きょうのことば ー主イエスの栄光ー
けさもすっきりと高い青空。その青空から花の形に切り取ってきたかに、青いクレマチスが咲いていました。
花を生ける当番なので、いつもより早い目に教会へ。ローズピンクの八重のデルフィニューム2本と白い小さな花のついた洋ラン3本を基調に生けてみました。 生け終わって席に静まり、姉妹の弾くオルガンに耳を澄ませました。
きょうは礼拝後には茶菓を囲んでの「例会」があり、そのあと毎年恒例の「山菜とり」があるので、メッセージはいつもより20分早く終わりました。写真は山菜採りの山です。
説教はインマヌエル盛岡キリスト教会(現在パソの不具合でリンクできませんので、名称を打ち込んで教会ページをご覧下さい)の国光勝美牧師です。
説教題 『主イエスの栄光』
聖書箇所 ヨハネ伝17:1~8
1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
ヨハネ伝16章は謂わば弟子たちとの最期のミーティングです。これが終わったら、いざ決戦! というところでもあるのです。弟子たちも、いつものミーティングとはどこか違うぞと思っている。イエスさまがここで伝えたいことと、弟子たちの受け取り方がどうしても噛み合わない。イエスさまが、16:7「…わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
」と言われたことなどがよく理解できない。イエスさまとニコデモの会話もそうでした。ユダヤ人の指導者でさえ分らなかったのです。
それでもイエスさまは、16:33「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と、この最期のミーティングで弟子たちを力づけています。
これに続くのが17章のイエスさまの祈りです。
1イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。…」。イエスさまは、時が来たと祈られました。そして26わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。とさらに祈られます。17章は祈りの章です。この祈りの後、18:1からにあるように、ゲッセマネの捕縛、裏切り、十字架へと進んでゆかれます。
17章からは大切な語りかけをいただきました。
イエスさまが「目を天に向け」たあとには、ゲッセマネの祈りがあり、最後の晩餐ではユダが裏切ろうと出ていきます。そこはすでに夜でした。ローマ兵がやって来ます。しかし、自分がこれから十字架につくという大きなうねりのまっただ中に身を置いているイエスさまには、平穏ささえ感じられます。すこしも目が泳いでいない状態といったらいいでしょうか。「時がきた」このときに、静けささえ感じるのです。
わたしたちは、常に現実的な荒波に直面します。生きている限りそこを避けて通ることはできず、そこを歩んでいかなければなりません。どうかすればイエスさまの十字架と比べたくなるほど直面する課題は大きいでしょう。そんなときイエスさまのように、しっかりと目を天に向けて祈ることができたなら何とすばらしいでしょう。落ち着いて「いよいよその時がきました」と言うことができたなら…。羅針盤は、大嵐の中でぴたりと北の方角を指してくれます。イエスさまは、どんなに波が荒れ狂っても、ぴたりと〝北の方角〟を指します。ぴたりと目を天に向けて祈られます。詩篇46篇には「汝等静まりて我の神たるを知れ」とあります。如何に周囲が激動にあっても神の都は揺るがない、これがイエスさまなのです。ヨハネの17章に学ぶとき、そのような認識のもとに祈ることができたならと思います。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とイエスさまが仰っているのですから。
「時が来ました」とはどういう時なのでしょう。イエスさまが、使命、目的を成就する時のことです。イエスさまが公の生涯に立たれたとき、カナの婚宴では、「わたしの時はまだきていない」と言いました。しかし17章では「時がきました」と言っています。これはヨハネ13:1「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来た」ということで、いよいよ十字架によって、使命である贖いを成す時が来たのです。イエス・キリストを信じる人が、十字架の贖いによって永遠の命を持つときこそイエス自身の栄光があらわれる時です。
聖書のいう栄光とは?
栄光という光は聖書というプリズムを通して進むならば、ちょうど七色に光りが分れるように十字架が浮かんでくるのです。十字架が浮かぶことこそが、ほんとうの栄光です。世の中の繁栄、この世的な祝福が栄光なのではありません。十字架を映すことができるのが栄光なのです。
イエスが地上に誕生するとき、ベツレヘムの厩に御使いたちが現れ、栄光神にあれ、王の王、主の主なる方が飼い葉桶にお生まれくださった栄光神にあれと讃えました。黄金のベッドに寝かされているのはこの世の栄光、しかし神の栄光は貧しく飼い葉桶に寝かされているイエスさまに現れたのでした。あの博士たちもこの厩に神の栄光を見たのです。イエスさまの栄光は貧しいヨセフとマリヤにぼろのような産着を着せられた幼児に現われたのです。
「父よ時が来ました。」ほんとうに栄光を現わす時がきたということです。
この説教を準備しながら、こみあげてくるものがありました。世の人は飼い葉桶のイエスに栄光を見ることはできません。世の中のほとんどの人は見ることができないのです。しかしどういう訳か分らないけれども、キリストの栄光を見ることができる者たちにその栄光を現わしてくださったのです。
何の取り柄もないこの私が十字架の栄光を知るものとせられたのです。何と感謝なことでしょう。
イエスさまは17章でこう祈られています。「17 真理によって彼らを聖め別ってください。」
世の人々が決して知ることがない神の栄光が、私たちの心の中に満ち溢れるように祈ろうではありませんか。
※文責は一切当ブログ筆者にあります。
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