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恵(めぐみ)

 きょうの礼拝の國光牧師のお話は

マタイ1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
ヨハネ1:9「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
 
 から、永遠の神が有限である私たちの世界に別の次元から介入してくださったのがクリスマスであること。そしてオズワルド・チェンバースが言うように、キリストの降誕は「この世から生まれたのではなく、この世の外から入ってきたのであって、……歴史の中に生まれたのではなく、歴史の外から入ってこられたのである」と説明くださいました。


それでは、キリストは、何のためにわたしたちの世界に介入してくださったのか。


マタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 から、「その罪」とはいったいどんな罪であるのかが語られました。
罪とは……わたしは真っ先にモーセの十戒の示すところの罪、殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ等々、そして偶像をつくってはならない等々を思い起こしていました。それもそうなのでしょうが、きょうは、

 「罪」とは「的外れ」のことである。的外れな的を打っている状態が罪にある状態なのだという説明がありました。
 いまの私の的外れは何だろうかと思い巡らしました。的外れな的を打たないようにすること。的外れな的を打ち続ける一生もあるなと思う一方、徒労で終わりたくないなと。しかし、これは的を選ぶ自体が、選球眼がいま一つであることや、的を打とうとして外れてしまうことも幾たび。自分の力だけでは、なかなかに厳しい現実であるなと考えていると、

 「イエスはあなたを的外れな生き方から救うために来られたのです。あなたに介入してくださるのです」
 

そしてその介入を信じ受け入れるならば

 
 罪過の中に死んでいたこの私たちを
    キリストとともに生かし
   キリスト・イエスにおいて、
    ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてくださいました。

       エペソ2:5.6

                     

   というラッキーなことに。

    ☆  ☆  ☆  ☆

午後からの祝会が、どれほどに祝された豊かな素敵な時間であったか、またあした書くことにします。

今日の素晴らしい一日に感謝しつつ

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