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2009年12月

製薬の見えない部分&2009年末感謝

 やっと今一段落。21時半。ことし最後のブログ書きだ。
 このところ読書量が少ないことに危機感をもった。普通の方々は人生で大方こなしてしまったことを今更、である。

 後回しにしていた磯崎憲一郎の「終の住処」。二日間のうちに読んだ。文学性云々というよりも、製薬会社が登場していたからだ。
 
 二年ばかり前にたまたま岩手県民会館で見たCCHRの精神病患者の非人道的処遇、投薬の告発(当ブログ2008年6月25日をご覧ください)があれからずっと心に引っかかっている。製薬会社、販売、医療現場での扱いなど知り得ないことが多すぎた。

 小説で製薬関連を考えるなど妥当性を欠くかもしれないが、分りやすいという利点がある。

 先ず、製薬会社といえども、生き残りをかけて闘っている。ここのところからにして疑問が湧く。新薬の開発には莫大な費用がかかり、一社単独でまかなうことが不可能な時代に鑑み、主人公の会社も国内依存の限界から、米国の医療品メーカーを買収にかかるが失敗。主人公は、表面だけでも関係を有効に戻す役回りを仰せつかり渡米。絶望するが、取締役から、「この瞬間、この一秒をあきらめることによって、お前は永遠の時間をあきらめることになるのだ」という挑発的な手紙が届く。この手紙もまた怪物なのだが、このあとホテルのバーで三ヶ月前から面談を断わられてきた社長に出くわす。ここでのやり取りがあり、一年四ヶ月後には、米国製薬メーカーの買収に成功するのだ。このやり取りが、すこし物足りないのだが、何れ会社が生き残って行くというのはこういうことだと想像できる。

 企画発案の商品、ここではコンタクトレンズ使用者に絞った目薬が過去最高の売上げであることや、栄養剤販売を薬局だけでなくスーパーマーケットにまで広げたこと、こういった事はさしたる問題はないだろう。
 「倉庫には一年分をゆうに越える在庫が眠っているというのに、工場は容赦なく千箱単位の生産ロットで製品を送り込んできた。」
 つまりこれを売らなければならないのだ。その先をもっと短絡的に考えると、どこかに買い上げて貰い、処方して貰わなければならないことになる。言い過ぎかもしれないが。

 薬がどれだけ生産され、どこでどのように〝消費〟されているのか、今もって疑問に思っている。生産された、或いは輸入した数字はすぐに出てくるだろう。ただ、その先の流れは、数字だけで説明されても理解し、納得できるかは自信がない。

 特に精神薬に関する最大の疑問は、他の内科系の薬に比べて、副作用の研究がどの程度為されているか、その点だ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 2009年もそろそろ終わりです。時間という観念も様々、この大晦日も永遠の時間のなかの一点とも考えられますが一区切りいたしまして、
 拙いこのブログを訪問頂き、特に誤りを指摘くださった方々、また、努力を顧みられ励ましに訪問くださった篤志家の方々に、厚く御礼申し上げます。

       主に感謝せよ。
    主はまことに慈しみ深い。
     その恵はとこしえまで。
         詩篇

 



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この年の歩みを振返る

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 昨日長男が帰省。年越し、正月は地方都市の人口が確実に増える。
 元旦にかけて大雪、暴風が警戒される。

 このブログではことしは、主に教会で、または聖書から教えられたことを綴ってきた。心ぬくもるクリスマスを迎えることもできた。音楽は、CDだけだが聴いた感想などを記した。花巻東高校にも熱狂した。小説「雑魚」をいわての文芸誌「天気図」VOL.8 に載せていただいた。庭仕事が若干手薄、掃除も今一だったが、近年ではまずまずまともな一年であったといえる。悲しみとしては友だちの御子息が亡くなったこと。涙が尽きなかった。

 いま記憶に鮮やかなのは、獅子座流星群を見るために庭先にでたが、見えず、これは11月17日から18日の未明とされていたが、しかし雲がすっきりと抜けた漆黒の天にベテルギウス、リゲルが寡黙に冴え冴えと在りかを示し、その間にはめ込まれた三つの石。美しい、きれいといった形容を超えた、そこに確かに在る存在、意味はあるだろうが決してそれを語ることなくそこに在る。

 記事の数はあしたで790件となる。写真だけ、催事のお知らせだけという日も含まれるが。駄文であれ何であれ、とにかく書き続けてきたものらしい。無駄ではなかった。この継続があって、いま割合楽に書けるという結果がある。

 失敗、不適切な物言いも多々あったが、ある時には正され、自分で気付き反省もしながらここまで来ることができた。

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いちのせき第九合唱団ー報道紙面にびっくり!ー

きょうの岩手日報10、11面には驚いた。

 新聞紙上でこんな音楽特集記事はかつて無かったのではないか。何しろ2頁分中央に24、8×43㌢大の演奏写真が入っている。このラッキーな合唱団は? と見れば、「いちのせき第九演奏会」なのだ。紙面の端から端までが「フロイデ」満載。

