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2010年6月

6月よありがとう!

 22時34分と時刻を書くと何か意味があるのだろうかと思われるかも知れない。しかし特別な意味はなく、後になって、ああ、あの日あの時刻に雨がふっていたんだっけ、けっこう強くふってたんだ、と思い出せればといった程度のこと。それにしてもよくふる。

 
受難曲突き刺す雨も受けとめて(ぶんな)

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 いまヨハネ受難曲の第32曲「心して思いはかりなさい」が歌われている。聴きながら作業をすることは苦手だったが、時間のやりくりから今は“ながら”族だ。アリアのすこしの間隙を幾たびも満たすヴァイオリンの哀切な響き。書くうちに場面は変り第33曲「兵卒は茨で冠を編み」
 雨の音が止んだ。今は第40曲コラール。

 
雨止みてコラール闇に染みとおる家並み深く眠りて低し(ぶんな)

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 第55曲「それは聖書の言葉が成就されるためだった」。そして第56曲コラール「彼は最期のときに臨んで」。
第58曲アリア「事は果たされた」。第60曲「わが尊き救い主よ、私が問うのをお許し下さい」アリアとコラールの織りなす奥深い問いかけ信仰、確信、感謝。


 十字より脚を折られで外されしイエスは闇を照らして此処に(ぶんな) 

 第61番も歌われはじめているが、きょうの日は去る。5月は若葉の輝きを浴び、6月半ばからは、終日の雨と、かっと目を見開くかの真夏日との輪番。そして今また窓に雨の音が戻った。樹木はずぶ濡れ、花も微かな窓の明かりをのせて、びしょ濡れのはず。しかしこの受難の曲に癒されている。静かな眠りが訪れるだろう。
 6月は最も身近な地域に目を留め、地域の方々に生かされている感謝とともに、この小さな家を顧みた一月だった。ありがとう6月。心からの感謝を捧げつつ。

 この一文を閉じようとするときになって、限りなくやさしく第65曲が流れはじめた。このブログを閉じたあとにも、さざめくようにゆらめき歌いつづけてくれるだろう。



 

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JSバッハ:ヨハネ受難曲を聴くーカール・リヒターDVD-

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                     ペーター・シュライアー(テノール)
         エルンスト・ゲロルト・シュラム(バス)
         ジークムント・ニムスゲルン(バス)
         ヘレン・ドナート(ソプラノ)
         ユリヤ・ハマリ(アルト)
         ホルスト・R・ラウベンタール(テノール)
         キート・エンゲン(バス)
         ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団
         指揮:カール・リヒター
         演出:アルネ・アルンボム
         制作:1970年9月ディーセン

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 解説から興味深い部分を抜き書きすると…
「この作品ではバッハは、演奏のための指示をほとんど記していないため、後世に大きな困難を残しました。それは特にコラールについて当てはまり、いくらでも異なる解釈が可能です。ピアノをフォルテとすることも、その間にある強弱のすべてを正しいと主張することもできます。しかし、それでもコラールは、バッハが成し遂げた最も驚くべき卓越した成果なのです」(マティアス・ヘルゲン・ブロック)

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第1曲「主よ、われらの統治者よ!」
第18曲「彼は否定して言った」ペテロの慟哭
第27曲「ああ、大いなる王よ」
第30曲「バラバは強盗殺人犯であった」イエスの鞭打ち
第58曲「事は果たされた!」
第65曲「力を与えたまえ、キリスト、神の御子よ」

このところを重点的に聴く。

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宮古ジュニア弦楽合奏団

 きょうは音楽の話になりますが、わたしが、岩手県宮古市の西が丘という山の上に住んでいたとき、幼い子どもたちを毎日近くの公園で遊ばせていました。そこで4人の女の子を持つお母さんとよくご一緒したのです。この方から「娘たちにヴァイオリンを習わせている」と聞いたとき、ヴァイオリンなら持ち運びもできて、就職などで家を出るときにも持っていける。教師は梅村功二という先生だという。「どんな先生なの?」と訊くと「先ず行ってみて。とにかく安心するから」と仰ったのだった。

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 梅村功二先生はどのお母さんがたにも厳父梅村保のことを繰り返し繰り返し語っておられた。それは後日知った岩手の大正に輝く弦楽四重奏団太田カルテットの主宰者であり、戸田一心流免許皆伝の梅村保氏のことである。

 保氏は功二先生の兄重光さんに音楽上の期待を置き、ピアノ、ヴァイオリンなどを教え込んだ。一方、功二先生には「お前は二男だから、国のために命を捨てよ」と武道の特訓をしたという。功二先生はこれに反発しヴァイオリンを内緒ではじめたのだった。

 梅村家は昭和12年に重光さんが満鉄に就職したために、全財産を処分し、満州にわたった。功二先生は吉林では父に習い、自らも音楽の指導をした。終戦で捕まり白昼に敵前逃亡に成功、またソ連軍に捕まったときには銃殺刑と決まっていたが、「この人は軍人ではない」との中国人の証言で死を免れ、帰国。
 宮古市で、かつて保氏に楽器を習ったことがあるという知人に会う。その子どもたちに是非ともヴァイオリンを教えて貰いたいと頼まれ昭和23年にスタートしたのが、現在の梅村ヴァイオリン教室の始まりです。

 功二先生は、宮古市役所建設課勤務時代には、「音楽で職場を明るくし、楽しく仕事をしよう」と昭和37年に宮古市職組に東北の地方自治体では初めての28人編成のブラスバンドを結成する。指導は宮古一中の佐々木幸夫さんとともに当たり、指揮は自らが取った。日本の辺地を慰問したいとのビジョンを掲げ、昭和38年には第1回の慰問先として人里離れた山奥で勉強する同市花輪小学校南川目(市中心部から25㌔の山奥)、北川目分校を慰問し、子どもたちの歓声を浴びた。

 当初、梅村ヴァイオリン教室は、毎年文化の日に宮古市民音楽祭に参加していたが、人数が増え全員参加させるのは無理になったために、昭和38年、宮古ジュニア弦楽合奏団を組織し独自に発表会を開くようになった。この頃桐朋学園大学音楽部教授の久保田良作先生が、今では全国的に名を成している門弟らを引き連れてこのオーケストラと交流をしている。「音楽の夕べ」には、合わせて実に230人出演となった時代である。

 昭和45年、同合奏団は、心身障害児施設の設備基金にする慈善演奏会を開催し、「知恵のおくれた子どもや体の不自由な子供らに愛の手をさしのべよう」と訴えている。

 そののち、同団より器楽コンクールに次つぎに入賞者を出している。

 また老人ホーム慰問は伝統的に続けられている。 

 この宮古ジュニアオーケストラが創立50周年を迎え、来る8月1日に第45回「音楽の夕べ」を開催しようとしている。大正4年に盛岡市太田村に、梅村保氏主宰の弦楽四重奏団太田カルテットが結成されてより、実に96年の歳月が梅村家の音楽活動の上に流れた。

  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

宮古ジュニア弦楽合奏団の記事の下をお借りしまして、カナンの園へのご協力をお願いいたします。誰が賛同し、誰が賛同しないといった事などは二の次、とにかくいまカナンの園の方々が、障害者自立支援法によって従来の居場所から次の所へと移らなければならない、その行き先が、安住の住処が必要なのです。緊急に今年冬がくるまえに、二つのケアホームの建設が必要です。

 カナンの園で作られたグッズ、絵はがき、パン、クッキー、せんべいなど、購入していただければ幸いです。

カナンの園後援会

 〒020-0147
 盛岡市大館町28番53号
 ヒソプ工房内
【郵便振込口座】02330-6-6631 カナンの園

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きょうのことば ー主は私の羊飼いー

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きょうも梅雨空でした。しかし教会の玄関は掃き清められ、羊の写真を配したポスターに書き込まれた説教題が、来会の方々を迎えていました。
 「おはようございます」
 「おはようございます」
 朝の挨拶、主への挨拶が交されます。
 「おはようございます」
 「おはようございます」
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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は
説教題 『主は私の羊飼い』
聖書朗読箇所 詩篇23:1~6
(以下の青字の部分は聖書からの引用です)

