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きょうのことば

 きょうは風が強かったですね。千葉市では38、1㍍、旭川では34、1㍍メートルの最大瞬間風速だったようです。旭川は大正7年以来とか。ほんとうに現地の方々は生きた心地がしなかったことでしょう。ここ盛岡市では大きな被害は見られませんでした。小雨がぱらつくところ、教会に行こうと車に乗り込み、ワイパーをかけると茶色の水が流れ、黄砂がふったことに気づきました。雨がきれいに洗い流してくれました。昨夕40羽の白鳥がV字に隊列を成して帰っていくのを庭先に見送りましたが、もしかすれば、きょうこのように風と雨と黄砂に見舞われることを感知していたのでしょうか。今頃はどの辺を飛んでいるのでしょう。

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 この写真は晴れた日に撮ったものですが、きょうのように小雨が降ろうと風が荒れようとも、十字架はしっかりと立ちつづけています。白鳥さん、疲れたなら、どうぞここで休んでください。翼が折れたなら舞いおりてください。あなたが休むあなたのための席はいつでも用意されています。

   〒020ー0147盛岡市大館町12ー26 インマヌエル盛岡キリスト教会 ℡019ー646ー2924

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 きょうの國光牧師先生のメッセージは「十字架の福音」。聖書からの引用は、第一コリント15章1~11節。これは、パウロが、自分が伝えたい福音とは何であるのかを集約して述べている箇所です。この中の3~10節

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、…次のことです。キリストは、聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者はいまなお生き残っていますが、すでに眠ったものもいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして最後に月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は、神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は、いまの私になりました。」

 パウロが自分を「月足らずで生まれた者」と言っているのは、彼はクリスチャン迫害の急先鋒であり、殉教者の血によって汚れているという自覚からでした。裁かれ滅ぼされて当然であるこの私が、神の恵みによって今の私になったと言っています。いま生きているのは、神の憐れみのほか何ものでもない。そして神の恵みは無駄にはならず、他の弟子たちよりも多く働いたが、これは私の力ではなく神の恵みによると語っています。

 「福音」の殻を割って中を示すなら、「聖書の示すとおり」のものであり、聖書が示しているのは、キリストの十字架と復活なのです。「福音」によって救われる事は、神の恵みによってなされることです。「福音」の裏付けは、すべて「聖書に示すとおり」 にあるのであって、信仰は感情に立脚しているのではありません。感情に信仰の拠り所を求めていると、感情が落ちたときに信仰がぐらつきます。感情の状態に拘わらず〝聖書がそう言っているから〟救われるのです。聖書が〝大丈夫〟といっているから大丈夫なのです。

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 さて、こんどは聖書が聖書全巻で最も伝えたい箇所はどこかというと、

ヨハネ3:16 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された、それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

なのですが、このお言葉の前にはこんなことが書かれてあるのです。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」ヨハネ3:14

これはどういう意味でしょう。これは旧約聖書の民数記21章からの引用です。その昔エジプトの奴隷だったイスラエルを神は十の災い下して解放しました。荒野で食べ物が無かったときには、神は天からマナを降らせてイスラエルを養ったのです。しかし民はマナに飽き飽きし、こんなことならエジプトにいた方がまだましだとさえ不平を言うようになりました。神はこれを聞き、燃える猛毒の蛇をキャンプに送り込んだのです。イスラエルは次つぎに噛まれて死にました。神の恵みの中にいながら、その恵みを認めることが出来ず、つい不平不満を言ってしまう。こういった呟きが罪であり、罪を持ったものは裁きをうけなければならない。しかし神は、民に一つの解決策を与えました。モーセに命じ、青銅の蛇を作らせ、旗ざおの上につけさせ、それを仰ぎ見たものは救われるようにしたのです。旗ざおに上げるのは毒を持った燃える銅の蛇ではなく、青銅の蛇にしたのでした。罪を持った蛇ではなく、青銅の蛇を上げたのです。これはイエス・キリストの十字架の救いの雛形でした。「モーセが荒野で蛇を上げたように人の子も上げられなければならない」とは、

 本来なら、罪を犯した私自身が十字架に上げられなければならないところを、神は代わりに罪のないイエスを十字架に上げて、私たちはそれを信じるだけで救われるようにしてくださった、という意味なのです。そしてこれは聖書が示している事実なのです。

 イエスが十字架に架けられるのを目前にし覚悟したとき、弟子達がいったい自分をどのように理解しているかを尋ね確かめました。

イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」マタイ16:15  シモン・ペテロがこたえて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」マタイ16:16

 この答えに頷かれたあと、イエスは、ご自分がエルサレムへ行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子達に示し始められたのでした。

「福音」は「聖書の示すとおり」に実現するのです。

来週はパームサンデー(棕櫚の聖日)です。

※この教会の一信徒が牧師先生の説教を聞き、概略を書かせていただきました。

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