きょうのことば ー主は私の羊飼いー

きょうも梅雨空でした。しかし教会の玄関は掃き清められ、羊の写真を配したポスターに書き込まれた説教題が、来会の方々を迎えていました。
「おはようございます」
「おはようございます」
朝の挨拶、主への挨拶が交されます。
「おはようございます」
「おはようございます」
さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は
説教題 『主は私の羊飼い』
聖書朗読箇所 詩篇23:1~6(以下の青字の部分は聖書からの引用です)
- 1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
- 2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
- 3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
- 4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
- 5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
- 6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
皆さんよくご存じの詩篇23篇を読むとき、私は、小岩井農場を思い出します。
私はよく早朝に鞍掛山に登ります。小岩井から網張を目指してゆくと、途中に鞍掛山の登り口となる駐車場があります。小岩井農場の朝かたには、よく靄が立ちこめ、その中に羊が動いているのを見るとき、この詩篇23篇が思い出されるのです。
詩篇23篇の注解書は多くでていますが、きょうはバックスターの注解をご紹介しましょう。(以下の緑の字)
この23篇は、「主は私の羊飼い」という表現で始まっている。ヘブル語の文章には「……である」という語はない。簡潔に、「主は私の羊飼い」と述べる。これは、喜ばしい発見をした時の感嘆として読まれるべきではないだろうか。ヘブル語では、この感嘆は「アドナイ・ロイー」である。そして、これは非常に重要である。旧訳聖書において、「アドナイ……」という表現は7例ある。それらは次の通りである。
アドナイ・イルエ 「主の山の上には備えがある」(創22:13~14)。
アドナイ・ラファ「わたしは主、あなたを癒すものである」(出13:26)。
アドナイ・シャロム「主は平安」(士6:24)。
アドナイ・ツィデケヌー「主は私たちの正義」(エレミヤ23:6)。
アドナイ・シャマ「主はここにおられる」(エゼ48:35)。
アドナイ・ニシ「主の御座の上の手」あるいは「主はわが旗」(出エジプト17:8~15)。
アドナイ・ロイー「主は私の羊飼い」(詩23:1)
これら7つの「アドナイ……」という表現に示されるすばらしい神の備えが、この23篇の中に集約されている。感銘深いものである。
アドナイ・イルエ 「主の山の上には備えがある」(創22:13~14)。
「私は、乏しいことがありません」
アドナイ・ラファ「わたしは主、あなたを癒すものである」(出13:26)。
「主は、私のたましいを生き返らせます」
アドナイ・シャロム「主は平安」(士6:24)。
「主は私をいこいの水のほとりに伴われます」
アドナイ・ツィデケヌー「主は私たちの正義」(エレミヤ23:6)。
「主は、わたしを義の道に導かれます」
アドナイ・シャマ「主はここにおられる」(エゼ48:35)。
「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」
アドナイ・ニシ「主の御座の上の手」あるいは「主はわが旗」(出エジプト17:8~15)。
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえてくださいます」
アドナイ・ロイー「主は私の羊飼い」(詩23:1)
「主は私の羊飼い。」
この23編はダビデが息子アブシャロムに謀反を起こされ、命からがら荒野に逃げなければならない暗黒の時期を、晩年になって、あのときもやはり主は羊飼いであったと振返った詩篇です。
詩23:1に「主は私の羊飼い」とあります。
みなさんは、コマで遊んだことがあるでしょう。コマの中心がしっかりと定まって回っているとき、見たところはピタリと止まっているかです。しかし中心がずれていると、いかにも俺は回っているぞーと派手に動くのですが、これはほどなく倒れてしまいます。
自分は一体どんな回り方をしているでしょう。願うところは、中心がぴたりと定まって回りたいものです。こういった場合、よし触ったとしても、触ったほうが弾き飛ばされてしまいます。そこで若干揺れたとしても、またすぐにしっかりと回り始める。ダビデの生涯はこのようなものでした。斯くありたいものです。
往々にしてお金が羊飼いになてしまっていることがあります。しかし中心が誤っているので、すぐに倒れてしまう。健康が一番の場合もあります。が、これでも、健康が一旦損なわれたときには、人生が破綻してしまいます。
「主は私の羊飼い」とダビデは言います。アブシャロムの反乱のとき、同志が簡単に敵に寝返る、この人こそ大丈夫だと思っていた者が裏切った事実。もし人を中心に置いていたなら……。そのようなときでも主を中心に置いていたからこそダビデは「主は私の羊飼い」と言うことができたでしょう。
またダビデは「私には乏しいことがない」と言っています。スウェーデン出身のゴスペルシンガーで両腕がなく、片脚も半分しかないという障害を負ったレイナ・マリアさんは、「自分の好きな詩編23篇」「私には乏しいことがない」「神の恵みは私に十分である」と歌っています。心からこのように歌えるというのも、主を中心に回っているからこそでしょう。
「主は私を緑の野にふさせ」とあります。羊が安心して臥すことができる条件は3つあります。
1、恐れがない。死に対する恐れがないこと。主は既に、羊に命を得させるために、自らの命を捨ててくださいました。
2、仲間同志の摩擦、軋轢がない。私たちは罪の解決を得ています。許せない心を持ちながら平安に過ごすことはできません。罪の解決を得ているからこそ、罪を犯すものを受けとめることができます。自分が赦されているので、自分が臥して安らぎを得ることができます。
3、空腹ではないこと。日毎に聖書を読み、養われましょう。緑の牧場とは聖書のことです。
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
ダビデはキリストの雛形であり理想的な人物として出てきますが、弱さを持った人物でもありました。ダビデは、アブシャロムの反撃にもあっていますが、「あなたのむちとあなたの杖がダビデの慰めとなりました。犯してしまった罪について、主は刈り取らせもするが、「苦しみにあいたりしは我によきことなり」と納得させてもくださる。主がムチ、杖をもって扱うのも本当に子どもを思うからこそです。愛から出ているのです。
エホバ・ニシ、すべての敵の前で私に勝利を与えてください。
「勝ちえて余りあり」ロマ8
詩篇23:6「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
※聞きとれなかった部分もあります。ご了解ください。
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