きょうのことば ーゲッセマネの園にてー ヨハネ伝連講(100)
あわや遅刻かと思いました。車の渋滞です。考えてみれば、3連休の中日でした。きょうこそ花の係です。庭に咲いているグリーンのスモークツリー、ヒガンバナ科の青いアガバンサス、オリエンタル系の赤紫のユリ、斑入りのアオキ、白いフロックスを花瓶に生けました。
さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会の国光勝美牧師のお話は
説教題 『ゲッセマネの園にて』
聖書朗読 ヨハネ伝18:1~11
1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。
2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。
5 彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
6 イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。
8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
11そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
イエスさまは、これからいよいよ十字架に架けられる場面に臨むことになるのです。ゲッセマネの園では血の汗を流して祈っておられます。最後の晩餐で、イエスさまが弟子たちにイエスさまが取り去られることなどを話しているそこに、もうユダはいません。「汝のなすべきことをなせ」。ユダが悪魔に心を占領され出て行ったとき、外は暗闇でした。イエスに背を向けて去るときに、そこに光があろうはずがないのです。
ユダはイエスさまを捕えようとしている祭司長、学者、パリサイ人といった既成勢力のところに行き、銀30枚で売る約束を交します。決して人違いだとか何らかの理由で取り逃すことはあるまいな、と念を押す反キリストらに、ユダは、私がイエスの顔を知ってるから暗くても間違えることはありませんよ、とでも言ったでしょうか。ある資料によれば200人、しかし一般的には600人もの兵士らがユダの誘導でイエスを捕えようと明かりや松明を燃やしてやってきたのです。捕え損ねることなど許されなかったでしょう。
聖書からそれを補強してみましょう。
ルカ21:37「さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。」
ユダはこういったイエスさまの行動パターンを熟知していました。一方反キリストらは
ルカ22:1 さて、過越の祭りといわれる種なしパンの祝いが近づいていた。2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。
このように民の暴動を恐れていたので、民衆に気づかれないようにイエスを捕えようと躍起になっていたのです。イエスの側近ユダの裏切りは彼らにとって非常に好都合でした。
イエスさまはこれらすべてをご存じでした。知っていながら木曜の夜も祈るためにゲッセマネに行きました。この日は多くの弟子たちはすこし離れたところに居らせ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけをそば近くに居らせていつものように祈りました。間もなくローマ兵が来ることも分かっています。いよいよ「その時が来た」ことで、血の汗を流し祈ったのです。
ルカ22:39~39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。44 イエスは、苦しみ悶えて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
イエスさまが、弟子たちにも祈っていなさい、祈って欲しいと言ったにも拘わらず、弟子たちは眠っていたのです。おそらくはいつものように寝ていたとも考えられます。ここでは悲しみの果てに眠り込んだとあります。
さてヨハネ伝に帰ってみましょう。
イエスさまを捕えるために、200~600人もの人々が、灯火、松明、武器を手にやって来ました。
ヨハネ18:4でイエスは「だれを捜すのか。」と訊いています。「わたしは逃げも隠れもしない。これは父がわたしに下さった杯なのだ。このためにわたしは来たのだ。他の弟子たちは関係がない。あなた方が捕えようとしているのはわたしなのだから他の者たちは関係がない」と言われるのです。このときペテロは、たとえ他の者がイエスさまを裏切ってもわたしは裏切りませんと言いました。ペテロは剣で大祭司のしもべの右耳を切り落としてしまいます。イエスさまは耳を元通りにしましたが、これがイエスさまの地上に於ける最後の癒しの奇蹟でした。
イエスさまが18:6で「それはわたしです」と言われたとき、「彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。」というここのところを皆さんはどのように受けとめますか? 何が彼らをそのようにさせたのでしょう。「それはわたしです」、これはたいへん意味のあることばです。
ヨハネ6章には5000人の施食の奇蹟が書かれています。そのあと弟子たちが舟に乗ってカペナウムの方に渡ろうとしたが舟は強風に煽られ弟子たちは動揺しました。4、5㌔こぎ出したとき、イエスが湖上を歩いてこちらに来るのが見えたので弟子たちは恐れました。イエスは彼らにいいました。ヨハネ6:20「わたしだ。恐れることはない。」。これをギリシャ語で「エゴ・エイミー」(わたしはある)といいます。このことばこそ、出エジプト記の3章、モーセが上ったホレブ山で柴の中の炎の中に現れ、モーセに「あなたの足のくつを脱げ」と仰せられ、14節にある通り「わたしは『わたしはある』(I Am that I Am)というものである。」と仰せられた神ご自身なのです。
この地上の勢力が灯火、松明、600人の大軍隊を差し向けていったい誰をさがしたのか。「それはわたしです」。このおこたえを聞いたとき、彼らはひっくり返ってしまった。後ずさりし地に倒れてしまいました。
わたしたちが信仰生活をするとき、押し迫る妨害、反対、課題が今にも押し寄せてこようとするとき、「それはわたしだ、恐れることはない」といってくださる主がともにいてくださる。「それはわたしだ、エコ・エイミーである」というときに嵐は静まります。このお方が守ってくださいます。
イエスさまは最後のお別れのとき、父よ御名の中に彼らを守ってください、と祈られました。このお方こそ私たちが信じ従っていくお方であること、この世のどんな勢力もこのお方の前には崩れ去ります。このお方の御名をしっかりと胸に留めて信仰生活を歩んで行きましょう。一歩のりだしてご自身を現してくださる主を信じましょう。
※この説教は聞き書きですが、聞き落としなども若干あります。文責は当ブログ筆者にあります。
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