きょうの花の係はわたしの番と張り切り、花束抱えて教会に着いてみると、あららら、講壇の横にはもう真新しい花が生けられていた。週報を目に近づけてよくよく見ると、きょうの係は…ジャン! Y姉妹でした。と、こういう失敗も。
せっかくだということで、花束のうち3本を、Y姉妹が自分の生けた花に仲間入りさせてくれました。
さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会の国光勝美牧師の説教は
説教題 『みな一つとなるため』 ーヨハネ伝連講(99)ー
聖書朗読 ヨハネ伝17:20~26(青い字は聖書の引用です)
20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
ヨハネ伝17章はイエスさまのお祈りの章でした。イエスさまはご自分のため、弟子たちのため、そしてどの時代にあってもイエスさまを信じる人々のためにも祈られました。イエスさまが祈られた主題は「みな一つとなるため」でした。
「みな一つとなるため」という言葉は、ヨハネ伝17:11「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」に、上記の聖書の引用にあるとおり、17:21に、17:22に、17:23にと4箇所に記されています。
ご自身を信じる人々のみならず、すべての主を信じるものたちが一つとなるように祈っていることは疑うべくもありません。このイエスさまの祈りをどのように捉えるべきでしょうか。
「一つとなるように」にとらえ方によっては、二つの立場での解釈がなされます。
一つは、エキュメニカル運動の立場でのとらえ方があります。教会合一、教会を一つに纏めようとするムーブメントがあります。プロテスタントの教会がそもそもの始まりとなったのですが、これが大きく広まりカトリックにも大きく影響し、信じるものが一つとなろうとする潮流が今もあります。
善隣館などで聖書を求めようとするとき、先ず提供されるのは新共同訳聖書でしょう。多くのミッションスクール或いは他の立場の方々に用いられています。信仰を一つに纏めようとするとき、信仰の土台である聖書を一つに纏めようという意図のもとに翻訳されています。これがいまの大きな潮流です。
わたしたちはエキュメニカルの立場ではありません。わたしたちが使っている新改訳聖書は目立たない書架に置かれています。新改訳は福音派の人々に用いられています。教会と無関係の人が聖書を求めようとするとき、いったいどれを選ぶべきか分からなくなってしまうでしょう。
つまりは、「一つになる」をどのように理解するかによって異なってしまうということなのです。
なぜ教会がさまざまな教派に分れているのか? こんな疑問を持たれる方があるでしょう。そもそもイエスさまが「一つとなるように」祈られたときに、教会が分れている筈はなかったのです。ペンテコステの大きな恵によって教会が誕生するのですが、初期のカトリック教会を古カトリックという場合には、プロテスタントとの区別としていうのではなく、使徒の時代そのままの教会をいうのです。イエスの祈りは、古カトリックの不遍を祈ったのです。
しかしカトリックはその後に、政治、民族、文化、或いはイスラムの刺激などの事情から西と東に分れました。(諸教派の系統図がWikiに載っています)西を見るとカトリックとプロテスタントに分かれ、プロテスタントが政治体制、神学などの違いからまた分派を生じ、プロテスタントも政治体制から会衆政治、監督制(ローマ教会の型)に分かれます。
このように教会が分れたのでは、イエスさまが「一つとなるように」と祈ったにもかかわらず、イエスさまの祈りは成就していないではないかとさえ思われてくるのですが、ここで「一つとなるように」という意味を考えてみましょう。
ヨハネ伝17:21と22にあるように、イエスさまが「一つ」と祈るのは、目に見える教会が合同して一つになることではなく、それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。即ち御父なるお方と御子イエスが一つであるように、彼らもまた一つであるように、ということを祈っているのです。
ヨハネ17:22、23は非常に観念的ですが、これがはっきり分かるエピソードが使徒の働き9章にあります。使徒のなかでもペテロとともに数えられる偉大なパウロ。パウロはこのとき、まだサウロと呼ばれていました。イエスさまに出会う以前のパウロは、徹底した反キリスト者でした。クリスチャン迫害は天命と信じていたのです。当時クリスチャンは「この道」と呼ばれていました。パウロはダマスコにいる「この道」の者たちを壊滅するために大祭司に殺害の許可書を申請していました。ところが、
3道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。4彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。5彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

