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きょうのことばー心がうちに燃えるー

2010515_077

 きょうは教会内での係の仕事のため、聞きかねた部分も。しかし頑張ってメモを取ったつもりです。本日のインマヌエル盛岡キリスト教会の國光ひろ子牧師のお話は…

説教題 『心がうちに燃える』
聖書箇所 ルカ24:13~35

13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」19 イエスが、「どんな琴ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。26 キリストは必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

 この聖書箇所にあるエマオの途上、これは数多くの聖画にも描かれている有名なところです。32節にあるように、「心がうちに燃えていた」、このような体験ができたならどんなに幸いでしょうか。わたし自身、もしこんな経験がなかったならば、いまこの講壇にメッセンジャーとして立つことは虚しかったでしょう。いまはこの「心が燃える」に焦点をあて、私自身の経験も含めてお話したいと思います。
 「燃える」とは、感動するということです。むかし私は「感動」という言葉をあまり使いませんでした。小泉前首相が、貴乃花の粘り強い闘いに感極まり「感動した!!」と言うのを聞いたときは、そうか、こんなときに使うのかと思ったことです。しかし「聖書」のいう「心が燃える」とは、そういうことではない。彼らの内にみる感動とは…彼らはイエスが十字架に架けられ死んだとすっかり失望してとぼとぼエルサレムからエマオに向かって歩いていたでしょう。するといつのまにかイエスさまがともに歩いておられました。しかし弟子たちは、それがイエスさまだとは気づきません。イエスさまから聖書の話を聞いて、心が燃やされるのを覚えながらも気づかない。晩餐でイエスが裂いたパンをわ たされるときにやっと気づいています。誰とはわからない段階でも、その語る言葉に心燃やされた事実、それはイエスさまがくださった感動であることに気づいた弟子たち。その感動はむしろ静かで確かなものだったでしょう。彼らは180度方向転換しエルサレムに戻るのです。その足は力強く活き活きしていたでしょう。
 イエスに触れ心が燃える経験は、今までの生活を変えます。自分の在り方を吟味させられ、人生が変わります。神の前に自分が聖いものであるかどうかを点検させられるのです。このように変えられるのが、「心がうちに燃える」体験をした人の特徴です。
 聖書には人間の欠点もありのままに書かれています。欠点を書かれていない人は、エノクとヨセフ、ダニエルで、この3人は欠点、失敗、罪が指摘されていません。私の祖母はいつも私のことを「ヨセフのように、ダニエルのように生涯を送ることができるように」と祈ってくれたものです。あとになってその意味がわかりました。
 何れ偉大な聖徒たちは生涯神と交わることによって、心が燃やされる経験を持ち続けていたのでしょう。

 ルカ5章「27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
 ここに言われるレビとはマタイのことです。マタイはザアカイと同じ取税人でした。
マタイは地位もあり財産にも恵まれていたのです。このときイエスに一声かけられて何もかも捨ててイエスに従うことができたのは、彼が自立した信仰を持っていたからでしょう。先々に不安要素を感じないわけではないところを即座に従ったのは、かねてからイエスの凄さを聞いていたこともあるでしょう。しかし何よりもイエスさまの言葉と交わりを遠くから見ることによって心を燃やされていたから180度変えて従い、生涯従い続けたのです。マタイは復活やペンテコステでもしっかりと役割を果たしています。自らも「そのうちに燃えるものがあった」と言っています。ほかの弟子たちも同様だったでしょう。

 旧約聖書のなかに、神殿の祭壇の火は絶えず燃やされていなければならないとあります。決して絶やしてはならないのです。イエスを信じはじめたときに、その感動が強いか穏やかであるかは別として、イエスさまは絶えずその火が燃えていることを期待していらっしゃるのです。わたしたちは消えそうな状態になっているのに気づくことがあるでしょう。しかし私たちは、祭壇の火もそうですが、絶えず心を燃え続かせていかなければならないのです。消されてしまわないうちに燃え立たせるために必要なものがあります。それは聖書の御言葉を継続的読み、祈り、イエスと交わり聖潔に与ることです。そうです。ペンテコステの恵に与るほかはないのです。弟子たちも失敗だらけでした。イエスが十字架に架けられる間際には、イエスを知らない、関係ないとさえ言い逃げ去ったものたちです。しかし彼らは、ペンテコステで聖霊を受けることにより全く変えられたのです。信仰が激しく上下することがなく、また静かに燃やしつづけていくためにペンテコステの恵を確かなものといたしましょう。

 

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