製薬の見えない部分&2009年末感謝
やっと今一段落。21時半。ことし最後のブログ書きだ。
このところ読書量が少ないことに危機感をもった。普通の方々は人生で大方こなしてしまったことを今更、である。
後回しにしていた磯崎憲一郎の「終の住処」。二日間のうちに読んだ。文学性云々というよりも、製薬会社が登場していたからだ。
二年ばかり前にたまたま岩手県民会館で見たCCHRの精神病患者の非人道的処遇、投薬の告発(当ブログ2008年6月25日をご覧ください)があれからずっと心に引っかかっている。製薬会社、販売、医療現場での扱いなど知り得ないことが多すぎた。
小説で製薬関連を考えるなど妥当性を欠くかもしれないが、分りやすいという利点がある。
先ず、製薬会社といえども、生き残りをかけて闘っている。ここのところからにして疑問が湧く。新薬の開発には莫大な費用がかかり、一社単独でまかなうことが不可能な時代に鑑み、主人公の会社も国内依存の限界から、米国の医療品メーカーを買収にかかるが失敗。主人公は、表面だけでも関係を有効に戻す役回りを仰せつかり渡米。絶望するが、取締役から、「この瞬間、この一秒をあきらめることによって、お前は永遠の時間をあきらめることになるのだ」という挑発的な手紙が届く。この手紙もまた怪物なのだが、このあとホテルのバーで三ヶ月前から面談を断わられてきた社長に出くわす。ここでのやり取りがあり、一年四ヶ月後には、米国製薬メーカーの買収に成功するのだ。このやり取りが、すこし物足りないのだが、何れ会社が生き残って行くというのはこういうことだと想像できる。
企画発案の商品、ここではコンタクトレンズ使用者に絞った目薬が過去最高の売上げであることや、栄養剤販売を薬局だけでなくスーパーマーケットにまで広げたこと、こういった事はさしたる問題はないだろう。
「倉庫には一年分をゆうに越える在庫が眠っているというのに、工場は容赦なく千箱単位の生産ロットで製品を送り込んできた。」
つまりこれを売らなければならないのだ。その先をもっと短絡的に考えると、どこかに買い上げて貰い、処方して貰わなければならないことになる。言い過ぎかもしれないが。
薬がどれだけ生産され、どこでどのように〝消費〟されているのか、今もって疑問に思っている。生産された、或いは輸入した数字はすぐに出てくるだろう。ただ、その先の流れは、数字だけで説明されても理解し、納得できるかは自信がない。
特に精神薬に関する最大の疑問は、他の内科系の薬に比べて、副作用の研究がどの程度為されているか、その点だ。
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2009年もそろそろ終わりです。時間という観念も様々、この大晦日も永遠の時間のなかの一点とも考えられますが一区切りいたしまして、
拙いこのブログを訪問頂き、特に誤りを指摘くださった方々、また、努力を顧みられ励ましに訪問くださった篤志家の方々に、厚く御礼申し上げます。
主に感謝せよ。
主はまことに慈しみ深い。
その恵はとこしえまで。
詩篇
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