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映画「いのちの山河」

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 映画「いのちの山河」を観た。盛岡市での上映もあったが気ぜわしい事などもあり見逃したので、滝沢ふるさと交流館の方での鑑賞となった。約200が満席となり、補助椅子が設置された。
 
 「豪雪・多病・貧困」と言われた沢内村。この重さをいったいどのように辛いばかりの気分から救って作られてあるのかにも興味があった。

 深沢晟雄と妻ミキが風雪のなかを帰郷する。吹雪で馬車が動けなくなったとき、二人は荷物を担ぎ手に持って深い雪に足を潜らせながら歩く。その場面が底抜けに明るい。現実からすれば異常なほどに明るいのだが、すぐにそれでよい事に気づく。ほどなく、病に苦しむときには医者にかかることもなく、死んでから医者にかかるために雪上を引きずられ運ばれる簡素に包まれた遺体が映し出される。正視するに堪えない場面だ。しかしこれがこの村では日常なのだ。「赤ん坊がころころと死ぬ」現実。

 
晟雄の父晟訓を演じる加藤剛の不条理に術のない怒りと歯がゆさ、閉塞感、無力さを酒に混ぜて流し込むこのような演技を初めてみた。沢内村を何とも為しがたかった無念が見えた。

 
晟雄は村の教育長などを歴任したのち、村長にならなければ実質的な改革は何も出来ないと立候補し当選。老人と乳児の医療費無料化のために闘う。県庁で国保法違反を突きつけられ、それに対し憲法25条を蕩々と読み下す場面は実に愉快だった。「最高裁まで闘う」と彼は言った。

 東北大学に幾度も足を運び、医師の派遣を要請。医師が派遣されてからの沢内行政、医師、看護婦、保健婦、村民が一丸となって徹底的に命を守ろうとの取組みは感動的だった。そしてついに全国初の乳児死亡率ゼロ達成の報の受話器を握る深沢。選挙公約であった駅までの除雪。バス路線の確保も、ブルドーザー導入で実現。

 1965年1月28日、在職中に食道癌で福島県立医科大学付属病院で死去。60歳。
 深沢が自ら公約し、豪雪の冬に除雪、バスを通したその道を、雪の中、遺体となって沢内村に帰ってゆく場面には涙を禁じ得なかった。多くの村民が沿道に出迎え合掌した。

 

 

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