 きょうの記事を見て、出演された方々はみな歓喜されたはず。出演した方々全員のお名前もあった。 1974年第1回一ノ関第九演奏会の写真も載っていた。今年で35年目(演奏会は3年に一度)。

 ここに記事内容の一部を転載すると、
仙台フィルハーモニ管弦楽団。指揮は山下一史、ソリストはみな市出身者で佐藤恵利さん、徳永香織さん、鈴木秀和さん、千葉英二さん。

 
 近頃よく合唱曲を聴いているが、「何だか聴くばかりでは……その中に入って歌ってこそかも」と幾分の物足りなさがないではない。ただ合唱団に入らなくとも歌う機会はあるので、近頃は〝耳学問〟をそんなときに生かして歌ってもいる。

 それにしても今朝は驚いた。第九がいきなり家の中に飛び込んできて、ステージを繰り広げてくれた一ときだった。

 これがまたいちのせき合唱団の大きな弾みともなるのだろう。

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きょうのことば

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 言い違い、書き落とし、物忘れ、記憶違いなどで、嘘をつこうとした訳ではなくとも、結果的に嘘をついたことになってしまう場合がある。「Aばかりです」と言ってしまった後で、ああ、そうか、Bも含まれていたなと気づくこともある。一言で済むところを、何か言いにくくなり、言わないでしまい、関係が険悪になることもある。言い繕ってしまったこともある。その時はそう思いました。その時はそう考えていました。そう思いこんでしまっていました。場合によっては、申し訳ありませんでした、と謝らねばならないこともある。

 クリスマス祝会で伝言ゲームをした。最後まで一箇所も間違わずに伝言できたチーム。やはりどこか言葉が入れ代わってしまい爆笑となったチームもある。
 最初に発せられたことばを、まったくそのまま違えずに伝えることがどれほどに難しいことか。

 1947(昭和22)年のクムラン洞窟からの死海写本の発見を皮切りに、800以上もの旧約聖書の写本が発見されている。BC200~68年に書かれており、現存する最古の聖書より1000年古いという。これでイエスの時代といまの時代のヘブライ語聖書原文の言葉に、ほとんど相違がないことが分った。現代までどれほど正確に聖書の言葉が伝えられてきたかに驚く。すでに有名なことではあるけれども。

 これほどまでに細心の注意を払って伝えられてきた聖書の言葉を、ここで一点一画も誤ったら一大事。

(以上は、説教を聞いて帰ってから、つらつらと考えさせられたことです)

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        しかし、その方、
    すなわち真理の御霊が来ると、
         あなたがたを
    すべての真理に導き入れます。
    御霊は自分から語るのではなく、
         聞くままを話し、
            また、
     やがて起ろうとしていることを
      あなたがたに示すからです。
          ヨハネ16:13


きょうは正餐式があり、パンと葡萄酒をいただきました。

インマヌエル讃美歌393

しみもとがもけがれもなき こひつじわが主はほふられしや






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命日

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 結露の硝子の向こうにはぼたん雪がふっています。
きょうは母の命日。クリスマスが終わるのを待っていたように、26日に地上を後にした母。びりびりと凍てつく日でした。
 午後には雪が雨に。墓地を訪門。
 いま21時を過ぎたが、風の音がしている。

 先頃92歳の友だちに電話をしたところ、「わたしも、きょう、電話しなくちゃ、と思っていたとこだった」 。この方は、入院中のベッドまでが書斎だったという。最近はお会いしていないが、日々新た、毎日が感動だ、といつも仰っている。強がりなのではないかと思ったこともある。しかし最近になって強がりではないことがわかった。寂しさや、足腰が思うように動かない煩わしさはあるという。しかし、心が変っていない。心は現役だ。いつ彼の地に旅立っても良いとしつつも、いつも地上の明日を信じている。心現役の秘訣はこれかもしれない。「日々新た」。この意識を維持してくれるのは、生来の気質、また艱難によって獲得した気骨もあるが、神への信頼、これが大きな比重を占めているようだ。

 亡き母は、脳梗塞になるまで、痴呆とは無縁だった。心の不滅を信じるとき、医学的なことはわからないが、痴呆というのは、何らかの身体的事情で心が眠りに入る状態なのではないか、そんな気がした。
 母が「あっ、いま体から離れた」と捉えられた瞬間があったことが思い出される。

 まだ風が吹き荒れている。

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クリスマス

 北朝鮮の「地下キリスト教徒」約50万人。RFAによれば、当局の監視を逃れ、家庭や地下教会で信仰を守り、クリスマスも祝われているという。

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 きょうの一日は。

 あるブログの教会の写真に映っている十字架に見入っていたとき、「汝は我がものなり」という言葉が浮かんだ。昔文語体聖書を読んでいたからだろう、無心になったときには、文語体で思い出されることが多い。

 午前中、某医院で舅の薬を処方して貰い、調剤(1ヶ月分なので時間がかかる)が済むまで、知人がいるところに立ち寄った。話しているうちに、彼女が最近クリスチャンになったことを知った。いきさつも不思議だった。わたしは彼女にそんな話をした記憶はほとんどない。それだけに驚いた。そしてそのことを今日知ったことが嬉しかった。賛美歌が流れていた。

