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きょうのことばー棕櫚の聖日ー

 きょうはキリスト教会ではパームサンデー(棕櫚の聖日)として礼拝が持たれました。「棕櫚は西洋絵画では勝利及び殉教を象徴する図像として描かれる。」(wiki)ようです。イエスさまはこの日、ろばの子に乗ってエルサレムに入られました。群衆は上着や棕櫚の木のえだを地面に敷き、
  ダビデの子ホサナ(主よお救いください)。
  祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
  ホサナ。いと高き所に。」
と歓呼の声をあげて、イエスさまを大喜びで迎えたのでした。


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  さてきょうの礼拝での國光牧師先生の説教の
題は「十字架の福音2」 
聖書の引用箇所は「第一コリント15:1~11」
           ー主の御受難を思うー

 パウロが受けた福音。即ち十字架の贖(あがな)いの完成こそが福音なのですが、人々の間には、キリストに対する偏見、誤解があります。福音の真理をわからせまいとするこの世の原理がはたらいています。それは
第二コリント4章3、4節にあるとおりです。「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、〝この世の神〟が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」

 福音がなぜこの世の人に受け入れられないのか。それはこの世の暗黒の勢力が何とかして人々を福音から遠ざけて、まったく関係のない生き方をさせようと日夜動いているからです。人を福音の圏外に追い込んだ悪魔は、してやったりと手を叩いて喜ぶのです。
 実は、イエスさまがエルサレムに入って来られたときに、人々が、ホサナと歓呼で迎えたのは、イエスさまに福音を求めていたのではなく、イエスさまがこんどこそダビデやソロモンのような栄華に自分たちを引き上げてくれるに違いないといった期待からでした。〝この世の神〟はキリストを徹底的に否定します。イスカリオテのユダは3年半の間イエスさまと一緒にいました。いつかはイエスさまがもの凄いサプライズで、人々を驚かせるだろうと思っていたところが、どうも違っていたようなのです。そしてユダはイエスさまを裏切りました。
 回心するまえのパウロは、律法学者たちと同じように、どうしても受難のキリストに目を開かれることはありませんでした。ステパノが石打ちの刑で殉教したときにも、ーこのときステパノは神の右の座に着く栄光のイエスさまをはっきりと見たのですがー、パウロは、その現場に居合わせた人物だったのです。しかしこのステパノの殉教が、後の大使徒パウロの誕生に大きな役割を果たしました。
 〝この世〟で価値があるとされるものの多くは、何とかして聖書から私たちを引き離そうとします。多くの人々がそんな濁流の渦中にあるのです。

 しかしパウロは
第一コリント15章10節で、こう言っています。「ところが、神の恵みによって、私はいまの私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての弟子たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」
 パウロの言うところの福音は、神の恵みの福音なのです。「聖書に従って」「聖書の示すとおり」の「神の恵みの福音」なのです。この「恵み」は重要です。第一テモテ1章11節で「…栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。…私たちの主のこの恵は、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」と語ったパウロ。ここに、こんな者が神の福音に与ったとは、というパウロの感謝が溢れています。

 福音は神の恵みそのものなのです。そして、人間がこの神の恵みを受け取る手段は信仰以外にはありません。有難うございます、感謝します、といって受け取るだけでいいのです。業や行いによって救われるのではありません。もし行いによって救われると説いているなら、これはパウロのいう福音ではありません。
 きょうはパームサンデーですが、私たちはいったいどのような動機、心根から「ホサナ」と歓呼を発しているでしょうか。イエスさまは、他でもない罪の赦しと永遠の命とを与えるために来られたのです。そのことをしっかりと覚えながら、歓呼の声をあげさせていただきましょう。
 イエスさまは、神殿に来てまで商いをしようとする強欲な者たちを、縄のムチで追い払いました。私たちの心をきよめてくださるのは主イエスさまです。私たちが、自分の力で自分の心をきよめようとしても不可能です。ただ信仰によって私たちは罪からきよめられるのです。イエスさまを罪の贖い主として、「ホサナ」と心からお迎えしましょう。


 
宮きよめの月曜日、論争の火曜日、沈黙の水曜日、最期の晩餐とゲッセマネでの捕縛された木曜日。そして金曜日にはイエスさまは朝に十字架に架けられ午後3時には絶命され、贖いを全うされたのでした。この受難週を意義深く過ごそうではありませんか。

教会の所在地 インマヌエル盛岡キリスト教会   

〒020ー0147 盛岡市大館町12ー26  電話019ー646ー2924

※説教は教会の一信徒の聞き書きです。先週の復習の部分は割愛しています。また聞き違いも若干あるかもしれませんがご容赦ください。

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