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きょうのことばーペンテコステ その2ー

 きょうも教会に行ってきたわけではありませんが、昨日の午後は家の中で優先的にやらなければならないことがあり、日曜の説教の全部をブログに書ききることができませんでした。そこできょうはその2回目です。
 朝から雨です。晴れたらすこしは草も取りたいと思っていたのですが一日中家の中です。
 次の写真はシロバナヒメオドリコソウです。ヒメオドリコソウが突然変異したものです。5月5日のブログにも載せました。あれからずっとヒメオドリコソウの群落を注意して見ていますが、いまだ他に見つけてはいません。自分ではかなり珍しいものと誇らしく思っています。まだ庭に咲いています。自慢話はここまでにして、牧師先生の昨日の説教を続けることに。

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 聖霊のバプテスマを受ける前にも、確かに心の中に水のバプテスマを受けたときにいただいた聖霊はいらっしゃいました。ですからこの水のバプテスマを受けていることと受けていないことでは根本的にまったく違うのです。命ある聖霊がわたしたちのうちに宿っているかどうかはクリスチャンになる大切なポイントです。クリスチャンになるという証拠として、わたしたちは水のバプテスマを受け、神の命を頂戴しました。
 
 この他に聖霊のバプテスマがあるのです。聖霊はイエスさまご自身です。わたしの罪の身代わりとなった方の十字架の贖いを信じたときに、わたしのイエスさまとなり、そのイエスさまがわたしの心に宿って下さる。わたしたちは、キリストの御霊により、天の父なる神を親しくアバ父と呼ぶことができます。
 
 わたしたちの心の中にはいくつかのへやがあるでしょう。イエスさまは仰います。
「このへやのカギをわたしにあずけてくれますか?」
わたしたちは言うでしょう。
「はい、どうぞお渡しします」と。
イエスさまは
「では、このへやのカギもあずけてくれますか?」
わたしたちは、やはりお渡しします。
しかし次つぎに問われるうちに、
「イエスさま、ぜんぶのへやのカギをあなたにお渡ししました。しかしこのへやだけはお入りにならないで下さい」
とお断りするとしたなら、このときすべての心のへやに聖霊が満ちていると言えるでしょうか。聖霊に満たされるということは、聖霊に自分の心の王座に座っていただくことなのです。どうぞぜんぶあなたの通りになさってくださいと自分を明け渡すことなのです。
聖書の詩篇40:8「
わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」は、父なる神と子なるキリストの会話の内容として読むことができます。
イエスさまのほんとうの喜びは父なる神の御意をことごとく行うことです。イエスは父なる神がこの世で自分にくださった体を通して、父なる神の御意をことごとく行いました。イエスさまはすべてに従って歩んで行かれました。これが聖め、或いは、聖霊のバプテスマを受けたものの心です。「私はすべてのへやのカギをあなたに差し上げました。私の欲望、願望を捨てイエスさまの御心を行うことがわたしの喜びです。」となることが聖霊のバプテスマを受けた人の特徴です。エゼキエル36:25、26にはこうあります。25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像(まことの神以外のものを崇め仕えること)の汚れからあなたがたをきよめ、:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」。この中で言われているきよい水は聖霊を象徴しています。石の心とは、神に逆らう死んだ心、罪の心、神に従いたくない自分の思いを通したい心のことです。ここで言う肉の心とは、やわらかな命のあるダイナミックな心のことです。石の対極として使われています。

 モーセは、これを守り行うならば永遠の命が与えられると、神さまから十戒を刻まれた石の板を与えられました。しかし神はこれからは石の板ではなく、聖霊によって神の言葉が心に刻まれると仰るのです。御霊に満たされたとき、「わが神、われは御言葉に従うことを喜ぶ」が実現します。神が「わたしの定めを守り行わせる」と仰ったことが聖霊によって成し遂げられる、これが聖霊のバプテスマの持っている意味です。使徒の働き2章には「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 2すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」とありますが、このときに聖霊が降臨し、新しくつくり変えられたのです。

 インマヌエル教団の朝比奈先生のメッセージを聞いて、鮮烈な思いを持ったことがあります。

 私たちがこのような聖霊のバプテスマを受けようとするとき、「神さま、すべてのものをあなたに献げますから聖霊のバプテスマをお与えください」と願うのは間違っています。神にすべてを献げる?すべての中には神に従いたくない自己中心的な心も入っているでしょう。それも神に献げる? すべてを神に献げますと祈るのではなく、先ず罪の心を十字架のもとに持ってゆきなさい。イエスさまは罪の解決のために十字架に掛かられたのです。十字架にもってゆくときにすべての罪が赦されご聖霊さまをいただくことができるのです。先ず罪を十字架に持って行き、「神さまどうぞわたしを受け入れてください」と出てゆくときに、神は完全な愛の心を与えてくださるのです。このようなメッセージでした。

 人は成長してゆきます。成長してゆくそれぞれの段階では、愛は不完全でしょうか。「わたしはお父さんが好きです」ということを、ある大きさのまん丸な円で表現します。そのときにこの円に欠けはありません。成長とともにその大きさは違ってくるでしょう。神の完全とはその円の大きさによるのではなく、いつの段階でもそのときどきの大きさで完全なのです。これが聖霊に満たされることの意味です。

 もしまだ悔い改めなければならない罪があるなら、十字架のもとに持ってゆきましょう。そしてすべての罪をお詫びしようではありませんか。

※この説教はインマヌエル盛岡キリスト教会の牧師の説教を、一信徒が聞き書きしたものです。若干内容と違っていることもありますが、文責はすべてこの筆者にありますことをご了解ください。

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