「我は葡萄の樹」
ヨハネ伝15章5節
「我は葡萄の樹、なんじらは枝なり。人もし我にをり、我また彼にをらば、多くの実をむすぶべし。汝等我を離るれば、何事をも為し能わず。」
庭に植えてある葡萄はナイアガラだ。ナイアガラは大粒種の生産がない時代には量産されていたらしい。いまはそれほど多くはないようだ。
実がなる時期には、内心、何もこんな葡萄を植えなくても、もっと甘くて大粒の美味しい葡萄があるのにと思っていた。食べたくもなかった。
一方、裏庭に植えた林檎の樹には、なかなかまともな実がならない。店先に並んでいるような林檎を穫るには、摘果などはともかく、農薬も必要、しかも、袋かけ、玉廻し(裏側にも日光を当てる)、尻あぶり(地面に銀色のシートを敷き、日光を果実の尻に当てて着色をよくする)、葉摘み、人口着色(蚊帳を張って散水しながら光に当てる)までするようだ。
ところが、ナイアガラにはほとんど手がかからない。というよりも、何もしなくても結構均一な大きさの香りの良い実がなる。これは凄いことだと気づいた。大風が吹き荒れたときも落ちなかった。出荷する葡萄となれば、こうはいかないかもしれないが。
何れナイアガラの凄さがわかった。ワインにも多用されているようだ。薬をかけなくとも実がなるところが凄い。病気にも強いということになる。余所のナイアガラはどうか分らない。大差ないとは思うが。これからは、賞賛しながらナイアガラを感謝して食べようと思う。
イエスさまが言った葡萄の品種は何だったろう。品種改良された大粒の甘い葡萄ではなかったろう。ご自分と信仰者との関係を葡萄の樹に譬えられている。やはり葡萄の樹は優れているのだ。夥しい数の実。なんという豊かさだろう。
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