 主人が外で食事をしようというので出かけた。
その帰りに写真を撮ろうと中津川に出る。鷺がいるとは聞いていたが、昨年もなかなか確認できなかった。ところが、立っていた目の前に飛んできて、いかにも、さあ撮ってください、とでもいうようにしばらくポーズを取った。ほんとうにそのような様子だった。

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 写真を20枚ばかり撮って帰る途中、主人を通じて文芸誌「天気図」を差し上げた音楽関係者にばったり。私の書いた小説も読んで下さったらしい。
「奈美さんにブラームスはちょっと早いんじゃないかな。いまは小6でもチゴイネルワイゼンを弾く時代だから、あり得るかもしれないけど」に始まり感想を伺い、主人も居り、面と向かっていることもあって、お褒めをいただいた。
 立ち話ではあるけれども、けっこう音楽の話、バイオリンを教える大変さ等々を聞くことができラッキーだった。

 そしてきょう一日の最後は、バッハのロ短調。ちょうど「サンクトゥス」に入ったところだ。

 足らざる者へのきょう一日の神の慮りに感謝しつつ。


 
 

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ハレルヤ!!

   

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      クリスマス・イブ。

ケーキ?ディナー?彼と、彼女とひと夜を過ごす? 相手がいなくて取り残された気がする? 

ところが、ところが、何もなくても、何がなくても大丈夫!

神の子イエス・キリストの降誕を待ち望むなら、そして信じるなら、あなたは最も幸いなものとなる。う~ん……取り残されるのは、果たしてどっちかな?

      ハレルヤ!!

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ヘンデルのメサイヤの 「ハレルヤ」。夥しい数の音符がこぞって主を誉め称えています。

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蜀火礼拝

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蝋燭に次つぎに灯が点されてゆきます。わたしは前の方から点けていただきました。
 揺らめく炎を見ていたとき、「われは世の光なり」という言葉がうかびました。
 神の家に集うお一人お一人が、蝋燭の火に照らされています。


   きよしこのよる 星はひかり
   すくいのみ子は まぶねの中に
   ねむりたもう いとやすく

 真っ白な雪の中に立つ教会。教会の入り口のモミの木に、イルミネーションが美しく輝いていました。

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雑感

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  きょうも雪だった。寡黙に舞いおりる雪を見ながら、北上山系の岩泉の牧場の真冬の状況が頭を過ぎった。3日ばかりまえに、岩泉町の有芸水掘にあるホルスを飼育する81歳になるある方に電話を入れてみた。奥様と娘さんで従事されている。ここも標高はやはり800㍍はあるだろう。

 この界隈、街ではクリスマス商戦たけなわだが、こんな節季にはどのように過ごしているのか。牧場はどのようであるか、牛舎は……と連想がつづく。

 一番苛酷な季節に訪れて見なければ、ほんとうの苦労は分らないだろう、いや春の牧草づくり、農耕が始まってからのほうが大変か…裸地化はどの程度進んでいるだろう。離農のあとの施設はどんな状況になっているのか…。こんな季節にこそ行ってみたいと思うものの、聴けば幹線から片道25キロ。この幹線も無事通過できるかの自信はない。

 視点をがらりと変えない限りこの懸案に関して書くうえでの突破口がないと分った。以前に葛巻を書いたときには、大変な苦労をした。まったく初めてであったことが最大の理由。飲み込むのに時間がかかった。苦しくもあった。しかしあの時よりも歳はとったが、今のほうが平明に分る(前回よりは、という意味だけれども)

 有言実行派になりたいと願いつつ、有言不実行の看板をいまだ背負ったままでは、何か済まされないという気がする。

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 午後からはバッハのロ短調を聴く。聴きながら、このブログで音楽的知識の提供は厳しいとつくづく思う。聴いて、音楽をこう楽しみました、こう感じました、気づきましたという域を出ることはない。すこし寂しい気もする。
 けれども20日のクリスマス礼拝、祝会でのトーンチャイム、オカリナ、ギターを思い出し、音楽は知識や技術ばかりではないと思い直す。
 そろそろ鳴ることを忘れたバイオリンを取り出して、唯一のレパートリーであるキラキラ星でも弾いてみようか。

書いているうちに、24時をこえてしまった。カレンダーの昨日火曜日、といってもつい数十秒前なのだけれど、穴が開いてしまい残念。マーカーででも塗れるものなら塗りつぶしたい気分だ。 

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ことしのプレゼント ー赦しー

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クリスマス祝会では、楽しいプレゼント交換があります。牧師先生から渡されます。誰かが誰かのプレゼントを準備するのです。

私が名前を呼ばれ、出ていって渡された白い袋には、羊の皮の手袋が入っていました。誰が準備してくださったかはわかりません。しかし、これは、ほんとうに神さまからのプレゼントだと思いました。値段がいくらかなど関係ありません。嬉しかったのは、真冬用の厚い手袋がなかったので丁度良かった事もあります。しかしそれよりも、これが羊の皮製であったこと。羊を屠らなければ皮を得ることはできません。イエス・キリストは神の子羊です。私の罪のために十字架で屠られました。その流した血によって、私は罪を赦されています。そうです。この手袋は、私にとっては神の赦しの証拠品なのです。