1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
 

皆さんよくご存じの詩篇23篇を読むとき、私は、小岩井農場を思い出します。
私はよく早朝に鞍掛山に登ります。小岩井から網張を目指してゆくと、途中に鞍掛山の登り口となる駐車場があります。小岩井農場の朝かたには、よく靄が立ちこめ、その中に羊が動いているのを見るとき、この詩篇23篇が思い出されるのです。
 詩篇23篇の注解書は多くでていますが、きょうはバックスターの注解をご紹介しましょう。(以下の緑の字)


この23篇は、「主は私の羊飼い」という表現で始まっている。ヘブル語の文章には「……である」という語はない。簡潔に、「主は私の羊飼い」と述べる。これは、喜ばしい発見をした時の感嘆として読まれるべきではないだろうか。ヘブル語では、この感嘆は「アドナイ・ロイー」である。そして、これは非常に重要である。旧訳聖書において、「アドナイ……」という表現は7例ある。それらは次の通りである。

アドナイ・イルエ 「主の山の上には備えがある」(創22:13~14)。
アドナイ・ラファ「わたしは主、あなたを癒すものである」(出13:26)。
アドナイ・シャロム「主は平安」(士6:24)。

アドナイ・ツィデケヌー「主は私たちの正義」(エレミヤ23:6)。
アドナイ・シャマ「主はここにおられる」(エゼ48:35)。
アドナイ・ニシ「主の御座の上の手」あるいは「主はわが旗」(出エジプト17:8~15)。
アドナイ・ロイー「主は私の羊飼い」(詩23:1)

これら7つの「アドナイ……」という表現に示されるすばらしい神の備えが、この23篇の中に集約されている。感銘深いものである。

アドナイ・イルエ 「主の山の上には備えがある」(創22:13~14)。
  
「私は、乏しいことがありません」
アドナイ・ラファ「わたしは主、あなたを癒すものである」(出13:26)。
  
「主は、私のたましいを生き返らせます」
アドナイ・シャロム「主は平安」(士6:24)。
  
「主は私をいこいの水のほとりに伴われます」

アドナイ・ツィデケヌー「主は私たちの正義」(エレミヤ23:6)。
  
「主は、わたしを義の道に導かれます」
アドナイ・シャマ「主はここにおられる」(エゼ48:35)。
  
「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」
アドナイ・ニシ「主の御座の上の手」あるいは「主はわが旗」(出エジプト17:8~15)。
  
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえてくださいます」
アドナイ・ロイー「主は私の羊飼い」(詩23:1)

  「主は私の羊飼い。」

この23編はダビデが息子アブシャロムに謀反を起こされ、命からがら荒野に逃げなければならない暗黒の時期を、晩年になって、あのときもやはり主は羊飼いであったと振返った詩篇です。

詩23:1に「主は私の羊飼い」とあります。
みなさんは、コマで遊んだことがあるでしょう。コマの中心がしっかりと定まって回っているとき、見たところはピタリと止まっているかです。しかし中心がずれていると、いかにも俺は回っているぞーと派手に動くのですが、これはほどなく倒れてしまいます。
 自分は一体どんな回り方をしているでしょう。願うところは、中心がぴたりと定まって回りたいものです。こういった場合、よし触ったとしても、触ったほうが弾き飛ばされてしまいます。そこで若干揺れたとしても、またすぐにしっかりと回り始める。ダビデの生涯はこのようなものでした。斯くありたいものです。
 往々にしてお金が羊飼いになてしまっていることがあります。しかし中心が誤っているので、すぐに倒れてしまう。健康が一番の場合もあります。が、これでも、健康が一旦損なわれたときには、人生が破綻してしまいます。
 「主は私の羊飼い」とダビデは言います。アブシャロムの反乱のとき、同志が簡単に敵に寝返る、この人こそ大丈夫だと思っていた者が裏切った事実。もし人を中心に置いていたなら……。そのようなときでも主を中心に置いていたからこそダビデは「主は私の羊飼い」と言うことができたでしょう。
 またダビデは「私には乏しいことがない」と言っています。スウェーデン出身のゴスペルシンガーで両腕がなく、片脚も半分しかないという障害を負ったレイナ・マリアさんは、「自分の好きな詩編23篇」「私には乏しいことがない」「神の恵みは私に十分である」と歌っています。心からこのように歌えるというのも、主を中心に回っているからこそでしょう。

「主は私を緑の野にふさせ」とあります。羊が安心して臥すことができる条件は3つあります。
1、恐れがない。死に対する恐れがないこと。主は既に、羊に命を得させるために、自らの命を捨ててくださいました。
2、仲間同志の摩擦、軋轢がない。私たちは罪の解決を得ています。許せない心を持ちながら平安に過ごすことはできません。罪の解決を得ているからこそ、罪を犯すものを受けとめることができます。自分が赦されているので、自分が臥して安らぎを得ることができます。
3、空腹ではないこと。日毎に聖書を読み、養われましょう。緑の牧場とは聖書のことです。

4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

ダビデはキリストの雛形であり理想的な人物として出てきますが、弱さを持った人物でもありました。ダビデは、アブシャロムの反撃にもあっていますが、「あなたのむちとあなたの杖がダビデの慰めとなりました。犯してしまった罪について、主は刈り取らせもするが、「苦しみにあいたりしは我によきことなり」と納得させてもくださる。主がムチ、杖をもって扱うのも本当に子どもを思うからこそです。愛から出ているのです。

エホバ・ニシ、すべての敵の前で私に勝利を与えてください。
「勝ちえて余りあり」ロマ8

詩篇23:6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

※聞きとれなかった部分もあります。ご了解ください。










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雑感

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 室温28度。ほんとうかなあ。温度計がすこし狂っているのでは。けれども外からは涼しい風が吹き込んでいる。heart

日報随筆賞には投稿しなかったが、今年はどんな作品が舟越保武さんのエリカを射止めるのだろう。下選が誰によって何段階で行われるものかは皆が知りたいのではなかろうか。club

 一昔まえは、非凡で奇抜であることが面白く価値があるかに思っていたが、平凡で穏やかであることの尊さを思う。と、それに気づいたことは良いのだが、それが少々安穏に傾いてしまった今日でもあった。spade

 明日はどんな日曜日になるだろう。願わくは主が讃えられる一日、新しい風の吹く一日とならんことを!!bell

 

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デジカメ散歩

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  高松の池の薔薇園が咲いてると聞き、買い物がてら立ち寄ってみました。カメラにおさめるには花はすこし過ぎていました。その時は、せっかく来たのだからと、3種類ばかりの薔薇を撮ったのです。ブログに載せてから、そういえば老人福祉施設の方々が車椅子に乗り、スタッフの方々に押してもらいながら薔薇を見ていた姿を思い出しました。15人はいらっしゃいました。一人の女の方とすれ違ったときに、「ほんとにきれいだごど」と、薔薇の美しさが目の前に浮かぶような響きの言葉を口にしながらご覧になっていました。いま思うと、薔薇の値がもっともあるのは、あの瞬間だったでしょう。車椅子の高さから間近に見た薔薇の美しさ。薔薇の間近に顔を寄せた80か90歳の深く皺の刻まれた、久しぶりに施設から戸外に出かけた開放感に喜び、薔薇の香りと美しさに感嘆しているこの姿こそ撮る価値があったと今頃になって気づきました。残念です。

 こんなことを思いつつ、開け放った窓のカーテンを開けてみると、月が出ていました。ふと見上げたそこに明るく静かに、まるでさっきからこちらを見ていたかに。

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 風通しのよい部屋の湿度42㌫。気温25度。駆け抜けてゆく車。そして舞いもどる静けさ。

 月の遠くには、幾多の星雲。死んでゆく星、生まれてくる星の夥しい邂逅と離別。

 

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口蹄疫は今

 口蹄疫はどうなったかなとasahi.comにお邪魔してみると、
…24日の宮崎県知事発表によれば、口蹄疫に感染、もしくは感染の疑いのある牛や豚など全19万9293頭の殺処分と埋却を終えた…県内では感染・感染疑いの分とは別に、感染拡大を防ぐためにワクチンを接種したうえで殺処分する予定の家畜が23日時点で、1市5町に3万428頭残っており、月内の処分終了を目指している。…


