ゼネコンの爪痕-北上山地ー
胆沢ダムは小沢ダムとも言われている。また胆沢ダムには小沢の闇が貯まっているとも。この小沢一郎幹事長が不起訴となった。政治家とゼネコンの癒着。胆沢ダムの総工費は2440億円。大蔵省が「ぜいたく言うな」と反対したのを破ってくれたのが小沢〝先生〟だという。
昨日聴いた講演で、この厳しい情勢下、日本滅亡が危惧される瀬戸際、生き残る策を講じなければならないこの重大なときに、普天間、鳩山の脱税、小沢の疑惑のみに膨大な時を費やしている無念さも語られたが、これにはまったく同感でもあったが。
ここで政治のことを云々したいというよりも、イヌワシさんが、あの北上山系のイヌワシさんたちがどう言っているか
北上山地の裸地化。これがやはりゼネコンが無関係ではない。北上山系開発によって、
(ここまで書いて、押し入れにしまい込んだきりだった北上山系関係の資料をやっと
また引っ張り出す気になり、いま出してきたところだが)
北上山系開発は正確には北上山系8区域、奥羽山系2区域、合わせて10区域29市町村を対象として北上奥羽山系開発として実施された。事業費は986億円。昭和50年~平成5年にかけて、6800ヘクタールの農用地造成、570㌔に及ぶ道路整備、畜舎など農業関連施設の整備、公共牧場64ヶ所、共同牧場15ヶ所、及び92の個人牧場が創設、整備された。 このとき、山地にブルドーザーなどの重機を投入し、造成、道路整備を行ったのはゼネコンだった。東西南北に縦貫する570㌔の開発整備には、総事業費の71㌫が注ぎ込まれている。(「北上山系の開発」岩手県北上奥羽山系開発整備促進協議会刊ー岩手県立図書館蔵ー)
山系に道路が通ったことにより、まともに風の煽りを受ける範囲が大きくなり風衝荒廃を促進する大きな要因ともなった。この裸地化には古くから牛馬の放牧や炭焼きのために奧まで伐採されたことや野芝の病害などがある。この要因に更に造成、道路整備が〝一役買った〟結果となったのだ。
観光などを考えたときには、道路整備が不可欠とも思ったのだが、しかし、一旦裸地化したときには、もう元の通りに作り直すことが不可能なのだ。再生不可能な自然を犠牲にするのはどんなものだろう。ただ山地に住む人々には利便性があるのも確かだ。都市部に住んでいて云々するのも申し訳ない気持になる。
風衝荒廃対策のための研究は行われているようだ。ただこれが裸地化のスピードに到底追いつかないのではないか。離農の跡地に笹が勢力をのばし、裸地化が食い止められたところもあるようだ。何れ、この裸地化も、地球規模の課題でもあるのだろう。
話しはゼネコンにもどるが、
北上山系開発は昭和50(1975)年農用地開発公団によって着手されている。遡れば昭和44(1969)年、国が新全国総合開発計画を策定したことに端を発する。
佐藤内閣(第三次)が1970~1972年、継いで
田中角栄(第一次~)1972~1974年
これは何かありそうという、いまのところ根拠のない疑念が、しかし実際にはやはり、政治家とゼネコンの間には駆け引きがあったと考えるのが〝自然〟という気が。ただこれ以上つきつめていくのはしんどい。
新全国総合開発計画が策定された理由は、穿った見方をすれば名目は、
日本の経済は昭和25年でGNP109億ドル。43年には1419億ドルと急増(米に継ぐ)。一人当たりの国民所得が123㌦から1100㌦となった高度経済成長期であった。これを反映して国民の食糧需要が高度化、多様化し、コメの一人当たりの消費量が減少の一途を辿り、44年には150万㌧の生産調整が強いられた。農政史上かつてない事態だったようだ。一方畜産物、野菜、果樹の需要は年々旺盛となり、43年に公表された「農産物の需要と生産の長期見通し」において、特に畜産物は、52年には約2倍の需要が見込まれ、我が国の農業は、これに対応できる体勢作りが急務とされていた。畜産は新全総の目玉であったが、50年には大規模畜産基地の失敗が新聞に躍ることになる。
新全総の事業費が全国でどれぐらいであったか、さらに資料をめくり直さねばならないので、きょうのところは、ここまでにしたい。
何れ酪農家の離農、そして北上山地の裸地化は農政の失敗であり、ゼネコンの爪痕ともいえるだろう。
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