   
         恐れるな
      わたしはあなたとともにいる。
           たじろぐな。
      わたしがあなたの神だから。
       わたしはあなたを強め
           あなたを助け
       わたしの義の右の手で
          あなたを守る。

           イザヤ41:10

          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

きのうの午前は、説教のほかに聖書の暗記の発表、トーンチャイムの演奏がありました。そして祝会では、オカリナ、ギターの演奏やお話のほかに、子ども達が作ったクイズ、若い姉妹の発案によるゲームをしました。ひろ子牧師夫人と私ではありませんが、二人の姉妹方による手作りのデコレーションケーキを頂きました。

演奏のとき、ゲームのとき、みなさまの心から楽しそうな笑顔を拝見しながら、これが現実であるとは思われませんでした。天国というところは、きっとこんなところに違いないと思いました。いま自分がそこにあることは、自分には過ぎた神の憐れみと赦しによるとしか思われませんでした。

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恵(めぐみ)

 きょうの礼拝の國光牧師のお話は

マタイ1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
ヨハネ1:9「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
 
 から、永遠の神が有限である私たちの世界に別の次元から介入してくださったのがクリスマスであること。そしてオズワルド・チェンバースが言うように、キリストの降誕は「この世から生まれたのではなく、この世の外から入ってきたのであって、……歴史の中に生まれたのではなく、歴史の外から入ってこられたのである」と説明くださいました。


それでは、キリストは、何のためにわたしたちの世界に介入してくださったのか。


マタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 から、「その罪」とはいったいどんな罪であるのかが語られました。
罪とは……わたしは真っ先にモーセの十戒の示すところの罪、殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ等々、そして偶像をつくってはならない等々を思い起こしていました。それもそうなのでしょうが、きょうは、

 「罪」とは「的外れ」のことである。的外れな的を打っている状態が罪にある状態なのだという説明がありました。
 いまの私の的外れは何だろうかと思い巡らしました。的外れな的を打たないようにすること。的外れな的を打ち続ける一生もあるなと思う一方、徒労で終わりたくないなと。しかし、これは的を選ぶ自体が、選球眼がいま一つであることや、的を打とうとして外れてしまうことも幾たび。自分の力だけでは、なかなかに厳しい現実であるなと考えていると、

 「イエスはあなたを的外れな生き方から救うために来られたのです。あなたに介入してくださるのです」
 

そしてその介入を信じ受け入れるならば

 
 罪過の中に死んでいたこの私たちを
    キリストとともに生かし
   キリスト・イエスにおいて、
    ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてくださいました。

       エペソ2:5.6

                     

   というラッキーなことに。

    ☆  ☆  ☆  ☆

午後からの祝会が、どれほどに祝された豊かな素敵な時間であったか、またあした書くことにします。

今日の素晴らしい一日に感謝しつつ

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クリスマス礼拝

      

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     マリヤは男の子を産みます。
    その名をイエスとつけなさい。
        この方こそ、
       ご自分の民を
   その罪から救ってくださる方です。
        マタイ1:21

    今日はクリスマス礼拝です。
        〒020ー0881
      盛岡市大館町12ー26
   インマヌエル盛岡キリスト教会
      電話019ー646ー2924

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雪晴れー高松の池ー

      

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     雪晴れ。高松の池の桜並木です。         

     白鳥が来ています。 

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12日は「天気図」の合評会。そしてきょう19日は、「北の文学」の合評会でした。
真摯に取り組んだ作品の批評に耳を傾け、そこからまた創作を継続するための某かを貰った気がします。文筆ができることの幸いに感謝しつつ。

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ナターシャ・グジー

 あと1時間足らずできょうは去る。けれどもまた新しいときが運ばれてくる。まだ手つかずの真新しいときのエッセンスが。

 ロシアがくれた水晶の歌声、ナターシャ・グジーの「メリー・クリスマス」CDから、Amazing Graceを聴くことに。残念ながら音源はありません。
 
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ナターシャよ
   
硝子がひそやかに奏でるかの歌声に
   白いゆびに鳴るバンドゥーラさえもが      
   弦のすべてを耳にして
   その響きにいこっているではないか

     
アメージング・グレース
      何と美しい響きであろうか
      私のような者までも救ってくださる
      道を踏み外しさまよっていた私を
      神は救い上げてくださり
      今まで見えなかった神の恵みを
      今は見出すことができる

 窓には結露。その向こうは暗い空、けれども何か透きとおり、そのまま見知らぬ広く明るい世界につながっているような空から、雪が舞いおりています。

           

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1727年製ストラディバリウス「レカミエ」

 フランス人の好むフランス美人として挙げられるマダム・レカミエ。この名が冠されたストラディバリウスは、はたして何年製なのか。ヴァイオリン履歴では数人の手にわたっていたようだが、ミッシャ・エルマンが比較的長く使ったらしい。