パウロは「なぜわたしを迫害するのか」というイエスさまの声を聞いたのでした。何とパウロは、クリスチャンを迫害することはイエスさまを迫害することであると知らされるのです。ここでもクリスチャンとイエスさまは一つであることが分かるのです。イエスさまは教会の柱であり、クリスチャンはそれと一体なのです。イエスさまはこのことを祈っていたのです。民族、歴史、時代が違うとき、そこに画一的なものを当て嵌めようとすれば無理が生じます。イエスさまの祈りは、どこの教会であれ、どんな者であれイエスさまを罪の贖い主と信じ罪の赦しをいただいているものが一つとなっているとき、文化、時代、教派を超えて、それは一つとなっていることなのです。エキュメニカルの教会が多くあるから一つになろうともっていくのではなく、イエスさまの「一つになる」とは罪の赦し、罪の潔め、愛に於いて一つになること。これをこそイエスさまdえきるものであることをは願っています。わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。もし罪がクリスチャンのなかで解決されていなかったなら決して一つにはなれません。この箇所で、イエスさまは、罪が解決できるものであることを証明しているのではないでしょうか。
23節、「彼らが全うされて一つとなる」とは、愛において全うされることです。26節には「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」とあります。
22節の栄光と24節の栄光は似ているようですが、しかし、しっかりと区別して捉えておくことは必要です。22節は、イエスさまは謙り、最期は十字架の死にまで謙った謙遜に見られる神の栄光です。シメオンがイエスさまの初めての宮参りで見た栄光、東方の博士らと羊飼いたちが拝した栄光のことなのです。わたしたちはこの神の栄光をいただいているでしょうか。わたしたちはいつでも、主よ有難うございます、こんな者のためにと感謝して主の栄光を拝することができるのです。
いいんですかほんとうに、と言葉を失ってしまうのが24章でしょう。神の栄光を見る。「汝きょうわれとともにパラダイスにあるべし」との聖句もあります。24節の栄光は、カルバリの丘にベツレヘムに現してくださった栄光、「世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになる」。ほんとうにそんなことができるんでしょうか。御父の横に第二位としての栄光であられるイエスさまを。イエスさまは、その栄光を「救われているあなたたちも私の栄光を見ることができると言うのです。
イザヤは神の栄光を見ました。
1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3 互いに呼びかわして言っていた。
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
その栄光は全地に満つ。」
4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
5 そこで、私は言った。
「ああ。私は、もうだめだ。
私はくちびるの汚れた者で、
くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
しかも万軍の主である王を、
この目で見たのだから。」
6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
7 彼は、私の口に触れて言った。
「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
あなたの不義は取り去られ、
あなたの罪も贖われた。」
イザヤがこんなくちびるの汚れたものが神を見るとは、と嘆いたときに、セラフィムの一人が祭壇の火でイザヤのくちびるをきよめました。こんなわたしが神の栄光を拝することができるんだろうか。しかし24節ではイエスさまが祈っておられます。
ヘブル人への手紙1:3
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
罪あるものが、神の栄光を拝することはできないが、カルバリの十字架を仰ぎ信じるとき、罪がきよめられ愛に全うされることができる。我々は少なくとも神に背いて当たりまえという意識は持ち得ないのです。世のはじめからの栄光を拝することができるようにイエスさまを信じましょう。
第一ペテロ1章13節「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」16節「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」20節「 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。」
ヨハネ17:24 「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」
イエスさまは祈っておられます。
※この説教は礼拝のときに取ったメモをもとに興しています。若干聞き違い、聞き落としなどがある場合もありますので、その点はご容赦ください。文責はこのブログ管理人となります。
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