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命を食べ命を飲む

 びっくりするような題です。
今日、教会では正餐式が執り行われました。
パンと葡萄酒。
イエスさまの御体を象徴するパンと、イエスさまの御血を象徴する葡萄酒(この教会では葡萄液)をいただきました。そのことです。

 旧約聖書の中では、人が罪を赦されるためには、夥しい動物の血を流さなければなりませんでした。しかしキリストは、十字架に架かり肉を裂かれ血を流すことによって、もはや多くの動物の血を流さずとも、この血が、自分の罪の身代わりであると信じる人は救われるように犠牲を払ってくださいました。

 たとえあなたが、誰かの言葉や応対で、自分の負の部分を引き出され、自分は実はこんな者なのだ、これが本当の自分、これが自分の本音なのだ、あたかもこういう自分が自分の代表と思いこんでいるなら、その自覚はそのまま意味あるものです。値があります。なぜなら、こういった意識も次への足がかりとなるからです。だから、どんな事態も唾棄すべきものではありません。そしてそのままのあなたで、尚も十字架を信じることです。主はいまあなたに近くあられます。あなたは救われます。 大丈夫! 大丈夫!! また救われて、何か違った、どこか違ったあなたの性質に、また必ず気づきます!!

 いま私が書くにあたって、祈ったならば、以上のような言葉が出てきました。これは、何のことはない、神様からの私へのメッセージであると思われます。きょうの教会の礼拝説教よりも先に書いてしまいました。正餐式を思い起こしているうちに。

    ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


どうか、あなたのしもべへのみことばを
     思い出してください。
 あなたは私がそれを待ち望むように
      なさいました。
  これこそ悩みのときの私の慰め。
 まことに、みことばは私を生かします。
      詩篇119:49、50
 

 悪に染まるどう猛なバビロンを用いてイスラエルを蹂躙するのを、なぜ神はただ黙って見ておられるのか。信仰生活を良心的に行っているものが納得のいかない扱いを受けるとき、神に対する疑問が湧く。
 こんな事態に遭遇したときには、見張り所に立って、神がこれに何というか答えが来るまで待とう。主の答えを待とう。ー今日のメッセージからの引用ですー


 午後からは例会がありました。日常の様子、感想などを、飾らずにお一人お一人がお話なさいます。順番が回ってきたとき、私は言いました。「牧師夫人の誕生日は4月10日です。ゴマ擦りかと思われるかも知れませんが、ゴマ擦りです。しっかり擦ります」。もう一つ、「私はスピード狂の傾向があります。ただ、いまは、主の旗を立てているので控えめにしています」

ポンピングブレーキ、エンジンブレーキ、ポンピング、エンジン、ポンピング、エンジン、……

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