 大正10年にミッシャ・エルマンが帝国劇場に来日したことは、もう3回か4回書いたはず。いつのまにか、このヴァイオリンは、私の中で、ナポレオンの愛した女性のイメージとなり、両者はついに同一となっている。

〝フランス美女〟を追い続けるうちに、日本のどこかで買い取られたことがわかり、しかもそれが、日本人ヴァイオリンニスト山田晃子嬢に奏でられていると知ったときはすっかり仰天してしまった。大正10年に帝国劇場で鳴った妙音が、いま山田晃子嬢の行く先々で鳴っているとおもうと、時代を超え海を超えて感無量だった。

 レカミエの製作年代の1717年は至るところに落ちていたが、前回で1727年だなとほぼ確信していた。そしてそれは間違いなかったようだ。
 日本財団図書館に1727年製ストラディバリウス「マダム・レカミエ」と出ている。

 レカミエ夫人、恋を楽しむことはあっても、恋に落ちることはなかったようだ。そんなエピソードも冠すると、いよいよこのヴァイオリンの輝きが増すようにも思われる。

 因みに、美女という埒外にあり、ヴァイオリンの資質からも遠い筆者(と書けばまるで自分ではないような)が、いまだその音色にあやかることがないのは、これまた実に当を得た〝天の配慮〟? なのか。それでも不服はない。

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クリスマスツリー

  午後に盛岡市肴町のアーケード街を歩く。大きなクリスマスツリーの登場。
 クリスマスをイエスさまの降誕として祝う人々は、果たして何人居るだろう。インマヌエル綜合伝道団でも、こんどの日曜日がクリスマス礼拝となっている。盛岡教会はこちらです。            

     

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教会では、賛美歌を歌ったり、トーンチャイムの演奏や聖書からのお話を聞きます。午後には祝会があります。

    
初めに、ことばがあった。
        ことばは
     神とともにあった。
    ことばは神であった。
       ヨハネ1:1

 

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ショッピングやパーティーも楽しいですよね。それも悪くはない。でもここでちょっと、年に一回のことですもの、教会のクリスマスに足を運んでみてはいかがでしょうか。

集会のご案内はこちらです。




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ひとり子

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          神は、実に、
   そのひとりごをお与えになったほどに、
         世を愛された。
     それは御子を信じるものが、
     ひとりとして滅びることなく、
    永遠のいのちを持つためである。
          ヨハネ3:16
 
       ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆

 神であられるイエスさまが、マリアさまの胎をとおして、赤子としてお生まれになったことが不思議です。そしてその不思議がわかることは恵です。

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×× & 鶴彬

 ブログを書くのに一ヶ月熟考するという方もあるよう。一方、あと数十分できょうが終わるという土壇場になって更新する輩も。

 この時間になると、習慣的に、ニュースの断片や一日の暮しが勢揃いする。どんな小さなことも今日一日限りのことと思うと、平凡で些末なことまでが尊いが、書くには興がいまいち。こんなときには、句で遊んでみる。

  切り替えの利かぬ頭できょうも行く

  乗るか反るかの迷い一生

  ネット界天使と悪魔のせめぎ合い

  ネットから帰って太郎の玉手箱

と、4句詠み上げる。ネットでうろうろしているうちに浦島太郎になっちゃうぞ~と自戒し

得々とする間もなく、またまた、上記4句が吹っ飛ぶ一句がぽんと投げ込まれる。

  
ざん壕で読む妹を売る手紙  鶴彬

何と、鶴彬の墓は、盛岡にあるという。
吉田美和子さんの「反戦川柳・詩が生きるということ」によれば、

石川県高松市出身の人だったけれど、ほとんど拷問死と同じくらいの理不尽さで、検挙拘束中に病を得て放り出されて死んだ。1938(昭和13)年29歳であった。そのとき、遺体を引き取ったのが、盛岡で染め物職人をしていた実兄であった。……啄木の好きだった鶴彬はウェットに泣かない。川柳は風刺と批判の形式である。……

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お知らせ&きょうのことば

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      第3アドベント聖日

   聖書箇所ヘブル書9:23~28
       『三重の顕現』
    
  今日の國光牧師のお話は、イエス・キリストは三重に現れてくださる、という内容でした。 一度目は罪の贖いのために地上に現れ、そしていま血潮をもって天の幕屋にあって主のまえにわたしたちのために、とりなし続けている。そして来たるべき日、救いの完成のために、もう一度この世に現れてくださる。

 
 すこし難しかったので、帰宅してからも、聖書箇所をもう一度調べたり、ギリシャ語までは届かないまでも英単語をしらべたりしましたが、繰り返し読むほどに、自分の言葉では、迂闊には書けないものを感じました。