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 やまと新聞の号外、特に30枚の写真、殺処分された家畜たちのすがたには…もう何とも………                                       


 
クリックすると元のサイズで表示します
 
 ムッチーさんの牛の写真、一枚お借りしました。この牛も20万頭の家畜たちとともに埋却になったのです。もう牛舎に牛はいないのですが、ムッチーさんのブログは、いまや畜産のためにさまざまな役割を果たしています。

 ムッチーさんの募金の集計が23日付けブログに掲載されています。以下の青文字は転載です。


 皆様が、ご心配して頂いてる、募金の金額を報告させて頂きます。
皆様から、預からせて頂いてる、募金は被災された畜産農家全戸に
おくらせて頂きます。

尾鈴農業協同組合の通帳 15,887,197
郵便局の通帳      30,327,379
合計          46,214,576円です。

皆様の温かいお気持ち感謝いたします
ありがとうございます。

通帳のコピー、募金先はこちら

 昨日午後に行った盛岡市のある薬局でも、たしか薬剤師会で行っているものでしたが、口蹄疫の募金箱を設置していました。調剤を待つあいだ嬉しく思いながら眺めたことでした。
 一刻もはやい清浄化宣言を祈りつつ。



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賛美歌 緑も深き

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賛美歌 緑も深き

 1.
緑も深き若葉の里
ナザレの村よ汝がちまたを
こころ清らに行きかいつつ
育ちたまいし人を知るや
2.
その頭には冠もなく
その衣には飾りもなく
貧しき村の大工として
主は若き日を過ぎたまえり
3.
人の子イェスよ君のみ名を
み使いたちのほむるときに
恵みに匂い愛に香る
み足の跡をわれはたどらん

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本郷新のキリスト像

画像:十字架のキリスト

本郷新のキリスト像(札幌彫刻美術館)

十字架上のイエスさまの苦悩に思いを致したとき、恐ろしいまでに苦悩に満ちた姿、表情が浮かんだ。人の負の暗部をすべて映し出していたに違いない。人の顔には人生が刻まれるという。人の顔に刻まれうるありとあらゆる場合の表情の総体とでもいったらいいのか。ありとあらゆる苦痛、苦悩、懊悩。怒り、苦悶、葛藤、罪業…その凄まじさが眼前に浮かんだ。

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」

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カナンの園

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 きょうも今時間になってしまいました。さてブログを書こうかと所定の位置に移ると、クレーメルのヴァイオリンのあの鋭い響きが活き活きと蘇ってきました。ヴィヴァルディはやはり不思議です。いったいどうしたらこんなに明るく透徹し研ぎ澄まされた切れ味のよい音を連ねることができるのか。ハープシコードの役割も大きく感じられます。音盤を掛けてしまうと、思考がそんな方向に流れるのでブログを書き終えてから聞くことに。note

 きょうもほんとうに恵まれた一日でした。というのは終日平穏で平凡なときが保たれたからです。この平凡であること、これがどんなに大切であることか。朝日を浴びながら軒下に置いた椅子でコーヒーを飲む。そういえば朝食のときに開けはなった台所の扉に、鳥が留り行き先を見定めていましたが、初めて間近に見る光景でした。door


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                                        カナンの園の方製作のブローチです。

 きょうご紹介したいのは、岩手県一戸町の奥中山にある社会福祉法人カナンの園のこと。教会に運営、教育に携わる斉藤さん、小原さんが訪れ、次のように訴えられました。

 厚生労働省の障害者自立支援法に基づき、集合型の精神施設「ちいさき群れの里」が閉鎖され、ケアホームに分散されることになりました。人数的には6つ欲しいところです。既に2つあり、あと4つ必要です。早く出よ、との国の指導で作業所、訓練所が改築され移転できたものの、あと2つ残っています。行政側から早く移るようにとの指導があり、早急にケアホームを2つ作らねばなりません。一棟に付き2000万円必要です。5月現在で500万円の寄付が集まっていますが、この厳しい時代、容易ではありません。
 開設当時からいる方、当時は5、6歳だった子ども達も40代、50代となっています。親が亡くなったり、歳をとったりし、また個性が強く重度の障害をもった方々に受け入れ先がないという状況です。この方々に何とかして居場所を早く与えたいのです。冬が来る前に、何とか2つのケアホームを与えたいのです。
 募金は法人運営、また施設の必要を賄う資金として使われます。新しい職員もたくさん入り、ノンクリスチャンの方々も入りました。この方々がキリスト教の理念に基づいてカナンの園の運営が成されるように具体的な支援をお願い致します。
 早急に今年2つ、来年以降に2つ必要です。何卒宜しくご支援ください。

カナンの園後援会
 〒020-0147
 盛岡市大館町28番53号
 ヒソプ工房内
【郵便振込口座】02330-6-6631 カナンの園





 

 

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きょうのことばー弟子たちへの格別な祈りー

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 これは、カナンの園の方が描いた絵はがきです。突っぱらず気負わず、あるがまま。はい、わたしはこんなふうですよと言っている。気負いで少々疲れ気味のわたしを、楽な気分にしてくれました。
 きょうは朝は曇っていました。礼拝途中、外ではティンパニーを激しく打ち鳴らしたときよりもまだ恐ろしげな雷がしました。そして滝のような雨。それでも説教は途切れませんでした。

 さて、今日のインマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師のお話は
 説教題  『弟子たちへの格別な祈り』
 聖書朗読  ヨハネ伝17:9~19

 
9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
10 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
12 わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

19 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

ヨハネ伝17章は大祭司イエスさまの弟子たちへの格別な祈りの章です。大祭司というのは、ユダヤの
宗教上の職責であり、神と人とのあいだに立って、人と神とを結びつける役目をします。人を神にもってゆき、神を人にもたらす役目をします。主は、「わたしはすでに世に勝った」と締め括られたあとで、この大祭司としての祈りをなさいました。これは大きく三つに分けられます。
1、イエスご自身のこと。
 「
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

2、イエスさまのお弟子さんたちのこと。
 9節に「
わたしは彼らのためにお願いします。
世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。」とある彼らとはお弟子さんたちのことです。
3、20節
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
 これはすべての時代のすべてのクリスチャンのために祈っているということです。

弟子たちへの祈りは私たちにも当てはまる完全な祈りであり、私たちへの祈りだと捉えることができます。

9節10節

 9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
10 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
ここに、「わたしは彼らによって栄光を受けました。」とありますが、ここでストップをかけたくなります。このあとで、ペテロは「あんな男とは関係ない」
と否定するじゃありませんか。みな弱さの故に躓いて散り散りになってしまったじゃありませんか、と思うでしょう。欠けだらけで弱さのいっぱいある弟子たち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ…弟子たちばかりではありません。躓きやすい私たち、そういう私たちのために、イエスさまは、「わたしはすでに彼らによって栄光を受けました」と語っておられる。彼らによって不面目を受けたと祈られても仕方がないところを、あなたはわたしのものだ、わたしはあなたによってすでに栄光を受けました、と言ってくださるのです。これからどうなるかを知っていながら、わたしは彼らによってすでに栄光を受けているんだよと仰っている。「わたしの目にはあなたは高価で貴い」といい、「わたしはあなたによって栄光を受けた」と仰るのです。

 栄光とは?

