きょうのことばー御名と御言と真理ー
蒸し暑いときに、つかの間バイクで風にあたりながら教会へ。どの花も梅雨に潤っています。会堂の扉の向こうに鳴っているのは、インマヌエル讃美歌593番「主よ御手もて」の自動演奏。慰めの響きです。礼拝の開始時間のすこし前にひろこ子牧師と若い姉妹がオルガンに着席。お二人の姿に、わたしは、花巻市の教会で、90歳になるまで50年間奏楽の奉仕をし、このほど若い方と交替した友人を思い出していました。「主よ御手もてひかせたまえ、ただわが主の道をあゆまん/いかに暗くけわしくとも/みむねならばわれいとわじ」
きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は
説教題 『御名と御言と真理』
聖書朗読 ヨハネ伝17:9~19
:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。:10 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。12 わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
この17章はイエスさまの大祭司的祈りであること、そしてこの祈りは大きく三つに分けられること。(この詳しくは復習になりますので割愛いたします。)
11~14節は2つ目の祈りです。「彼ら」のためは、弟子たちに限定するのではなく、私たち救いに与ったものも含まれています。「あなたの御名の中に、彼らを保ってください。」とありますが、これは私を信じる人々、その時代だけではなくイエスを信じるすべての世代のものを指しています。
「御名の中に彼らを保ち、また守った」というこの「保った」という言葉は、「守り続けている」という言葉が使われ、「私が」が強調された言葉遣いになっています。また「守る」は、城壁を回して守るという言葉が使われています。
ノアの箱舟を思い起こします。世界が大水で滅ぼされるときにもノアの箱舟は「御名の中に彼らを保ち、また守った」のです。わたしたちは、主の御名によって滅びから守られ保たれる、御名の中にかくまわれているのです。イエスは自分が去った後、どうぞ御名の中に彼らを保ちまた守ってくださいと祈られました。
17節は聖別のことです。これを個人的に思い巡らしてみました。もしこの箱舟に入る者たちがいがみ合っていたらどうでしょうか。11節に「一つになるために」とあります。もし聖別された者の中に罪の性質を持ったものがあり、妬み、競争心をもって、箱舟の中で一致出来なかったら、罪が残っていたら悲惨な状態になります。愛の心に満たされたときに、箱舟には一致が生まれるでしょう。
わたしたちと同様に、彼らが一つとなるとありますが、これは父なる神と子なるキリストは本来一つであり、一つとなるという意味です。御父と御子が一つとなっている、どうかそのように彼らが一つとなりますようにとは主の祈り願いです。
罪の性質は神に従いません。イエスさまは、父と子が何の隔たりもなく一つとなっているように一つにしてください、と祈られています。イエスさまは、どうかきよめの恵に与るようにと祈っているのです。ただ一つ、父なる神を真心こめて愛すること、イエスさまによって、このことが祈られているのです。
17節を見るとき、罪の解決はできないと放っておくべきでしょうか。我々は主の前にきよめられているでしょうか。赦してください、清め分かってくださいと祈るべきでしょう。
18節「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
きよめとは全き愛であり、われわれはそれを受けて、父なる神の御心をこの世にもたらすために派遣されている者なのである。イエスがこの世に遣わされているように、われわれもこの世に遣わされているものなのです。(使徒:8)
まったき愛とは、潔めと宣教なのです。
インマヌエル綜合伝道団の初代総理蔦田二雄先生は、インマヌエルを「聖と宣」とされました。これまで「聖」と「宣」を同等に捉えることに不十分であったことをここで反省し、確認しなければならないでしょう。
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