 教会のお話は、教会に出向いて傾聴することで解る側面があるようにも思います。また自分で分っていたはずが、これはまだ解ってはいないなと思うこともよくあります。


☆キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。 ヘブル9:24

☆しかし、キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。 ヘブル9:26

☆キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 ヘブル9:28

 恵に満ちた礼拝に出席できたのは感謝なことでした。この恵をわからせてくれるのも、キリストの再臨を望みとなし得るのも、聖霊の力であることは確かです。

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バッハ ミサ曲ロ短調 考

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  バッハ(1685~1750)のミサ曲ロ短調は存外面白い曲であることがわかった。
この曲は、カンタータに分類されているが、実際にはラテン語の祝祭音楽だという。
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 マティウス・ヘンゲルブロックによれば
「大部分が新たに作曲されたものではなく、ライプツィヒ時代とヴァイマル時代に書かれた教会カンタータだけでなく、世俗カンタータや、さらには技巧的な協奏曲の楽章さえ利用している。
 問題としては、カトリック的な部分はプロテスタントの礼拝に適さないし、歌詞がローマ教会のものとも異なっているうえ、〈サンクトゥス〉以下の6曲がカトリックの典礼にそぐわない分け方になっているので、結局カトリックの教会でも演奏できないのだ。
 バッハは実際に演奏されることは考えずに、別の目的を追求したのだろう。
 ……現実にしばられることのない探求のための作品なのである。
 バッハの生前、没後と一部が演奏されるだけだったが、全曲が出版されたのは、1856年。」 実に死後100年以上も後だったようだ。

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 専門的なことは分らないが、兎も角、作曲後に演奏されようとされまいと、教会形式の支配を超えて挑んだ教会音楽の集大成であるらしい。

 この曲をまことに理解するには、「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」などのミサ曲、ドイツ語、ラテン古語などの知識も要るのだろう。当ブログ管理人には気の遠くなるほどのこと。ひたすら繰り返し聴くことで、初心者は初心者なりに掴めることがあるものと信じる。

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雑感

 きのうは映画「いのちの山河」を書いたが、これは水曜日に見に行っている。一日遅れのブログ掲載だった。

 きのうは素晴らしく晴れていた。久しぶりに車で用足しをした。バイパスに入ると雪を被った岩手山が存在感を増し前方に聳えていた。
 しまった、カメラを忘れた。
 戻ろうかと思ったがそのまま疾駆。近道を取り四十四田ダムを通過。美しい青空の下にダムの放水が。そこからの勾配を登りきると岩手山が角度を変えて端座。滝沢村の巣子あたりも、岩手山の景観が実にいい。喫茶「ぼくらの理由」にとどけもの。といっても物ではなく、文芸誌と紙切れ2枚。お店が休みだったが、開けて待っていてくれた。コーヒーをいただきながら詩論などに耳を傾ける。

 きょうは一転盛岡の街は冬空。周囲の山々には雲がかかり、雲の下は雪か雨と思われた。この天候不順に病んでいる方々が多い。夜には雨になった。

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 樹木の癒しはすばらしい。さまざまな様相で安らぎをくれる。豊かな緑で木陰をつくり潤いをもたらし、花を咲かせ、実をもたらす。それだけではない、サイカチのように、洗剤の役割を果たす実をさえ恵んでくれる。切り倒されては燃料や建材、紙ともなる。北上山系、奥羽山脈などの樹林は財産だ。

 

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映画「いのちの山河」

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 映画「いのちの山河」を観た。盛岡市での上映もあったが気ぜわしい事などもあり見逃したので、滝沢ふるさと交流館の方での鑑賞となった。約200が満席となり、補助椅子が設置された。
 
 「豪雪・多病・貧困」と言われた沢内村。この重さをいったいどのように辛いばかりの気分から救って作られてあるのかにも興味があった。

 深沢晟雄と妻ミキが風雪のなかを帰郷する。吹雪で馬車が動けなくなったとき、二人は荷物を担ぎ手に持って深い雪に足を潜らせながら歩く。その場面が底抜けに明るい。現実からすれば異常なほどに明るいのだが、すぐにそれでよい事に気づく。ほどなく、病に苦しむときには医者にかかることもなく、死んでから医者にかかるために雪上を引きずられ運ばれる簡素に包まれた遺体が映し出される。正視するに堪えない場面だ。しかしこれがこの村では日常なのだ。「赤ん坊がころころと死ぬ」現実。

 
晟雄の父晟訓を演じる加藤剛の不条理に術のない怒りと歯がゆさ、閉塞感、無力さを酒に混ぜて流し込むこのような演技を初めてみた。沢内村を何とも為しがたかった無念が見えた。

 
晟雄は村の教育長などを歴任したのち、村長にならなければ実質的な改革は何も出来ないと立候補し当選。老人と乳児の医療費無料化のために闘う。県庁で国保法違反を突きつけられ、それに対し憲法25条を蕩々と読み下す場面は実に愉快だった。「最高裁まで闘う」と彼は言った。

 東北大学に幾度も足を運び、医師の派遣を要請。医師が派遣されてからの沢内行政、医師、看護婦、保健婦、村民が一丸となって徹底的に命を守ろうとの取組みは感動的だった。そしてついに全国初の乳児死亡率ゼロ達成の報の受話器を握る深沢。選挙公約であった駅までの除雪。バス路線の確保も、ブルドーザー導入で実現。