3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。

イエスさまが贖い主であることを信じ受け入れるとき、その人のうちに神の栄光が現れています。神がその存在を誇りとしてくださるのは、我々が神の栄光を現わす存在とされていることであり、それを聖霊によって理解し頷くことができるからなのです。

11節でイエスさまは、ご自分がいなくなったあと、弟子たちが、主を拒絶する原理に生きる世に残される事実を心に留め、「聖なる御名のもとに彼らを保ってください」と祈られた。「あなたがくださったあなたの弟子を守りました。ただ滅びの子のみが滅びた。わたしは全部守った。下さった一人一人を欠けなく守った。一人滅びたがそれは聖書が成就するためであった。彼らをこの世にあって守ってください。」と主は祈りました。

 14節
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。この中で、世は何を憎んだのか…それはヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。というこの言葉をアーメンと受け入れた者たちを世は憎んだのです。

15節「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」 とあるように、早くこの世から取り去れとは祈らず、悪い者から守られるようにと祈っています。主の祈りにあるように、「われらを試みにあわせず悪より救いいだしたまえ」なのです。ここでいう「悪い者」は定冠詞のついた単数形が使われています。つまりサタンのことをいっています。

 世の中にあってキリストのうちに守られるとは、11節「聖なる父、どうぞその聖なる御名を保ってください」とあるように、聖なる御名に保たれることです。海にすむ魚はどうしてしょっぱくならないのか。それは生きているからです。心の中に、罪が始末されずに残っていると、罪の中につけ込まれてしまうのです。

「どうか彼らをこの世から守り、真理によって清め分かってください」

※聞き落としたところもございます。お許しください。文責はすべてこのブログの筆者にあります。


 

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ヴィヴァルディ 協奏曲集《四季》ーギドン・クレーメルー

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              ギドン・クレーメル(ヴァイオリン&指揮)
             フィリップ・レッジャー(ハープシコード)
             イギリス室内管弦楽団
             クリストファー・ヌーベン(映像監督)
             製作:1981年4月ミュンヘン
  
            
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 久しぶりにクレーメルを聴いた。《四季》 、いつ聴いても何度聴いても切れ味のよい爽やかさを残してくれる。クレーメルの弾き振り。曲自体が哲学的ともいわれるが、冴えわたる響きには、明るみのうちにもそんな哲学的な気分を呼び覚ます。

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その子 ー未来への架け橋 Ⅱー

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その子 ー未来への架け橋Ⅰ ー

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怒り

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朝から雨がふっていました。私は怒っていました。家のことではありません。さまざまな人間関係に。人の言葉に、自分の発した言葉の失敗に、人の謀略に。しかし露を帯びた庭の花々は瑞々しくカメラを向けているあいだ心が和みました。

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ユーラカンの葉と葉のあいだに掛けられた蜘蛛の巣は水滴を集めて硝子玉のよう。まるですくい取るかにカメラに取り込むときの満足感。

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しかしまた怒りはふつふつと呻き出す。神さま、これは何としたことですか?こう尋ねたところ驚いたことに答えが返ってきたのです。

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 「腹を立てる」「むかつく」「八つ当たりする」「癇癪を起こす」「鬱憤を晴らす」・・・・こうした怒りに関わる表現は、どれをとってもあまり感心したことではありません。しかし、道にはずれたことに対して発する正義の怒り「義憤」という表現は、同じ怒りに関する表現でも、ずっと積極的な価値をもった言葉です。

 面白いことに、聖書の中には人間の怒りに対する警告の教えはたくさんありますが、しかし、聖書の中で一番怒っているのは、他ならない神様ご自身です。「神の怒り」「主の怒り」「怒りの日」といった表現が聖書の中には人間の怒り以上に登場してきます。すべての怒りが罪だとすれば、神様が一番罪深いということになってしまうでしょう。しかし、そうではありません。正しさが踏みにじられるとき、怒らなけ ればならない怒りというものがあるのです。とかく穏やかであることが美徳と思われがちな中にあって、敢えて「怒る」ということについて考えてみたいと思い ます。

 実は、聖書の中に「怒れ」と勧める言葉が出てきます。
 「怒れ。しかし罪を犯してはならない」
 これはエフェソの信徒への手紙4章26節の言葉です。
 もっとも、日本語訳の聖書のほとんどは「怒ることがあっても、罪を犯してはならない」と穏やかな訳になっています。翻訳はどうであれ、正しい怒りと罪深 い怒りとを区別しなければなりません。怒りに対する聖書の戒めは、ほとんど罪深い怒りに対する戒めです。怒りが勢いあまって、いさかいに転じ、それが嵩じ て殺人にまで発展することもあるのです。こうした怒りは是非とも避けなければなりません。

 けれども、それ自体が罪ではない怒りがあります。そうした怒りは抑えてはなりません。「怒れ! しかし、罪を犯してはならない」のです。正しいことが踏 みにじられているとき、黙っていてはいけません。神が怒られたように、義憤に燃えることは決して悪いことではありません。けれども、人間の怒りはたとえそのものが正しいものであっても、罪深い怒り簡単に転じてしまうところに、怒ることの難しさを感じます。そうであるからこそ、聖書は「怒れ」と言ったすぐそのあとで「しかし、罪を犯してはならない」と続けています。

 では、どうやって怒ることがあっても罪を犯さない態度を取ることができるのでしょうか。聖書はさらに続けてこう勧めます。
 「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」
 ユダヤの世界では日暮れから新しい一日が始まります。そこで、日暮れまでに処理してしまわなければならない事柄が、旧約聖書の教えの中にはいくつか定められています。
 「日没には必ず担保を返しなさい」(申命記24:13)
「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない」(申命記24:15 )
・・・・旧約聖書はそう定めています。同じように、怒りも日没までに終わらせなければならないのです。

 以上は山下正雄牧師の説教からで、ネットから拝借しました。これで心が穏やかになりました。雨も止んだようです。祈ることにしよう。自分のために、人のために。そしてこういわれる神ご自身が、改善にいたる知恵を授けてくれることを信じよう。いま下されたこの清々しさに感謝します。

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「戻ったことにする」

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「戻ったことにする」
いま心の中でこんな言葉が響いた。
ときどき、心の中を行き過ぎることばがある。
警戒しなさい、という天の警告であるように捉えている。
「戻ったことにする」ということは、
戻ったという事実がないのに戻ったことにすると言うことだろう

これが単純な空想だとしても
否、空想ではないかもしれないが
なぜなら天が災厄到来に先んじて
何らかの警告を発してくれるということが
実際にあり得るとわたしは思う。

もし誰かが
故意に事実を曲げて言ったとしよう
Aデパートへいらっしゃりたいなら
右折してください
行けども行けどもAデパートには着かないだろう。
ただ事が道順だけのことであれば、
どこかでは違っているなと気づくだろう
しかしこれが誰の目にもみることができなく
確認する術もないことだったならどうだろう
ほんとうに恐ろしいことだ。

「戻ったことにする」
ふっと浮かんだこの言葉をきっかけに
しばし空想にふけってみた。

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夜更かしという悪習慣を断つために、ブログは遅くとも22時までに書こうと思っていたのだが、またきょうも遅くなってしまった。

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いまそちこちのブログでさまざまな花を掲載してくれている。自然界と同じように、ネット上の庭々も百花繚乱である。

    ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

埋却の牛のうめきが聞こえてる

牛豚の消えた畜舎が立ち並ぶ

       口蹄疫は…やまと新聞URL

       募金窓口URL




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第33回水曜デッサン会展2010615(火)~18(金)テレビ岩手ロビー(1F)

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モデルさんを囲み本格的なデッサンに取り組んでいるグループです。デッサンと絵画を合わせて60点の展示、見ごたえがあります。どうぞご覧ください。事務局は、盛岡市天神町13ー9 ℡623ー1636 大信田時子さんです。

   ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

絵画展のこととは別ですが、余白があると何か書きこまなければ済まない思いになります。

 そこで思い出したのが「マザー・テレサ愛を語る」のことばです。私自身がこの箇所を読んだとき、ぎくっとしたのです。ああ、自分も無意識のうちにこれをやっていることがある。その言葉とは、

「小罪が日々の糧となるままにしておけば、精神的な貧血をおこし、心の命は絶えるでしょう……

 ダサイ、旧い、硬い、面白くない、馬鹿まじめ……いまこんな言葉がむしろ新鮮でなりません。馬鹿まじめと言われたらもう最高だと思いますが、この高みにはまだまだ届きそうにありません。

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きょうのことばー主イエスの栄光 その2ー

  きょうもよい天気でした。滞りなく礼拝は祝福のうちにおわり、婦人会で学びをしているときに地震がありました。盛岡は震度3? と顔を見合わせるうちに収まりました。帰宅してPCで見ると、0時33分、福島県沖で震度5弱と出ていました。被害はどうだったのでしょうか。

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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会の国光勝美牧師の説教は

説教題  『主イエスの栄光 その2』
聖書箇所 ヨハネ伝17:1~8

1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

 17章がイエスさまのお祈りの章であることは既に学びました。私たちは困難に直面するとき、自分自身に目を向け自分を責めてしまったり、或いは、相手に目を向けて相手を非難してしまうことがあります。しかしイエスさまが、大きな出来事を目前にしたときに、先ず「目を天に向けて」祈られたことを今一度心に留めましょう。

