所です。それに比して、「ゲッセマネの園」は新しい人類の始まり、神に従おうとするものの始まりです。イエスさまが「第二のアダム」として悪魔と戦い勝利するのです。サタンは十字架をなきものにしようと策略します。十字架をキリストから外したらこれ以上のことはない。十字架こそサタンの致命傷となるのです。イエスさまは人間としてたとえ苦いものでも受けるために来たといってサタンの誘惑を退けました。サタンはきわどいその時までイエスを十字架から外そうと、イエスさまが十字架に架けられてからさえも「おまえがもし神の子なら十字架から下りてみよ」と誘惑しつづけました。苦しみの極致にあるこの誘惑には大きな意味があります。誘惑を考えるとき勝利の意味の大きさがわかります。イエスさまは誘惑を退けました。

 イエスさまは捕縛されたあと城門の外に連れられてきて、2通りの裁きを受けます。一つは宗教的な裁判。一つは行政的な裁判です。
 宗教的な裁判とは、アンナス(実質的に大祭司としての権威を持つ)の前で予審を受けます。「いったいあなたは何をしたのか?」と訊かれたのに対し、イエスさまははっきりと「
わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」と答えご自分がメシアであることもはっきりと告白しています。「I am that I am(わたしはそれです)」と。
 
 一方、それとは劇的な対照をもたらしたのがペテロです。イエスが心配でたまらず、しかしイエスにしっかりとついて行くこともできないでいたところ、もう一人の弟子の計らいでペテロはようやく大祭司の中庭まで入ってゆき成り行きを見ていました。焚き火に照らされたペテロを見て「あなたもイエスの仲間だろう」と言われたとき、ペテロは「いや違う」と拒絶してしまったのです。「知らない」というペテロ。そのペテロにイエスは「主の眼差し」を送ったのです。賛美歌にありますが
「ああ主のひとみ眼差しよ…三度わが主を否みたる弱きペテロを顧みて…」
 主の愛の眼差し、あなたが私を愛していることはよく知っているよ。しかしあなたはとても弱いものなのだ。主イエスはそのペテロを包み赦し立ち上がらせてくださる。その主の眼差し。しかしヨハネ伝にはこのことは一言も書かれてはいない、けれども主はちゃんと足り無さ弱さを顧みておられる。主はよくご存じであられるのです。

 イエスのもう一つの裁判、それはローマ総督ピラトの前での行政的裁きのことです。きょうはこの28節からのことになります。
 24節のアンナスの予審、そして夜明前にはカヤパに有罪とされました。しかし彼らユダヤ人の宗教裁判で有罪にしても、ローマ総督に許可を得なければ刑の執行はできません。それでカヤパのところから、こんどはローマ総督官邸にイエスを連れて行きます。ユダヤ人である彼らは過ぎこしの食事を守りたいと思っています。みだりに異邦人の家に入って身を汚したくないのです。神なる方を邸に連れて行ったもののローマ人の官邸には入りたくありません。ピラトは出てきて言いました。
「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」。明け方こんなに早くから自分が関わりたくない案件を持ち出されて、ピラトは気分がいいはずはありません。この有様は何事だ、まったく御しがたいユダヤ人たちだ、一騒動持ち上がるなぞはご免だ、そう思いつつしぶしぶピラトはユダヤ人たちの前に出ていったでしょう。
                ーつづくー
 






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