 1965年1月28日、在職中に食道癌で福島県立医科大学付属病院で死去。60歳。
 深沢が自ら公約し、豪雪の冬に除雪、バスを通したその道を、雪の中、遺体となって沢内村に帰ってゆく場面には涙を禁じ得なかった。多くの村民が沿道に出迎え合掌した。

 

 

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小咄

            

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ブログの雰囲気づくりに役に立つこともあると撮っておいたこの一枚。これを見てちっちゃな物語をつくってみようかと。

☆ 「おかけください」
   「よろしくお願いします」
   「当社に応募された動機は?」
   「そちらの会社が倒産しそうだったから」
   「先見の明がある。採用しましょう」

☆ 「ちょっと、注文したカレー、まだなの?」
   「すみません、いまタマネギを買いに行ってます」 「どうりで、客が入らないはずだ」

☆ 「彼女、遅いな~。あっ、携帯が鳴ってる」
   「もうここで30分も待ってるのよ、いったいいまどこにいるのよ?」

☆ 「きょうも開店休業か……まっ、あしたがあるさ。また日はのぼる。ドンマイ、ドンマイ」

☆?☆?☆?☆?☆?

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しかしその日

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       しかしその日、
   わたしはあなたを救い出す。
      ー主の御告げー
        あなたは
  あなたが恐れている者たちの手に
     渡されることはない。
   わたしは必ずあなたを助け出す。
      あなたは剣に倒れず、
       あなたのいのちは
     あなたの分捕り物として
      あなたのものになる。
         それは、
   あなたがわたしに信頼したからだ。
      エレミヤ39:17、18

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きょうのことば

               

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        第2アドベント聖日
        『幼子を囲む人々』
      聖書箇所 マタイ伝1:18~25

 きょうのスポットはイエスさまの父(養父)であるヨセフにあてられました。婚約中に身重になったマリヤを、さらし者とならないように密かに去らせようとするのですが、夢の中で引き受けるよう啓示をうけるのです。

 きょうのお話しから思ったことは
 啓示を受けるまでのヨセフの正義感、怒り、葛藤は凄まじいものだったはず。けれども神の意志に従った決断と敢行。救い主を世に生み出すという重大な使命をサポート。神への信頼に基づいたマリヤへの信頼を感じました。

 メッセージから受け取るものは個人によって異なる場合があることですが、
このイエスの降誕の前後には、ヨセフに見るように、絶望させられたり、驚愕したり、それがまた一転して喜びとなる。苦悶することがあっても、神の側の理由がわかるときが来、それがわかったときには、このようなすばらしいことに遭遇することがあり得る。そんなふうにも受け取ったきょうでした。

     ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 和やかな例会がありました。毎月の第一日曜日の礼拝のあと、お茶とお菓子を頂きながら、その月の教会の予定や方針を聞きます。そのあと、マイクを回してお一人お一人の近況を語り合います。ところどころにユーモアが入り大爆笑。含蓄のあるお話も。子どもたち、そして20代から高齢の方までが一つテーブルに。

 そのあとにクッキー作り。指導は若い姉妹。
永遠の常緑のクッキーの木に、さまざまな形のクッキーがなっていました。食感は固めでほうれん草やココアの風味が。
               

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子どもたちの写真も撮ったのですが、やはり、顔の公開はまずいのでしょう。とてもざんねんですが。

※この頁は、教会に参加した一個人が、すこしでも楽しさをお分かちしたく思い、一個人の立場から書いているものです。 


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大ヶ生

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  きのうは、こんなところに行ってきました。

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  コローのビルダブレーを思わせる林道。こんな絵が描きたいなと思いつつシャッターを押しながら前進。目指すは大ヶ生金山のはずでしたが……。
 途中で舗装は途切れ、何やら先行き不透明。クマが出るという情報も。慎重派の主人はUターン。脳天気派の私も、車が一台きりなので分乗するわけにもいかずUターン。「萬壽抗」はまたの機会に。でもこのあとにラッキーなことが。

 坂道をくだったところで出逢ったのが80歳になるおばあちゃん。この辺りの色々な話しを聞かせて貰って
「一緒に写真撮らせてください」
「だめだ、恥ずがし。おれでなぐ犬撮ってけで。ラッキーだ」
 そういえば、大昔にラッキーという名の犬の童話を書いたことがあった。これも何かの縁。

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「危ないがら近づかないで」
というわけで、遠くから撮影。血統書付きの秋田犬です。

 ラッキーの下の写真の石は墓石でも記念碑でもないそうです。おじいちゃんが、「趣味で立てた」石なそう。
「でもこんなに大きな石をどうやって立てたんですか?」
「この辺りを工事にしに来た現場監督ぁ、じいちゃんの友だちだったがら、クレーン車で立ででもらったのさ」
 ちょっと面白い。巨大な石を寝かせたままじゃつまらない、ちょっと立ててみようかなという思いつきが面白い。というわけでカッシャっと一枚。        

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「この石は何ですか?」
「まだ子どもだった頃、山がらずっとロープが張られでで、この石積んだリフトが降りで来たったもんだ。その時ぁ、それが何だったが、何やってるんだが分らながったんだぉん」
 何と、金の採掘をしていた時代を知っているおばあちゃんなのでした。ほんとうにラッキーでした。