 「時がきました」。これは十字架で贖いを成し遂げる時ということでした。カナの婚礼で葡萄酒がなくなったとき、母マリヤが、イエスなら何とかできるはずと告げると、イエスさまは「わたしの時はまだ来ていません」と冷ややかであるとも受け取れる答えをしています。これは、私は十字架で罪の贖いを成し遂げるという大切な使命のためにこの世に来ているのであり、今はまだその時ではない、と言う意味で仰ったのです。果たすべき使命をいつも意識しておられたイエスさまでした。
 ヨハネ伝の連講でおわかりのように、イエスさまが弟子たちとのお別れの話を締め括るところで、イエスさまのお祈りとなります。イエスさまはこれから弟子たちの足を洗い、最後の晩餐を持ち、捕われとなる、いよいよその時が来たのです。祈られた「子の栄光を現わしてください」というこの栄光とは、この世でいう煌びやかさ華やかさ、成功、名誉ではなく、この世から見れば、到底栄光とは見ることができない姿を指して言ったのでした。
 イエスさまを見ることを待ち望んでいたシメオンという人物がいました。ルカ2章には
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。30 私の目があなたの御救いを見たからです。31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。
 
とあります。宮には多くの人々が詰めかけていたのです。御霊に感じていたシメオンは、雑多な人々に混じっていた貧しい夫婦の腕に抱かれたイエスさまを見いだして「
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄」を見たと言いました。

 ヨハネ伝17:4
に、あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。とあります。これを見て、おや、おかしいぞ、とは思いませんか。イエスさまは、この時点ではまだ十字架にはついていないのです。このお祈りのあと、ゲッセマネに出て行き、ローマ兵に捕えられ、裁きにつくのです。正確にいえば、十字架のわざはまだ成し遂げられていないのです。にもかかわらず、「し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」と書いてあります。他の訳にも当たってみました。やはりすべて現在完了形で書かれていました。これは驚くべきことです。私たちの目から見たら、ゲッセマネ、捕縛、十字架といった一連がこれから成されるはずが、イエスさまは、「成し遂げた」と祈っておられる。イエスさまは何という恵を与えて下さったことでしょう。イエスさまの救いに与り、この地上生涯を締めくくって神の御前に行くまで、時間的にはその間の歩みがあるわけですが、イエスさまのこの祈りを深く考えるときに、今、明日、明後日のすべてが、既に成し遂げられた御業の中にあるのですよ、と言ってくださっている。コロサイ3:3あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちは、救いが明日、明後日どうなるのか分からないというのではなく、わざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。と語っておられるのです。もうすでに神の前に、私の救いは成し遂げられている。私の救いの保証は、すでに成し遂げられた神のうちに隠されているのです。心のうちに湧き上がる喜びを覚えました。

 ヨハネ17:5
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
 このお言葉から、栄光には、二つの大きな要素があると分かります。キリストの栄光というときには、いつでも十字架が浮かび上がります。それと何の矛盾もせずに、イエスが生まれる前から持っていた栄光で輝かせてくださいとイエスさまには言うことができますし、その資格もあるのです。
 旧約聖書で、イザヤはウジヤ王が死んだときに、玉座に座す主の幻を見ています。イエスさまが人としてこの地上に来たときに、天の栄光を捨てましたが、それ以前のイエスさまの栄光のことを言っています。イザヤ書6章「
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」とありますが、このときに御使いたちもあまりのまばゆさに見ることが出来ず、足(奉仕の象徴)を翼で隠して、残る二つの翼で栄光の主をほめ讃えているほどでした。人となられる以前に持っていたイエスさまの栄光がこれなのです。ヨハネ12:41にもイザヤがイエスの栄光を見たことが書かれています。
 
わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。とイエスさまは仰いました。十字架の御業は実際には数時間後に成されるのですが、すでに成し終えたと、主は言われるのです。主はあの栄光で満たし輝かせてくださいとはばからずに言うことができました、世界が存在する前に輝かせていた栄光をすでに十字架で現わしましたという納得をして父なる神に祈ることができたのです。

ヘブル1:3
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 御子は神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れです。

 ヨハネ17章に帰りましょう。17:1からに
1イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。2それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため」であるとあります。
3節を見るとその永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。とあり、正しくこのとおりです。
 2節の「あなたからいただいたすべての者」とありますが、これは単数形が使われています。このすべて者、という表現は、一つの纏まった単数形の言葉を使ってあります。それは私たち一人一人イエスを信じ救いに与っている人たちが集まって一つの纏まりになったことを言います。実はこれが教会なのです。信じている一人一人が一つの纏まりのある教会となるのです。〝あなたからいただいたすべての者〟つまり、教会に権威をお与えになったからです。
私たちはキリストの栄光に招かれて、栄光に与っていることを知らされるのです。


※文責はすべてブログ筆者にあります。

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ふでも描きえずーインマヌエル賛美歌181ー

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1、ふでもえがきえず  こえものべえず
  くすしき主のあいよ むねにあふるる

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2、つみとなみだより  われをひきあげ
  死とよみのくさり  くだきたまえり

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3、じゅうじかのなやみ  われ知るをえず
  ただ知るはわれに  なされしみわざ

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4、つちくれのごとき  
われにもおよぶ
  み子イエスのあいを 知りてひれふす

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修学旅行団体

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盛岡市の中津川に架かる富士見橋の上には、北海道からの修学旅行生たち。下の河川敷には、おそらく地元の生徒たち。

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上は修学旅行生。下は地元組。橋の上から、石垣の上から下に声を掛け合っていた生徒たち。
つかの間ですれ違っていく二つの団体。これもまた一つの出会いと別れ。

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そしていつものように岸を洗い、岩に砕け、独りごちながら流れくだる川。

   ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  

 口蹄疫の拡大が止まない。そんななかで、宮崎県川南町のムッチーさんの牛舎が空っぽになった。39頭の牛たちが埋却となったのだ。きょうムッチーさんは、ついに牛たちとお別れ、告別の日になってしまった。
 畜産農家の生の声をこれほどつぶさに聞いた事はかつてなかったのでは…。以下はムッチーさんのブログからの転載です。

その後、白装束の皆さんが作業に入られました
私も、しばらくは、その場に居ましたが・・・・
少しでも、牛さんの気を反らせようと、また、濃厚飼料を
与えてました、すると、美味しそうに、濃厚飼料を食べてくれてました
その後・・・・・
ちょっと・・・???、凄く・・・・???耐えられなくなり
隣の部屋に居ましたが・・・
でも、どうしても、牛さんの事が気になり
少し離れた所からっても、10mくらいの所から、
作業の様子、牛さんの様子を見守ってあげました・・・
あっ、あの子は、牛舎の3番目に繋いでる子だ・・・
あの子は、牛舎の7番目の子だって、見守ってあげてました
気のせいか、あんまり、牛さんも暴れてないようでした
それは、皆さんが、牛さんに対して、優しく、丁寧に、
愛情を込めて、作業して頂いたからだと思います
作業された、皆様、本当にありがとうございました。
牛舎から、お墓に運ぶ時にも、細心の注意を払ってもらってて
大事に、大事に、大事に連れて行ってもらってました
この4月からの作業で一番、牛さんを大切に、作業されて
連れて行ってもらえたと思いました。
作業して頂いた、皆様の牛さんに対する愛情に、凄く感謝致します
ありがとうございました。
寝床の穴にも、置いてもらうのも、大切に、大切に、優しく、優しく
そ~~~っと、そ~~~~~~~っと寝かせてもらってました。
ユンボの運転手さん、ありがとうございました。

義援金のURL

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月下美人

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月下美人

■科・属名:サボテン科クジャクサボテン属
      ■原産地:メキシコ原産
      ■分類:非耐寒性:常緑多肉植物
      ■開花期:6月~10月
      ■草丈:50cm~200cm
      ■花径:約20cm~25cm:夜開性

写真は、近所のお宅で4日金曜日に見せていただいた月下美人です。よく撮れてはいないのですが、そのときにしか見ることのできなかったこの花の静かな時間をまといつつ、微かにかすかに動いているかの表情、たおやかな清楚さは、他のネット写真ではやはり感じられません。載せるには難ありとはおもいつつ登場させてみました。この花の印象がわたしのうちに鮮やかであるために固執してしまっているからでしょう。


我が家にある月下美人は枯死寸前だったのを頂いてきて生き返らせたもので、持ち主に、復活したのでお持ちしますといったところ、「もういらない」といわれました。まだ花を咲かせてはおりません。

月下美人は、花というものは日当たりを好み、さんさんとふる陽光を浴びてこそよく咲くものというわたしの〝常識〟を覆しました。
 夜に、しかも一晩しか花を咲かせない香りの強い大きな純白色の花。何とも不思議な花です。

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おばかさん

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「おばかさん」。あっ、いまご覧になっている方の事ではありません。これはたぶん、というより100㌫わたしのことでしょう。さて何を書こうかと、眠気眼でぼうっとしていたところ、心に聞こえた言葉でした。眠いも眠いはずで、午後いっぱい片付け方をしました。写真もそろそろマンネリ化ならば、思考回路も月並みとこういうわけですが。そうか、おばかさんか…遠藤周作の「おばかさん」という小説がありましたっけ。あらっ、何だかこれぐらい眠いほうが、文章もお気楽になるみたい。石も砕けて砂になるかな、とはならないでしょう、もはや。同じ石になるなら化石がいいかな、それとも岩石がいいかな、う~ん、やっぱり鉱石がいいかも。鉱石になって掘り出されずにいつまでも原石のまま鉱脈に眠っていたい。太古の夢でも見ていたい。それにしてもこの眠気は、ああやっぱり、午後いっぱいの大々的な部屋の片付け方の帰結。散らかすほどのものも持っていないはずが、どうしてこんなに散らかっちゃたの。すみません神さま、きれいにします神さまといいながらせっせと物に所定の位置にご移動願い、小回りの利く掃除機くんをくるくると連れ歩くうちに、どんどん力が湧いてきて、それでついつい体力以上にやっちゃった。あららまた横道にそれちゃって、そうそう、本題はおばかさん、おばかさんでした。

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せっかくこんなおもしろいことばを投げ込んでいただいたんだから、もうこれは是非とも生かさなくちゃ申し訳がない。そういえば、あの書物の中には、人をばか呼ばわりした者はゲヘナに投げ込まれるって書いてありましたっけ。というと、またいつものワンパターンかと言われちゃいそう。そうなんです。手を変え品を変えてのワンパターンなんです。きょうも、あしたも、あさっても。ワンパターンの列車はどこまでも行くのです。面白いですよ。何しろこの列車の運転手は行き先さえも考えない。破天荒を走りますから。もう何が車窓に現れるかは予測もつかない。後ろに走るか前に走るか、はたまた地下を垂直に下るか、天にまっしぐらに昇っていくか、まずい、そう、きょうのテーマはおばかさんでした。またまた脱線しそうで車体ががくがっくと恐ろしげに震えちゃいました。う~ん、おばかさんの定義はよくわからないけれど、これは多分、利口なお方、賢い方々の逆バージョンということなんでしょう。

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 酔ってないかって、いまは、アルコールはのんではいません。あの書物を見ればわかりますが、飲まなくても飲んだようになることが、これが、あるんですね。こう…かなり眠いもんですから、アルコール無しでもかなり酔った気分ではあるんです。安上がりです、ハイ。言葉を心に投げ込むのは天使か悪魔。きょうはどっちかな。それはまあ、ポジティブに考えることとして。ガストンさん、たしかそんな名前、周作先生のおばかさんは。憎めない。愛すべき人、いい人なんですよね。う~ん、してみると悪くはない。おばかさんも悪くはない。むしろおばかさんでいい。近頃地上にはとみに賢く利口な方々ばかりが増え過ぎちゃったものね。そんなわけで、狐狸庵先生、わたしを、どうぞ「おばかさんクラス」に入れてください。あっ、大変、もう休まなくちゃ。ほんとうに、きょうはお気楽な締めくくりとなりました。

 笑いこけてます、と言う方の中には、一日は25時間だ、いや26時間だという方々もいらっしゃるわけで、まだまだ6月9日を楽しんで居られる方も大勢いらっしゃるでしょう。こう体力がきつくなりますと、お先に失礼するよりほかは無さそうです。

 あら、いま気づきました。狐狸庵先生のお母さんは、上野音楽学校のヴァイオリン科を卒業された方なようです。狐狸庵先生もお小さいころは、お母さんのそばでヴァイオリンを聴いていたんでしょうか。お得意の曲は何だったでしょう。

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主よ感謝します

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          主よ感謝します。
       このような万緑をくり広げ、
      梢というこずえに光は輝き出で、
     樹下にはどこまでも火をともすツツジ。
            この先、
       この足がどこまで歩けるのか、
            この先、
    この手がどれだけのことをなし得るのか
         わからないけれども、
      この豊かな生命力に与っている
   わたしが何か偉業を為したわけではない。
    格別に何かが秀でているわけでもない。
           にもかかわらず、
          いま生かされている。
        名もなく誉もないこの住処に

          宿るもののまこと、
         奧にいますパラクレトスが
              捉え

        心に映しだす鮮やかな真は、
           欺瞞と戦きをも

             刺し貫き、

 ーたとえ釘をもて打ちつけられてもー

         痛みある奥深くにも
     静かな感動と感謝を呼び覚まします。

  
  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

2日がかりで庭木が散髪を終えた。質的には取り立てて誇れるような庭でもない。きちんと整備しているわけでもない。土も痩せ、雑然としている。しかし朝夕に自然の気をもって心を養ってくれる。

※写真は日曜の午後、教会の山菜採り行く途中に撮ったものです。

      

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カラタチー随筆賞にだしそびれてー

 岩手日報随筆賞にみなさんどんな作品を出すのかなと思いつつ、それに値する構想もなく、かつて書いたカラタチをワード原稿にまとめておいたのがあったので、ここに書き込んでおこうかなと言う気に。写真はカラタチではありませんが。


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 盛岡市志家町にあるIBCのぐるりにはカラタチの生垣があります。IBCの隣にスーパーが開店したこともあり、よくここを通ります。
 春になると、瑞瑞しい若草色のひこばえがたくさん出ます。葉が出る前に、三、四センチの五弁の白い花が咲き、その後に葉っぱが出てきます。葉はかっちりとしっかりとつやつやとしています。二本の美しい曲線の合流点で棘が鋭く尖り光っています。秋にはピンポン球のような実がいっぱいついて黄色く熟します。私が特に美しいと思うのはカラタチの棘が、朝露を帯びてその滴が光り輝いている六月です。

十年ばかり前に、盛岡市立城南小学校の校庭には、見事なカラタチの木が三本ありました。我が家の庭にも植えたいとおもい、当時来ていた庭師さんに、相談したのです。
「カラタチを植えたいんですがどうでしょう」というと、庭師さんは即座に言いました。

「足さ、刺さる。靴を通すぉんさ。仕事擂るとき、まず、は、大変だ。植えで貰いたぐねな」というので諦めたのでした。この庭師さんは、他の家の高木を剪定していたときに、樹上から落下、首を骨折してしばしの入院ののち亡くなられました。お世話になった多くの方々が駆け付け、それは盛大なお葬儀でした。季節が来る度に思い出され胸が痛みます。

 カラタチの生垣を通るたびに、カラタチの花が咲いたよ白い白い花が咲いたよ……カラタチのとげは痛いよ……」という歌が自然に口を衝いて出ます。北原白秋が作詞し、山田耕筰が作曲して大正十四年に雑誌『女性』に発表された童謡です。平成十九年には日本の歌百選にも選ばれています。

 実は作曲者の山田耕筰が、昭和四年に盛岡に来ています。ユニセフの親善大使であった黒柳徹子さんの父であるヴァイオリニストの黒柳守綱さんを連れてきています。華々しい音楽経歴を持つ「からたちの花」の作曲者山田耕筰を盛岡の人々がどれほど楽しみに待ち望んでいたか。その一人である小田島孤舟、彼は歌人であり教育者でしたが、その喜びを短歌に託して岩手日報に寄せています。