 前頁の青く光る〝石〟も、この大ヶ生で撮ったものでした。大ヶ生にはすばらしい人、すばらしい石がいっぱいでした。 

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石の実ー梢のあいだに光るー

 このブログで、

真っ白な木ープチ童話その1ー
真っ白な木ープチ童話その2ー

 を書きました。誰かが悲しんでいるときに、どこかの木にたった一つだけ輝く石の実がなるのです。

 きょう、とても不思議なものを見ました。青く透明な石の実。きつねさんの友だちが病気になって、飲む薬もなくて、お医者さんも来なくて、たったひとりで死んだときに、トチの木になった青く透明な石の実を見たのです。

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 写真の真中心から2センチ右に、青く輝いているものが見えるでしょう。是非写真をクリックし拡大して見てください。

 ほんとうは、これは木の枝についた滴が光の屈折によって青い光を放っていたのです。この写真では、それほど光っているようには見えませんが、林の中で見たときには、ほんとうに青く美しい光でした。その近くに見えるもう一つの黄色い点は、トパーズのように光っていました。わたしにとっては、これはとても不思議なことだったのです。青い方が大きく強く光っていました。本物の宝石よりも、はるかに美しい輝きでした。


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こんな雨の日は

 いま汝かな? っと、「汝」じゃなかった、「何時」のほうだった。PC内蔵時計は20時半。きょうも早めにブログを更新してっと。

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 雨が降っている。

こんなもようの日は体調にひびく方もいらっしゃるかもしれない。斯くいうわたしも、思わず、「いやな感じの雨」と。
 けれどすぐに、待てよ、
と思考を転換。
「見えないけれどもあるんだよ」

金子みすずじゃないけれど、見えないけれどあるものをつらつらと考える。

石油タンクの中の石油。
壁に埋め込まれた配線。
障子戸をしめちゃったあとのガラス窓。
スピーカの真後ろの壁。
ちょっとつまらないな、

小学生並みだね、
小学生並みでどこが悪いの?
そういえばそう。
それにしても
もっとましなのはないかしらん。

胃に入ってしまったシジミ貝。
う~ん、発想が貧困だ。

もうちょっと
お腹を抱えて笑うネタとか。
翌月のカレンダーのページ、

あっ、まずい、
今年はもう次のページはない。
それなら……
う~ん……

ここで、はたと気がついた。
ああ、やっぱり
ここにいたんですね。
雨の音はしているけれど
ちっとも小降りにならないけれど
まだまだ降ってきそうだけれど

なにか慈愛がみちている。
みえないけれども
いらっしゃる。

たしかにここにいらっしゃる。
わたしの主イエスさまが。

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クリスマスのクッキー作り

         

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インマヌエル盛岡キリスト教会 ℡019-646-2924      

  かわいい
     おいしい
     たのしい
     クッキーづくり!!

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チャレンジ

 いよいよ12月スタート。今年があとひと月しかないってホント? そんな気分だ。忙しいという実感がいまだ湧かない。

 クリスマスがやってくる。子どもたちが幼い頃はほんとうに楽しかった。それは今おもうと、子どもと同じ気持になれたからでもあった。クリスマスはいつでも聖なる夢をくれた。

 しかし今年のクリスマスへの思いはすこし違っている。それはとても現実的なものだ。地に足をつけて見据え見極めようとするときの心境に似ている。一種の畏れといった感情もある。

 水を葡萄酒に。5000人の施食。盲人の眼を開く。病を癒す。その他多くの奇跡が伝えられている。ワインの発酵、成熟には最低でも1年以上かかる。10年寝かせるか20年ねかせるか、それは随意だ。5000人分の給食にしても、これを学校で行うとすれば、どれほどの器具、燃料、食材、スタッフを要するか。まったく見えない眼を見えるようにするには、どの程度の優れた医療技術を要するのか。死人を生き返らせるのは、これは正しく神でなければ不可能だろう。神だから奇跡を行うのは当たり前と思いがちだが、必要な時間を瞬時に凝縮し、完璧なノウハウを備えている。これまで考えてもみなかったが、不可能を可能にするとは、これほどすごいことなのだ。たとえば結晶するのに300万年かかる宝石だって瞬時に制作する技術を持っていることになる。物理化学には疎いので、言えるのはせいぜいこんなところでしかないが。

 そんな超能力をもった存在が、この地上を歩き、人の眼には幾たびかの奇跡と見えるが、実は地上でその持てる力を示したのは、ほんの片鱗であったろう。この〝超人〟がただ贖罪を成し遂げるために、ただ十字架への道をあゆむために来た。十字架で流す血で、人類を、わたしを洗い潔くなすためにベツレヘムに出現したのだ。

 その〝超人〟が、「わたしを呼べ、そうすればわたしはあなたに応え」ると言っている。すべての創造の源、オールマィティなこのお方が、「わたしに依り頼め」と言っている。

クリスマスとは、こういう〝超人〟がこの地上に出現された日なのだ。

 わたしの「チャレンジ」は、この方を呼び、この方に依り頼むところからだ。

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