まれなる令人来るときくからに
われきかまほしくなりにける哉

うれしもよ子らにまじりてわれもまた
『からたちの花』きくをおもへば

いづくよりきこゆるとなくほがらかに
きこえ来にけり『からたちの花』

子らはみないろめきたちて耕筰の
来るをまてりばらの咲く日(か)に

『からたちの花』をきかむと子らはみな
いろめきたてりばらの咲く日に

耕筰をひとたびきかばあめつちの
はてなむ日にもわすれじとおもふ

むら肝の心の底ひにしみとほり
消ゆべくもなし耕筰のこゑ

すゑらし看板の文字くろぐろと
花咲き匂ふアカシヤのかげ

 どれほどに孤舟が、そして人々が、
「からたちの花」をあいし耕筰を待ち望んだかがうかがわれます。わたしがからたちを美しいと注意深く見るのも、すでに無意識のうちに「からたちの花」の旋律が心にあるからでしょう。

「からたちの花が咲いたよ白い白い花が咲いたよ。/からたちのとげはいたいよ青い青い針のとげだよ。/からたちは畑の垣根よまろいまろい金のたまだよ。/からたちのそばで泣いたよみんなみんなやさしかったよ。/からたちの花が咲いたよ白い白い花が咲いたよ。」

 カラタチは、万葉集では「枳の棘原(うばら)刈りそけ倉建てむくそ遠くまれ櫛造る刀自 (とじ)」と詠まれ、嫌われもの。「枕草子」でも「名恐ろしき」と書かれています。カラタチは、昔は安全のために生垣として植えられていたのですが管理が大変で、ブロック塀な どに変わっていった昭和三十五年ごろからは急速に減少したようです。嫌われもののイメージが変わったのは、やはり「からたちの花」の歌によるといいます。

我が家の近くの盛岡市立城南小学校の校庭にあった三本のカラタチ、それは立派な美しいカラタチでしたが、最近伐られてしまいました。傍を通るたびに必ず見ていた木が、ある日忽然と姿を消したのです。ほんとうに残念でなりませんでした。棘が子どもたちに危険だということでしょう。

カラタチを思い出すとき決まって「からたちの花」の旋律が浮かびます。 

「からたちの花が咲いたよ白い白い花が咲いたよ

からたちのそばで泣いたよみんなみんなやさしかったよ」

わたしは、棘が怖いとか痛そうと感じたことはありません。むしろ、面白い屈折を見せる茎から出るカラタチの棘ほど鋭い美しさはないと見るたびに感心してしまうのです。

 2010/04/17

     ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

ムッチーさんはどうなったか……

被害農家のために募金をお願いします!!

郵便局
川南町のムッチー牧場
口蹄疫災害見舞金を募る会
記号 17310   番号 3609971
   
club
JA尾鈴
店舗番号 9203-001  口座番号  0088820
川南町のムッチー牧場口蹄疫災害募金 代) 弥永睦雄

募金の目的は、被災農家の当面の生活費などに
活用させて頂きたいと思ってます。
※以上はムッチーさんのブログのコピペです。

  ☆  ☆  ☆  ☆

宮崎県でも寄付を募っています。

寄付は一応1件5000円から受け付けとなっていますが、5000以下でも可なそうです)
寄付金の納付方法は、

1, 県の専用口座へ最寄りの金融機関から寄付する。 
2, 県が発行する納付書により、指定された金融機関から寄付する。
3, クレジットカード(VISA、MasterCard がご利用いただけます。)で寄付する。

詳しくはこちら

 

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きょうのことば ー主イエスの栄光ー

2010531_106 
 けさもすっきりと高い青空。その青空から花の形に切り取ってきたかに、青いクレマチスが咲いていました。
 花を生ける当番なので、いつもより早い目に教会へ。ローズピンクの八重のデルフィニューム2本と白い小さな花のついた洋ラン3本を基調に生けてみました。 生け終わって席に静まり、姉妹の弾くオルガンに耳を澄ませました。

 きょうは礼拝後には茶菓を囲んでの「例会」があり、そのあと毎年恒例の「山菜とり」があるので、メッセージはいつもより20分早く終わりました。写真は山菜採りの山です。

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説教はインマヌエル盛岡キリスト教会(現在パソの不具合でリンクできませんので、名称を打ち込んで教会ページをご覧下さい)の国光勝美牧師です。
   説教題  『主イエスの栄光』
   聖書箇所 ヨハネ伝17:1~8

1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
 

 ヨハネ伝16章は謂わば弟子たちとの最期のミーティングです。これが終わったら、いざ決戦! というところでもあるのです。弟子たちも、いつものミーティングとはどこか違うぞと思っている。イエスさまがここで伝えたいことと、弟子たちの受け取り方がどうしても噛み合わない。イエスさまが、16:7…わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。 」と言われたことなどがよく理解できない。イエスさまとニコデモの会話もそうでした。ユダヤ人の指導者でさえ分らなかったのです。
 それでもイエスさまは、16:33「
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と、この最期のミーティングで弟子たちを力づけています。

 これに続くのが17章のイエスさまの祈りです。
イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。…」。イエスさまは、時が来たと祈られました。そして26
わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。とさらに祈られます。17章は祈りの章です。この祈りの後、18:1からにあるように、ゲッセマネの捕縛、裏切り、十字架へと進んでゆかれます。

 17章からは大切な語りかけをいただきました。
イエスさまが「目を天に向け」たあとには、ゲッセマネの祈りがあり、最後の晩餐ではユダが裏切ろうと出ていきます。そこはすでに夜でした。ローマ兵がやって来ます。しかし、自分がこれから十字架につくという大きなうねりのまっただ中に身を置いているイエスさまには、平穏ささえ感じられます。すこしも目が泳いでいない状態といったらいいでしょうか。「時がきた」このときに、静けささえ感じるのです。
 わたしたちは、常に現実的な荒波に直面します。生きている限りそこを避けて通ることはできず、そこを歩んでいかなければなりません。どうかすればイエスさまの十字架と比べたくなるほど直面する課題は大きいでしょう。そんなときイエスさまのように、しっかりと目を天に向けて祈ることができたなら何とすばらしいでしょう。落ち着いて「いよいよその時がきました」と言うことができたなら…。羅針盤は、大嵐の中でぴたりと北の方角を指してくれます。イエスさまは、どんなに波が荒れ狂っても、ぴたりと〝北の方角〟を指します。ぴたりと目を天に向けて祈られます。詩篇46篇には「汝等静まりて我の神たるを知れ」とあります。如何に周囲が激動にあっても神の都は揺るがない、これがイエスさまなのです。ヨハネの17章に学ぶとき、そのような認識のもとに祈ることができたならと思います。「
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とイエスさまが仰っているのですから。

 「時が来ました」とはどういう時なのでしょう。イエスさまが、使命、目的を成就する時のことです。イエスさまが公の生涯に立たれたとき、カナの婚宴では、「わたしの時はまだきていない」と言いました。しかし17章では「時がきました」と言っています。これはヨハネ13:1「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来た」ということで、いよいよ十字架によって、使命である贖いを成す時が来たのです。イエス・キリストを信じる人が、十字架の贖いによって永遠の命を持つときこそイエス自身の栄光があらわれる時です。
 
 聖書のいう栄光とは?
栄光という光は聖書というプリズムを通して進むならば、ちょうど七色に光りが分れるように十字架が浮かんでくるのです。十字架が浮かぶことこそが、ほんとうの栄光です。世の中の繁栄、この世的な祝福が栄光なのではありません。十字架を映すことができるのが栄光なのです。
 イエスが地上に誕生するとき、ベツレヘムの厩に御使いたちが現れ、栄光神にあれ、王の王、主の主なる方が飼い葉桶にお生まれくださった栄光神にあれと讃えました。黄金のベッドに寝かされているのはこの世の栄光、しかし神の栄光は貧しく飼い葉桶に寝かされているイエスさまに現れたのでした。あの博士たちもこの厩に神の栄光を見たのです。イエスさまの栄光は貧しいヨセフとマリヤにぼろのような産着を着せられた幼児に現われたのです。

 「
父よ時が来ました。」ほんとうに栄光を現わす時がきたということです。
この説教を準備しながら、こみあげてくるものがありました。世の人は飼い葉桶のイエスに栄光を見ることはできません。世の中のほとんどの人は見ることができないのです。しかしどういう訳か分らないけれども、キリストの栄光を見ることができる者たちにその栄光を現わしてくださったのです。
 何の取り柄もないこの私が十字架の栄光を知るものとせられたのです。何と感謝なことでしょう。
 イエスさまは17章でこう祈られています。「
17 真理によって彼らを聖め別ってください。」
 世の人々が決して知ることがない神の栄光が、私たちの心の中に満ち溢れるように祈ろうではありませんか。

※文責は一切当ブログ筆者にあります。

   

 

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世の中厳しいけど

  民主の風が吹きまくったのは去年の8月。間違ってないだろうか、たった9ヵ月で首相交替。「事業仕分け」、言葉も節約もわが家庭にまで浸透した。世の中にも一応評価されているのではないか。あとはどうだろう。身近なところでは、失業対策が為されているという感触がない。若者たちの自殺が増えている。商店、企業の倒産が当たり前化している。防衛問題がどうなるのか分らない。
 最も、誰が政権を握ろうとも800兆円の借金を引きずっているわけだ。引き継いでいったい何ができ、どう身動きが取れるというのか。日本は国内債務だから破綻しないというのもどこかおかしい。

 それでも、さっきネットで、「主われを愛す」という賛美歌を聴き、花の写真をあれこれ見ているうちに、脳内が洗われて心に最新型の蛍光管を灯されたような心持ちになった。こんな世界も与えられていることに感謝する。

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            主われを愛す
note
                 (大阪弁バージョン)
               イエスはんわてを好いたはる
               イエスはん強いさかいに
               浮き世はいうたかて
               怖いことあらへん
               わてのイエスはん
               わてのイエスはん
               わてのイエスはん
               わてについたはる
                      アーメン

     何とか盛岡弁で歌おうと先ほどまで四苦八苦したのだが…

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生かされている

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 きょうは何人の方々と言葉を交わしただろうか。
 先ずは家族3人。次にはゴミ集積所でチェックをしていた方。お客様を見送っていた隣の方。しゃがんで道ばたの草取りをしていた方。ディーサービスの迎えに来てくださる担当の方。そしてそのマイクロバスに乗っていた3人の方々。お見舞いした方。顔見知りの看護師さん3人。帰り道で出会った主人の従姉。近所のお店の方。そしてきょうの最後は、月下美人が咲いたから見に来てくださいと電話をくれた〝蝶々夫人〟。大方開いた月下美人は実に見事な白い大輪だった。

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 わたしはきょう17人もの方と、言葉を交わしている。「おはようございます」と朝の挨拶だけの方もある。話題の如何に関わらず行き会う方々に生かされているような気がする。もしかすれば言葉を交わすこともない単にすれ違ってゆくだけの人々にさえも人は生かされているのかもしれない。

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第三回いわて特産品フェアー2010/6/3(木)~8(火)パルクアベニューカワトク7階ー

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     七宝作家天沼三津子さんの素敵な作品再び登場!!

             是非ご覧下さい。

 このフェアには、食品業者、工芸品の製造業者など63社が出品。地元企業と高校の共同開発「シャキシャキすじめ」や缶詰も販売されている。岩手の特産品がいっぱい!!

          ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 きょう午前中は、舅の定期検診だった。午前中待つことになったが、隣に座ったのが葛巻町から来た方だった。朝8時に自宅を出てきたという。葛巻町には外科はあるが整形外科がないのだそうだ。ご主人の運転できたが、高齢でもありそろそろ地元の外科で間に合わせるつもりだと。しばし塚森の酪農の話になった。

 ちょうどこの病院に知り合いの酪農家(葛巻町の方ではない)の方が入院している。待ち時間で取りあえず顔出しをした。その方がこの病院に入院したのもまたご縁。不思議でならない。あすまた主人とともに見舞いにいくことにしてある取材などというのではない。近頃は自然のものを扱い自然の中に生きている方々に安らぎを感じる。言うなればそんな理由からである。

 この方が教えてくださった本には、「日本短角種が固定種として昭和32(1957)年11月1日認知されるまでには、おおむね85年の歳月を要した。まことに気の遠くなるような改良の日々が続いたのである。その日本短角種の基礎となったのが南部牛である。」とあった。それから更に50数年経たいま、さらに改良が為されたろう。岩手に口蹄疫が及ぶことがあるとすれば、この気の遠くなるほどの歳月をかけ改良された牛たちを忽ちに失うことになるのだ。

 

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天からのサプライズ

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 どうということもない写真ですが。撮りたかったのは花ではなく、植木の緑の眩しさ。この明るさを引き立たせるために、ちょっと花に賛助出演を願ったわけです。わたしはこのシーズンに最も自然の瑞々しさを覚えます。澄明な大気にトランペットがすこしの破綻もなく高らかに鳴り、四方に染み通っていく季節です。両の手を拳にして握りしめると、樹木たちの生命力がぐんぐんと体中に満ちてくるのです。これには何の暗喩もありません。ただ樹木という存在が与えてくれる包容力に心をひらき素直にそのエネルギーを受けとめる、ただ無心に自分をそういう状態に置き、樹木を通して大きな自然の流れに合流するのです。

 暦を逆行させたかの話しにはなりますが、五月は早苗月といい、田植えをする月となっています。31日の午後、スクーターで郊外を30分ばかり走りますと、ほとんどの田には苗が植え込まれ、根付かない葉先がまだ弱々しく微風に揺れておりました。また五月は菖蒲月の別名も。菖蒲がいま次つぎに咲いています。鈴蘭もみずからの香しさを知るかに白く小さな明かりをいくつも灯していました。


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 よいことづくめの五月なのですが、一方、五月病もあります。昭和35年頃から言われだしたようです。4月に入学し或いは就職してやる気満々だったはずが、当初の感激、意気込みを失い気力、精神力が弱まる状態を言うのでしょうか。なぜこの輝かしいときに、自然界が輝かしければ輝かしいほど、その反動がどこかに跳ね返るのだろうかと、根拠のないことを思ったりします。ある友人は、このシーズンが一番嫌いだといいます。なにかしら体に不調を来すといいます。この友人に反動が及んでいるなどとは思いません。ただそう感じられる場合もある事実、これはきちんと銘記すべきでしょう。
 わたしが自然のエネルギーに存分に浴することができると感じているこの五月も、やはり両側面を持ちあわせているようです。

  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 きょうの天からのサプライズは

 教会の花壇の花がほんとうに種類ごとに美しく、その美しいという事実に気づいたこと。

 近所のT子さんから朝顔の種をいただいたこと。昨年見かけた朝顔のなかでも、とてもきれいな水色でした。いただけることをこちらはきれいに忘れていたのですが、T子さんは、申し込みのあった何人かのお名前をきちんとメモされていました。

 主人と自転車で走っていたところ、音楽関係者にお会いし、音楽四方山話をお聞きできたこと。

 そして何よりも、きょうという一日が、なぜか、何事もなく平凡に守られ暮すことができたことです。

 club

 さて、鳩の異変のもとでのきょうの宮崎を訪ねればURL。口蹄疫の感染拡大はいまだ止んではいない。

被害農家のために募金をお願いします!!

郵便局
川南町のムッチー牧場
口蹄疫災害見舞金を募る会
記号 17310   番号 3609971
   
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JA尾鈴
店舗番号 9203-001  口座番号  0088820
川南町のムッチー牧場口蹄疫災害募金 代) 弥永睦雄

募金の目的は、被災農家の当面の生活費などに
活用させて頂きたいと思ってます。
※以上はムッチーさんのブログのコピペです。

  ☆  ☆  ☆  ☆

宮崎県でも寄付を募っています。

寄付は一応1件5000円から受け付けとなっていますが、5000以下でも可なそうです)
寄付金の納付方法は、

1, 県の専用口座へ最寄りの金融機関から寄付する。 
2, 県が発行する納付書により、指定された金融機関から寄付する。
3, クレジットカード(VISA、MasterCard がご利用いただけます。)で寄付する。

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夕暮れまえ郊外を30分走ると

6月スタートの日に、昨日の写真ではありますが。

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清々しい灌木の底に水がほとばしり駆けていました。

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